このページは 『私個人の歴史観』です。 mail

日本遺産 ; 呉鎮守府を中心とする歴史観 
☆☆☆ 海軍鎮守府物語 ☆☆☆

  ノスタルジック呉
   アレイからす小島
 沢山の護衛艦が停泊する海上自衛隊基地は、現在、国内に 5ヵ所あります。 その一つが”呉”基地です。 ここアレイからす小島は 日本では唯一、眼前に潜水艦の見える公園です。
現在は埋め立てられていますが、以前、この沖合には小島(からす小島)がありました。 波静かな海面と複雑な潮流は小魚にとって絶好の住処です。 ぎらぎら輝く水面に漁船が屯ろし、船頭たちの歌う声が、あちらこちらから聞こえていました。
 ”呉”(現市街地)は干拓が進み、綿花畑が拓け、入船山の丘には ”亀山神社” が威風堂々と 町の平穏を見守っていました。  仁方や安浦海岸一帯には塩田が拡がり、人口 1万人弱(当時)の半農半漁の町は、豊漁や豊作を祝う祭事があちこちで催されていま した。
 そこに町役人達の請願が叶い、日本海軍の鎮守府設置が決まりました。 それも瀬戸内海の奥深くに位地し、敵艦攻撃から最も安全な ”呉鎮守府” は「海軍第一の本拠地」という最重要任務が託されました。

明治31年頃の呉軍港
 のどかな町はあちこちで一斉に大規模工事の槌音が響き、綿花畑(旧市内)は縦横に広い道路が走り、川には次々橋が架かり、軍用地には見たこともない巨大レンガ造りが建ち並び、界隈は工事する人、完成した工場で働く人、軍役人や兵士、商売を営む人、その家族など・・・で一斉に活気づきました。 電気もガスも水道もいち早く繋がりました。 やがて沖合いには新鋭軍艦が停泊し、大勢の人々に見送られて出征する兵士姿も、次第に日常化してきました。
 反面、住民は、生活用地を一方的に移転させられ、亀山神社も移され、漁場も制限され、灌漑用水も軍優先に回され・・・かなり圧迫されました。 そんな変貌は当時の人々の目に どう映ったでしょう?  しかしそれは今は伝説と化し、構築物も 殆どが新しい工場群と入れ替っています。
 それでもここ(アレイからす小島)には、当時のレンガ造り建物や、300mにわたる《切石組み護岸》や、魚雷や弾丸の積出し桟橋、トロッコレール、英国製クレーンなどの遺構がノスタルジックを誘います。
  ここから見渡す風景には、そんな”呉”の航跡や、「日本近代化の歴史」がちりばめられています。 目の前に停泊する最新鋭護衛艦や潜水艦群と見比べながら、懐古するのは一興です。 

 

 日本国家の急変
  黒船来航
 有史以来、一度も戦争経験のない”平和ボケ” 状態の日本に一変する時が訪れました。

ペリー来航
浦賀(横須賀市久里浜町)に黒船が来航し(1853)、開国が迫られると気配は急に慌ただしくなります。
 江戸幕府は、要求に応じて下田と、函館の開港を約束しますが、その他にも治外法権や不平等条約を次々と結ばせられます。 それは佐幕派や攘夷派や天皇も巻込む抗争を招き、混乱に乗じて武器販売する外国人商人も暗躍し、京の町は一触即発状態が続きました。
 その一方、欧米列強との対等交渉には、小栗上野介は、欧米の先進文明を採り入れて艦船建造する 「近代的造船所(横須賀製鉄所)の設置」を提唱し建設にかかりました。 勝海舟と坂本竜馬は、「日本海軍」を提唱し長崎に伝習所を開きました。 

  横須賀製鉄所
 幕府の勘定奉行;小栗上野介は、フランスの協力を得ながら周辺を測量し、江戸防衛の最適地として横須賀が選ばれました。 建設は、技術的役割はフランス人技師;フランスワ・レオンス・ヴェルニーに一任されました。 「鉄を加工する所」という意味で名称を「横須賀製鉄所」とし、1865年(慶応元年)に起工式が行われました。
  しかしその後、 江戸幕府(徳川慶喜)は大政奉還し、政権は明治新政府に継がれました。
 明治新政府は、早々「富国強兵」をスローガンに海軍創設に合せ、欧米文明も精力的に輸入しました。
 横須賀製鉄所は【横須賀造船所】と改名し、あらゆる製品の生産技術や工場運営は西欧の仕組みをそっくり導入し、造船のみならず土木、建築資材なども生産しました。 そして製品は観音崎燈台や、富岡製糸場建設などに使用され、生産技術経験は 我が国 「全ての産業近代化」の原点になりました。
  明治新政府への引継ぎと、「富国強兵」策推進
  しかし大久保利通らが、欧米の驚愕的に進歩した文明を視察して帰国すると、明治新政府は軍備は勿論、あらゆる近代文明の採り入れに、急角度の舵を切りました。
  既に立上がっていた《海軍伝習所や横須賀製鉄所》の拡充強化は元より、鉄道や道路延伸、各地に近代工場建設、地下資源、ダム工事等のインフラ整備、及び政治、教育、銀行、警察制度創設・・・等々、文明開化の波が全国一斉に押し寄せます。

 しかし、食料も、地下資源も、労働力も、資金も、科学知識も、経験もない日本が、欧米列強と折衝するのは尋常でありません。 先進文明輸入の財源捻出や工事労働者は・・・、朝鮮政策が議題にあがると、列強の植民地政策を視察して帰国した大久保利通と、「征韓論」を主張し、自らが(朝鮮に)赴いて対話しようとする西郷隆盛の間で確執が生じます。 それにより西郷は下野し薩摩に帰郷しますが、明治政府(大久保)は「富国強兵」をスローガンに、廃藩置県や徴兵制(武士制度廃止)を打出します。
 それには薩摩武士団は真っ向から不満を訴え、西郷の下に結集して西南戦争が起こります。 結果、政府軍が勝利し西郷は自決しますが、富国強兵策には一層、拍車がかかります。



   海軍鎮守府設置と近代化への躍動
  富国強兵政策
 明治政府は欧米に追いつけ追い越せと、産業を発展し国を強くする「富国強兵」をスローガンに掲げ、学制、兵制、税制、殖産興業の4つの政策が打出されました。 
【学制】は; 近代的な国家を目指すために教育に力を入れ、身分や性別に関係なく国民皆学を目指しました。 フランスの制度を見習ったとされています。
【兵制】は; 徴兵令を出して、国民に兵役を課し、武士制度は廃止されました。
【税制】は; 地租改正で土地に税金を課して国の財政に当てました。
※【殖産興業】は;「”軍”(海軍、陸軍)以外の官営事業」の推進制度です。
 つまり、交通・通信設備、金融制度、鉱山事業、諸産業施設(工場等)の開設や統括、及び金融制度、貨幣制度・・・などの整備・統括・推進ですが、これらの事業は余りに複雑・膨大な為、民間事業者に委託されました。
 ※【殖産興業】の具体例としては;
 群馬県の富岡製糸場や、紡績会社や、八幡製鉄所や、鉄道事業(明治5年に新橋ー横浜間の開通後 全国に延伸)や、あらゆる近代産業、銀行などの金融機関や貨幣制度、インフラ工事・・・等々は、民間事業者に委託され、三井、三菱、住友など・・・大財閥が生れました。
   こうして極めて急速に ”文明開花”と、国造り改革が本格化したのが明治時代です。

  横須賀製鉄所と富岡製糸場
 財源確保には、日本にとって唯一のドル箱(輸出品)は”生糸” でした。 富岡製糸場の建設は、明治4年に着工、横須賀製鉄所製の刻印のあるレンガも使用されました。 工場運営も、欧米式の日曜休日制度、健康診断、年功給、有給休暇、複式簿記など、横須賀製鉄所の経験や技術を活かされました。 人間関係も横須賀製鉄所の首長だった;ヴェルニーと、富岡製糸場の首長だった;ブリュナは家族ぐるみ交流があったと言われています。


軍港市日本遺産活用推進協議会
  ”海軍鎮守府”設置計画
 明治政府が西欧列強と対等に折衝できる為には、富国強兵をスローガンに、①”横須賀造船所”拡充と、 ②防備の為の ”海軍鎮守府” 設置」を明治9年(1876)に決定しました。
 鎮守府とは、日本周辺海域を 四つに分割し、各海区に 『兵員養成、軍港、海軍工廠(艦艇の建造、修理、兵器の製造等を行う工場)、海軍病院、海軍水道などの機関や施設を設け、運営や監督を行う《海軍本拠地》』です。

 具体的な設置場所は、その後 敵艦攻撃を防ぐ地形や、艦艇の航行・停泊の便、水深、交通・連絡の便、物資調達、兵員集めなど諸条件が最も適する港(軍港)として、①横須賀は「横須賀造船所」を引継ぎ、 ②呉と、③佐世保 が明治19年(1886)に、④舞鶴は少し遅れて明治22年(1889)に設置が決まりました。

  各鎮守府の開庁と、軍事力の拡充強化
 【横須賀鎮守府】は、前身の横須賀造船所を引継いで明治17年に開庁しました。
横須賀造船所は、鉄製品のみならず建築用レンガまで、幅広い産業製品の製造体制を整え、その経験は、【呉鎮守府、佐世保鎮守府】(何れも同22年開庁)、【舞鶴鎮守府】(同34年開庁)の建設に活かされ、我が国最先端の工業技術や設備が導入されました。 こうして横須賀造船所は、先輩格として日本の近代化をリードしました。

 そうして呉鎮守府と佐世保鎮守府が開庁すると、僅か数年後には朝鮮半島をめぐり日清間の緊張状態から「日清戦争」が勃発しました。 それに勝利し朝鮮半島を獲得すると、ロシアも満州から南下し「朝鮮半島支配」を目指した為、立て続けに日露戦争も勃発しました。 それにも奇跡的勝利し、敗残兵を追って満州に入城しました。
 満州は日本にとって、「食料も資源」も喉から手のでる宝庫です。 日本軍(関東軍)は、早速、満州占領を目指し、農地開発や近代的国家造りに着手しました。

 しかし満州は元々清国の領土です。 それから20数年後、清国を引継いだ「中国(蒋介石軍)」の戦力が整うと、全中国統一を目指し 「満州奪還軍(北伐軍)」を派遣します。
 しかし関東軍は、既に超近代的国家(満州国)建設が進み、食料も資源も・・・満州なくして「日本国家」は存続できません。
 当然、日中間は反日、抗日の嵐となりますが、関東軍は武力鎮圧し(満州事変)、傀儡国家「満州国」を樹立します。 しかし嵐は、中国本土にも拡大・激化し、居留邦人の生命を護るには、中国全土攻略も辞さなくなります。 こうして戦闘(日中戦争)が始まると、日本内地から、陸軍は勿論、海軍も陸戦隊や海兵隊を次々増派し、戦闘は大陸内部まで拡大しました。
 
   太平洋戦争へのレール
  しかし中国(蒋介石)は、「満州の違法占拠、中国へ違法侵略」を世界に訴え、米英は(中国に)武器支援し、日本は泥沼状態に陥った上、更に経済制裁や石油禁輸制裁が課せられました。

  しかし全産業も人口も 全てが軍需関連や兵士に偏重し、戦費も、食料も、資源も、国の莫大な借金も・・・「全て満州頼み」です。 しかも内地では一度も「戦場経験」がなく、国民は大本営発表の「連戦連勝」に酔い知れ、"糧"を持帰る軍部を絶賛しています。 もはや「満州返還」などできる筈もありません。
 「石油禁輸」制裁には、南方作戦に抜け道を探りますが包囲網は狭まり、遂に、なけなしの国家予算から大枚をはたいても、戦艦『大和』を建造し『米英と戦う』 以外なくなっていました。

  しかし、そんな歴史を通して、日本は高度科学技術を培いました。 それが、戦後 平和産業に利用され、呉市一帯は有数な重工業地帯に、日本は世界第二位の経済大国まで驚異的発展に繋がりました。
 この度「日本遺産」登録された《旧海軍4軍港遺跡》には、そんな歴史が刻まれています。



 各鎮守府の辿った歴史経過
    横須賀鎮守府
 「横須賀鎮守府」は、江戸防衛の要衝として建設中だった 【横須賀製鉄所】を引継いで、明治17年に開庁しました。. 名称はその後、横須賀製鉄所 →横須賀造船所 →【横須賀海軍工廠】と改名され、艦船建造規模は、終戦まで拡大し続けました。
 こうして横須賀鎮守府の経験は、一歩先駆けて、呉、佐世保、舞鶴各鎮守府はもとより、全産業の工業技術近代化を牽引しました。  
 横須賀鎮守府の特長は、東京湾の最狭部に位置し、首都防備という 使命から、沢山の砲台(東京湾要塞)が設置されたことです。
 横須賀鎮守府の跡地(一部)は、現在、「海上自衛隊」と「米海軍」の両基地になっています。

  東京湾要塞
 (横須賀ー富津間は)東京湾口の最狭部にあって、明治期から太平洋戦争期にかけて、帝都東京と横須賀軍港防衛の要塞や、砲台が多数設置されました。 その遺構は現在も沢山遺っています。
猿島砲台跡  ※国指定史跡
 猿島は、三笠公園(後述)の沖合1.7kmに浮かぶ東京湾で唯一の自然島です。
幕末、日本近海に欧米の艦船が出没する様になると、幕府は江戸湾防備の為、品川など沿岸各所に砲台を築きました。 猿島にも 1847年に築かれていました。
 しかし対外情勢が逼迫してくると、明治政府は改めて東京湾要塞を建設し、猿島には 24cmカノン砲4門、27cmカノン砲2門が据えられました。
 しかし東京湾は攻撃されることなく、太平洋戦争では航空機時代に移った為、艦船攻撃用砲台は役割を失い、関東大震災による被害を機に陸軍は廃止しました。 しかし海軍は、横須賀軍港を護る為、高角砲を設置して終戦まで保持されました。
 島内には、深い緑の木立に囲まれて、レンガ造りの塁道、トンネル、弾薬庫、兵舎、高角砲の台座など数々の貴重な歴史遺産が残っています。 それは初期の切り石積みから →レンガ積みに、レンガ積みもフランス式や英国式が隣り合わせ、→ 更に後代はコンクリート造りにと、建築技術の推移を見られます。
千代ヶ碕砲台跡”  ※国指定史跡
 ペリー来航で知られる《浦賀港》(=横須賀市久里浜町)の入口に造られた要塞です。
明治25年に着工し東京湾の中では最新鋭砲台でした。 石造り、レンガ造り、コンクリート造りがミックスしているのが特長です。
観音崎公園
 ここからは浦賀水道を行き交う世界の船舶や対岸の房総半島を一望できます。、
 【観音崎燈台】 ; 明治元年に起工した日本最初の洋式燈台です。 最初はヴェルニーが設計した レンガ造りだったそうですが、その後倒壊し、現在は3代目だそうです。 《高さ19m、8角形の燈台》は日本の「燈台50遷」に選ばれているそうです。
 【観音崎砲台】 ; 明治13年に着工、西洋の築城技術による日本最古の砲台。 観音崎燈台も含め観音崎公園一帯は、次々と砲台が並ぶ要塞地帯になりました、
走水低(はしりみずてい)砲台跡
 東京湾で対岸(富津市)との距離が最も狭い地点で、幕末にも砲台が築かれるなど、東京湾防備の要衝地点で、観音崎、猿島に続いて砲台が建設されました。 しかし日本が戦った日清、日露戦争当時も、それ以降も敵との交戦はなく、昭和9年に除籍されましたが、終戦まで可動状態だった為、レンガ造りの弾薬庫や兵舎などの遺構がそのまま残っています。
 

在日米海軍司令部庁舎

横須賀鎮守府・海軍工廠
◆ 横須賀鎮守府庁舎(現;在日米海軍司令部庁舎)、
 明治23年に完成したが関東大震災で崩壊し、大正15年に再建された。 鉄骨造り、タイル貼りの大正建築の傑作と言われています。 現在は在日米海軍司令部として使用されています。

◆ 海軍工廠ドック(ドライドック)
 日本最古の第1号(=明治4年竣工)から、第6号(=昭和15年竣工まで増設され、最後は第二次大戦中に巨大空母「信濃」の進水まで数多の戦艦や空母を建造。 現在も米軍基地内で使用されている。

ヴェルニー公園
 ヴェルニーは、横須賀製鉄所の建設に貢献したフランス人技師です。 公園内のフランス式花壇には、約2,000本のバラが5月中旬と10月中旬に見ごろを迎えます。 港に停泊する護衛艦や潜水艦を眺めながら散歩が楽しめます。 ヴェルニー記念館には、1865年オランダ製で、100年以上使用されていた日本最古のスチームハンマー(蒸気圧でハンマーを動かし鉄板を成形加工する巨大工作機)など、日本が西欧文明を吸収した歴史を物語る貴重な展示があります。

  三笠公園・三笠記念艦
 戦艦『三笠』 は、明治35年にイギリスで竣工、日露戦争の日本海海戦では、東郷平八郎司令長官が座乗し、バルチック艦隊に大勝利した旗艦です。 日露戦争終了直後に佐世保沖で爆沈したが、浮揚、修理され明治41年に現役復帰しました。 しかし大正13年に関東大震災により破損するも、再び浮揚して大正15年に記念艦として現在地に設置されました。 艦内には士官室や長官公室などが復元され、日露戦争当時の資料展示の他、30cm主砲や15cm副砲などを間近で見ることができます。 最上艦橋には東郷司令長官や、秋山参謀と同じ位置に立って海を眺めることもできます。
 この”三笠” は、日本海軍が建造・保有した軍艦の中で、唯一現存する軍艦です。


ヴェルニー公園

ヴェルニー公園

三笠記念艦


   呉鎮守府
 鎮守府設置決定(明治9年)当時、北前船は最盛期で、日本中を往来していたので、”呉界隈”にも 情報は伝わっていたのではないか(?)、鎮守府誘致活動や現地測量が、大衆の目に映り始めるのは明治10年代後半ではないかと想像します。
 ”呉”の街は急に慌ただしくなります。 海軍用地の整備、市街化区画の整備、巨大な施設建設も始まると、当然、建設工事をする人、完成した施設で働く人、軍関係の役人、兵士、その家族、彼らを相手に商売に携わる人・・・など人口は急増し、街は一気に活況を呈します。

 ”呉”は、敵艦攻撃を防備上、地理的に最も恵まれ、海軍機能の最重要施設が次々建設されました。 「日本海軍第一の製造所」という位置づけで 《造船ドックの工事》も始まり、大体の施設が整った明治22年に開庁、開庁式は翌23年に明治天皇を迎えて催されました。
 以後、呉鎮守府は、太平洋戦争終結まで(約60年間)、日本海軍の主役の座にありました。

 呉鎮守府開庁から数年後には、日本製第1号艦 ”宮古”の起工(竣工は明治32年(1899))と、日清戦争勃発も相継ぎ 更に10年後(明治38年)には日露戦争も勃発します。
  しかし両戦争に劇的勝利すると、日本軍は満州に入城し、勢いに乗って「満州領有(満州国樹立)」を目指します。 ところがそれは、「反日・抗日の嵐」を招き、戦闘は満州事変から日中戦争へと拡大・激化し続け、呉鎮守府を始め日本から「海兵隊や陸戦隊」が大々的に派遣されました。

 大陸での攻勢や満州国建設には、呉市内も大いに潤い、電気・ガス・水道などがいち早く繋がり、広島~呉の鉄道も、市電も開業し、盛り場にはモダンな喫茶店やレストラン、ビリヤードなどが建ち並び商売を営む人、海軍工廠で働く人、軍将校や凱旋兵士、その家族・・・など呉界隈は沸きました。 その頃の海軍予算は 半分以上”呉” に向けられていたと聞いています。

 しかし日中戦争拡大の行き着く先は、米英始め世界中から激しい批判を浴びるところとなり、世界最大戦艦「大和」を建造し、”米英との戦い” も辞さないハメに嵌っていました。
 そんな歴史を通して"呉鎮守府"は、日本海軍の最重要の役割を担っていました。


生徒館(海軍時代)
  海軍兵学校
 海軍兵学校は、”呉鎮守府” 開庁前の明治21年に築地から江田島に移されました。 移転後第1期生は広瀬武夫が、翌々年には秋山真之も卒業し、日清・日露戦争には東郷平八郎の配下で大活躍しました。 後には山本五十六ら海軍トップを続々と輩出しながら、太平洋戦争終結時まで半世紀以上君臨し、影響力は ”世界3大兵学校” に数えられています。

 太平洋戦争末期には、岩国や舞鶴や針尾分校が開かれ、急ごしらえの若い兵士たちは、繰上げ卒業して神風特攻機に乗機しました。 構内に残されている遺書には胸が締め付けられます。
 現在は海上自衛隊(幹部候補生学校、及び第一術科学校)になってますが、海軍兵学校の歴史を見学することができます。

  まちの基盤整備
 呉のまちは碁盤目状に道路整備され、新しい街に生まれ変わりました。 電気やガス、水道、医療機関なども次々整備され、鉄道や市内電車も・・・、”呉”の人口も、日増しに増加し昭和18年(1943)には40万人に膨れ、住家は山の中腹まで這い上り、街はすっかり繁華な近代都市に変貌しました。
  呉海軍工廠
◆日本最大の造船ドック
 「帝国海軍第一の製造所」を目指して、明治24年(1891)に第一船渠(ドック)が開渠しました。 明治27年(1894)に 第1号艦 ”宮古”の起工が始まり、太平洋戦争まで(約50年間)に、”長門”や世界最大の”大和”など戦艦;5隻、”赤城”など航空母艦;6隻、巡洋艦;8隻、潜水艦;52隻など 130余隻もの艦船を次々建造しました。
 艦船建造で培った技術は、戦後は重工業部門で日本経済発展に寄与し、世界最大タンカー(日精丸)もこの造船所で建造されました。

◆『造兵部門』(=兵器工場や製鋼工場など)を併合
 造船部に、造兵部門も(兵器工場や製鋼工場など)併せて『呉海軍工廠』が、明治36年設立されました。 造兵部門でも日本最大規模になっていました。


旧呉鎮守府庁舎

司令長官官舎

アレイからす小島
  海上自衛隊呉地方総監部第一庁舎(旧呉鎮守府庁舎)
 明治40年竣工。 威風堂々としたレンガ造り、中央部にドームを配し、レンガと御影石を組み合わせた近代洋風建築に、技術の高さが伺えます。 「鎮守府の街 ”呉”」の代表的建築物です。
 敷地内には、最も古い明治22年(1889)当時の文庫測器庫事務所や、昭和初期デザインの旧通信隊庁舎などレンガ造り建物が沢山残っています。
 呉に限らず、(木造を除く)明治から大正時代以前の建物は、石造りかレンガ造りです。 各地に現存する軍関係や官営の大型建造物群(例;東京駅、横浜レンガ倉庫群等々)はレトロな雰囲気を醸しています。 鉄筋コンクリートの普及は大正末期頃以降です。

  呉鎮守府司令長官官舎  ※国指定重要文化財
 鎮守府長官官舎は、鎮守府開庁時に総2階建て洋館が建てられましたが、芸予地震(明治38年)で倒壊し、急遽再建されました。 横須賀司令長官官舎と同じ櫻井小太郎設計の和洋折衷の建物です。
 和館部は長官と家族の住居として使われ、洋館部は来客用で、内壁には希少な金唐紙が絢爛豪華に使用されています。

  本庄水源地堰堤水道施設  ※国指定重要文化財
 呉鎮守府水道の貯水池として大正7年(1918)に完成。長さ97m、高さ25m。 重力式コンクリートダム。 完成当時は東洋一の規模を誇りました。 

  アレイからす小島
 日本では唯一、眼前に停泊する潜水艦が見られる公園です。 この辺りの建物群は明治30年代に建てられた、海軍工廠 造兵部、砲煩部(ほうこうぶ)、水雷部、製鋼部などで、それぞれ兵器開発や製造をしていました。 道路向かいのレンガ倉庫群は、水雷庫で、海側に数カ所突き出た所では魚雷発射試験もされたそうです。
 護岸はこれらの工場建設時に築かれましたが、特異な形状に加工された切石を組合せた石段や、切石に金物を打って繋ぐなど珍しい土木技法が約300m現存しています。

 南端の古いクレーンは明治34年(1901)に設置され、魚雷の積み下ろしに使われた英国製のクレーンです。 現、潜水艦桟橋には、レンガ倉庫群から(当時)魚雷や弾丸などを積出していたトロッコのレールが今も残っています。
 かつて日清~日露~太平洋戦争では、呉鎮守府は連合艦隊の主役の座にあり、呉湾内には夥しい数の戦艦や はしけや、資材運搬船舶などで活気に溢れていました。 ここからは そんな時代を想起してみるのが一興です。


  佐世保鎮守府
 日本最西部の守り(鎮守府)は、長崎や伊万里も候補に上っていたが、商港としての機能や、都市計画などから佐世保村に決ったとの様です。 西海国立公園の大小の島々が織りなす多島海と、陸上の山々に囲まれた港町は、鎮守府開庁(明治22年)すると、急速に軍港都市に変貌していきました。

旧佐世保鎮守府庁舎(焼失)


丸出山保塁


立神係船池


旧針尾送信所電波塔
軍港市日本遺産活用推進協議会



旧佐世保凱旋記念館
軍港市日本遺産活用推進協議会パンフ



平瀬レンガ倉庫群
 そして程なく日清戦争が始まり、立続けに対ロシア情勢も切迫してくると、連合艦隊の集結地となり、佐世保工廠は、主に艦隊への補給基地として軽巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの建造や艦艇修理などを手がけました。 管轄海域は朝鮮半島から南西諸島、台湾方面に拡がりました。
、佐世保市の人口は急速に膨張し県内第二の都市になりました。

 佐世保鎮守府の特徴は、建築面でレンガ造りに代わり 「鉄筋コンクリート技術」の発達です。
 その粋を集めた長波通信施設「旧針尾無線塔」は、日本最古のコンクリートタワーで、その威容は、現在《佐世保のシンボル》 になっています。 「立神係船池(旧修理艦船繋留場)」は明治期における海軍最大の土木工事でした。 「旧佐世保鎮守府凱旋記念館(現佐世保市民文化ホール)」、「佐世保海軍工廠ドック」など何れもコンクリート技術の発達により建築されたものです。

  旧帝国海軍佐世保鎮守府庁舎
 鎮守府庁舎は、明治22年5月に完成しました。レンガ造り2階建て、左右対称のデザインで、寄せ棟造りの主屋の左右に切妻造りの張り出しが設けられ、窓の上に設けられた漆喰、モルタルによる装飾帯、屋根に突き出した暖炉の煙突がアクセントになっていました。 しかし昭和20年(1945)空襲により消失し、現在、跡地には海上自衛隊の総監部新庁舎が建てられています。 

  佐世保要塞
 軍港防備の為、佐世保港や市街地を取り巻く島々や山々には、佐世保鎮守府で急速な発展を見たコンクリート造りの砲台が建設されました。 明治34年(1901)に完成した俵ヶ浦町の「丸出山保塁」には、全国的にも珍しい観測所が設けられ今も残されています。

 立神係船池(旧修理艦船繋留所)
 旧修理艦船繋留所として、明治39年(1906)に着工し 11年を費やして完成しました。 幅576m、奥行363mの係船池は、コンクリート技術の発達により常に海水に触れる場所に、コンクリートを大々的に使用した最初の施設です。  それは佐世保港の地形をも変える海軍最大規模の土木工事でした。 現在は海上自衛隊と米海軍が共用しています。

  旧佐世保無線電信所施設  ※国指定重要文化財
 5年の歳月を掛けて、大正11年(1922)に建設されました。 日本に現存する唯一の「長波送信施設」です。 高さ136mを誇る3本の自立式巨大電波塔は、レンガ造りに変わる最先端技術として佐世保で発展したコンクリート造りタワーで、近代建築の傑作でした。 現在、佐世保のシンボルになっている日本最古で最大のコンクリートタワーです。 太平洋戦争開戦を告げる「ニイタカヤマノボレ1208」の電信は、ここから発信されたと言われています。

 旧佐世保鎮守府凱旋記念館 ※国登録有形文化財
 第一次大戦の凱旋記念館として大正12年(1923)に建てられました。 外壁はレンガ、内部列柱は鉄筋コンクリートで、古典的な外観が特徴です。 旧海軍時代には催事が、戦後はダンスホールや映画館として利用され、現在は市民文化ホールになっています。

  平瀬レンガ倉庫群、立神レンガ倉庫群
 朝鮮、満州、台湾や南方に向かう艦隊の集結、補給基地として佐世保軍港を象徴する倉庫群です。 平瀬地区は食料品や衣類、立神地区は兵器類が保管されました。 この辺りは「レンガ造り」から「鉄骨レンガ造り」に移行する技術の過程がみられます。 立神レンガ倉庫の一つは、現在、市民の音楽練習場として利用されています。

  無窮洞(むきゅうどう)
 昭和18年(1943)第二次大戦の最中に教師と生徒たちが掘った巨大な洞窟(シェルター)です。 内部は避難中でも授業や生活ができる様に教壇が設けられている他、トイレや炊事場、食料倉庫なども造られています。 実際に全校生徒600人が避難したこともあったとのことです。


  舞鶴鎮守府
 舞鶴鎮守府は、対ロシア防衛を想定して設けられました。 湾口が狭く防御に適し、多くの艦船が停泊できることで、明治22年(1889)に設置が決まりました。 
 しかし当時、呉と佐世保の整備を優先し、舞鶴の軍港建設は 日清戦争勝利により清国から支払われる賠償金を充て、開庁は明治34年(1901)まで延び、初代司令長官は東郷平八郎が任命されました。
 その後、舞鶴海軍工廠の建設が始まり、魚雷や弾薬などの赤れんが倉庫が数多く建ち並ぶ軍都として栄えました。 しかし海軍工廠の中心である造船ドックの完成は、日露戦争後になりました。

 舞鶴海軍工廠の特徴は、駆逐艦や水雷艇などの小型艦や水中兵器製造ですが、ここで建造された駆逐艦「島風」と、名を受け継いだ二代目「島風」は当時の世界最速を記録しました。
 第二次世界大戦後は大陸からの日本人の引き上げ港に指定され、昭和20年(1945年)から13年にわたって66万人余りの日本人が故郷の土を踏みました。


赤れんが倉庫群
軍港市日本遺産活用推進協議会パンフ




舞鶴湾 五老スカイタワーより
舞鶴赤レンガパーク・
   旧舞鶴鎮守府軍需部倉庫  ※国指定重要文化財

 舞鶴のレンガ倉庫群は、明治35年(1902)から大正7年(1928)にかけて魚形水雷、予備艦兵器などの武器倉庫群と、軍需品用の需品倉庫群が建設されました。
 現在は12棟の内5棟の赤レンガ倉庫が整備され赤レンガパークとして観光エリアになっています。

 ◆「赤レンガ1号棟」(レンガ博物館)は、旧舞鶴海軍兵器廠魚形水雷庫です。 現存する日本最古級の鉄骨レンガ造りの、建築技術上、歴史的にも貴重な建物です。 館内には古代四大文明の遺跡から発掘されたレンガや万里の長城のレンガなど、世界各国、さまざまな時代の貴重なレンガが展示されています。 3連棟の二階建てレンガ造り倉庫の前には150mもの石とレンガが敷き詰めた物品運搬用通路が当時の姿のまま残っています。
 ◆「赤レンガ2、3号棟」にはカフェやアートの展示、4、5号棟はイベントスペースとして利用されています。 映画やドラマのロケ地としても使用されることもあるそうです。
 ◆「赤レンガ5号棟」は大正7年(1918)に第三水雷庫として建設された舞鶴鎮守府最大の倉庫で蒸気機関車が列車を引いて入ることができました。

 老スカイタワー
 舞鶴の市街地は東部と西部に分かれ、
◇東舞鶴はかつての軍港都市で、現在は造船などの重工業地区に、◇西舞鶴はかつての城下町で、現在は行政機関や商工業地区になっています。
 五老スカイタワーは、市内の中央にある五老ヶ岳山頂に建つタワーです。 海抜325mの展望デッキから360度、舞鶴湾(若狭湾国定公園)のリアス式海岸の素晴らしい景色と舞鶴の市街地を一望できます。 舞鶴湾は、湾口が約700mと狭く、周囲を400メートル級の山々に囲まれ、年間を通して風や波の穏やかな天然の良港です。

  舞鶴引揚記念公園・引揚記念館
 流説によると、終戦時、国外にいた在留邦人は、軍人軍属や民間人合せて660万人の内、祖国に帰還できた人は約600万人とも言われています。
 主な在留地は、日中戦争の戦地(中国)が最も多く、続いて太平洋戦争の戦地(東南アジア・太平洋)、及び満州、シベリアなどから主に軍人軍属が、また民間人は、満蒙開拓移民団約 100万人(=中国残留孤児の多くはその子ども達)、及び日本が併合していた朝鮮、台湾などから帰還しました。

 日本側の「引揚げ港」は、博多、佐世保、舞鶴・・・等々多数が指定されていました。 しかし昭和25年(1950)以降は、「指定港が舞鶴港のみ」になり、ソ連軍にシベリア抑留された兵士や、何かの理由で帰還が遅れた家族や親族を、大勢の人々が毎日空しく待ち続ける”岸壁の母”の舞台になりました。

舞鶴引き揚記念館
 しかし帰還しても、極度な食糧難で、生活は容易でなかった様です。 満州開拓団員たちは集団で山間地などを切り拓く事例なども多く見られました。

 【引揚記念公園】は、昭和63年(1988)引揚者用の桟橋が設置されていた地区を見下ろす丘に開設され、【舞鶴引揚記念館】は、その一角に、引揚げ関連の資料展示施設として建設されました。
 記念館の収蔵品の一部は、『舞鶴への生還 1945-1956、シベリア抑留等 日本人の本国引き揚げの記録』として、ユネスコ記憶遺産に 2015年に登録されました。

  自衛隊桟橋
 旧舞鶴軍港は、現在は海上自衛隊基地になっています。
桟橋に停泊する自衛隊の艦艇群を間近に見学できるスポットです。 「あたご」や「みょうこう」や「ひゅうが」など最新イージス艦や、巨大な艦艇には迫力があります。 舞鶴湾内を航行する船舶や、歴史を物語る沿岸施設やレンガ倉庫群などがコンパクトなエリアに揃っており、何となくノスタルジックが感じられます。

  肉じゃが論争
 東郷平八郎は、イギリス留学中(1870~78)に食べたビーフシチューが非常に気に入り、帰国後に艦上食として作らせ様とした。 しかし日本の料理人にレシピが上手く伝わらず、醤油と砂糖を使ってできたのが始まりという。 しかしそれは100年以上前の話で、実情は定かでない。
 最近になって舞鶴市は、東郷平八郎が初代「舞鶴鎮守府司令長官」だった(1901)のを根拠に、『肉じゃが発祥地』 と宣言(1995)して町おこしを計った。
 ところで東郷平八郎は帰国後、舞鶴赴任よりも 10年以上も前、”呉”に赴任(1890)していたから、『肉じゃが発祥地は呉市だ!!』とクレームをつけた、というより共同で「ムードを盛り上げる !!」作戦を演じている。 因みに佐世保では、戦後、米軍基地が設置され、音楽や食、ファッションなどアメリカ文化がもたらされた。 その一つ、「ハンバーガー伝来の地」として”佐世保ハンバーガー” を宣伝しています。 ■

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