このページは、『私個人の歴史観』です  mail

☆☆☆ 瀬戸内物語(呉湾中心とする歴史編) ☆☆☆
  風光明媚な多島海は、往古より遣隋使や遣唐使船が通い、戦国時代には村上氏など海賊衆が支配し、また江戸時代には北前船や諸藩の廻船が通い、大量の物資や全国の情報や大勢の人の通り道となって特有の歴史・文化が育まれてきた。
 しかし幕末、黒船来航すると、平和な多島海は佐幕派や攘夷派に、外国商人も加わって多量の武器などが行き交い、最新鋭の大砲を装備した動力船も航行する海に急変していった。

 そして明治時代には「富国強兵」を旗印に、急ピッチで海軍強化を目指し、呉には海軍鎮守府が置かれ、軍港機能と共に海軍工廠も整備され、戦艦や兵器、弾薬などがフル生産され、海兵隊などの兵士も養成された。
 そして日清、日露〜太平洋戦争には、呉鎮守府は日本海軍(連合艦隊)の中枢的役割を担っていた。 その歴史跡は、現在、横須賀、佐世保、舞鶴と共に日本遺産に指定されている。

 そうして戦時中に培った高度科学技術は、終戦後は 平和利用に転じ、呉市一帯は有数の重工業地帯に躍進し、日本は世界第二位の経済大国に発展するステップになった。
 そして戦後70数年を経た現在、瀬戸内各地では、歴史遺産や、文化芸術スポットや、世界に誇る絶景スポットも整備され、観光客の来訪を待っている。


遣唐使船(復元船) 
瀬戸内海航行の歴史(奈良時代以前)
 日本とアジア大陸間の渡海(漂着?)は有史以来始まっていた様だが、記録は 紀元 3世紀頃、 『魏志倭人伝』に記されているという。 どんな舟でどんな航海術だったのか・・・??、 しかし7世紀(飛鳥時代)には外国使節が瀬戸内海を航行して入京していた。
 白村江の戦い(663年)は数万人の兵士が瀬戸内海から百済に渡った。 その際、『熟田津に船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな』(万葉集;額田王)の、(熟田津は)現在三津浜港(松山市)と見られる。

 7〜8世紀頃には遣隋使船や遣唐使船は、100余名の人員と水や食料を乗せて浪速津から出発した。 遣唐使船は、倉橋(呉市)で建造されたと言われ、『造船歴史館』には(実物大の復元船)が展示されている。 それを見れば、当時のかなり高度な造船技術が覗われる。 倉橋では、そんな木造船造りの伝統が最近まで引き継がれてきた。
  それでも当時の航海技術では、唐(長安)まで無事辿り着くことは難しかった。 しかし唐の制度や技術、文化を採入れる為、奈良時代が中心に遣唐使は盛んに派遣された。
 それは、長安(唐の都)を真似て、平城京(奈良)や平安京(京都)の建設、及び寺社や仏教思想も普及など一応成果を得たことで(西暦894年)に廃止された。
 その後も、紫式部の「源氏物語」や、清少納言の「枕草子での【かな文字】の普及など、日本独特の文化が芽生えた。
 
瀬戸内海の水軍(海賊衆)発祥と経過
 瀬戸内海の潮流は、満ち潮は東西から福山方向に、引き潮は逆に東西に分散して太平洋に流れる。 その為”鞆の浦”は往古から汐待ちの港町として栄えていた。
 しかし、島と島の狭間では渦巻く潮流を、帆船や櫓船が航行するのは容易でない。 しかし平安時代頃から、往来が増えると自然派生的に水先案内業が出現し、水軍系氏族の活躍場となった。
 忽那水軍は11世紀に藤原親賢がこの地(忽那諸島)に配流され”忽那”姓を名乗ったのが始まりで、諸島各地に城を設けた。 それ以外の水軍系氏族も瀬戸内海の方々で、通行船舶や潮流に翻弄される船の水先案内か?、金品強奪か?、海賊行為を働く様になった。
 平安時代末期、平清盛は、海賊征伐を行い 時の朝廷(白河法皇)の信頼を厚くした。 そして音戸の瀬戸開削や、厳島神社の改築や、海外にも目を開き福原(神戸市)には南蛮貿易の港も開いた。

 【壇ノ浦の戦い】で、源義経は瀬戸内海各地の水軍衆を集めて平家を滅亡させたが、主力は忽那水軍だったとか・・・?  鎌倉時代から戦国時代には、忽那水軍は伊予国の河野氏の配下についたが、その頃、芸予諸島(”しまなみ海道一帯”)も、因島出身の村上氏が水軍衆を結集していた。 

 
能島村上水軍本拠地(宮窪)
戦国時代の水軍(海賊衆)
 戦国時代には、水軍衆は有力大名と結び、 海を”いくさ場” として活躍の場を急拡大した。
 @村上水軍本家(=因島村上水軍)は毛利軍と与して【厳島の海戦(1555年)】を戦い陶晴賢軍を殲滅した。
 村上系氏族は、A能島村上水軍、B来島村上水軍も共に毛利家と与して、【木津川口の戦い(=1576年〜石山本願寺派と織田信長の戦い)】でも信長軍と勇猛に戦った。
 しかし最後は信長軍の新兵器(=鋼鉄船)に敗れた。

 その後は、能島村上水軍(村上武義)は秀吉に恭順せず衰退したが、他の村上氏は秀吉側に恭順して四国征伐に加わり、河野氏及び配下の忽那水軍を没落させ、その後村上水軍は、芸予諸島を本拠に、瀬戸内全般の覇についた。
     瀬戸内水軍については、水軍城(因島)や、村上水軍博物館(宮窪)や潮流体験など、
      興味深い観光スポットがある。 

江戸時代の瀬戸内海航行と、北前船出現
   しかし江戸時代に移り戦乱がなくなると、人々は豊かさを求め、急速に大量の物資が必要になった。 真っ先に日本海側から人口密集地の京都や大阪へ食料や生活資材だが、当時の陸上輸送手段ではとても間に合わない。 必然的に日本海〜瀬戸内海経由の大量輸送が必要だ。
 しかしそれが容易でないことは次に述べるが、先人たちの英知と努力で、海上輸送路が開発され、忽ち北海道や樺太まで延伸されて、通船は「北前船」と呼ばれた。 
  ところで、現在こそエンジン付き船舶は、日本海の荒波も、瀬戸内海の潮流も、狭い港湾の入出港も「当り前」だが・・・、そんな大型船舶(千石船など)が、日本海や瀬戸内海を帆走することは、如何に困難で危険だったか・・・??  現に、遭難事故は多発していた。
  重い荷を積み、大きな帆を人力で操作し、操船するのもだか・・・、航海中に風波が急変すれば、上陸は愚か陸地に近づくことや、救助を求めることもできない。 天気予報もない。 停泊中も暴風を避ける十分な防波堤もない。
 瀬戸内海は、潮流に逆らっては進めない。 暗礁や浅瀬も沢山ある。 風が変化しても目的地まで、潮流が変わる迄に到着しなければ、即、漂流や座礁の危険に曝される・・・等々。  
 それには 瀬戸内海の各島に 『風待ち潮待ち港』が開かれ、緊急時退避や救援が可能になった。  そこは命がけで到着する船頭たちには、緊張が解れるオアシスで、必ず茶屋(遊郭)が営業した。

風待ち潮待ち港町・・・・・・・・・北前船(千石船)
  その他にも、守り神として住吉大神などの神社が方々に建立され、船内には神棚が設けられた
 こうして ”沖乗り航路” つまり大型船(”千石船”等)が広い海原を最短の直線航行が可能になった。
  そして日本海側の産物が、京都や大阪に輸送される様になると、1670年頃には、航路は瀬戸内海〜北海道や樺太まで延伸され、各地の産物が大量輸送される様になった。
  それは、瀬戸内海では西国各藩の、参勤交代の大名や藩資材を託送する「廻船」の出現を促し、北前船の寄港する港は、食糧、日用品、雑貨・・・などと共に、大勢の文人墨客や西国各藩の大名など日本中の情報が集まり、活気ある港町風情が醸成されていた。
              『北前船の集まる港町;御手洗』 参照

江戸時代の漁業事情
 江戸時代には、◇地引き網や船引き網漁、◇手繰網漁、現在も鞆の浦で行われている◇鯛網漁、帆走しながら網を引く◇打瀬網漁、豊島(呉市)周辺では◇あび漁・・・などが行われていた。
 瀬戸内海の島々をとりまく潮流は複雑で、小魚が集まる海域には漁船が 屯ろし、船頭たちの唄う舟歌が響いていた。 その中で音戸の船歌は、現在、日本三大舟歌の一つとされている。
  しかし、様々な漁法は、日本中で技術交換され、一本釣り漁なども全国的行われていた。
また、海には生け簀が仕掛けられ、下蒲刈島では朝鮮通信使一行の千人を超える賓客をもてなした。 生け簀は、後には船にも装備され、高級魚や広島カキも、生きたまま関西に運ばれていたという。  
 
幕末の異変
 ◆◇ 黒船来航〜幕末の混乱
 そんな江戸時代の繁華も豊かさも、瀬戸内海ののどかさも、黒船来航(1853)により急変した。
 当時、「弱肉強食の世界」で、覇権を争ったオランダ〜フランス〜に代わり、産業革命をリードしたイギリスは、植民地を世界中に拡大していた。
 それは中国(当時;清国)にも及び、アヘン戦争などの壮絶な惨状は日本にも伝えられていた。

”黒船来航(横浜) 1854
 それが愈々日本にも、《黒船来航》し、開国と交易を迫られた。 そして想像すらしなかった巨大動力船から、強力大砲を向けられると、幕府は従わざるを得なかった。
 
 ◆◇ 蛤御門の変(1864)
  しかし開国と函館・下田を開港、不平等条約や治外法権も認めざるを得ない(弱腰の)幕府に対し、長州藩は『尊王攘夷』を主張し京都朝廷の公卿も引き込んで過激な『倒幕運動』に走った。
  それに対し、幕府は 新撰組や会津藩(松平容保=京都所司代)ら佐幕派の忠臣藩を京都に送って制圧を計った。
  時の、孝明天皇も、長州藩などの過激行動を忌み、公武合体(幕府に接近)を唱えて、妹(和の宮)を将軍(徳川家茂)に嫁がせ、長州藩を京都から追放した。
 その為、長州藩は陣立てを整えて京都御所に押しかけ決戦(蛤御門の変)になった。 しかし長州藩は大敗し、京の街が焼払われる事件が起こった。
 ◆◇ 瀬戸内海の航行
 そんな『幕末の異変』は、瀬戸内海の航行にも大きな変化をもたらした。 和帆船(千石船など)に混って機帆船や、大砲を装備した大型動力船など・・・洋船も航行し始めた。
 長州藩や薩摩藩、攘夷派や佐幕派などの人や物、外国商人の武器弾薬を運搬する船や、最新鋭の軍船などの往来も急増し、長崎港から瀬戸内海を経由して横浜港へ航行する外国船も現われた。
 そして関門海峡では、遂に長州藩と、列強国(英仏蘭米)艦隊との武力衝突(=下関戦争1863・1864)が起った。 それは長州藩の大敗に終ったが、その後、長州藩は騎兵隊を組織し幕府軍と砲撃戦(1864・1866)が引き起こされた。 
 ◆◇ 薩長和解、〜明治維新への流れ
 その頃、薩摩藩は幕府側につき、長州藩と激しく敵対していた。
しかし坂本龍馬は、『外国勢を前に薩長が争っている場合ではない』 と、薩長を和解に導き(1866)、両者で 『倒幕 ⇒ 明治新政府の設立』を目指した。
 この薩摩藩の転向は、幕府や佐幕系諸藩には最たる叛意となり、坂本竜馬は明治に移る寸前に暗殺された(近江屋事件)。
   しかし幕府側も、頼みとする孝明天皇の崩御などが重なり「大政奉還」に追いやられた。 
その後も佐幕派の抵抗が続き 【鳥羽伏見の戦い】(1868)には、薩長連合軍の動員は瀬戸内海航路が利用され、途中で作戦(御手洗条約など)が話し合われた。
 戦いでは、薩長軍は 『錦の御旗』 を掲げて幕府側兵士の戦意を挫き、徳川慶喜は逃避した。 そして最後は、西郷隆盛と勝海舟が和解し、 江戸城無血開城 ⇒ 明治新政府発足の大変革が成った。



 日本海軍増強と近代化への軌跡
 ◆◇日本海軍創設
 《黒船来航当時》に戻る。
こうして日本が開国し、世界に門戸を開こうとして見えた世界は、驚愕的に進歩した強力兵器や、欧米文明、科学技術、政治経済形態など・・・「世界は全て『仮想敵国』」である ことだった。
 それに向き合うには、緊急に「最新文明や産業基盤を輸入」し、「洋式海軍も創設」し、「先進国の体」を整えねばならなかった。
 それには小栗上野介は、欧米文明を採り入れた西欧式艦船を建造する「近代的造船所」建設を提唱し、【横須賀製鉄所】建設に漕ぎつけた。 勝海舟は、欧米に匹敵する海軍創設を提唱した。
 土佐藩出身の坂本竜馬は、元々は攘夷派で 勝海舟と対立派だったが、《勝》の理路整然とした理論に共鳴し、《勝》の片腕となって海軍伝習所開設に奔走した。
 それには松平春嶽ら賢人の応援も得て、兵士は 幕府に従順だった瀬戸内の塩飽水軍の水夫等を集めた。 練習艦として観光丸がオランダから寄贈され、幕府も咸臨丸と朝暘丸を新造(発注)した。
   ◆◇ 富国強兵政策
 明治新政府は「欧米に追いつけ追い越せ」と、産業発展と国力強化を目指して、「富国強兵」をスローガンに掲げ、学制、兵制、税制、殖産興業の4つの政策(下表)を打出した。
【学制】は; 近代的な国家を目指すために教育に力を入れ、身分や性別に関係なく国民皆学を目指した。 フランスの制度を見習ったとされている。
【兵制】は; 徴兵令を出して、国民に兵役を課し、武士制度は廃止された。
【税制】は; 地租改正で土地に税金を課して国の財政に当てた。
※【殖産興業】は;「”軍”(海軍、陸軍)以外の事業」の推進制度で、
 つまり、交通・通信設備、金融制度、鉱山、諸産業施設(工場等)の開設や統括、及び金融制度、貨幣制度・・・などの整備・統括・推進事業を指す。
 これらの事業は余りに複雑・膨大な為、民間事業者に委託された。
 ※【殖産興業】の具体例としては;
 群馬県の富岡製糸場や、紡績会社や、八幡製鉄所や、鉄道事業(明治5年に新橋ー横浜間の開通後 全国に延伸)や、あらゆる近代産業、銀行などの金融機関や貨幣制度、インフラ工事・・・等々は、民間事業者に委託され、三井、三菱、住友など・・・大財閥が生れた。

 ◆◇ 「日本近代化」の航跡 
 明治新政府も『富国強兵』をスローガンに、次の様に「近代化と国力増強」を推し進めた。
軍事、政治、経済、社会の仕組み、教育、銀行・貨幣等の諸制度や欧米文化など・・・あらゆる先進制度や文明を採り入れる為、大勢の留学生が派遣された。 
日本中に 鉄道網、軍需工場、鉱山開発、道路やダム、発電所建設などのインフラも急ピッチで工事が進められた。
鉄道は明治5年=新橋〜横浜が開通し、明治22年=神戸、明治24年=青森、明治34年=下関まで開通、・・・明治末頃には日本海側や九州・北海道を含む日本全土に延伸された。
 ◇ 海軍創設は「近代的造船所建設」も、「海軍創設計画」もしっかり盛り込まれ、早々、『海軍鎮守府』の設置が決定された。

 ◆◇ 文明開化の時代 ”洋館建て家屋”
 こうして、あらゆる分野に欧米スタイルが急速輸入され、街並みにも明治末期から大正、昭和初期には、神戸の異人館街など、各地に斬新な洋風家屋や、レンガ造りの建物が建ち並び、押し寄せる文明開化の波が、大衆の目にも映る様になった。
神戸異人館街 (旧)呉鎮守府司令長官宿舎
(入船山記念館展示画) 
洋館建て民家
 ◆◇瀬戸内海の航行船舶
 明治時代になると、一本柱の和船に混じり、洋式の機帆船や鋼鉄製の艦船も行き交った。
 商船も 神戸〜横浜間で、郵便汽船三菱会社(後の日本郵船)と共同運輸会社(後の商船三井)が、熾烈な顧客獲得競争を演じ、鋼鉄船も日増しに数を増した。
 当然、瀬戸内海の港湾施設や陸上施設の整備も急ピッチで進められただろう。 商船や客船や軍艦など瀬戸内海の船舶数は増え続け、大正時代には阪神・別府間などの観光航路が開設された。
 その一方、呉周辺海域は、年々、軍事色を強め、呉湾〜安芸灘・柱島沖の海域は、太平洋戦争終盤まで、戦線に向かう夥しい数の軍艦や輸送船団が、集結する ”艦船泊地” と化していた。

 呉鎮守府 
 ◆◇呉鎮守府の開庁
 明治政府は 全国に四つの海区を定め、1886年(明治19年)各海区の軍港・鎮守府が決定された。 その一つが呉鎮守府である。 早速、建設が始まり あらかた完成した1889年(明治22年)に開庁、翌年明治天皇が臨席し開庁式が行われた。 呉海区は、紀伊半島〜瀬戸内海〜九州東海岸〜四国全周の海面を所管した。

レンガ造りの建物
呉鎮守府庁舎(現自衛隊総監部)

呉は;海軍の街に一変
(入船山記念館展示画)
 
 呉は、瀬戸内海奥地に位置し、(航空機の無い時代)、敵艦による攻撃を考慮し防御上、最適地として選ばれた。
 そして「海軍兵学校や造船ドックなど、海軍の「最新・最大・最重要施設」が次々設けられ、周辺の島々には、敵艦侵入を阻む砲台が設置された。

 鎮守府組織には、参謀部・造船部・兵器部・建築部・・・などが置かれ、海軍工廠(工場群)も次々建設・増設された。
 造船ドックも1894年(明治27年)には第1号艦 ”宮古”の起工から始まり、太平洋戦争まで(40数年間)には「東洋一の規模」に増強され、”長門”や”赤城” を含む 130隻余りもの艦船が建造された。

 海軍兵学校は、1888年(明治21年)築地からも江田島に移され、第1期は広瀬武夫が、翌々年には秋山真之も主席で卒業し、日清・日露戦争には東郷平八郎の配下で活躍した。
 山本五十六ら海軍トップを続々と輩出、太平洋戦争終結まで(半世紀以上)君臨し、世界の3大兵学校に数えられている。
 現在は海上自衛隊(幹部候補生学校及び第一術科学校)になっているが、 外来者も海軍兵学校時代の建屋や、日本の戦った戦争の歴史などが見学できる。
 ◆◇海軍の町「呉」の反響
 呉の人口は、元々の住民に加え、鎮守府や工廠等の建設に携わる人、工廠で働く人、軍関係者、訓練兵士、戦地から凱旋兵士や、商業を営む人、及びその家族など(最高時40万人まで)急膨張し、活況の街に変貌していった。 平地の少ない呉周辺は、急斜面の崖にまで住居が這い上がった。
 海軍工廠は日増しに拡張され、湾内は出撃や凱旋帰還する艦船、それに群がる 《はしけ》も縦横に行き交い・・・、 電気、ガス、水道もいち早く完備し・・・、 鉄道も開通し、 市電も明治42年(1908年)に開業した。 ビリヤードや映画館や、カフェなど歓楽街も盛況を究め・・・
 海軍の町「呉界隈」は人で溢れ、連日、提灯行列やお祭り騒ぎが続いたことが想像される。
 



 海軍の関わった戦闘経過と、瀬戸内海(呉周辺)

 ◆◇海軍設立の経過

 こうして平穏な時代から、いきなり弱肉強食世界に突入した日本が、米欧と対等交渉できるには「先進国の体」が必須だった。 それには全ゆる先進文明の採入れ、鉄道や発電所や道路などのインフラ施設、産業基盤、鉱工業施設、陸・海軍創設・増強などの新技術を大量輸入し、驚異的な速度で近代化を進めた。
 しかし問題は「そんな大業を進める労働力や財源どう捻出したか・・・?」だ。
 先ずは”生糸”の輸出だが、それは富岡製糸場(群馬県)を始め、各地に大規模施設を設け生産拡大した。 輸出には氷川丸(現在横浜港に係留)などが活躍した。
 しかしそれで賄える様な規模ではない、 日本は、朝鮮半島への侵出を計った。 
 ◆◇日清戦争と呉鎮守府の航跡
 当時の朝鮮は、清国(現;中国)に従属状態だったので、日本の侵出は、日清間に緊張を招いた。 そこに、朝鮮国内で「親清派」や「親日派」など間で暴動が起こり、平定の為、清国軍が出動すると、日清間の衝突、つまり日清戦争(明治27年=1894)が勃発した。
 それは呉鎮守府開庁から僅か数年後だったが、日本軍は;「吉野」、「高千穂」、「秋津洲」、「浪速」(=何れも高速艦)の艦隊編成で、東郷平八郎ら呉鎮守府ゆかりの将校たちの活躍により勝利した。 それにより日本は、(清国から)朝鮮半島と台湾を獲得する大収穫を得た。 

日露戦争への流れ
 ◆◇日英同盟
 こうして朝鮮半島が支配下に入った。 しかし清国(当時=西太后政権)は国力が弱体化し、ロシアは 「露清条約」を結んで満洲を実質支配し、シベリア鉄道を旅順(遼東半島)まで延伸し、堅固な要塞を築いていた。 それは日本が獲得した朝鮮半島への侵略準備であり、日本にとっては致命的な事態だった。 所がロシアは、東ヨーロッパでも南下政策で、英国の植民地を脅かしていた。
つまり日英は 交易相手としても、ロシアとの敵対関係でも利害が一致し、期せずして ”日英同盟”が締結された(明治35年=1902)。
 (しかし 20年後に破棄され、40年後には敵味方に分かれ熾烈な戦争を戦うことになるのだが・・・) 
 
日露戦争開戦前の構図
 ◆◇日露戦争開戦と 呉鎮守府の役割
  しかし超大国ロシアは、日本の刃向かえる相手ではない。
日露戦争開戦前;「日露間交渉がもたれた。
 日本は日英同盟を結んでおり、或いは米英に圧されたか(?)、相当強気だったのではないか(?)、結局、交渉は決裂した。

 日露戦争では、陸軍は『二〇三高地〜旅順基地攻略戦』など、莫大な犠牲を伴う激戦を戦い、海軍は『旅順湾閉塞作戦や日本海海戦』で、旗艦”三笠”の艦上で 東郷平八郎や秋山真之ら、呉鎮守府ゆかりの将校たちの英雄的活躍により勝利した。
 それは ”坂の上の雲”(司馬遼太郎)に詳細に描かれている。
 つまり武器弾薬、情報提供やバルチック艦隊回航の妨害など英国の絶大な協力や、、日本海海戦自の天候など、多大な幸運に恵まれた「奇跡的勝利」だった。
 しかし若し、日本が敗戦、若しくは不戦に終ったとすれば、現在の日本は(?)、否、世界の勢力図は(?)どうなっているでしょう。  それは世界にとって究めて重大な分岐点だったと言える。 
 ◆◇ ロシアの立場
 それはロシア側から見た《日露戦争》 も考えねばならない。
 日露間は、その数年前までは友好関係にあった。 ニコライU世(当時;皇帝)は親善訪日し(1891)、広瀬武雄らはロシアに軍事留学していた。 日本(弱国)は同盟国(同然)と考えていたか(?)・・・、何れにしても 日露戦争を予期して軍事留学を受入れた訳ではないだろう。

 所が日本は、よりによって日英同盟を結んで対抗姿勢に転じ・・・、世界に誇る最強艦隊が(日本の)弱小艦隊に完敗した。
 その結果、ロシアは国力が弱まり、 ”第一次世界大戦” に巻込まれ、ドイツ・オーストリア軍に侵攻され・・・大混乱に陥った。 そして『ロシア革命(1917)』を経て、新制社会主義国 【ソビエト連邦】が誕生した。 それにはニコライU世は 家族諸とも処刑され、スターリンは反意を示す ??千万人もを粛清した。 


旅順沖に仮泊中の連合艦隊1924年
(周防大島;陸奥記念館展示)
日露戦争後の満州と、瀬戸内海及び呉鎮守府
  ◆◇満州の地堅め〜満州事変
 満州及び中国大陸での軍事行動は陸軍(関東軍)が主導したが、物資輸送や陸戦隊などの兵員派遣や戦略兵器の供給等、海軍との関わり、とりわけ呉軍港との関係は深かった。

 多大な犠牲と引き換えに、日露戦争に勝利した日本は、朝鮮半島の支配を固め、敗残兵を追って満州に入城した。
 そこは清国人の張作霖が統治していたが、ロシアの支援を受け、事実上「ロシアが支配」していた。

 日露戦争勝利で勢いづく関東軍は、ロシアに代って、「満洲」の近代的都市国家造りを進めた。
しかし「満洲」は、ロシアが実質支配していたとは言え、元々清国(後に中国)の領土である。
 日本軍入城から約20年後; 中国(蒋介石政府)組織が小康状態に達すると「満洲奪還」を目指し、「張作霖(=満洲の統治者)」討伐軍を派遣した。
 すると関東軍は、張作霖の乗る列車を爆破して爆殺(1929)し、満州統治権(?)を奪取した。
 しかしその後、熾烈な「反日・抗日の嵐」が巻き起こり、ソ連(ロシア革命後)も毛沢東軍を支援して、満州は、(日・中・毛)が争う舞台になった。
 
南満洲鉄道


新京 大同大街


関東軍司令部
 ◆◇満州事変勃発(=柳条湖事件)
 そんな混沌状態にケリを付ける為・・・関東軍参謀;石原莞爾は、1931年9月、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破した(=柳条湖事件)。
 そして即座に、『中国側(張学良軍)の破壊工作だ』とデッチあげ(攻撃の口実造り)、満州全土を攻略した。
 翌日には奉天、長春、営口などの都市を占領した。 奉天市内では爆弾を投げ込み、「中国人の仕業」とデッチあげて出兵し・・・、そんな手口で、わずか5ヶ月で満州全土を制圧(満州事変)と言う「史上 空前の大成功」を収めた !!

 勿論、関東軍が仕組んだ 『でっち上げ事件』だったことは、日本国内にも、世界にも、戦後まで知らされなかった。 しかし反日・抗日事件は、益々激化し、欧米や世界中からも日本批難の目が注がれた。

 ◆◇第一次上海事変〜満州国樹立

 この事件(満州事変)から世界の目を反らせる為、関東軍は上海で暴力事件を工作した。 中国側は、それに19路軍を出動させ 思いがけない大規模戦闘に発展した。
 すると日本は、内地から海軍陸戦隊を送り、1ヵ月間 戦闘が続いた挙句、停戦協定も遅らせ、世界の目が上海に向いている間に満州支配を固め ”満州国独立” を宣言した(1932)。

 それは世界中(国際連盟)では、更に激しい批難を浴びた。
しかし食料も地下資源も豊富で、鉄道を始め超近代的な都市建設や国家建設を進め、自国領土同然の満州を手放すことは、絶対に不可能だ !!  直ちに国際連盟を脱退した。

 しかし大陸戦線は、反日・抗日軍との戦闘は益々頻発化した。 しかし大本営は;「連戦連勝」の報を鼓舞し続け、一度も戦場経験のない内地国民は、世界からの批難も知らず『軍』を絶賛し続けた。
 ◆◇瀬戸内海国立公園(最初の国立公園指定=1934(昭和9)年 

対潮楼からの眺め
 しかし膨大な軍事費を賄うには、海外観光客誘致に注力された。 1934(昭和9)年には、瀬戸内海国立公園(他7国立公園)が、我が国最初の国立公園として誕生した。 瀬戸内海国立公園は、大小 700以上の島々を有する多島海で、公園面積は日本一である。
 
江戸時代に来日した朝鮮通信使の宿泊した福禅寺(鞆の浦)の対潮楼からの景観は素晴らしく『日東第一形勝』(日本一の景勝)と讃えられた。 日本学者のシーボルトらも絶賛していたという瀬戸内海は、世界的な絶景に数えられていた。

 ちなみにこの際、指定された最初の国立公園は、次の8か所である。
  ◇阿寒国立公園、◇大雪山国立公園、◇日光国立公園、◇中部山岳国立公園、
  ◇雲仙天草国立公園、◇霧島錦江湾国立公園、◇阿蘇久住国立公園、◇瀬戸内海国立公園
 ◆◇その頃の"呉市界隈"
  その頃、日本海軍の中心的立場にある呉界隈は、艦隊入港時には料亭や朝日遊郭街、カフェ、喫茶店や花街、映画館、中通りの盛り場や、モダンな喫茶店やレストラン、ビリヤードなどが賑わい 「景気は呉から〜」と好況感がみなぎった。 昭和10年(1935)開催の「国防と産業大博覧会」は2ヶ月足らずの入場者70万人という盛況だったという。

 ◆◇日中戦争に拡大
 しかし、「反日・抗日の嵐」は益々激化し、満州や中国本土の「居留邦人」を守る為、関東軍は片時も攻勢を弛められくなっていた。 そんな緊張状態の中、北京で「盧溝橋事件」が偶発した。
 その対処について、
  ◇石原莞爾は「大東亜共栄圏構想」(日、中、朝、満、蒙の「五族協和」=戦争不拡大)を主張、
  しかし◇東条英機は;「中国全土を殲滅すべし」(=戦闘拡大)を主張した。
結果、石原は下野し日中戦争に突き進んだ。
 ところが中国(蒋介石軍)は、(日本の)「満州違法占領や中国本土への違法侵略」を世界に訴え、米英から武器支援された。 その為、日本は世界から孤立し、大陸戦線は泥沼状態に陥った。
 



  太平洋戦争への流れ

 ◆◇南方作戦、大東亜共栄圏の拡大
 こうして「食料も資源も」全てを大陸頼みの日本は、世界から批難を浴び、アメリカから石油禁輸制裁が課せられると、それを東南アジアに求め「南方作戦」を開始した。
 それは 【大東亜共栄圏(アジア諸国が共に栄える)】を唱え、「列強植民地からの独立」を促して支持を集め、マレーシア、シンガポール、インドネシア、パプアニューギニア、フィリピン、マリアナ・・・や太平洋諸国の併合を開始した。

 ◆◇太平洋戦争突入
 しかもこれまでの戦場は全て大陸だった。 「戦争が如何に凄惨で、残酷か・・・」内地国民はどれだけ理解していただろう(?)
 大本営発表の華々しい「連勝報道や・神国日本」に洗脳され、マスコミに先導され、憲兵に強要され、「鬼畜米英 !! 」を合い言葉に・・・ "敵愾心" に燃え上っていた。
 こうして、⇒◆新たな石油資源を求め南方作戦開始、⇒◆ナチスドイツと接近、⇒◆日ソ中立条約締結、⇒◆世界最大の戦艦「大和」建造・・・と、着々準備を進め、遂に”真珠湾攻撃”に突入した。  
   「太平洋戦争」開戦と同時に、柱島泊地には 『大和』や『長門』など、連日夥しい数の艦船や輸送船団が堂々の雄姿を見せ、大東亜共栄圏や太平洋の島々に向かった。
 ◆◇太平洋戦争 戦況の転換
 しかし開戦から約半年後、ミッドウェー海戦(昭和17年6月)の大敗を境に戦況は悪化の一路を辿った。
ミッドウェー作戦は、米豪の連係を遮断し、あわよくばハワイの太平洋艦隊に壊滅的損害を与えて有利な条件で早期講和に導く・・・そんな予見から連合艦隊山本五十六司令長官が強硬に主張した。
 それは綿密に計画され、日本海軍の最精鋭空母と最強艦隊を投入して奇襲攻撃の筈だったが・・・、
アメリカ軍は、飛行機を補足するレーダーを実用化し、日本軍の暗号も解読し待ち伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突込み、最精鋭空母「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」=4隻と、多数の航空機、優秀なパイロットも全て失い惨々な完敗に終った。
 その後日本軍は成す術もなく、太平洋の島々は遠方から順に陥落・玉砕していった。

戦艦『陸奥』
(周防大島;陸奥記念館展示)
 ◆◇柱島泊地
 この海域には、『大和』や『長門』など、太平洋戦線に向かう夥しい数の艦船団が華々しい雄姿を見せて集結していた。
 所が 1943年6月8日、停泊中の戦艦『陸奥』が、突然謎の爆発事故を起こして沈没した。 『陸奥』は、『大和』建造まで我が国最大級の戦艦で、爆沈により乗員1,100人余りが犠牲になった。
 当時【爆沈事実を隠ぺい】の為、乗組員(生存者=353人)は本土上陸が許されず、離島に隔離されて、次の出征地(南方の激戦地)に向かい玉砕したと聞いている。

 1971年までに『陸奥』の艦体は一部が引き上げられ菊の御紋章や主砲などが陸奥記念館(周防大島)に保存されている。 兵士の遺品は、当時の情景を思いながら見ていると 何か異様な感慨に引き込まれる。 それを如何に聴衆の心に響く様に説明するか・・それは観光私たちガイドの技量だろう。
 ◆◇出征兵士たち
 江田島には海軍兵学校があり、呉には海兵隊や陸戦隊も編成され、呉軍港からは、日清、日露戦争から太平洋戦争終結まで、大勢の兵士たちが、現自衛隊集会所で家族と面会し戦地に出征した。
 陸軍も、広島に鎮台(後に第5師団)が置かれており、呉・宇品(広島)港からは、日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と、大勢の陸海軍兵士が出征していった。
 それも太平洋戦争初期までは、戦時色と言うより、凱旋帰還する艦船などで、呉界隈は華やかムードだったのではないか(?)  しかしミッドウェー海戦以後、戦況が悪化するにつれ最後の別れを予感しながら万歳三唱して送り、送られた。
 ◆◇戦況悪化
 太平洋戦線は、ミッドウェー海戦の大敗を境に、米軍の攻撃はガダルカナル島から始まり、遠方の島々から順に陥落し、日本兵の玉砕が続いた。 そして・・・;、
 ◇戦況は更に悪化の一路を辿り、極度の金属不足に日用品雑貨まであらゆる金属が回収され、
   コンクリート船も出現(昭和19年)した。
 ◇サイパンやテニアン島まで陥落すると、敵機による本土空襲が本格化した(昭和19年終り頃〜)。
 ◇日本軍は、遂に、神風特攻機が出現した。 兵学校は江田島以外にも分校が、針尾、岩国、
   舞鶴・・・など、各地に開かれ、大勢の兵学校生が大量募集され、短期間で繰上げ卒業して
   特攻機に乗機した。
、   江田島(現海上自衛隊術科学校)には、大勢の若い少年兵が乗機する際、遺した遺書が
    遺されている。 明日は命を失う若者の遺書に胸が詰まされる。
  ◇その頃の瀬戸内海や呉周辺は もっと緊迫感に包まれていたか(?)、それとも船団も編成
    できなくなり ひっそり閑としていたのか・・・(?) 
 この頃は児童疎開も始まり、憲兵の取締りは益々厳しく、市民も学童も、食料不足と空腹と栄養失調に悩まされながら、防空訓練や建物疎開、勤労奉仕などに忙殺されていた。
 そんな折、呉湾や周辺海域に 消沈ムードをかき消す様に ”大和”など 豪華艦船団が勢揃いした。 人々はそれを雄壮と見たか?、悲壮と見たか?・・・、燃料不足で出撃できない艦船群の帰還だった。 その中から ”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃した(昭和20年3月)。 
 空襲は親にも子にも容赦なく振り掛かり、酷い食糧難のさ中、家族や身寄りを失った幼子たちは路頭に迷い、駅構内に寝泊りして残飯をあさり、その後どう生き残ったか・・・。
 それでも本土決戦は 1年間弱だったが、中国本土では満州事変勃発から 10余年、新制中華民国(中国)発足からは 30年間も繰り返されていた。

戦後の日本と瀬戸内海(呉湾周辺)
 敗戦と同時に、余りに酷い国土荒廃に、張りつめた人心は落胆に変った。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍が上陸し、機雷の始末や破壊した物件の片づけなど戦後処理が始まった。 食料配給も始まり、徐々に物資や労働力も確保できる様になると、焼け跡にバラックが建ち始め、少しづつ生活が戻ってきた。 それは全国でも、人々は皆で励ましあいながら頑張った。
 そうして瀬戸内海にも平和が見え始めた頃、朝鮮動乱が勃発した。 それは朝鮮半島の悲劇と裏腹に、日本には《特需景気》をもたらし、敗戦国 ”日本”には眞に恵みの雨” となった。
 それは戦時培った高度技術を活かして急復興する千載一遇のきっかけとなり、その後極めて短期間に復興軌道に乗った。 それを考えると、明治以降、富国強兵一途に、日清、日露、日中戦争、更なる軍拡・・・と、太平洋戦争終結まで約半世紀に亘り、世界を動かした日本海軍、その中でも主役の座にあり続けた呉鎮守府の 『日本近代化に果した役割』 は世界史上にも注目される。  



現在の瀬戸内海

呉海軍工廠 造船部の跡地
 瀬戸内海も、戦後70数年経た現在はすっかり変貌している。
 戦時の軍需工廠や燃料廠などは、重工業地帯や石油コンビナート、港湾施設などに変り、昭和40年頃からの日本高度成長時代を牽引してきた。

 大正時代に阪神・別府間などに開設された長距離航路は、戦後の高度成長期に観光ブームを呼び起こし、島回りの連絡船や沿岸の漁船群も急速に増加し、瀬戸内海は平和裏に活況を迎えた。
 その延長線上で、本州・四国間は瀬戸大橋など3系統の橋梁で結ばれ、現在では瀬戸内海の殆どの島々は橋で結ばれている。
 航行する船舶も、自動車の発達に伴い旅客船はフェリーに代わり、島々を結ぶ高速船も発達し、現在、瀬戸内交通の利便性は急改善している。
 その反面、遠隔の島は過疎化に拍車がかかり、旅客船の減便に追い込まれながらも・・・、多島海という箱庭の様な自然の中で人々の営みは絶えることなく・・・、貴重な歴史跡や、文化や芸術遺産や、世界に誇る絶景スポットは、新たな観光資源として整備され、観光客の来訪を待っている。


大長みかん(瀬戸内みかん畑の風景)
 明治末期に、大長の農家が大分から苗木を購入したのを手始めに、耕作は周辺に広がり ”大長みかん” として、現在でも全国的に名を馳せている。 しかし瀬戸内海一帯のみかん栽培は、これに前後して広まった。

 日当たりに恵まれ、水はけの良い島の急斜面は天に至る段々畑が拓かれ、5月中旬には”みかんの花咲く丘”に香りが漂い、11月下旬には黄金色に包まれる。
 しかし農耕や収穫作業は、重い肥料やみかん箱を背負って、険しい斜面を 1日に1往復、少し低い所でも2往復が限度という重労働だった。 しかしみかんが珍しかった当時、農家は戸別に農船を所有し近くの島にも耕作地を広げていた。
 それが今は、索道や農道が整備され、瀬戸内の島々は、段々畑と農道のガードレールがコラボする風景に変貌している。
 それも最近、多くの島で過疎化が進み、島民の平均年齢は70歳を超え、方々の段々畑は崩れて雑木林化する風景に変わりつつある・・・。


終りに
 『瀬戸内』といっても呉市周辺を中心に歴史の流れをまとめようとした。 しかし瀬戸内海全般、日本全体の流れの中で【呉周辺の位置づけ】はどう纏めるか・・・、そうなると際限なく広がってしまう。 適当な範囲に留めると、もっと書きたりない、下手に加えると本題から脱線し過ぎて、中途半端な感じ・・・になった。 内容についても個人的な想像を基にしているので、事実と異なる記述は保証の限りでない。
 しかし、『瀬戸内海の自然と、人々の営みが創りだす様々な歴史風景』に観光魅力を感じて戴ければ幸いです。■

   以下【瀬戸内物語】の続きとして、
近隣諸国との関係について少し触れてみる