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| 6.瀬戸内(呉近辺)ストーリーツアー提案 |
2021/1 記 | |
| 緒 言 ( 趣 旨 ) →❶江戸時代、瀬戸内海は盛んに北前船が行き交い、日本全国の産物や情報や文化や風俗が持込まれました。 それは一帯にもたらされる豊かさ、島ごと異なる自然風土が相俟って、各島固有の文化・風俗が育まれました.。 しかし時代が移り、→❷明治時代には、注目舞台は”呉”に移行しました。 海軍鎮守府の設置は、半農半漁のありふれた集落は一挙に大盛況の海陸に大変身しました。 それは「景気は呉から~」と、忽ち東洋一の軍港に成長し日清・日露・日中の戦争を勝ち進み、~更には太平洋戦争へと日本の急速な近代化と、将来針路を決定づける役割を担いました。 →❸その時培った技術は戦後もしっかり活かされ、瀬戸内沿岸は一大工業地帯に、島々は農漁村にと、それぞれの分野で牽引役となり、アッと言う間に日本を世界第2位の経済大国に伸し上げました。 瀬戸内(呉近辺)には、そんな江戸時代から戦後まで、歴史を物語る遺構や遺物は、貴重な『文化・歴史遺産』としてしっかり保存されています。 それは、周辺の絶景と相俟って瀬戸内のあちこちでに「魅力的観光スポット」に整備されています。 しかし「観光スポット」が揃っていても、大勢の観光客が来訪する訳ではありません。 ①観光客にとって強い感銘を受ける「観光ルート・順路」と、②観光スポット数(多さ)が相乗効果となって感激拡大する仕組みでなければ、単なる「雑貨品の展示場」に過ぎません。 |
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| 1.瀬戸内(呉近辺)観光について『現状の課題』 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 2.対策 ; テーマツアー(ストーリーツアー)の提案 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| →それを満足する仕組みが、「テーマツアー(ストーリーツアー)」の提案です。 |
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| 2-1 「テーマツアー(ストーリーツアー)」の基本的な考え | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 2-2 具体的手順 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 2-3.テーマツアー(ストーリーツアー)実現の為の課題 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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| 3.瀬戸内(呉近辺)を総合的に俯瞰する観光ストーリー化(例) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 以下は、瀬戸内(呉近辺)の歴史、地理、文化の分野を中心に、私個人の視角で描く「観光ストーリー」の一例です。 但し、あくまでも観光目的です、大筋では教科書に沿っている積りですが、聞く人に観光の夢が膨らむ様、フィクションや想像や個人的思想などを混じえています。 |
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| 3ー1.瀬戸内海の地理と風景の特長 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| その結果、高地は谷間を残して大きい島の密集地となり、原野は灘と呼ばれる大海原となり、その中に小高い丘や小山は、小島となって点在する現在の風景が出来上がりました。 瀬戸内海には、無数の大小様々、形も様々な島々が、ある所は一直線に、ある所は無秩序に、ある所は密に、ある所は疎に、様々な様相を呈して散在します。 そして島に挟まれ狭隘な海域は「海峡」と呼ばれ、大きな島に挟まれ川の様な海域は「瀬戸」と呼ばれます。 瀬戸内海の潮流は、「海峡」で渦巻き、「瀬戸」を大河の様に流れ、島々の周辺には、潮流や風波に浸食された岩礁(小島)や、削られた土砂が潮流に運ばれて砂浜が交互に散在します。 そんな岩礁や砂浜には松の木が樹勢して瀬戸内特有の風景が展開されます。 複雑な島形に囲まれた入り江は、深緑の水面に映る松の緑と白雲が絶妙のコントラストをなし、沖合のギラギラ輝くさざ波をかき分けながら、帰港を急ぐ漁船の群が通り過ぎていきます。 注※)近辺の展望台は; 灰が峰、休み山、野呂山、筆影山、白滝山、亀老山・・・等々 しまなみ海道(芸予諸島)周辺は、比較的大きな島が密集し、その狭間は大河の如く、運河の如く、海陸の和合する風景が展開します。 現在はそれが壮大な架橋で結ばれ、一層迫力ある風景になっています。 瀬戸大橋の架かる塩飽諸島一帯は、無数の小島が遠く、近く点在し、夕日に輝く海原と調和する風景が見事です。 それはJR瀬戸大橋線車中からも鑑賞できます。 周防灘の沿岸は、荒波の造形による奇岩や複雑に入り組む海岸線と、無数の小島が重なり合う絶妙な瀬戸内風景が展開します。 |
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| 3-2.「日本歴史」の中の、瀬戸内(呉近辺)風景 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| しかし瀬戸内海の自然は、景観のみならず日本の歴史・文化形成とも深く係わっています。 瀬戸内(呉近辺)の風景や、歴史跡や、街並みは、日本歴史の変遷と対比しながら見学すると、尚一層の興趣が湧きます。 |
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| 尚、瀬戸内海の概要については別報に詳述しています。 |
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| 3-3.瀬戸内海の水軍 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 忽那水軍は11世紀に藤原親賢がこの地に配流され、忽那諸島各地に城を設けて通行船の水先案内か?それとも金品強奪か?、水路を見張って海賊行為を働く様になりました。 【壇ノ浦の戦い】では、源義経は瀬戸内海各地の水軍を集めて平家を滅亡させましたが、主力は忽那水軍だったとか?聞いています。 それは芸予諸島(”しまなみ海道一帯”)にも、因島出身の村上氏が水軍衆(海賊衆)を束ねていました。 その後は、能島村上水軍(村上武義)は秀吉に恭順せず衰退しますが、他の村上家は秀吉側に恭順して四国(河野氏)征伐に加わり、河野氏(及び配下の忽那水軍)を没落させ、芸予諸島を本拠に、瀬戸内水軍の覇につきました。 しかし江戸時代に移り、戦(いくさ)のない世の中では海賊業(強奪)は形を潜めました。 しかし北前船などが年を追って盛んに航行し経済活動は急激に活発化した裏には、かつての水軍系氏族の貢献も大きかったのではないかと想像します。 尚、村上水軍については、水軍城(因島)や能島水軍博物館(宮窪)や宮窪瀬戸の潮流体験など、瀬戸内海の地理を、重ねて見直せば、もっと興味深い発見ができます。 |
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| 3-4.北 前 船 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 3-4-1.北前船の起源と 発展経過 しかし江戸時代に移り、戦がなくなると人々は急速に豊かさを求め、大量の物資が求められます。 それは真っ先に、人口密集地(京都・大阪)と、"米"の産地(越前)を結ぶ(当時)陸路輸送では、とても間に合いません。 必然的に日本海~瀬戸内海経由の大量輸送が求められます。 しかしそれが容易でないことは、次に述べる通りですが、先人たちは熱意と努力で航路を開発し、それは忽ち北海道や樺太まで延伸されて「北前船」と呼ばれました。 そうして海上輸送路は西国海道(山陽道)等々の陸路を凌ぐ、大動脈となって衣食住の物資運搬と共に、情報や文化も全国 津々浦々に伝搬するマスコミの役割も果たしていました。 こうして江戸時代は、教養、娯楽、芸術、豊かな風俗が、庶民生活にまで浸透し百花繚乱の町民文化を開花する大きな原動力になりました。 |
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| 3-4-2. 北前船の航行、風待ち・潮待ちの港 現在こそ全ての航行船舶はエンジンで、日本海も瀬戸内海の潮流も、狭い港湾への入港も楽々としますが、・・・あれだけ大きな帆を人力で上げ下げし操作するのは如何に大変か?・・・、航行中に風波が急変すれば入港は愚か、陸地に近づくことも上陸すらできません。 勿論、天気予報などありません。 電話で救援を求めることもできません。 停泊中も 台風並みの風波を防げる防波堤はありません。 瀬戸内海は潮流に逆らっては進めません。 暗礁や浅瀬も(現在より)沢山ありました。 潮流が変る前に目的地に到着しなければ、即、漂流か座礁の危険に曝されます。 その解決策の一つが 『風待ち、潮待ち港』です。 瀬戸内海の各島々に数多の港が開かれ、北前船の船頭たちを迎え入れました。 命がけで航行する船頭たちは、張り詰めた緊張が解放されるオアシスで、各港々には必ず遊郭(茶屋)が営業していました。 |
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| 興味深い発見ができます。 |
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| 3-4-3.北前船の寄港する主要港町 例えば、小樽は蝦夷地への玄関として重要港でした。 最盛期には広大な運河の両岸にぎっしりと海運倉庫群が建ち並びました。 能代、酒田、新潟港など大河川の水運を利用して内陸の農産物や鉱産物が集積する重要港で、大手船主も生業を営み極度に繁栄した港町です。 金沢や三国も大量の米が集積しました。 その他にも沢山の港が開かれました。 また四国や九州と~大阪や京都・江戸を結ぶ交通の要衝として、参勤交代の大名や文人墨客も頻繁に訪れていました。 それに呼応して、御手洗の庶民も、教養・娯楽・芸術・大道芸人・嗜好品などの享楽にも親しんでいた様子が伺われます。 その街並みは一般庶民住宅も混在し、当時の生活臭もプンプンします。 ちなみに酒田は、実物大の北前船(千石船の復元船)が日本海を帆走する雄姿が全国ニュースになっています。 |
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| 3-4-4.歴史の丘(御手洗)からの眺望 |
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| 尚、御手洗、及び北前船については別報に詳述しています。 |
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| 3-5.朝鮮半島からの文化流入 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 3-5-1.日本固有文化と、異国文化の融合 朝鮮半島から流入した文化には、例えば、「陶磁器の製造技術」は文禄慶長の役では捕虜として連れて来られた陶工によって開かれました。 彼らは有田(佐賀県)一帯に住みつき伝授した陶磁器生産技術は、その後日本全国の窯元に引き継がれ、高度な発展を遂げました。 ドイツのデルフト焼きにも継がれています。 松濤園(下蒲刈)の陶磁器館では、それ以外にも進化柿右衛門様式や鍋島焼きなど多数の作品や、進化の歴史なども大変、見応えのある見学できます。 その他も、書画など芸術・文化、風俗、生活様式など沢山の異国文化が朝鮮半島から伝来しました。 |
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| 3-5-2. 朝鮮通信使 瀬戸内海は、大小数百~千隻もの船舶を連ねて横断しますが、途中の下蒲刈島は重要な宿泊地でした。 往復する沿道には、珍しい大行列を見る為、大勢の観衆が詰めかけました。 その中には各地から大勢の画家や芸術家も集まり、大陸使節団の珍しい風俗や文化を伝える絵画や、異国人を模した郷土人形などが日本全国に出回りました。 異国情緒に親しんでいた江戸時代庶民の形相が伺われます。 ( |
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| 尚、朝鮮通信使については別報にも詳述しています。 |
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| 3-6. 瀬戸内海の”製塩業” (竹原・三つ子島) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| その中で瀬戸内海沿岸の代表的な産物としては”塩”がありました。 ”塩”は人々の生命維持に不可欠な貴重品です。 当時、「製塩法」は広大な砂浜に干満差を利用して海水を引き入れ、天日乾燥する【入浜式製塩法】が赤穂藩で開発され、瀬戸内全般に広まったとのことですが、作業はかなり重労働だった様です。 塩田方式による製塩法は、昭和30年代に姿を消し、現在、塩田跡は大工業地帯や住宅地に変っていますが、塩田オーナーは相当な財をなしていた様です。 呉近辺では竹原に、塩田オーナーなどの超豪邸が建ち並び「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。 現在は、製塩方式は、専らメキシコからの『岩塩輸入』に頼って、日本中の需要の 90%以上は、呉湾の三つ子島から再配送されています。 しかし食用(当時100%)は僅か数%に過ぎません。 殆どは塩化ビニルなどのプラスチックや洗剤、ゴム、ガラス、ソーダなど工業製品の原料になっています。 |
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| 3-7. 時代の転換 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 3-7-1.北前船の廃退と呉軍港の脚光 そんな情報は北前船で、恐らく各地にも伝わっていたと思いますが、政りごとには「寄らしむべし知らしむべし」の庶民にどう映ったか?? 北前船はその後も 約30年間、明治時代半ばまで発展し続けました。 しかし明治時代に移ると、富国強兵・文明開化の波が急速に押し寄せてきました。 陸上には 鉄道が巡らされ、電信・電話も出現し、和船(帆船)は気帆船に代り・・・、物資輸送も情報伝達にも、北前船の役割は急速に失われました。 それに引き替え、一躍脚光を浴びたのが呉軍港です。 海軍鎮守府の設置が決定すると急転直下、最新最大の軍港を目指して、一気に大規模建設工事が開始されました。、 |
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| 3-7-2.その後の御手洗港 しかし世界恐慌に端を発した不景気が日本を襲い、日中戦争が泥沼に陥り、日本経済も行き詰っていた頃、寂れる町の奮起を目指して、当時として最先端のハイカラな劇場(乙女座)が建てられました。 しかし時は戦争ムードたけなわです。 前途は険しかった様です。 戦後も色街として細々と生き残っていましたが、昭和32年売春禁止法の制定で完全に火が消され、そのまま街が現在まで保存されました。 |
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| 3-7-3.呉軍港の隆盛 そこに町役人達の請願が叶って日本海軍鎮守府の設置が決まりました。 ”呉”は、瀬戸内海の奥地にあり、敵攻撃に対し最も安全なので、海軍機能の最も重要施設が次々設置されました。 「日本海軍第一の製造所」と位置づけられ【造船ドック工事】も始まりました。 そして大凡の施設が整った明治22年開庁、開庁式は翌23年に明治天皇を迎えて行われました。 それから数年後には、日本製第1号艦 ”宮古”の起工が始まりました。 鉄道も開通しました。 立て続けに日清戦争が始まり、日本は勝利しました。 勢いに乗って明治38年(1905)には 日露戦争にも劇的勝利し、明治42(1909)年には市電も開通し、呉界隈は沸きに沸きました。 その頃の海軍予算の 50%以上が”呉” に注がれていたと・・・聞いています。 そうして呉鎮守府は、太平洋戦争終結まで(約60年間)、日本海軍の主役を担いました。 日本陸軍も、 満州事変から日中戦争へと勝利を続け、その勢いは世界最大の戦艦「大和」も建造し、もはや”真珠湾攻撃” をも避けられない程に昂っていました。 その後の呉については、別報(下記)に詳述しているのでここでは省略します。の |
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| 4. 終わりに | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| 瀬戸内(呉近辺)の各観光スポットや観光資源の関連づけ(観光ストーリー化)は、私個人の視角で例示したものです。 観光客に感銘を与えることを重視し、フィクションや私的な考えも混じえています。 尚、コンテンツには、例えば、歴史、自然、文化・・・、北前船、朝鮮通信使、戦艦大和、太平洋戦史、各島の固有の慣習、健康、保養、体験、特産物、グルメ・・・等々、様々な分野も含まれれば、活用範囲はもっと拡がります。 但し、重要なことは、事実に対して正確性よりも、各々の地域をストーリー連係することです。 その意識が失念状態だから、次の様な「負」の連鎖が持続します。 |
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| 以上の様な連鎖で、瀬戸内(呉近辺)の広域観光魅力が失われていても誰も気づきません。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
| しかしそれ以前に、「負の連鎖」の総本山は、複数の観光拠点にまたがる「観光振興政策」を考え、指導力を以て現状を改めるリーダーの存在がはっきりしないことだと考えます。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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