このページは、個人的な想像を混じえた『私個人の歴史観』です  mail



☆☆☆ 瀬戸内物語(呉湾中心とする歴史編) ☆☆☆
  風光明媚な多島海は、往古より遣隋使や遣唐使船が通い、戦国時代には村上氏ら海賊衆が支配した。 江戸時代には北前船や、諸藩の廻船や参勤交代の大名など大勢の人、大量の物、全国の情報の通り道となり、繁華で活気ある文化が醸成された。
 しかし幕末、黒船来航後、平和な多島海は佐幕派や攘夷派に、外国商人も加わって多量の武器などが行き交い、最新鋭の大砲を装備した動力船も航行する海に急変していった。

 明治時代には富国強兵策を旗印に、急ピッチで海軍強化を目指し、呉には海軍鎮守府が置かれた。 軍港機能と共に海軍工廠も整備され、戦艦や兵器、弾薬などがフル生産され、海兵隊などの兵士も養成された。
 そして日清、日露〜太平洋戦争には、呉鎮守府は日本海軍(連合艦隊)の中枢的役割を担っていた。 その歴史跡は、現在、横須賀、佐世保、舞鶴と共に日本遺産に指定されている。

 そうして戦時中に培った高度科学技術は、終戦後は 平和利用に転じ、呉市一帯は有数の重工業地帯に躍進し、日本は世界第二位の経済大国に発展するステップになった。
 そして戦後70数年を経た現在、瀬戸内各地では、歴史遺産や、文化芸術スポットや、世界に誇る絶景スポットも整備され、観光客の来訪を待っている。


遣唐使船 
瀬戸内海航行の歴史(奈良時代以前)
 日本とアジア大陸間を 小舟による渡海(漂着?)は有史以来始まっていた様だが、記録は 紀元 3世紀頃、 『魏志倭人伝』に記されているという。 どんな舟でどんな航海術で渡海したのか・・・??、しかし7世紀(飛鳥時代)には外国使節が瀬戸内海を航行して入京していた。
 白村江の戦い(663年)は数万人の兵士が瀬戸内海から百済に渡った。 その際、『熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな』(万葉集;額田王)の、(熟田津は)現在三津浜港(松山市)と見られる。

 7〜8世紀頃には遣隋使船や遣唐使船は、100余名の人員と水や食料を乗せて摂津国の住吉津から出発した。
 遣唐使船は、倉橋(呉市)で建造されたと言われ、倉橋には(実物大の再現船)が展示されている。 それを見れば、当時、非常に高度な造船技術が実感される。 それと併せて『造船歴史館』も是非見学する価値がある。 倉橋では、そんな木造船造りの伝統が最近まで引き継がれてきた。
 
瀬戸内海の水軍(海賊衆)発祥と経過
 島と島の狭間は、潮流が渦巻いて流れる。 瀬戸内海の潮流は、満ち潮は東西から福山方向に、引き潮は逆に東西に分散して太平洋に流れる。 その為”鞆の浦”は往古から汐待ちの港町として栄えていた。
 しかし、そんな潮流を帆船や櫓船で航行するのは容易でない。 しかし平安時代頃から、往来が増えるにつれ自然派生的に水先案内業が出現し、水軍系氏族の活躍場となった。
 忽那水軍は11世紀に藤原親賢がこの地に配流され”忽那”姓を名乗ったのが始まりで、忽那諸島各地に城を設けた。 それ以外も水軍系氏族は瀬戸内海の方々で、通行船舶や潮流に翻弄される船の水先案内か?、金品強奪か?、海賊行為を働く様になった。
 平安時代末期、平清盛は、海賊征伐を行い 時の朝廷(白河法皇)の信頼を厚くし、音戸の瀬戸開削や、厳島神社の改築や、海外にも目を開き福原(神戸市)には南蛮貿易の港も開いた。

 【壇ノ浦の戦い】で、源義経は瀬戸内海各地の水軍衆を集めて平家を滅亡させたが、主力は忽那水軍だったと聞いている。 鎌倉時代から戦国時代には、忽那水軍は伊予国の河野氏の配下についた。 その頃、芸予諸島(”しまなみ海道一帯”)でも同様に、因島出身の村上氏が水軍衆(海賊衆)を結集していた。

 
木津川の戦い
今治市村上水軍博物館(NHK TV) 
戦国時代の水軍(海賊衆)
 戦国時代には、水軍衆はそれぞれ有力大名と結び、 海を”いくさ場” として活躍の場を急拡大した。
 @村上水軍本家(=因島村上水軍)は毛利軍と与して【厳島の海戦(1555年)】を戦い陶晴賢軍を殲滅した。
 村上系氏族は、更にA能島村上水軍、B来島村上水軍も共に毛利家と与して、【木津川口の戦い(=1576年〜石山本願寺派と織田信長の戦い)】にも信長軍と勇猛に戦った。 しかし最後は信長軍の新兵器(=鋼鉄船)に敗れた。

 その後は、能島村上水軍(村上武義)は秀吉に恭順を示さず衰退したが、他の村上氏は秀吉側に恭順して四国征伐に加わり、河野氏 (配下の忽那水軍も)を没落させた。
 そして村上水軍は、芸予諸島を本拠に、瀬戸内全般の覇についた。 瀬戸内水軍については、水軍城(因島)や能島水軍博物館(宮窪)や宮窪瀬戸潮流体験など、興味深い観光スポットがある。


江戸時代の瀬戸内航行
 しかし江戸時代には瀬戸内海は平和な海に変貌し、戦(いくさ)がなくなると海賊業(強奪)は形を潜め経済活動が活発化した。それに伴う物流面では、河村瑞軒により日本海側の産物を京・大坂方面に大量輸送する《北前船》航路が開発された。 航路開発とは、瀬戸内海沿岸や島々に沢山の港、つまり「風待ち潮待ち港」が開設されたと言う意味だろう。 そこは必ず”茶屋”(遊郭)も開業していた。


風待ち潮待ち港町・・・・・・・・・北前船(千石船)
 つまり瀬戸内海は、潮流と風が一致しなければ、大型船は航行できない。 しかし島々に沢山の港があれば、航行中に風が変っても何処かに辿り着ける。 若しくは救援に向かうこともできる。
 それにより ”沖乗り航路”、つまり大型船(”千石船”等)が広い海原を最短の直線航行が可能になった。
 そして1670年頃には北海道や日本海側の産物が、瀬戸内海経由で京都や大阪に届けられ、瀬戸内海の産物も日本海沿岸各地や北海道、樺太まで大量輸送される様になり、通船は”北前船” と呼ばれた。

それと並行して、西国の各藩も、参勤交代の大名や藩資材を託送する「廻船」を仕立ていた。
 北前船の寄港する港では、積荷の売買が行われ、瀬戸内海の港町は、食糧、日用品、雑貨・・・などと共に、大勢の文人墨客や日本中の情報が集まり、活気ある港町の風情が醸成されていた。 それは明治時代中頃まで、隆勢一路の発展を続けた。
              『北前船の集まる港町;御手洗』 参照


江戸時代の漁業事情
 江戸時代には地引き網や船引き網漁、手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている鯛網漁、帆走しながら網を引く打瀬網漁、豊島(呉市)周辺では【あび漁】などの漁法が行われていた。
 瀬戸内海の島々をとりまく潮流は複雑で、小魚が集まる海域には漁船が 屯ろし、そこからは船頭たちの唄う舟歌が響いていた。 その中で音戸の船歌は、現在、日本三大舟歌になっている。
 様々な漁法は、日本中で技術交換され、一本釣り漁なども全国的行われていた。
 海には生け簀が仕掛けられ、下蒲刈島では朝鮮通信使一行の千人を超える賓客をもてなした。 生け簀は、後には船にも装備され高級魚や広島カキも、生きたまま関西に運ばれていたという。


幕末の異変
 ◆◇ 黒船来航〜幕末の混乱
 そんな江戸時代の繁華も豊かさも、瀬戸内海ののどかさも、黒船来航(浦賀 1853)により急変した。
 当時、「弱肉強食の世界」で、覇権を争ってきたオランダ〜フランス〜に代わり、産業革命をリードしたイギリスが世界中に植民地を拡大していた。
 それは中国(当時;清国)にも及び、アヘン戦争などの壮絶な惨状は日本にも伝えられていた。

”黒船来航(横浜) 1854
 それが愈々日本にも、《黒船が来航》し、開国と交易を迫られた。 そして想像すらしなかった巨大動力船から、強力大砲が向けられると、幕府は従わざるを得なかった。
 
 ◆◇ 蛤御門の変(1864)
  しかし函館・下田を開港し、不平等条約や治外法権も認めざるを得ない幕府に対し、長州藩は『そんな弱腰では日本全土が奴隷にされる !! 』 と、京都朝廷を舞台に公卿も引き込んで《尊王攘夷・倒幕》に向け過激行動に走った。
  それに対し、幕府は 新撰組や会津藩(松平容保=京都所司代)ら佐幕派の忠臣藩を京都に送って制圧を計った。
 孝明天皇も、長州藩などの過激行動を忌み、公武合体(幕府に接近)を唱えて、妹(和の宮)を将軍(徳川家茂)に嫁がせ、長州藩を京都から追放した。
 しかし長州藩は、それを許せず陣立てを整えて京都御所に押しかけたが、結果は、「蛤御門の変」で大敗して京の街が焼払われる事件になった。

 ◆◇ 瀬戸内海の航行
 時代の急変は、瀬戸内海の航行にも大きな変化をもたらし、和帆船(千石船や300石船など)に混って機帆船や、大砲を装備した大型動力船など・・・様々な洋船も航行し始めた。
 長州藩や薩摩藩、攘夷派や佐幕派などの人や物、外国商人の武器弾薬を運搬する船や、最新鋭の軍船などの往来も急増し、長崎港から瀬戸内海を経由して横浜港へ航行する外国船も現われた。

 そして関門海峡では、遂に攘夷を貫く長州藩と、列強国(英仏蘭米)艦隊との武力衝突(=下関戦争1863・1864)が起った。 それは長州藩の大敗に終ったが、その後、長州藩は騎兵隊を組織し幕府軍と砲撃戦(1864・1866)が引き起こされた。

 ◆◇ 薩長和解、〜明治維新への流れ
 その時は、薩摩藩は幕府側に属し、長州藩とは激しく敵対していた。
 そんな状態を憂いた坂本龍馬は、『外国勢を前に薩長が争っている場合ではない』 と、薩長を和解に導き(1866)、薩長共に『倒幕 ⇒ 明治新政府の設立』を目指した。
 この薩摩藩の転向は、幕府や佐幕系諸藩に対する最たる叛意で、坂本竜馬は明治に移る寸前に暗殺された(近江屋事件)。
 しかし徳川慶喜(幕府側)も頼みとする孝明天皇の崩御もあり、「大政奉還」した。 しかしその後も佐幕派の抵抗が続き 【鳥羽伏見の戦い】(1868)となった。 それも薩長連合軍や援軍の輸送は、瀬戸内海航路が利用され、その途中では(御手洗条約など)が話会われた。 戦いには、薩長軍は 『錦の御旗』 を掲げて、徳川慶喜を江戸に逃避させた。
 最終的には、西郷隆盛と勝海舟の和解により江戸城無血開城 ⇒ 明治新政府発足という大変革が成された。
 しかし、それに納得できない新撰組や会津藩は、その後も激しく対抗した(戊辰戦争・函館戦争)が、やがて鎮圧された。


 


日本海軍増強と瀬戸内(呉湾周辺)風景
 ◆◇日本海軍創設
 もう一度《黒船来航当時》に戻る。
こうして日本が開国し、世界に門戸を開こうとして見えた世界は、驚愕する程進歩した強力兵器、欧米文明、科学技術、政治経済形態など・・・「世界は全て『仮想敵国』」と言う ことだった。
 それには、先ず、欧米の「最新文明や産業基盤を輸入」し、「洋式海軍も創設」し、先進国の体を整える必要に迫られた。

 それに対し、小栗上野介は、欧米文明を採り入れた西欧式艦船を建造する 「近代的造船所計画」を提唱し建設に漕ぎつけた。
 勝海舟は、欧米に匹敵する海軍創設を提唱した。 土佐藩出身の坂本竜馬は、攘夷(夷敵を武力で打ち払う)派で 勝海舟と対立派に属していたが、《勝》の理路整然とした理論に惹かれ、《勝》の片腕となって長崎と神戸に海軍伝習所開設に奔走した。
 それには松平春嶽ら賢人の応援も得て、兵士は 幕府に従順だった瀬戸内の塩飽水軍の水夫等を集めた。 練習艦として観光丸がオランダから寄贈された。 幕府も咸臨丸と朝暘丸を新造(発注)した。
 
 ◆◇ 明治時代以後の ”日本のシナリオ”
 その後幕府が滅亡し、薩長中心の明治新政府が誕生すると、以前から続いていた 「近代的造船所計画」や、「海軍創設」は、新政府も『富国強兵』をスローガンに強力推進した。
軍事、政治、経済、社会の仕組み、教育、銀行・貨幣等の諸制度や欧米文化など・・・あらゆる先進制度や文明を採り入れる為、大勢の留学生が派遣された。 
日本中に 鉄道網、軍需工場、鉱山開発、道路やダム、発電所建設などのインフラも急ピッチで工事が進められた。
鉄道は明治5年=新橋〜横浜が開通し、明治22年=神戸、明治24年=青森、明治34年=下関まで開通、・・・明治末頃には日本海側や九州・北海道を含む日本全土に延伸された。
 ◇ 海軍創設は「近代的造船所建設」も、「海軍創設計画」もしっかり盛り込まれ、『海軍鎮守府』の設置が早々と決定された。


 ◆◇ 文明開化の時代 ”洋館建て家屋”
 こうして「富国強兵」をスローガンに、あらゆる分野に欧米スタイルが急速輸入された。
明治末期から大正、昭和初期には、神戸の異人館街など、各地に斬新な洋風家屋や、レンガ造りの建物が建ち並び、押し寄せる文明開化の波が、大衆の目にも映る様になった。
神戸異人館街 (旧)呉鎮守府司令長官宿舎
(入船山記念館展示画) 
洋館建て民家
 
 ◆◇瀬戸内海の航行船舶
 明治時代には、一本柱の和船に混じり、洋式の機帆船や鋼鉄製の艦船も行き交っていた。
 商船も 郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)と共同運輸会社(後の商船三井)が熾烈な顧客獲得競争を演じ、鋼鉄船も日増しに数を増した。
 当然、瀬戸内海の港湾施設や陸上施設の整備も急ピッチで進められただろう。 商船や客船や軍艦など瀬戸内海の船舶数は増え続け、大正時代には阪神・別府間などの観光航路が開設された。
 その一方、呉軍港周辺海域は、年々、軍事色を強め、呉湾〜安芸灘・柱島沖の海域は、太平洋戦争終盤まで、戦線に向かう夥しい数の軍艦や輸送船団が、集結する ”艦船泊地” と化していた。


 呉鎮守府
 ◆◇呉鎮守府の開庁

 明治政府は 1876年(明治9年)「海軍条例」により全国に四つの海区を定め、1886年(明治19年)各海区の軍港・鎮守府が決定された。 その一つが呉鎮守府である。 早速、建設が始まり あらかた完成した1889年(明治22年)に開庁、翌年明治天皇が臨席し開庁式が行われた。 呉海区は、紀伊半島〜瀬戸内海〜九州東海岸〜四国全周の海面を所管した。

レンガ造りの建物
呉鎮守府庁舎(現自衛隊総監部)


呉は;海軍の街に一変
(入船山記念館展示画)
 

 当時(航空機の無い時代)敵艦による攻撃防御上、最適地として瀬戸内海奥地の”呉”が選ばれた。
 そして「海軍兵学校」を始め、日本最新・最大の造船施設など最重要施設が設けられ、周辺の島々には、敵艦侵入を阻む砲台が設置された。 その一部(遺構)は今も遺っている。

 鎮守府組織には参謀部・造船部・兵器部・建築部・・・などが置かれ、海軍工廠(工場群)も次々建設・増設された。
 造船ドックも1894年(明治27年)には第1号艦 ”宮古”の起工から始まり、太平洋戦争まで(40数年間)には「東洋一の規模」に増強され、”長門”や”赤城” を含む 130隻余りもの艦船が建造された。

 海軍兵学校は、1888年(明治21年)築地からも江田島に移され、第1期は広瀬武夫が、翌々年には秋山真之も主席で卒業し、日清・日露戦争には東郷平八郎の配下で活躍した。
 後には山本五十六ら海軍トップを続々と輩出、太平洋戦争終結まで(半世紀以上)君臨し世界3大兵学校に数えられている。
 現在は海上自衛隊(幹部候補生学校及び第一術科学校)になっている。 海軍兵学校時代の情況を見学できる。

 ◆◇呉市の発展
 呉の人口は、元々の住民に加え、鎮守府や工廠等の建設に携わる人、工廠で働く人、軍関係者、訓練兵士、戦地から凱旋兵士や、商業を営む人、及びその家族など(最高時40万人まで)急膨張し、活況の街に変貌していった。 平地の少ない呉周辺は、急斜面の崖にまで住居が這い上がった。
 海軍工廠は日増しに拡張し、呉湾は出撃や凱旋帰還する艦船、それに群がる 《はしけ》も縦横に行き交い(?) 市電も明治42年(1908年)に開業した。 呉界隈は人で溢れ、連日提灯行列やお祭り騒ぎが続いていたことが想像される。


 


 日本近代化に当っての課題
 ◆◇課題と対応

 こうしてのどかな江戸時代から、いきなり弱肉強食世界に船出した日本は、全ゆる先進文明の採り入れ、鉄道や発電所や道路などのインフラ施設、産業基盤、鉱工業施設、陸・海軍創設・増強などあらゆる面で、ドイツ製やイギリス製の機械や資材や、新技術を大量輸入し、世界に類を見ない驚異的な速度で近代化を成し遂げた。

 しかし問題は、そんな大事業を進める労働力や財源は、何処からどう捻出するか? だが・・・、その一つは”生糸”の輸出だった。 それは富岡製糸場(群馬県)を始め、各地に大規模施設が設けられ生産拡大した。 輸出には氷川丸(現在横浜港に係留)などが活躍した。 しかしそれだけで、超膨大な財源や、労働力や、軍事力も賄える筈がない。
  朝鮮半島に向かうのは自然だろう。 しかし朝鮮との交渉を巡って西郷隆盛と大久保利通の間に確執が生じた。 その結果、西郷は下野し大久保(明治新政府)は富国強兵策を打ち出して朝鮮半島に侵出した。

 ◆◇日清戦争と呉鎮守府の航跡
 当時の朝鮮は、清国(現;中国)の配下にあった。 そこに日本が侵出すると、朝鮮国内は「親清国派」と「親日派」の対立が起こり、その平定に清国軍が出動した為、日本軍と清国軍の衝突となった。 日清戦争(明治27年=1894)である。 それは呉鎮守府開庁から僅か数年後だったが、日本は勝利して『朝鮮半島と共に、台湾も』手に入れる大収穫となった。
 戦場は、朝鮮半島や遼東半島で、従軍記者として正岡子規が派遣された。 その際、子規は松山〜広島間を何回も往復し、呉軍港付近の模様を俳句に詠んでいる。
 海軍の作戦行動は、連合艦隊により実行されたが、連合艦隊司令長官(=東郷平八郎)や、海軍兵学校出身将校などの活躍で勝利し、負傷兵は呉海軍病院で療養した。


日露戦争への流れ
 ◆◇日英同盟
 こうして朝鮮半島が日本の支配下に入ると、次の問題が発生した。
当時の清国政権(西太后)は、『満州統治』は ”張作霖(満州在住清国人)軍閥” に丸投げ状態だった。 その張作霖は ロシアに接近し、ロシアは 「露清条約」を結んで、シベリア鉄道を旅順(遼東半島)まで延伸し、そこに堅固な要塞を築いていた。
 それは日本にとっては、折角手に入れた朝鮮半島への侵攻準備に他ならない。 しかし超大国ロシアは、日本が刃向かえる相手ではない。

 所がロシアは東ヨーロッパでも南下政策をとり、英国の植民地を脅かしていた。
そこに日英は 交易相手として友好状態にあり、期せずして ”日英同盟”が締結された(明治35年=1902)。 しかしそれは 20年後に破棄され、40年後には敵味方に分かれて熾烈な戦争を戦うことになる。 ・・・国家間条約は、互いの利益が反すれば、簡単に破棄され、敵味方に分かれるケースは、世界史の中で当り前の様に散見される。

 
旅順湾沖の日本艦隊
(周防大島;陸奥記念館展示)
 ◆◇日露戦争開戦と 呉鎮守府の役割
 資源も財源も食料も労働力も乏しい日本が、米英と交易するには、「朝鮮半島支配」は生命線である。
 《超大国ロシア》が、満州に先入して、折角獲得した朝鮮半島が侵攻されることは 看過できない。
 日本は日英同盟を結んでいたので、【日露間の事前交渉】には、相当強気に臨んだか(?)、臨まざるを得なかったか(?)、交渉は決裂し遂に開戦となった。

 日露戦争では、陸軍は『二〇三高地〜旅順港攻略等』の激戦を戦った。 海軍は『旅順湾閉塞作戦や日本海海戦』で、旗艦”三笠”の艦上で 東郷平八郎や秋山真之、広瀬武雄ら、何れも呉鎮守府ゆかりの将校たちの英雄的活躍により激戦に勝利した。 その模様は ”坂の上の雲”(司馬遼太郎)に詳細に描かれている。
 しかし日露戦争勝利は、武器弾薬、情報提供やバルチック艦隊の回航妨害など、英国の協力を抜きでは語られない。

 ◆◇ ロシアの立場
 それはロシア側から見た《日露戦争》 も考えねばならない。
 日露間は、その数年前までは友好関係にあった。 ニコライU世(当時;皇帝)は親善訪日し(1891)、広瀬武雄らはロシアに軍事留学していた。 日本(弱国)を同盟国に引込もうとしたのか(?)、一緒に東南アジア侵出を企てたか(?)、・・・しかし 日露戦争の為に軍事留学受入れた訳ではないだろう。

 所が日本は、よりによって英国と同盟を結んで対抗姿勢に転じ・・・、日露戦争に完敗した事実を、ロシア国内はどう受け留めたか・・・??
 ロシアは、その後 ”第一次世界大戦” に巻込まれ、ドイツ・オーストリア軍にも侵攻され、大混乱に陥った。 そして『ロシア革命(1917)』により、新制社会主義国 【ソビエト連邦】が誕生したが、それはニコライU世は 家族諸とも処刑され、スターリンは反意を示す 2千万人以上を粛清した。



仮泊中の連合艦隊1924年
(周防大島;陸奥記念館展示)
日露戦争後の満州と、瀬戸内海及び呉鎮守府
  ◆◇満州の地堅め〜満州事変
 満州及び中国大陸での軍事行動は陸軍(関東軍)が担った。 しかし物資や陸戦隊など兵員派遣や戦略兵器の供給等、海軍との関わり、とりわけ呉軍港との関係は深かった。
 多大な犠牲と引き換えに、大国ロシアに勝利した日本は、朝鮮半島の支配固めと共に、敗残兵を追って満州に入城した。 そこは清国人の張作霖が統治していたが、彼はロシアの支援を受け、ロシアは恰も自国領のごとく、鉄道線路を敷設し、旅順要塞も建設していた。
 しかし食料も資源も労働力も乏しい日本にとって、そこは眞に「値千金」の大地だった。

 大国ロシアに勝利し勢いづく関東軍は、ロシアの肩代わりするかの様に近代的都市造りを進めた。
それから約20年後、満州は元々清国(後には中国;蒋介石政府)の領土である。
 蒋介石軍は、「中国全土統治」を目指し、満州統治を固持する「張作霖軍閥」の討伐(北伐)を開始すると、関東軍は張作霖の乗る列車を爆破して爆殺(1929)して満州統治権(?)を奪取した。
 しかしその後の「反日・抗日嵐」は尋常でなく、(ロシア革命後の)ソ連も毛沢東を支援して満州再支配に加わり(日・中・毛)の相争う舞台になった。

 
哈爾濱の街


満州大豆生産


満蒙百貨店
 ◆◇満州事変勃発(=柳条湖事件)
 そんな混沌状態にケリを付ける為・・・関東軍参謀;石原莞爾は、1931年9月、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破した(=柳条湖事件)。
 そして即座に、『中国側(張学良軍)の破壊工作だ』と、断定して、直ちに全満州攻略を断行した。
 翌日には奉天、長春、営口などの都市を占領した。 奉天市内では爆弾を投げ込み、「中国人の仕業だ」とデッチあげて出兵し・・・、そんな手口で、わずか5ヶ月で満州全土を制圧する「史上 空前の大成功」を収めた !!

 勿論、関東軍が仕組んだ 『でっち上げ事件』だったことは、日本国内にも、世界にも、戦後まで知らされなかった。
 しかし反日・抗日運動は、益々激化し、欧米諸国や世界中から日本批難の目が注がれた。

 ◆◇第一次上海事変〜満州国樹立

 この事件(満州事変)から世界の目を反らせる為、関東軍は上海で暴力事件を工作した。 中国側は、それに19路軍を出動させ 思いがけない大規模戦闘に発展した。
 すると日本は、内地から海軍陸戦隊を送り、1ヵ月間 戦闘が続いた挙句、停戦協定も遅らせ、世界の目が上海に向いている間に満州支配を固め ”満州国独立” を宣言した(1932)。

 それは世界中(国際連盟)から、更に激しい批難を浴びた。
しかし食料も地下資源も豊富で、鉄道を始め超近代的な都市建設理想的な近代国家建設を進めてきた満州国は、もはや絶対に手放せない自国領土になっており、直ちに国際連盟を脱退した。

 ◆◇その頃の呉市界隈
  「大陸戦線での勝利以外活路のない日本」にとって、満州国建設を進め、「連戦連勝(大本営発表)」続きの 『軍』を、全国民は絶賛していた。
  その中心的所在である呉界隈は、艦隊入港時には料亭や朝日遊郭街、カフェ、喫茶店や花街、映画館、中通りの盛り場や、モダンな喫茶店やレストラン、ビリヤードなどが賑わい 「景気は呉から〜」と好況感がみなぎった。 昭和10年(1935)開催の「国防と産業大博覧会」は2ヶ月足らずの入場者70万人という盛況だったという。

 ◆◇瀬戸内海国立公園(最初の国立公園指定=1934(昭和9)年
 しかし世界からの批難や大陸の 『きな臭さ』は、内地には伝わらなかったか(?)、膨大な軍事費を賄うには、海外観光客誘致に注力された。 1934(昭和9)年には、瀬戸内海国立公園(他7国立公園)が、我が国最初の国立公園として誕生した。

対潮楼からの眺め
 瀬戸内海国立公園は、大小 700以上の島々を有する多島海で、公園面積は日本一である。
 江戸時代に来日した朝鮮通信使の宿泊した福禅寺(鞆の浦)の対潮楼からの景観は素晴らしく『日東第一形勝』(日本一の景勝)と讃えられた。 日本学者のシーボルトらも絶賛していたという瀬戸内海は、世界的な絶景に数えられていた。

 ちなみに最初の国立公園指定は、阿寒国立公園、大雪山国立公園、日光国立公園、中部山岳国立公園、雲仙天草国立公園、霧島錦江湾国立公園、阿蘇久住国立公園、瀬戸内海国立公園 の8か所である。

 ◆◇日中戦争に拡大
 しかし満州や中国大陸では「反日・抗日の嵐」だった。 その中で居留邦人を守るには、関東軍は片時も攻勢を弛められない緊張状態の中で「盧溝橋事件」が偶発した。
 その対処について、石原莞爾は「大東亜共栄圏構想」(日、中、朝、満、蒙の「五族協和」=戦争不拡大)を主張した。 しかし東条英機らは;「中国全土を殲滅すべし」と主張し日中戦争に突き進んだ。
 ところが中国(蒋介石軍)は、(日本の)「違法侵略、満州違法占領」を世界に訴え、米英から武器支援を受けた為、日本は世界から孤立し、「局地戦に幾ら勝利しても疲弊が嵩む」 泥沼状態に陥った。


太平洋戦争への流れ
 ◆◇大東亜共栄圏の拡大
 こうして全世界から批難を浴びながらも、中国戦線からの撤兵と満州国返還を迫られる条件には、絶対に応じられない日本に、アメリカから石油禁輸制裁が叫ばれると、それを東南アジアに求め「南方作戦」を開始した。 それは 【大東亜共栄圏(アジア諸国が共に栄える)】を唱え、「列強植民地からの独立」を促して支持を集め、マレーシア、シンガポール、インドネシア、パプアニューギニア、フィリピン、マリアナ・・・や太平洋諸国の併合を進めた。

 ◆◇太平洋戦争突入
 有史以来、戦争経験のない日本だったが、日清、日露、満州事変、日中戦争と連戦連勝し ”糧”を持ち帰る軍隊を全国民は絶賛していた。
 しかし、アメリカから【石油禁輸】の制裁が現実化し、日米開戦の気運が深刻化してくると、世界最大の戦艦『大和』の建造など、急ピッチで開戦準備が進められた。
 こうして南方侵出も、戦艦大和建造も、日独伊三国同盟も、日ソ中立条約締結も、着々と準備が整 い・・・、陸軍将校や国民世論も対米戦争に向け、戦意は燃え上がっていた。

 そうして遂に(昭和16年12月8日)、参加艦隊との無線信号;『ニイタカヤマノボレ』、『トラトラトラ』の送受信と共に、柱島泊地には、連日夥しい数の艦船や輸送船団が堂々の雄姿見せて集結し太平洋戦線に向かった。

 ◆◇太平洋戦争 戦況の転換
 しかしミッドウェー海戦(昭和17年6月)の大敗を境に戦況は悪化の一路を辿った。
ミッドウェー作戦は、米豪の連係を遮断し、あわよくばハワイの太平洋艦隊に壊滅的損害を与えて有利な条件で早期講和に導く・・・そんな予見から連合艦隊山本五十六司令長官が強硬に主張した。

 それは綿密に計画され、日本海軍の最精鋭空母と最強艦隊を投入して奇襲攻撃の筈だったが・・・、
 所がアメリカ軍は、飛行機を補足するレーダーを実用化し、日本軍の暗号も解読し待ち伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突込み、最精鋭空母「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」=4隻と、多数の航空機、優秀なパイロットも全て失い惨々な完敗に終った。
 その後日本軍は成す術もなく、太平洋の島々は遠方から順に陥落・玉砕していった。

戦艦『陸奥』
(周防大島;陸奥記念館展示)

 ◆◇柱島泊地
 この海域は、『大和』や『長門』など、太平洋戦線に向かう夥しい数の艦船団が華々しい雄姿を見せて集結していた。
 所が 1943年6月8日、停泊中の戦艦『陸奥』が、突然謎の爆発事故を起こして沈没した。 『陸奥』は、『大和』建造まで我が国最大級の戦艦で、爆沈により乗員1,100人余りが犠牲になった。
 当時【爆沈事実を隠ぺい】の為、乗組員(生存者=353人)は本土上陸が許されず、離島に隔離されて次の出征地(多くはアッツ島)で玉砕したと聞いている。

 1971年までに『陸奥』の艦体は一部が引き上げられ菊の御紋章や主砲などが陸奥記念館(周防大島)に保存されている。 兵士の遺品は、当時の情景を思いながら見ていると 何か異様な感慨に引き込まれる。 それを如何に聴衆の心に響く様に説明するか・・それは観光私たちガイドの技量だろう。

 ◆◇出征兵士たち
 江田島には海軍兵学校があり、呉には海兵隊や陸戦隊も編成され、呉軍港からは、日清、日露戦争から太平洋戦争終結まで、大勢の兵士たちが、現自衛隊集会所で家族と面会し戦地に出征した。
 陸軍も、広島に鎮台(後に第5師団)が置かれており、呉・宇品(広島)港からは、日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、大勢の陸海軍兵士が出征していった。
 それも太平洋戦争初期までは、戦時色と言うより、凱旋帰還する艦船などで、呉界隈は華やかムードだったのではないか(?) しかしミッドウェー海戦以後、戦況が悪化するにつれ最後の別れを予感しながら万歳三唱して送り、送られた。
 江田島(現海上自衛隊術科学校)には、大勢の若い少年兵が神風特攻機に搭乗する際、遺した遺書が陳列されている。 明日は命を失う若者の遺書に胸が詰まされる。

 ◆◇戦況悪化 〜 日本本土空襲
 太平洋戦線は、ミッドウェー海戦の大敗を境に、ガダルカナル島から始まり、遠方の島々から順に陥落し、日本兵の玉砕が続いた。 そしてサイパンや硫黄島まで陥落すると、敵機による本土空襲が本格化した(昭和19年頃〜)。
 戦況悪化は、極度の金属不足に日用品雑貨まであらゆる金属が回収され、コンクリート船も出現(昭和19年)した。 その頃の瀬戸内海や呉周辺は もっと緊迫感に包まれていたか(?)、それとも船団も組めなくなり ひっそり閑としていたのか(?)

 この頃は児童疎開も始まり、憲兵の取締りは益々厳しく、市民も学童も、食料不足と空腹と栄養失調に悩まされながら、防空訓練や建物疎開、勤労奉仕などに忙殺されていた。
 そんな折、呉湾や周辺海域に 消沈ムードをかき消す様に ”大和”など 豪華艦船団が勢揃いした。 人々はそれを雄壮と見たか?、悲壮と見たか?・・・、燃料不足で出撃できない艦船群の帰還だった。 その中から ”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃した(昭和20年3月)。

 沖縄戦に続き、本土空襲が本格化すると、連日、100機編隊の爆撃機が、1波、2波、・・・と来襲し、東京、大阪、名古屋など・・・主要200都市以上が焼き尽された。 呉市街も跡形なく焼かれ海軍工廠も一部を遺して爆破された。 呉湾に勢揃いしていた艦船群も 1隻残らず沈座する臥体と化した。
 空襲は親にも子にも容赦なく振り掛かり、酷い食糧難のさ中、家族や身寄りを失ったのない幼子たちは路頭や駅構内に寝泊りし、捨てられた残飯をあさり、その後どう生き残ったか・・・。
 それでも本土決戦は 1年間弱だが、中国本土では満州事変勃発から 10余年、新制中華民国(中国)発足からは 30年間も繰り返されていた。


戦後の日本と瀬戸内海(呉湾周辺)
 敗戦と同時に余りに酷い国土荒廃に、張りつめた人心は落胆に変った。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍が上陸し、機雷の始末や破壊物件の片づけなど戦後処理が始まった。 食料配給も始まり、徐々に物資や労働力も確保できる様になると、焼け跡にバラックが建ち始め、少しづつ生活が戻ってきた。 それは呉だけでなく全国で人々は皆が励ましあいながら頑張った。

 そうして瀬戸内海から軍事色が消え、平和が見え始めた頃、朝鮮動乱が勃発した。 それは朝鮮半島の悲劇と裏腹に、日本には《特需景気》をもたらし、真に”恵みの雨” となった。
 それは戦時培った高度技術を活かして急復興する千載一遇のきっかけとなり、その後極めて短期間に復興軌道に乗った。 それを考えると、明治以降、富国強兵一途に、日清、日露、日中戦争、更なる軍拡・・・と、太平洋戦争終結まで約半世紀に亘り、世界を動かした日本海軍、その中でも主役の座にあり続けた呉鎮守府の 『日本近代化に果した役割』 は世界史上にも注目される。


 


現在の瀬戸内海

呉海軍工廠 造船部の跡地
 瀬戸内海も、戦後70数年経た現在はすっかり変貌している。
 戦時の軍需工廠や燃料廠などは、重工業地帯や石油コンビナート、港湾施設などに変り、昭和40年頃からの日本高度成長時代を牽引してきた。

 大正時代に阪神・別府間などに開設された長距離航路は、戦後の高度成長期に観光ブームを呼び起こし、島回りの連絡船や沿岸の漁船群も急速に増加し、瀬戸内海は平和裏に活況を迎えた。
 その延長線上で、本州・四国間は瀬戸大橋など3系統の橋梁で結ばれ、現在では瀬戸内海の殆どの島々は橋で結ばれている。
 航行する船舶も、自動車の発達に伴い旅客船はフェリーに代わり、島々を結ぶ高速船も発達し、現在、瀬戸内交通の利便性は急改善している。
 その反面、遠隔の島は過疎化に拍車がかかり、旅客船の減便に追い込まれながらも・・・、多島海という箱庭の様な自然の中で人々の営みは絶えることなく・・・、貴重な歴史跡や、文化や芸術遺産や、世界に誇る絶景スポットは、新たな観光資源として整備され、観光客の来訪を待っている。


大長みかん(瀬戸内みかん畑の風景)
 明治末期に、大長の農家が大分から苗木を購入したのを手始めに、耕作は周辺に広がり ”大長みかん” として、現在でも全国的に名を馳せている。 しかし瀬戸内海一帯のみかん栽培は、これに前後して広まった。

 日当たりに恵まれ、水はけの良い島の急斜面は天に至る段々畑が拓かれ、5月中旬には”みかんの花咲く丘”に香りが漂い、11月下旬には黄金色に包まれる。
 しかし農耕や収穫作業は、重い肥料やみかん箱を背負って、険しい斜面を 1日に1往復、少し低い所でも2往復が限度という重労働だった。 しかしみかんが珍しかった当時、農家は戸別に農船を所有し近くの島にも耕作地を広げていた。
 それが今は、索道や農道が整備され、瀬戸内の島々は、段々畑と農道のガードレールがコラボする風景に変貌している。
 それも最近、多くの島で過疎化が進み、島民の平均年齢は70歳を超え、方々の段々畑は崩れて雑木林化する風景に変わりつつある・・・。


終りに
 『瀬戸内』といっても呉市周辺を中心に歴史の流れをまとめようとした。 しかし瀬戸内海全般、日本全体の流れの中で【呉周辺の位置づけ】はどう纏めるか・・・、そうなると際限なく広がってしまう。 適当な範囲に留めると、もっと書きたりない、下手に加えると本題から脱線し過ぎて、中途半端な感じ・・・になった。 内容についても個人的な想像を基にしているので、事実と異なる記述は保証の限りでない。
 しかし、『瀬戸内海の自然と、人々の営みが創りだす様々な歴史風景』に観光魅力を感じて戴ければ幸いです。■

   以下【瀬戸内物語】とは逸脱するが、物語の続きとして、
近隣諸国との関係について少し触れてみる