このページは想像を混じえた 『私個人の歴史観』です。 mail

江戸時代の港町”御手洗”の歴史観
☆☆☆ 北前船の集まる港町 御手洗 ☆☆☆

 ◆1.御手洗の歴史背景 (北前船と港町風景)
 ◆2.御手洗の街並みと色町の情景
 ◆3.庶民生活、神社仏閣
 ◆4.全盛期の御手洗(1800年〜1890年頃)
 ◆5.御手洗の衰退と現状、並びに歴史総括
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   1.御手洗の歴史背景、北前船と港町風景 *1a

 かつて御手洗の入江は北前船でいっぱいでした。 その規模は 『西日本随一』と言われる港町は、日本中の物資が溢れ、大勢の人が集まり、最新情報も飛び交いました。
 そんな豪商人の繁華と、情緒豊かな色町風情が交錯する 『江戸港町』の海辺は、松並木が繁り、ところ狭しと幟り旗が立ち並び、街は提灯で飾られ、北前船の船頭や、商人や、大工や様々な職人たちがひっきりなしに行き交い、その中に ひときわ装い鮮やかな遊女達も混じり・・・、あちらこちらから三味の音、太鼓の音、競りのかけ声も聞こえていました。
 ここ御手洗には、そんな江戸港町を彷彿する街並みや建造物群が、明治、大正、昭和の時代を経て現存しており、  街並みは平成6年『重要伝統的建造物群保存地区』に指定されています。



◆ 歴史背景  *1b
 時代は400年余り以前に遡ります。
 ”戦国時代”、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄・・・等々、戦国武将が群雄割拠して争った時代の庶民生活は決して豊かとは言えないでしょう。 農民一揆などが頻発し、栄養失調や餓死者も大勢いました。
 しかし関ヶ原決戦(西暦1600年)を境に時代が移り、大坂冬の陣、夏の陣(1615)を経て、戦(いくさ)のない時代が到来しました。 すると忽ち人々は豊かさを求めます。 食糧はもとより、衣服も住居も、嗜好品、日用品、雑貨、娯楽・・・あらゆる品物を 急激且つ大量に必要とする時代が到来しました。 それが江戸時代です。

◆ 米の大量輸送と日本海〜瀬戸内海航路の始まり
 人口密集地の大阪や京都には、忽ち 大量の米が必要になります。 しかし米どころの越前や加賀から荷車や馬車運搬ではとても間に合いません。 【船輸送】の開発は必然でしょう。

 しかし重い荷を積んだ船が日本海や瀬戸内海を帆走するのは如何に困難で危険だったか・・・? 現在こそ船舶にはエンジンが付き、日本海の荒波や瀬戸内海の潮流も、狭い港湾の入出港も当り前ですが、当時、帆布がも麻から木綿になった(軽量化)のが大進歩という時代です。 勿論、天気予報もありません。 航行中に天候が急変すれば、入港は愚か陸地に近づくこともできなくなります。 電話で救援を求めることもできません。 停泊中でも 台風や強い風波を防げる防波堤もありません。 瀬戸内海は潮流に逆らって進むことはできません。 暗礁や浅瀬も(現在より)沢山ありました。 潮流が変る前に目的地に到着しなければ、漂流か座礁の危険に曝されます。
 しかし先人たちは、各所に「風待ち潮待ち」の港を整備し、高度な造船技術や航海術、海の守り神として住吉大神を祀る神社も各地に建立、船内にも神棚を設けるなど、あらゆる英知で克服しました。

◆ 航路整備
  潮流の激しい瀬戸内海では【地乗り航路】といって、風向きや潮流が変らない間に目的港着く 「陸伝い島伝い(短距離)航行」)が専らでした。 それに幕府は鎖国維持の為、船は外洋に出られない、帆柱一本で積載 300石以下の小船しか建造が許されませんでした。
 しかし経済が活発化し物流が盛んになると、大型船の千石船も建造が認められ1672年には、河村瑞軒に命じて航路整備が進みました。 河村瑞軒は豊かなアイデアを駆使して、全国で土木工事などを請け活躍した実業家です。
 航路整備と言うのは、『瀬戸内海には各所に港を開き、風や潮流変化により遭難しそうな船や、入出港時など、近くの港から救援可能になった』 という意味だろうと思います。 日本海沿岸や、瀬戸内海の島々には(その後、太平洋沿岸や日本全国にも)、次々港が開かれました。 それにより瀬戸内海は 千石船など大型船の”沖乗り航路”(大海を最短コースで航行)が可能になり、津和地(伊予)から御手洗までは斎灘を一気に航行可能になりました。

◆ 北前船の集まる港町 【御手洗】の発展 *1c
 瀬戸内海では、必ず何処かで《風待ち潮待ち》が必要ですが、条件の好い所には沢山の船が集まります。 つまり御手洗港は、瀬戸内海横断航路(沖乗り航路)の要衝に位置し、潮流の弛い広い海面に恵まれています。 目の前の島は岡村島です、島に囲まれた港内は台風などの風波も和らぐなど・・・、これだけ条件が揃う港は近くにはないので、沢山の船が寄港し停泊しました。
 そうして御手洗には1666年頃から人が住み始め、 港の機能に併せ、”茶屋”(遊郭)も設けられました。

 こうして《日本海(加賀・越前)〜瀬戸内海〜大坂》を結ぶ航路が繋がると、間もなく 《大阪〜北海道、更に樺太まで》延び通船は ”
北前船”と呼ばれました。
 御手洗港には、北前船と共に大量の物資が集まり、それを扱う問屋や豪商人も住みつき、中継貿易港として一躍 西日本随一の繁忙港に発展しました。
 そこは大勢の人も訪れ、新しい情報も飛び交います。 娯楽施設や神社仏閣も建ち並びます。 人形芝居や上方歌舞伎や、大道芸人も来演します。 遊女たちを囲う『茶屋』が建ち並び、「富くじ」も行われる様になりました。 こうして新興港町は、全国に名を馳せる繁華な商業街として年を追う毎 隆盛を極めました。

 それと共に西国大名の参勤交代や、文人墨客や・・・、オランダ商館の領事、琉球使節団、シーボルトなども頻繁に寄港しました。 琉球使節は、慶賀使、謝恩使が1634年から1850年まで18回江戸詣でしています。 幕末・明治の志士たちも、高杉晋作、坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通、吉田松陰、長岡藩の河井継之助等も、長崎や京都や江戸の行き来に立ち寄ったと言われています。

◆ 北前船の発達   *1f
 北前船はすぐ大型化して千石船が主流になりました。 往来は年を追う毎に隆盛を極め、幕末から明治中頃が最盛期に達しました。 最盛期には、大坂〜〜樺太までも行き来しました。
 通常は風の関係で、3月頃大坂を出帆し5・6月頃北海道着、7月頃北海道発〜10月頃大坂に帰って来ます。 航海の途中、船頭は商才を発揮して港々で商売します。
 ・西日本からの荷物は、塩、鉄、砂糖、綿、反物、畳表・莚、酒などの雑貨
 ・北海道・東北・北陸からは、米穀、大豆、木材、紅花、干し魚、塩魚、魚肥、コンブ、銅などです。

 それに対し、荷主(大名家など)から依頼を受けて目的地(江戸屋敷など)に、商品や特産物を運ぶ船は ”廻船”と呼ばれます。

千石船再現船(酒田)
 北前船の主要港は、背後に大消費地、または水運を利用して大量の物資が集まる河川の河口などに開かれました。  例えば、 米どころの三国や金沢、また酒田(山形県)は、最上川の水運を利用して多量の農産物などが集積に合せ、廻船問屋を兼ねて"船主"の街として栄えました。 小樽は蝦夷地開発の起点地として重要な港で、北前船を横着けする運河が建設され、両岸に多数の倉庫群が建ち並びました。 能代(秋田県)は(米代川の水運=阿仁鉱山の銅の出荷)、新潟は(阿賀川、信濃川の水運=米の集積出荷)などです。
 御手洗は「風待ち潮待ち」の船が沢山集まりましたが、離島の為、運ばれる物資は伝馬船で集配送する 【中継港】 として西日本随一の規模になっていました。

 海上輸送ルートは、太平洋側や、四国、九州にも開かれ、生活物資は日本中に行き渡る様になりました。 それは、物資以外にも大勢の人の移動や、日本国中に情報や、地域特有の文化や民謡なども全国に伝搬するマスコミの役割もし、江戸時代の商業、経済、産業の発展を促しました。
 それは小説や戯曲、浄瑠璃、絵画、俳句、・・・など文化、芸術、娯楽面も、非常に豊かに成熟したのが江戸時代の庶民文化です。

◆船 宿  *1g
 北前船で運ばれた物資は、「船宿」で仲買人たちに売り裁かれ、直ちに伝馬船で近郊に配送されます。
 ここ住吉通りは船宿がぎっしり軒を連ねていました。 また西国大名の船や、藩の廻船入港時も、船宿で一切の世話をしていました。
 御手洗には薩摩藩、熊本藩、小倉藩、福岡藩、中津藩、延岡藩、飫肥藩、長州藩、宇和島藩、大洲藩などがそれぞれ専用の船宿を利用していました。 船宿は間口は狭くても、背後に宿泊施設や湯女たちも居たのではないかと思います。

現在の”若長”(cafe) や”なごみ亭” の2階から眺める 景色は、往時の港町を偲ばせます
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 ◆ 最盛期の 御手洗港の情景(想像)
 往時の模様をもう少し想像して見ましょう。
 現在、目の前に見える風景から、コンクリートは全部消して下さい。 北前船やその他合わせ、200隻ぐらい船群を停泊させてみて下さい。

 朝日に輝く波静かな海面は、あちこちで炊煙がたなびき、千砂子波止周辺の商家には無数の幟り旗が建ち並び、神社の赤色は輝きを増します。 陽が高くなるにつれ、岸辺の松並木路に、船乗りや、商人や、職人、大工・・・などの動きが慌ただしくなります。 やがて修理船の底を焼く焚場(たでば)の煙りが漂い、船宿からは仲買商人たちの競り声や威勢があがります。・・・そして陽が沈む頃には、外来客や一際艶やかな衣装をまとった遊女と共に、三味や太鼓が響き始めます。
 そして夜、月明かりに浮かび上る船蔭に、カンテラが灯り、間を縫う様に《おちょろ船》が行き交い〜〜、岸辺の提灯列の灯りが海面に揺らぎ・・・、太鼓や三味の音は夜遅くまであちこちから響いています。
 そんな情景は、頭の中で想像するしか再現できないのが残念ですが、江戸から明治時代にかけ西日本随一の港町と、色町情緒を想像しながら散策して下さい。

 しかし時代が明治に移ると、参勤交代がなくなり、機帆船や鉄道による輸送手段が登場し、情報伝達も 電信・電話に奪われ、北前船の役割は明治中頃をピークに急速に衰退していきます。
 それにより、大量の物資が集まり、仲買人や、西国大名や、文人墨客で賑わった船宿も、商売替えを余儀なくされました。

 しかし富国強兵策に邁進する国策の下で、九州の石炭を運ぶ機帆船などが寄港し、色街の装いは昭和30年頃まで保たれましたが、売春防止法の制定でそれも絶え、現在僅かに残っている三軒長屋が 当時の面影を伝えています。 
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   2.御手洗の街並みと色街の情景 *2

◆御手洗の街並み *2a
 街並みといっても、例えば宿場町は必ず、大通りを中心に開けます。 城下町は、城下の掘跡や鍵型路地や不規則な町並みなど、各城下に特有の工夫があります。
 しかし離れ島の御手洗は、物資が集まり、仲買商人が集まりますが、背後に大消費地はありません。 到着した物資を周辺に海上配送する【中継港】は、路地が狭く、商家が密集しているのが特長です。
 歴史的には(1666年頃〜)から新興商業街として発展した町並みは、竹原の様な超大地主や、超豪華屋敷群と異なり、成り上がり商人の豪邸や、地主(庄屋等)の屋敷や、一般庶民の長屋などが混在し、狭い路地を挟んで密集しているのが特徴です。 それは、当時の港町庶民の生活臭が一層強く感じられます。

 人々の営みは明治時代以後も引き継がれます。
 文明開化の波は、人々にとって大切な物から順に、巨費を投じて新様式に建て替えられます。 それは庶民層には大正期から昭和初期にかけて浸透してきました。
 過去想像だにしない モダンな横板張りの洋館建てや、モルタル造りの民家が出現し、ガラス貼りの西洋スタイル商店など、当時の庶民の目にはどんなに映ったでしょう?

 しかしそれは街全体から見れば一部なので、江戸時代の伝統的建物は多く残っています。
 戦後も、細々と続いていた女郎屋は昭和32年の売春防止法制定により完全に火の消え、当時の街並みはそのまま凍結されて現在まで残されています。
 御手洗の街並みはそんな庶民の生活ぶりや歴史の変遷を想いながら歩くと感慨はひとしおです。
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◆常磐通り(江戸時代=商家街の街並み)
 常盤通りは御手洗地区で商家が集中する中心街です。 この辺りは 1759年の大火で消失し1777年頃再建され、防火対策として屋根は本瓦葺き、壁は漆喰の塗り籠め造りが軒を連ねています。
 当時の商家は道路側の間口は小さく、奥行きが深いのが特長です。 道路側から見ると 『店舗・中座敷・奥座敷』と一列に繋がり、中庭には防火用の池があり、更に奥には蔵が構えられています。 それが整然と区画化されています。
  間口が狭いのは税金対策という説もありますが、(私は)それは後づけの理屈で、富を築いた商人たちが 一人でも多く、限られた地域で業を成す為に考えられた 『新興商業区画』 だろうと思います。

◆若胡子屋  *2c
 沢山の船や人々が来訪する様になり、真っ先に営業を始めたのは ”茶屋”です。 現代的には ”遊郭” でしょう。 御手洗に住民が住み始めて 約60年後、1724年は 将軍吉宗の時代です。 百花繚乱の元禄文化に陰りがでた頃ですが、御手洗の繁栄はその頃から加速がついたと想像します。

若胡子屋
 茶屋は、若胡子屋以外にも増設され、最盛期には広島藩から免許された茶屋が 4軒営業していました。 各々の茶屋に遊女は100人ぐらいいたそうですが、それ以外にも個人営業の店や置き屋などもあったのではないかと思います。

 しかし、若胡子屋の金力や権力の象徴は、練塀には桜島の溶岩が練り込まれ、裏座敷の天井や障子の腰板などには 当時輸出禁止だった屋久杉がふんだんに使われていることから窺われます。 しかし立派な花鳥の描かれた舞良戸や貴重な調度品の数々は 既に誰かに渡ってしまっているのが残念です。 裏庭には薩摩に自生している ”ヒョンの樹” (樹齢200年ぐらい)が植えられています。 現在の建家はその頃建てられたもので、薩摩藩の役人も訪れていたことが伺えます。

 店の前には、無数の幟り旗が立ち、無数の提灯で彩られ、無数の行人が行き交い・・・、その中に一際艶やかに着飾った遊女の姿も想像して下さい。 建屋の中からは笛太鼓や鼓弓や三味線の音も、威勢よく響いていたでしょう。 周辺路地には、遊女の着物や履き物や、髪飾り、白粉などの店舗が軒を連ね、活気に満ちた色街の情景が浮かびます。
 店の中の様子は、(勉強不足でよく分かりませんが) 花魁と1対1で付き合えるまでには相当な お金やツテが必要だった様です。 歌麿の絵などでは、遊郭内では大勢の男女が唱ったり、踊ったりして楽しんでいる・・・様にも見えますが(専門家でないので)分かりません・・・。
 しかし、明治時代には人身売買は禁止され、茶屋は廃止されました。
若胡子屋は一時はお寺になり、地区会館になり、現在は内部に耐震補強が施されて公開されています。


喜多川歌麿「深川の雪」
   遊女たちは大体10才前後で売られて来ました。 年季が来ればある程度は自由になった様ですが、遊女が親元に手紙など送れる時代ではありません。 住所も帰る道も分からないでしょう。
 ひたすら修行と勉学に励み、読み書き、三味線や踊りなど芸事、作法などをマスターし、花魁(おいらん)の地位になれば花形で、部下や弟子もついた様です。 殿様相手には相当の教養も必要だった様です。
   しかし、どれ程の遊女が花魁まで昇格できず、冷遇され、転売され、廃され、入水したか・・・想像がつきませんが、遊女たちの平均寿命は21才ぐらいと聞いています。

  ◇お歯黒(おはぐろ)伝説
 人妻は「お歯黒」をつける習慣があり、花魁は例え一夜妻でもお歯黒をつけて男に接していました。
カムロ(花魁の世話をする少女)「しげ」は煮えたぎったお歯黒の入れ物を持ってきた。 花魁「八重紫」は急いで つけ始めたが、その日に限って上手く付かない。 幼い10才のカムロ「しげ」は、入れ替え差し出すが、どうしても上手くつかない。 「しげ」は八重紫の横顔を見てハラハラしていた。
 一方座敷からは三味や太鼓の音が鳴り響き『八重紫はまだか〜〜!?』と矢の催促がかかる。 客は花魁をとるには、莫大なお金を払い、周りの紹介人にも祝儀を与えねばならない〜〜〜。
 八重紫は厚化粧の額に青筋が浮かび、いきなり煮えたぎったお歯黒を「しげ」の口に注ぎ込んだ。
「しげ」は悲鳴をあげ、口から黒い血を吐きながら支度部屋の壁を掻きむしる様にして死んだ。
 それからは、鏡に向かう毎、死んだ筈の「しげ」が現れ、今を盛りの「八重紫」も背筋が寒くなり、四国88カ寺を回って、「しげ」の霊を弔おうとした。 しかし巡礼の宿でもまた現れ、一言残しては消え・・・、そうして後を追う様に「八重紫」も亡くなった。
 それからは、若胡屋では遊女が、100人になると一人亡くなりということが繰り返され、99人で営業したといいます。 白壁に残ったすげの手形は、何度壁を塗り替えても、決して消えなかったそうです。
そして「八重紫」の墓は若胡屋の中庭に移されています。

◆ おちょろ舟
 何隻もの小舟(おちょろ舟)は、身よりのない娘や未亡人を乗せ、沖に停泊する船の間を縫う様に、薪、水、食糧などを売って廻り、彼女たちは「菜売り女」と呼ばれました。 それは自然派生的に生活の糧として、漆黒の海にカンテラを照らしながら停泊船を巡る『沖芸者』といわれる遊女にもなり、上陸できない船乗りたちを慰める役割をする様に様になりました。
 そんな情景は、北前船が役割を終えた後も、御手洗に寄港する機帆船などを相手に昭和32年に売春防止法が施行されるまで引き継がれていました。

◆色街風情 *2d
  当時の船乗りたちは、生死を分ける日本海の荒波や、瀬戸内海の急潮を乗り越え、港町に着いた時は 大いに安堵の時でした。 台風や、しけに遭い何時遭難するかも知れない船頭たちは、航海しながら稼いだお金は、次の港で使い果たす生活をしていた様です。
 北前船最盛期の江戸時代末期、 『諸国いろざと番付け』 には、御手洗は全国151選中、西前頭11番目にランクされています。 横綱級の江戸の吉原、京都の島原、長崎の丸山などに次いで、御手洗の人気は高かった様です。
 住吉町には、船宿と置屋が建ち並び、なじみの船が入港すると、早速、出迎えて労をねぎらいました。 船乗りたちの入浴は、置屋からは馴染みの湯女が駆けつけて背中を流します。 夕闇に包まれると酒宴が始まり、住吉町界隈は夜更けても三味や太鼓の音が響きわたり、灯の消える家はなかったそうです。
 また、毎年何回か神社の祭りや町の行事には、近郷からも見物人が群れをなして訪れ、遊女たちも総出で振る舞い、祭りを盛り上げました。 その時は遊女たちも、願い事を書いて枝に結ぶ姿がありました。

◇御手洗の繁栄を支えた遊女たちの哀史(遊女たちにまつわる俳句)
   *『
頼みます 花もこの世も 後の世も』  (河端五雲)
 神明さんのお祭りには遊女たちは、自分の願い事を和歌や俳句に託して短冊に書き、神社境内の枝に結ぶ習わしがありました。
ある遊女は、句が思いつかず、偶々風待ちで寄港していた松山の俳人(河端五雲)のもとに行き、訳を話して句作をお願いした。
 私は売られてこの土地でこんな勤めをしています。早く年季が明け両親のもとに行きたいのです。 どうかあの世では、無事両親と会い、楽しく暮らせます様に・・・。

   *『三弦に 我を泣かせよ 秋の風』     (栗田樗堂)
   *『夏草や 島に悲恋の 遊女墓』      (蚊 居)
      『 3.庶民生活、神社仏閣 』を見る