地域観光 振興作戦

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6.瀬戸内(呉近辺)ストーリーツアー提案
2021/1 記

                緒 言 ( 趣 旨 )
  青い海、緑の島、海岸線が複雑に入り組む瀬戸内の多島美は、世界を代表する絶景であると共に、往古の文化・風俗を物語る数多の歴史跡や、貴重な「文化遺産」の宝庫でもあります。
  →❶江戸時代、瀬戸内海は盛んに北前船が行き交い、日本全国の産物や情報や文化や風俗が持込まれました。 それは一帯にもたらされる豊かさ、島ごと異なる自然風土が相俟って、各島固有の文化・風俗が育まれました.。 しかし時代が移り、→❷明治時代には、注目舞台は”呉”に移行しました。 海軍鎮守府の設置は、半農半漁のありふれた集落は一挙に大盛況の海陸に大変身しました。 それは「景気は呉から~」と、忽ち東洋一の軍港に成長し日清・日露・日中の戦争を勝ち進み、~更には太平洋戦争へと日本の急速な近代化と、将来針路を決定づける役割を担いました。 →❸その時培った技術は戦後もしっかり活かされ、瀬戸内沿岸は一大工業地帯に、島々は農漁村にと、それぞれの分野で牽引役となり、アッと言う間に日本を世界第2位の経済大国に伸し上げました。

  瀬戸内(呉近辺)には、そんな江戸時代から戦後まで、歴史を物語る遺構や遺物は、貴重な『文化・歴史遺産』としてしっかり保存されています。 それは、周辺の絶景と相俟って瀬戸内のあちこちでに「魅力的観光スポット」に整備されています。

  しかし「観光スポット」が揃っていても、大勢の観光客が来訪する訳ではありません。
 ①観光客にとって強い感銘を受ける「観光ルート・順路」と、②観光スポット数(多さ)が相乗効果となって感激拡大する仕組みでなければ、単なる「雑貨品の展示場」に過ぎません。 
 それに対し、本報では次の様な【ストーリー(テーマ)ツアー】を提案します。 つまり、
【ストーリーツアー】; 瀬戸内(呉近辺)の歴史・文化遺産や自然景観をストーリーで繋ぎ、筋書きに沿って鑑賞する様に巡るツアーです。
【テーマツアー】; ストーリーを何回かのテーマに分けて巡る『連続ドラマ式ツアー』です。




   1.瀬戸内(呉近辺)観光について『現状の課題』
    瀬戸内(呉近辺)の「歴,史・文化遺産」や絶景スポット」が幾ら豊富でも、観光魅力が評価される為には、次の様な課題があります。
  【 現状の課題 】
❶エリア周辺に、魅力的観光スポット(遺跡=点)が沢山あっても
通常の観光手段(交通手段など)では、その極く一部しか見学できない。
❷エリア全体の歴史・文化遺産の本質的価値が幾ら貴重でも
エリア全体の歴史・文化遺産について、系統的に整理して説明される場がない為、沢山の観光資源(遺構など)を見学しても、雑貨店の商品外観を見て回る感覚でしかない。 (歴史的・文化的価値は理解されない)
❸ガイドブックも現地ガイドも、各観光スポット毎「個別独立運営」では
   歴史遺産や、文化遺産の紹介(記事)も、ガイドの説明も、拠点(単体)毎の細切れで、スケールの大きい歴史ドラマは実感できない。
 ❹観光客誘致政策(観光振興政策)も関連事業者との連携も、
   日本遺産など貴重な遺構や、魅力スポットなど数多く紹介(PR)や、それを巡る交通機関や、旅行会社のツアープランナーなどは個別運営では総合効果がでない。

 2.対策 ; テーマツアー(ストーリーツアー)の提案
  上記の課題に対し、必要な対策は次の2件に集約されます。
①外部に対しエリア全体の見どころを系統的にストーリー化してPR/説明
  する仕組みの構築
②広範囲の周辺スポットを、効率的に周遊できる「移動システム」の構築、
   →それを満足する仕組みが、「テーマツアー(ストーリーツアー)」の提案です。

  2-1 「テーマツアー(ストーリーツアー)」の基本的な考え
   その基本的考え方は次の通りです。
 ❶  瀬戸内(呉近辺)エリアは、歴史遺産や観光スポットが揃っていても、現状は 《1-day 完結型 ツアー》が定例なので、極く一部しか観光できない
   対策; 全体を何回かに分けて見学するツアーを商品化する。
 ❷  沢山の観光スポットを見学しても、雑貨店の商品の外観を見て回る様な感覚では、歴史的・文化的価値の理解はできない。
   対策; エリア全体の見どころを網羅(要約)するストーリーを組立て、系統的に説明する「場」を設ける。
 ❸ エリア全体を網羅(要約)するストーリーがあれば、
  (旅行会社等の)ツアープランナーは
  ストーリーからテーマに分割し、観光スポットや遺構(点)を、(線)に繋ぐ「テーマツアー」(複数)を企画し「観光商品化」)できる。、
     テーマツアーを連結【連続ドラマ型ツアー】にすれば魅力は(面)に広がる。
学術or教養系テーマは【探究型ツアー】(知れば知るほど新たな疑問が湧く)を考えればもっと趣向に富む観光商品ができる。
  ガイドブック編集者、現地観光ガイドは
     地元(郷土)の自慢話のみでなく、周辺の観光資源や観光スポットなども、ストーリーに繋いで、もっと幅広い説明ができる。
 観光客誘致の効果  
   一度来訪した観光客に、再来訪(リピーター化)を促すことができる。
    テーマツアー(複数)に連続ドラマ感覚で参加し、広域エリアを(面的に)理解する。 →観光スポット数の増加は、観光魅力UPの相乗効果が期待できる。

 2-2 具体的手順
  その為の具体的手順は次の様に考えています。
→❶※1瀬戸内海(呉近辺)を総合的に俯瞰するストーリーを考え、
    ガイドブックや、パンフレットや、現地観光ガイドなどの案内に反映する。
→❷旅行会社(ツアープランナー)は、全体バランスを考えながら「テーマ(複数)」を選び、
→❸「ツアーメニュー(複数)」品揃えし【連続ドラマ型ツアー】を観光商品化する。
→❹現地観光案内は、各観光スポットだけの完結編でなく、他のスポットとの(連続
   ドラマ化)を考えてガイドする。
→❺観光者は、ツアーメニューの中から好きなテーマを選んで(複数回)参加すれば、
→❻瀬戸内エリアを(面)として理解され、観光魅力(感動)を倍増させる。
 注 ※1) 瀬戸内(呉近辺)を総合的に俯瞰するストーリーは、
 各観光スポットや遺跡や遺構 について「公知の説明(案内)を繋ぎ合せる」ものです。 現地ガイドや、旅行会社(ツアープランナー)や、ガイドブック編集者が、各人の小説を頭の中に描けばよいことです。
 観光ストーリーは、大筋は教科書に沿うとしても、聞く人に観光の夢が膨らむ様にフィクションや想像や作者の考えなどの趣向を凝らすことが必要です。
  ストーリー(コンテンツ)は、例えば、歴史、景観、文化・・・、北前船、朝鮮通信使、戦艦大和、太平洋戦史、各島の固有の文化・・・、健康、保養、体験、特産物、グルメ・・・等々、様々な分野にも、広がれば広がる程、応用範囲は広がります。

  2-3.テーマツアー(ストーリーツアー)実現の為の課題
   観光に携わる人に、上述の課題や、テーマツアー(ストーリーツアー)の趣旨が理解されれば、現状改善は自ずと前進する筈ですが・・・、容易でない事情があります。
強い地元(郷土)第一主義の問題
 各観光スポットは、地元住民や観光ボランティアなど、地元愛者が中心に活躍している。 それは狭い「地元(郷土)ファースト」意識が強く、 例えば、外部の観光ボランティアが入境して活動したり、逆に外部エリアに越境して活動するなど、地域連係体制は容易に纏まらない。
旅行会社(ツアープランナー)の問題
旅行会社(ツアープランナー)は、そんなことに係わる立場にない為、人気スポットを「つまみ食い」してプランを造る。 結果、観光には一部の人気スポットしか利用されない。
広域観光の推進リーダーが明確でない問題
複数の観光スポットにまたがる観光戦略は、調整役が不在の為、現場の(各観光協会、旅行会社、現地ガイド、観光ボランティアなど)は、個別バラバラの行動で(湯崎知事から)瀬戸内観光の大方針が出されても、有効な動きができない。
この中で、最も重要なポイントは ❸ と考えます。
  具体的に現場を動かす組織が、個別バラバラでは、現状は何も進展しません。
 


  3.瀬戸内(呉近辺)を総合的に俯瞰する観光ストーリー化(例)
   以下は、瀬戸内(呉近辺)の歴史、地理、文化の分野を中心に、私個人の視角で描く「観光ストーリー」の一例です。
  但し、あくまでも観光目的です、大筋では教科書に沿っている積りですが、聞く人に観光の夢が膨らむ様、フィクションや想像や個人的思想などを混じえています。

  3ー1.瀬戸内海の地理と風景の特長
 何百万年か前の瀬戸内海は低湿地帯が広がっていたと言われ、海底からはステゴドンやナウマン象の化石が多く発見されます。 その後プレート変動で紀伊水道や豊後水道が決壊し、地盤の浮沈や、氷河の融解により海面上昇して、現在の多島海が出来あがったと言われています。
 その結果、高地は谷間を残して大きい島の密集地となり、原野は灘と呼ばれる大海原となり、その中に小高い丘や小山は、小島となって点在する現在の風景が出来上がりました。

  瀬戸内海には、無数の大小様々、形も様々な島々が、ある所は一直線に、ある所は無秩序に、ある所は密に、ある所は疎に、様々な様相を呈して散在します。 そして島に挟まれ狭隘な海域は「海峡」と呼ばれ、大きな島に挟まれ川の様な海域は「瀬戸」と呼ばれます。

 瀬戸内海の潮流は、「海峡」で渦巻き、「瀬戸」を大河の様に流れ、島々の周辺には、潮流や風波に浸食された岩礁(小島)や、削られた土砂が潮流に運ばれて砂浜が交互に散在します。 そんな岩礁や砂浜には松の木が樹勢して瀬戸内特有の風景が展開されます。
 複雑な島形に囲まれた入り江は、深緑の水面に映る松の緑と白雲が絶妙のコントラストをなし、沖合のギラギラ輝くさざ波をかき分けながら、帰港を急ぐ漁船の群が通り過ぎていきます。

  瀬戸内海のクルージングは次々変る景色の変化が醍醐味です。 それに島内のバス移動や、小高い展望台※からの眺望を合せれば、「大規模箱庭」と言うか多島美の立体模型が楽しめます。
 注※)近辺の展望台は; 灰が峰、休み山、野呂山、筆影山、白滝山、亀老山・・・等々

  しまなみ海道(芸予諸島)周辺は、比較的大きな島が密集し、その狭間は大河の如く、運河の如く、海陸の和合する風景が展開します。 現在はそれが壮大な架橋で結ばれ、一層迫力ある風景になっています。
  瀬戸大橋の架かる塩飽諸島一帯は、無数の小島が遠く、近く点在し、夕日に輝く海原と調和する風景が見事です。 それはJR瀬戸大橋線車中からも鑑賞できます。
  周防灘の沿岸は、荒波の造形による奇岩や複雑に入り組む海岸線と、無数の小島が重なり合う絶妙な瀬戸内風景が展開します。

   3-2.「日本歴史」の中の、瀬戸内(呉近辺)風景
  ところで、自然景観の絶景スポットは、瀬戸内海に限らず、日本中には幾らでもあります。
 しかし瀬戸内海の自然は、景観のみならず日本の歴史・文化形成とも深く係わっています。
  瀬戸内(呉近辺)の風景や、歴史跡や、街並みは、日本歴史の変遷と対比しながら見学すると、尚一層の興趣が湧きます。
多島美に象徴される瀬戸内海には、広いオープンシーが開け、変化に富む大きさも形も様々な島々に囲まれた"湖"の様な景観も、深く入り込む入り江も、白砂青松のビーチも・・・。
 波静かな海域は あちこちの港に漁船が屯ろし・・・、朝市も始まる頃、朝日に輝く海原には大小様々、形も様々な船舶が行き交い・・・。
 陽が高くなると、沖をゆく船舶や遠方の小島は海面上にくっきり浮き上がります(浮島現象)。 島と島の狭間は、豪快に渦巻いて大河の様に流れ・・・、そこは喘ぎながら進む上り船と、それを嘲笑う様に走り過ぎる下り船が、分刻みで出会う場所になっています。
   そんな瀬戸内海は、かつて航行船舶にとって最大の難所でした。 それは様々な海戦や水軍氏族の活動場となり、時代が進むと日本海側の食料を京都や大阪に運ぶ北前船の経路として、江戸時代に百花繚乱の庶民文化を開花させた経緯には様々なドラマがあります。 それも更に時が移ると、急激に軍事色を増し、呉は一挙に東洋一の軍港に成長しました。 そして日清・日露の戦争を勝ち進み~更に太平洋戦争終了まで日本の急速な近代化と、針路を決定づける役割を担ってきました。 その間に培われた科学技術は戦後もしっかり活かされ、瀬戸内沿岸の燃料廠跡は巨大コンビナーに転身し、不夜城の如く夜の海を照しています。 その周りは大工場群が取巻く大工業地帯となって、日本の経済成長を支えてきました。 それは狭い海峡や水路に、超大型船もひしめく「超過密通路」の現実に象徴されます。
   尚、瀬戸内海の概要については別報に詳述しています。
        瀬戸内物語 (呉湾を中心とする歴史編)

   3-3.瀬戸内海の水軍
 瀬戸内海の航行は有史以来始まっていた様ですが、それが日常レベルに発達したのは平安時代の頃と思われます。 勿論大変な難所です、自然発生的に水先案内の出現は容易に想像されます。 しかし往来が増すにつれ、次第に強奪を働く様になったことから「水軍」とか「海賊」と呼ばれる様になりました。
  忽那水軍は11世紀に藤原親賢がこの地に配流され、忽那諸島各地に城を設けて通行船の水先案内か?それとも金品強奪か?、水路を見張って海賊行為を働く様になりました。
 【壇ノ浦の戦い】では、源義経は瀬戸内海各地の水軍を集めて平家を滅亡させましたが、主力は忽那水軍だったとか?聞いています。
 それは芸予諸島(”しまなみ海道一帯”)にも、因島出身の村上氏が水軍衆(海賊衆)を束ねていました。
 戦国時代には、水軍衆はそれぞれ有力大名と結び、海を ”戦場” として勢力拡大しました。 因島村上水軍(村上本家)は毛利軍と与して【厳島の海戦(1555年)】を戦い、陶晴賢軍を殲滅しました。 その後も、能島村上水軍、来島村上水軍も共に毛利家と与して、【木津川口の戦い(=1576年~石山本願寺派と織田信長の戦い)】にも信長軍と勇猛果敢に戦いました。

 その後は、能島村上水軍(村上武義)は秀吉に恭順せず衰退しますが、他の村上家は秀吉側に恭順して四国(河野氏)征伐に加わり、河野氏(及び配下の忽那水軍)を没落させ、芸予諸島を本拠に、瀬戸内水軍の覇につきました。

 しかし江戸時代に移り、戦(いくさ)のない世の中では海賊業(強奪)は形を潜めました。 しかし北前船などが年を追って盛んに航行し経済活動は急激に活発化した裏には、かつての水軍系氏族の貢献も大きかったのではないかと想像します。
  尚、村上水軍については、水軍城(因島)や能島水軍博物館(宮窪)や宮窪瀬戸の潮流体験など、瀬戸内海の地理を、重ねて見直せば、もっと興味深い発見ができます。

   3-4.北 前 船
   3-4-1.北前船の起源と 発展経過
 戦国時代、それは日本国中の有力武将が『覇を争った時代』です。 その裏は大勢の農民や庶民に餓死者も続出する決して豊かな時代とは言えないでしょう。
 しかし江戸時代に移り、戦がなくなると人々は急速に豊かさを求め、大量の物資が求められます。
それは真っ先に、人口密集地(京都・大阪)と、"米"の産地(越前)を結ぶ(当時)陸路輸送では、とても間に合いません。 必然的に日本海~瀬戸内海経由の大量輸送が求められます。
 しかしそれが容易でないことは、次に述べる通りですが、先人たちは熱意と努力で航路を開発し、それは忽ち北海道や樺太まで延伸されて「北前船」と呼ばれました。

 それは日本海に注ぐ内陸河川の水運も発達させ、内陸から大量の産物が集積する河口は、主要港として急速に発展しました。 それは太平洋,岸の航路も同様に開発され、日本中の物資の大量輸送路が整いました。
 そうして海上輸送路は西国海道(山陽道)等々の陸路を凌ぐ、大動脈となって衣食住の物資運搬と共に、情報や文化も全国 津々浦々に伝搬するマスコミの役割も果たしていました。
こうして江戸時代は、教養、娯楽、芸術、豊かな風俗が、庶民生活にまで浸透し百花繚乱の町民文化を開花する大きな原動力になりました。

 3-4-2. 北前船の航行、風待ち・潮待ちの港
 ところで、そんな大型船(当時)が、日本海や瀬戸内海を帆走するのは、如何に困難で危険だったか・・・??考えながら、瀬戸内海(呉近辺)を見れば、また新たな発見があります。

 現在こそ全ての航行船舶はエンジンで、日本海も瀬戸内海の潮流も、狭い港湾への入港も楽々としますが、・・・あれだけ大きな帆を人力で上げ下げし操作するのは如何に大変か?・・・、航行中に風波が急変すれば入港は愚か、陸地に近づくことも上陸すらできません。 勿論、天気予報などありません。 電話で救援を求めることもできません。 停泊中も 台風並みの風波を防げる防波堤はありません。
 瀬戸内海は潮流に逆らっては進めません。 暗礁や浅瀬も(現在より)沢山ありました。 潮流が変る前に目的地に到着しなければ、即、漂流か座礁の危険に曝されます。

 その解決策の一つが 『風待ち、潮待ち港』です。 瀬戸内海の各島々に数多の港が開かれ、北前船の船頭たちを迎え入れました。 命がけで航行する船頭たちは、張り詰めた緊張が解放されるオアシスで、各港々には必ず遊郭(茶屋)が営業していました。

 その他にも先人たちは、海の守り神として住吉大神を祀る神社をあちこちに建立し、船内には神棚を設けました。 それに驚く程高度な造船技術※や航海術の進歩など、英知や経験も駆使して、最盛期には)数千隻(恐らく)もの船舶が、日本中に豊かさを運んでいました。 それは年を追う毎に隆盛して明治時代の中頃ピークに達しました。
     ※造船技術は、『造船歴史館』(呉市倉橋町)や『歴史博物館』(福山市)で非常に
      興味深い発見ができます。

    3-4-3.北前船の寄港する主要港町
 主要な港町は、内陸の産物が集まる大河川の河口や、消費地の関係、港湾としての地理的条件により各地に開かれました。
 例えば、小樽は蝦夷地への玄関として重要港でした。 最盛期には広大な運河の両岸にぎっしりと海運倉庫群が建ち並びました。 能代、酒田、新潟港など大河川の水運を利用して内陸の農産物や鉱産物が集積する重要港で、大手船主も生業を営み極度に繁栄した港町です。 金沢や三国も大量の米が集積しました。 その他にも沢山の港が開かれました。

 その一つが御手洗港です。 御手洗には特筆すべき産物はありませんが、瀬戸内海の航行には『風待ち潮待ち』港の条件が非常に恵まれている為、沢山の船(北前船)が寄港する様になり、豪商たちにより(1660年頃)開かれた(当時版)新興商業区と言うべきでしょう。 北前船の運ぶ物資は、直ちに売買され周辺の島や町に届ける中継港として賑わいました。
 また四国や九州と~大阪や京都・江戸を結ぶ交通の要衝として、参勤交代の大名や文人墨客も頻繁に訪れていました。
 それに呼応して、御手洗の庶民も、教養・娯楽・芸術・大道芸人・嗜好品などの享楽にも親しんでいた様子が伺われます。 その街並みは一般庶民住宅も混在し、当時の生活臭もプンプンします。

 北前船の船主や船頭は、危険と引き替えに、日本中の情報を真っ先に先取りして、結構、有利な商売ができた様です。 能代や酒田など船主の港町には、超豪華な屋敷が建ち並んでいます。 御手洗のみならず、他の港町もそれぞれ特異な歴史形態を巡ってみれば色々な発見があります。
 ちなみに酒田は、実物大の北前船(千石船の復元船)が日本海を帆走する雄姿が全国ニュースになっています。

   3-4-4.歴史の丘(御手洗)からの眺望
 そんなことを想像しながら歴史の丘(御手洗)に上れば、瀬戸内海の絶景と同時に、北前船の航跡も一目瞭然とし、船頭たちの苦難と、港町御手洗の繁栄ぶりが眼下に見下ろせます。
    尚、御手洗、及び北前船については別報に詳述しています。
          『 北前船の集まる港町 (江戸時代の港町”御手洗”)

    3-5.朝鮮半島からの文化流入
 3-5-1.日本固有文化と、異国文化の融合
  江戸時代庶民文化は、国内の風俗や産物など「日本の固有文化」のみ開花したものではありません。 朝鮮半島から持ち込まれた異国文化や異国情緒と、日本固有の文化とが融合して独特なスタイルに醸成されました。 それを日本中に蔓延する橋渡ししたのが北前船です。

  朝鮮半島から流入した文化には、例えば、「陶磁器の製造技術」は文禄慶長の役では捕虜として連れて来られた陶工によって開かれました。 彼らは有田(佐賀県)一帯に住みつき伝授した陶磁器生産技術は、その後日本全国の窯元に引き継がれ、高度な発展を遂げました。 ドイツのデルフト焼きにも継がれています。
 松濤園(下蒲刈)の陶磁器館では、それ以外にも進化柿右衛門様式や鍋島焼きなど多数の作品や、進化の歴史なども大変、見応えのある見学できます。
 その他も、書画など芸術・文化、風俗、生活様式など沢山の異国文化が朝鮮半島から伝来しました。
   3-5-2. 朝鮮通信使
 日本と朝鮮半島は、そんな通常交流の他にも、『朝鮮通信使の来日』という 超ビッグな友好交流イベントが催されていました。 朝鮮から友好使節団(約500人)が江戸幕府の将軍詣でする行事ですが、日本側随行員(約1,000名以上)も加わり、多い時は2,000名の大行列が、【対馬~瀬戸内海横断~京都~江戸】間を約半年かけて往復するという、大体20年に一度の国家的大行事でした。

 瀬戸内海は、大小数百~千隻もの船舶を連ねて横断しますが、途中の下蒲刈島は重要な宿泊地でした。 往復する沿道には、珍しい大行列を見る為、大勢の観衆が詰めかけました。
 その中には各地から大勢の画家や芸術家も集まり、大陸使節団の珍しい風俗や文化を伝える絵画や、異国人を模した郷土人形などが日本全国に出回りました。 異国情緒に親しんでいた江戸時代庶民の形相が伺われます。
     ( 朝鮮通信使の歴史及び実態については松濤園で詳しく見学できます)

 江戸時代には長崎もオランダ船が入港して西欧文化や医学情報などが、清国(現中国)からも「唐文化」が伝えられましたが、当時の庶民生活には、書や絵画や芸術、娯楽など朝鮮半島の影響は相当大きかったと思われます。
    尚、朝鮮通信使については別報にも詳述しています。
        朝鮮通信使 (ユネスコ『世界の記憶』登録)

   3-6. 瀬戸内海の”製塩業” (竹原・三つ子島) 
 江戸時代中期の海上交通網は、北前船に続いて、太平洋や九州周り航路も整備され、全国の様々な物資が大量交換される様になっていました。
 その中で瀬戸内海沿岸の代表的な産物としては”塩”がありました。 ”塩”は人々の生命維持に不可欠な貴重品です。 当時、「製塩法」は広大な砂浜に干満差を利用して海水を引き入れ、天日乾燥する【入浜式製塩法】が赤穂藩で開発され、瀬戸内全般に広まったとのことですが、作業はかなり重労働だった様です。

  塩田方式による製塩法は、昭和30年代に姿を消し、現在、塩田跡は大工業地帯や住宅地に変っていますが、塩田オーナーは相当な財をなしていた様です。 呉近辺では竹原に、塩田オーナーなどの超豪邸が建ち並び「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

  現在は、製塩方式は、専らメキシコからの『岩塩輸入』に頼って、日本中の需要の 90%以上は、呉湾の三つ子島から再配送されています。 しかし食用(当時100%)は僅か数%に過ぎません。 殆どは塩化ビニルなどのプラスチックや洗剤、ゴム、ガラス、ソーダなど工業製品の原料になっています。

    3-7. 時代の転換
  3-7-1.北前船の廃退と呉軍港の脚光
 こうして江戸時代の町民文化が全開に達した頃、天地動転する事件が起りました。 黒船来航とその対応を巡って江戸幕府と、水戸藩や長州藩の対立です。 それは更に薩摩藩、会津藩、新選組、桑名藩、天皇や公家も巻き込んで、熾烈な戦い「幕末の動乱」に発展しました。
 そんな情報は北前船で、恐らく各地にも伝わっていたと思いますが、政りごとには「寄らしむべし知らしむべし」の庶民にどう映ったか?? 北前船はその後も 約30年間、明治時代半ばまで発展し続けました。

 しかし明治時代に移ると、富国強兵・文明開化の波が急速に押し寄せてきました。
陸上には 鉄道が巡らされ、電信・電話も出現し、和船(帆船)は気帆船に代り・・・、物資輸送も情報伝達にも、北前船の役割は急速に失われました。
 それに引き替え、一躍脚光を浴びたのが呉軍港です。 海軍鎮守府の設置が決定すると急転直下、最新最大の軍港を目指して、一気に大規模建設工事が開始されました。、

   3-7-2.その後の御手洗港
 北前船の寄港が途絶えた後も、往時の余波はしばらく続いていた様です。 街には珍しい洋風民家がポツポツ建てられ、それは現在も遺っています。 しかし日本は急速に富国強兵策と文明開化を目指し、九州の炭鉱から石炭運ぶ気帆船が寄港し「色街」として生き残りが続いていた様です。

 しかし世界恐慌に端を発した不景気が日本を襲い、日中戦争が泥沼に陥り、日本経済も行き詰っていた頃、寂れる町の奮起を目指して、当時として最先端のハイカラな劇場(乙女座)が建てられました。
 しかし時は戦争ムードたけなわです。 前途は険しかった様です。 戦後も色街として細々と生き残っていましたが、昭和32年売春禁止法の制定で完全に火が消され、そのまま街が現在まで保存されました。

   3-7-3.呉軍港の隆盛
 当時、”呉”(現市街地)は干拓が進んで綿花畑が拓け、入船山には ”亀山神社” が威風堂々と 町の平穏を見守っていました。 仁方や安浦海岸一帯は塩田が拡がり、総人口 1万人弱の(当時)普通の半農半漁の町は、豊漁や豊作を祈る祭事もあちこちで催されていま した。
 そこに町役人達の請願が叶って日本海軍鎮守府の設置が決まりました。

 ”呉”は、瀬戸内海の奥地にあり、敵攻撃に対し最も安全なので、海軍機能の最も重要施設が次々設置されました。 「日本海軍第一の製造所」と位置づけられ【造船ドック工事】も始まりました。 そして大凡の施設が整った明治22年開庁、開庁式は翌23年に明治天皇を迎えて行われました。

 それから数年後には、日本製第1号艦 ”宮古”の起工が始まりました。 鉄道も開通しました。 立て続けに日清戦争が始まり、日本は勝利しました。 勢いに乗って明治38年(1905)には 日露戦争にも劇的勝利し、明治42(1909)年には市電も開通し、呉界隈は沸きに沸きました。 その頃の海軍予算の 50%以上が”呉” に注がれていたと・・・聞いています。
 そうして呉鎮守府は、太平洋戦争終結まで(約60年間)、日本海軍の主役を担いました。 日本陸軍も、 満州事変から日中戦争へと勝利を続け、その勢いは世界最大の戦艦「大和」も建造し、もはや”真珠湾攻撃” をも避けられない程に昂っていました。

 その後の呉については、別報(下記)に詳述しているのでここでは省略します。の
       『海軍鎮守府物語 (呉鎮守府を中心とする歴史編)
       『大東亜戦争への道

 

   4. 終わりに
     瀬戸内(呉近辺)の各観光スポットや観光資源の関連づけ(観光ストーリー化)は、私個人の視角で例示したものです。 観光客に感銘を与えることを重視し、フィクションや私的な考えも混じえています。

  尚、コンテンツには、例えば、歴史、自然、文化・・・、北前船、朝鮮通信使、戦艦大和、太平洋戦史、各島の固有の慣習、健康、保養、体験、特産物、グルメ・・・等々、様々な分野も含まれれば、活用範囲はもっと拡がります。
  但し、重要なことは、事実に対して正確性よりも、各々の地域をストーリー連係することです。 その意識が失念状態だから、次の様な「負」の連鎖が持続します。
【 ストーリー化意識失念による「負」の連鎖 】
観光ガイドブックにパンフレットでは、沢山の魅力スポットを紹介しても、
 一般観光客の移動手段(交通機関、バスツアー等)とはマッチングしない。
旅行会社の主催旅行は、
→沢山の観光スポットの中から一部の人気スポットを「つまみ食い」するコースしか催行されない。 その結果、→他の多くの観光スポットは、全く活用されない。
観光案内(ガイドブックや、観光ガイドなど)は、
狭い現地単体の「1-day完結型(細切れ)の案内(説明)が定着して、 周辺の観光資源や歴史遺産と連係する「相乗効果」が生まれない。
各観光スポットは、
   ①狭い地元第一主義、→②観光ガイドも『地元のPR(郷土自慢)』が主体、→③周辺エリアとの連係協力体制が整わない。
   以上の様な連鎖で、瀬戸内(呉近辺)の広域観光魅力が失われていても誰も気づきません。
   しかしそれ以前に、「負の連鎖」の総本山は、複数の観光拠点にまたがる「観光振興政策」を考え、指導力を以て現状を改めるリーダーの存在がはっきりしないことだと考えます。
 
 瀬戸内観光作戦;         8
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