このページは、『個人的な想像等を基に ”歴史”を考える』のが目的です。
あくまで私個人の歴史観です。 真相判断は読者側で願います。
ペリー来航 〜 大東亜戦争(太平洋戦争)まで
大東亜戦争への道
(2018/1記)
     緒 言
大東亜戦争への道 ”大東亜戦争は何故起ったか・・・?” 
 「大東亜戦争」とは、1941年12月に始まった《日米戦争と日中戦争》の日本式呼び名である。 しかし侵略というイメージが強いという事で、戦後は専ら「太平洋戦争」と呼ばれている。
 しかし”私の歴史観” では、 それは朝鮮半島、満州及び中国大陸を舞台に 《 日清戦争、日露戦争、日韓併合、満州事変、満州国樹立、日中戦争・・・》と、「約半世紀に亘って続く戦闘状態の中の一部」と言う見方なので、本稿は 『大東亜戦争への道』としてペリー来航から太平洋戦争までの一連の流れについて追っていく。

ペリー来航、当時の世界情勢
 産業革命がもたらした強力兵器は、弱肉強食世界の秩序を崩壊した。 英国は圧倒的な武力で世界を次々と植民地化し、アメリカ大陸へ大量移住を果たし、清国(現;中国)にも侵出していた。
 そんな流れで、日本にもペリー艦隊が来航(1852-3)し、開国と通商を求められた。
 時の日本は、《鎖国下で大平を謳歌している最中》だったが、幕府(大老井伊直弼)は「開国」し交易をして国力を増強する決断をし、西欧列強の植民地攻略の嵐が刻々と迫る中で、幕府は独断(勅許を得ない)で開国と、函館と下田の開港を約束した。
 しかし水戸藩(徳川斉昭)や薩長を中心に尊皇攘夷派は幕府との対立を激化し、治外法権や不平等条約も次々と結ばせられる弱腰の幕府に代わる 「明治新政府」を設立を目指して《攘夷討幕》運動を起こした。 その結果としては《明治信政府》が発足し、新政府は 富国強兵をスローガンに、欧米の技術や文化を急速輸入し、《日本近代化》の政策を急発進させた。
 しかしそれには食料も、資源も、資金も、労働力も、近代的文化も知識もない日本は朝鮮半島への侵出(征韓論)が俎上に上った。

《朝鮮・清国》への 日本侵出 
 当時、朝鮮半島は、清国(現中国)の従属国になっていた。 そこに日本が侵出すると「日本と清国の争い(日清戦争1894-5)」が勃発した。 それに勝利すると朝鮮半島は日本の支配下になった。 
 しかし朝鮮支配が始まると、目の前の満州(清国領土)との接点が火種になった。 満州は 張作霖(清国人)が統治していたが、彼はロシアの支援を受け、ロシアは(満州内に)鉄道を敷設して、旅順に堅固な要塞を築いていた。
 それは日本から見れば、折角獲得した朝鮮半島が、奪取される為の要塞に他ならない・・・。 期せずして日露戦争(1904-5)が勃発した。

日露戦争後〜太平洋戦争への道
 その後、
@日露戦争に勝利した日本は空かさず満州に入城した。 A清国も崩壊して新制 ”中華民国”(中国)が誕生した。 Bロシアは、ーロッパ戦線でも敗退が続き大混乱に陥った。 Cヨーロッパでも第一次世界大戦が勃発し、英、独、仏は アジアから戦力を引き揚げた。

 こうした、ロシア、中国、ヨーロッパの混乱に乗じ、
@残った日本は朝鮮、満州、中国へ侵出を着々と拡大ていった。 A清国を引き継いだ「中国」は、「(自国領)満州の統治権」を奪還しようと軍隊を派遣(北伐)した。 Bロシアは、ロシア革命後新制「ソビエト連邦」を樹立すると、 C 毛沢東軍を支援して、満州奪還と中国大陸への再侵出を企てた。

 それは満州支配を巡る激突が、日・中・ソ(=毛沢東軍)間で繰り返されたが、日本は連戦連勝し、力ずく 「満州国」を樹立した(1932=昭和7年)。
 それに対し中国政府は、国際連盟に日本制裁を訴え、国際連盟からはリットン調査団が派遣された。 しかし調査結果(リットン報告)は、寧ろ日本を擁護する様な裁定だった。
 それは、
@中国を立てれば、欧州各国の利権も失われ、A日本に制裁を加えれば更なる大混乱を恐れたのか・・・?結果的に日本はお墨付きを得た格好になり、更なる侵攻を繰り返した。 それが英米の取り分まで日本が独占する様になり、(日本と米欧は)次第に対立関係に変った。 当然、侵略制止を促す協議は成されただろうが、食料も・資金も、資源も、人手も・・・全て(満州利権頼み)の日本にあっては一歩も譲歩できず、遂に太平洋戦争にと進んでいった。
 

1.・・・大東亜戦争への道(歴史経過)・・・
1853-54(嘉永 6年       黒船来航
1868(明治 1年)       明治維新発足
1894-95(明治27-28年)        日清戦争
1900(明治 33年)        義和団事件(北清事変)
1904-05(明治37-38年)        日露戦争
1911(大正 1年)       辛亥革命(清朝滅亡・中華明国発足)
1914-18大正 3-7年      第1次世界大戦勃発
1917(大正 6年)       ロシア革命(ソビエト連邦誕生)
1920(昭和 5年)       国際連盟設立
1928(昭和 3年)       張作霖爆死
1931(昭和 6年)   9/18 柳条湖事件  満州事変始まる
1932(昭和 7年)   3/1 満州国” 建国、独立を宣言、  5/15 五・一五事件
1933(昭和 8年)   3/27  日本 国際連盟を脱退
1936(昭和 11年)   2/26 二・二六事件、  満蒙開拓団移民開始
1937(昭和12年)   7/7 盧溝橋事件、    南京大虐殺事件
1938(昭和13年)   4/1 国家総動員法公布
1939(昭和14年)   5/11 ノモンハン事件
  9/1 第2次世界大戦勃発 (独軍がポーランドに侵攻))
1940(昭和15年)   9/23 日本軍、北部仏印(現;インドネシア)に進駐開始
1941(昭和16年)   4/13 日ソ中立条約調印、 12/8 陸軍南方作戦開始
  12/8  ハワイ真珠湾攻撃(太平洋戦争始まる)  
1942(昭和17年)   2/15  日本陸軍; シンガポール占領
  6/5  ミッドウェー海戦(日本海軍; 壊滅的敗北)
  8/ ガダルカナル海戦、 ソロモン海戦
1943(昭和18年)   4/18 山本連合艦隊司令長官、戦死
  5/29  アッツ島玉砕、  10/21 出陣学徒壮行会挙行
1944(昭和19年)   3/8 インパール作戦を発動
  6/   マリアナ沖海戦、  7/  サイパン島陥落
 10/25  レイテ沖海戦 神風特別攻撃隊、出撃
1945(昭和20年)  2/19  硫黄島陥落・玉砕、  4/1 米軍、沖縄本島に上陸
 8/6, 9 広島、長崎に原子爆弾投下
 8/15 玉音放送(太平洋戦争終わる)
 

 
2.・・・大東亜戦争はなぜ始まったのか?・・・
  本開国 〜明治維新〜日本近代化政策

 黒船が来航して開国と通商を迫られた日本は、まだ太平の眠り(平和ボケ状態)についていた。
 しかし時の幕府(大老井伊直弼)は「開国」し交易をして国力を増強する決断をした。 それに対し水戸藩(徳川斉昭ら)は「尊皇攘夷」(天皇を尊び異国を打ち払う)を主張し真っ向から立ち塞がり、孝明天皇も鎖国維持を望んで国論は纏まらない。 しかし西欧列強の植民地攻略の嵐が刻々と迫る中、幕府は独断で(勅許を得ないで)開国と、函館と下田の開港を約束した。
 それは、水戸藩(徳川斉昭)や長州藩と幕府の対立が反撃に代り、井伊直弼(幕府大老)は 謀意の志士を悉く処刑し(安政の大獄)、井伊直弼も暗殺される(桜田門外の変)が起こった。
 その後も、薩長を中心に尊皇攘夷派も幕府に対抗して、治外法権や不平等条約も次々と結ばせられる弱腰の幕府に代わる 「明治新政府」を設立を目指して《攘夷討幕》運動を起こした。
 それが幕末の動乱であるが、最終的には、260年つづいた徳川幕府が、大政を奉還し、薩長・公卿を中心とする”明治新政府”を樹立した。

 新政府は、先ず欧米と対等に交渉できる海軍の組織と、同時に欧米の進んだ文化や諸制度も早急輸入の方針を打ち出した。 やっと眠りから覚めた国民には”青天の霹靂”だが、欧米列強の容赦ない植民地化攻勢を考えると、新政府は ”富国強兵”を旗印に近代化政策を急発進させた。
 鉄道、軍需工場、鉱山・炭鉱開発、発電所やダム建設等のインフラ整備、及び技術者や専門官も派遣して政治、警察、銀行、教育、軍事などあらゆる技術を導入し、”文明開花”と”軍事力強化” を一挙に推進した。

 しかし問題は、それに要する莫大な労働力・兵員・糧食・資源・資材・・・はどう捻出したか・・・?である。
国民は生活を最大限犠牲にして懸命に働いてもとても賄える規模ではない。
 勿論欧米と何度も折衝はした、しかし決め手は朝鮮への侵出だった。 それが、その後 日清戦争・日露戦争に発展するが、何れも勝利すると満州や中国にも侵攻して、食料や資源を確保し、日本全土の建設工事や炭鉱労働には朝鮮半島から大勢の徴用工を大量徴用した。

   《日朝修好条規》(1874)〜《日清戦争》(1894-1895)

 当時の朝鮮は《清国》と従属関係にあったので、(日本が)朝鮮半島を支配するには、清国と朝鮮の関係を断たねばならない。 手順として「朝鮮国の独立」を促し《日朝修好条規》(1874)締結した。 
 それは朝鮮内部での《親清派勢力》と《親日派勢力》の抗争が激化した。 それに対し清国は、最新鋭艦”定遠” を佐世保や横須賀に派遣し、北洋艦隊の威力で日本を牽制する動きを見せた。
 しかし朝鮮半島内の抗争が 【甲午農民戦争】に拡大すると、清国軍《北洋艦隊》を鎮圧に派遣し、《日清戦争》が勃発した。

 日清戦争は@豊島沖海戦(1894)、A牙山(アサン)の戦闘、B平壌の戦い、C黄海海戦、D旅順口攻略、E威海衛の戦い(1895/2)などの総称だが、何れも日本軍が連勝し、(日清間は)下関で講和条約を締結した。

 日本にとっては、朝鮮半島のみならず、台湾も獲得する大収穫になった。
 そして朝・台両地域の支配を強化する一方、大量の朝鮮人徴用工の手も借りてインフラ工事や軍事・産業基盤の強化は一層拍車が掛かり 〜日韓併合(植民地化)に突き進んだ。


連合艦隊”松島”(日清戦争)
  義和団事件(北清事変) 1900-1901

 日清戦争に敗れた清国には、欧米列強の圧力も強まった。 それに対し清国人の反抗も強まり、方々で ”義和団(清国の民衆組織)” を結成し、外国公使館を襲撃する事件が勃発した。
 それには清国軍も加担したが、軍事力は足元にも及ばず、結果は日本や連合軍(英・米・露・仏・独・奥・伊・ハンガリー・日)に天津・北京が攻略され、大きい代償も要求された。
 その間に、ロシアは清国と(露清密約)を結び満州全土を支配状態にしていた。

   日英同盟締結  1902発効 (1923失効)

 ロシアはヨーロッパでも南進し《膨張政策》 イギリスの植民地を脅かす動きをしていた。
 それに《義和団事件》が終結後も満州から撤兵せず、弱体化した清国と《露清密約》を結んで、満州内は遼東半島まで鉄道を敷設し、旅順には堅牢な要塞を築き、満州に連繋するシベリア鉄道も補強していた。

 それは、イギリスにとっては 対ヨーロッパ権益も、対清権益も脅かされ、日本にとっては 折角獲得した朝鮮半島も奪われ兼ねない。
 期せずして日英は《日英同盟》を締結し、(ロシアに)兵の撤退を求めたが、ロシアは応じなかった。

 日露戦争  1904-1905

 日露交渉は続いたがこれ以上長引けば、シベリア鉄道の増強工事が進み、兵員や軍事物資の輸送能力上がり、情勢不利になると察した日本は、遂に交渉を打ち切り、日露戦争突入した。

 ロシア軍の極東基地はウラジオストックと旅順にあったが、その間には 朝鮮半島 (日本支配)と 佐世保基地があるので、連携作戦は難しかった。 しかしバルチック艦隊が合流すれば日本艦隊を圧倒できる・・・と軽視していた様だ。
 しかし日本はイギリスの絶大な協力(日英同盟)を得て、歴史的な完勝になった。

【滑稽万国形勢新地図】
1903日本で描かれた風刺画




 その以前、日露は友好関係にあり、ニコライ2世も親善訪日し、白瀬武雄らはロシアに軍事留学もしていた。 それは恐らく日露が協力して東南アジアへの進出を考えてのことだろう。

 しかしこの期に及び決定的な敵対関係になったのは、次の何れかだろう・・・?
@本部(露=サンクトペテルブルク、日=東京)の意向が軽視され、現場(旅順)が独断専行したか、
または
A日清戦争以来(軍事力が飛躍的に向上し、日英同盟も締結した)日本は、ロシアとの協力は不要になったので強気に交渉した。・・・

  日露戦争の経過

 日露戦争は、陸軍・海軍合作で戦った 一連の戦闘の総称である。
 それは、ロシアは満州全土を占領し、シベリア鉄道も旅順まで連結し、堅固な要塞を築き、旅順艦隊は兵士も武器弾薬も万全な旅順基地だから、日本勝利まで 約1年間を要し 海戦や陸戦は苦戦の連続だった。

 主な戦闘としては;
(a)陸軍は、膨大な犠牲を払って旅順要塞を背後攻撃した【《203高地奪取戦》、《旅順攻囲戦》】
(b)海軍は、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破した【日本海海戦】
 ◇ 海 軍 ;
@仁川沖海戦=ウラジオストック軍港から旅順軍港に向け航行中のロシア艦にを砲撃した ⇒ これは事実上の宣戦布告となった。






日本海海戦(日露戦争)
NHKテレビ



奉天占領直後の城内

  
 A旅順港閉塞作戦=旅順湾に停泊中の鑑定を封じ込め、軍港機能を失わせる為、旅順湾口に廃船を沈める作戦を決行したが失敗、広瀬武雄は戦死した。
  ◇ 陸 軍 ;
B鴨緑江会戦・C南山の戦い=陸軍は朝鮮半島から鴨緑江を渡河して遼東半島に侵出した。 旅順を目指し前進すると、ロシア軍は南山(小高い高地)を要塞化していて本格的な機関銃掃射を受け、第1軍、第2軍は壊滅、第3軍も苦戦し多大な犠牲を払ったが奪取に成功、旅順要塞とロシア本国の連絡路が分断された。
 D旅順攻囲戦(第1次/第2次/第3次)=日本陸軍は更に前進、旅順要塞背後にある【203高地等】を巡る攻防戦を戦った。 ロシア軍の山上要塞からの砲撃に、日本軍は肉弾作戦を展開し莫大な犠牲者がでたが、遂に203高地奪取に成功した。 そこを拠点にして旅順要塞を背後から攻撃し陥落させ、同時に旅順湾に停泊中の艦船も撃破した。
  ◇ 海軍 ;
E黄海海戦、F蔚山冲海戦=旅順攻囲戦の砲撃を避け、ウラジオストックに逃避する旅順艦隊を黄海で迎撃した。 迎撃を逃れた艦隊も蔚山冲で発見して撃破した。
  ◇陸軍 ;
G遼東会戦、H沙河会戦)、I黒溝台会戦、J奉天会戦=旅順要塞から陸路で退却するロシア軍を追撃した。 ロシア軍も猛攻で応戦したが最後は奉天(現在;瀋陽)会戦で撃退に成功した。
  ◇海軍 ;
K日本海海戦(1905/2)= 東郷平八郎率いる連合艦隊は、対馬海峡で ”バルチック艦隊”を待ち受け、秋山真之の丁字戦法や日ごろの訓練の成果で撃滅、完勝した。
 それに対しロシアは、黒海艦隊は航路が英国植民地に囲まれている為動きがとれず、遠路バルト海からバルチック艦隊を回航したが、英国が管理するスエズ運河も通れず、喜望峰廻りで、しかも英国植民地の寄港や補給も制限され、対馬海峡に現れた時は、兵士の士気も落ちていた。  更に交戦時は波が高く砲撃の命中率が低かった等の不利も重なって、バルチック艦隊は完敗、壊滅状態になった。


   満州へ侵出

 日露戦争後の講和で、樺太の南半分が正式に日本領土になった。
しかし満州は、清国の領土だが、事実上 ロシア支配状態になっていた(前述;露清条約)ので、日露戦争に勝利した日本軍は、満州は《獲得したと同然》の入城した。 そこは資源、農業生産、労働力、その他諸々・・・日本にとっては真に宝庫、・・・日本軍は俄然勢いづいた。
 とは言っても、
@そこは清国の領土で ”張作霖”が統治し、多数の清国民に混ってロシア人も居住していた。、
A(清国滅亡後の)新制”中華民国”=蒋介石軍も 《満州支配奪還》の戦いを挑んできた。
B大混乱の末建国された新制 『ソビエト連邦』 も、スターリンは (毛沢東、金日成を支援して)満州再奪還意欲を示してきた。

 そんな満州に少数派の日本軍が入城して、統治・支配するには 何が起こるか・・・、それは新聞・雑誌や、テレビドキュメンタリーの証言等から大凡想像できる。
 つまり、
@先ず、張作霖の乗る列車を爆破・殺害し、満州内を混乱させ、それをネタにA武力行使で鎮圧を計る。 Bしかし武力行使の口実は創りは、意図的に小競り合いを起こし、Cそれを大事件に発展させて大規模な武力行使をする。 Dしかしそれは激しい反日・抗日の嵐が満州のみならず中国全土で巻き起こった。 それにはE日本軍(関東軍)は更に激しい武力行使にエスカレートせざるを得ない・・・そんな連鎖になった。
 
この間の紆余曲折については次に記しているので参照願いたい。
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911〜1928)
 
  満州事変勃発〜日中戦争

◆ 柳条湖事件 〜 ”満州国” 建国
 そこで関東軍(石原莞爾)は独断専行で列車爆破事件を自作自演した。 勿論故意に爆破したでっちあげ事件だが、間髪を入れず『満州人の犯行』と断定して、大々的に満州全土を武力攻撃し、極めて短期間に全土を制圧するという驚異的な成功を治めた。
 成功したと言っても周囲は、蒋介石軍も毛沢東軍も、全満州住民も・・・、反日・抗日分子の嵐に包まれた小康状態だから、関東軍の緊張は片時も解けない。 常に攻撃の矛先を中国本土に向けて、恐怖心を煽り続ける以外、防御手段はない状態、それが日中戦争だ、と言うのが”私の歴史観”である。

 それも日本軍は連戦連勝して、敗走を繰り返す蒋介石軍を中国本土の奥深くまで進撃し続けた。 日本軍は行軍中の糧食や必要物資は、現地調達が原則だったので、日本兵は沿線住民に強奪、強姦などを働いた。 しかし中国兵は農民などに変装してゲリラ攻撃して来たので、住民も無差別殺戮などの残虐事件が起こった。 中でも《南京事件》で虐殺された市民の数は、中国側は 30万人とも主張している。

 こうして関東軍の攻勢が保たれている間は、満州の日本人は平穏で生活もかなり裕福だった。
食料配給量やその他で、人種(日、中、ソ)差別は激しく、日本人はかなり優遇されていた。
日本(内地)では、連戦連勝の都度『兵隊さん』 は絶賛され、勝利の話しで湧き上がった。
朝鮮駐留日本軍は、(許可なく)満州への無断越境がなし崩し状態になった。
満州鉄道建設や各種開発事業が大々的に進展し、満州で財を成す商人や業者が続出した。
農業面では、満蒙開拓団が大勢入植し、入植者の為に、現地農民の大量の耕作地が強制的に奪われた。

※ しかし現地(満州)人にとって酷い屈辱で、日本人に対する激しい反感を抱いた。
それが 10年余り後の終戦時、敗戦により関東軍が力を失った瞬間、ソ連軍や、現地住民の怒りは一気に爆発し、満州在留日本人には痛烈な災難となって降り懸かることになった。

 満州在留邦人には、帰還列車は動かず、老若男女問わず無差別に襲撃され、或いは集団自決し、或いは捕虜としてシベリア抑留され、或いは食料も何もない荒野を彷徨い、衰弱する仲間や家族を置き去りにしながら、何10里の道を歩いて、日本に辿り着けたのは、極く一部の人のみという悲劇に見舞われた。
 
   国際連盟脱退 〜 日米開戦

  話しを戻す。 こうして満州や中国での日本軍の攻撃がエスカレートし、やがて全世界から批判を受け様になると、関東軍は、外部から干渉されない ”独立国” の体裁を繕った ”満州国” 樹立を宣言した。 しかし国際連盟では、一国の承認も得られず、だからと言って、『食料も資源も労力も貧弱な日本が、苦難の末勝ち取った(満州)』が手放せる筈もない。 国際連盟を脱退して、全世界と対抗する構図ができあがった。

 満州国をとりまく 《
反日・抗日の嵐》 は、中国大陸全土に過激さを増し、日本軍は一刻たりとも攻撃を緩めることはできず、以後、盧溝橋事件(1937 昭12)を皮切りに日中戦争へ戦闘拡大していった。


◆≪盧溝橋事件≫ (1937=昭和2年)
  「盧溝橋事件」は、そんな情勢の中で発生した。 経緯について日中の見解は異なる様だが、しかし”私の歴史観”としては・・・;
 日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中に、何者かが発砲し、兵一名が行方不明になった。 その後 伝令に出た曹長らが、中国軍陣地に近づいて発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を開始した。 すると日本軍内に また銃声の報告が届き、中隊を 中国軍部隊に向けて前進させた。 これに対して中国軍は激しく射撃し、日本側も応射し、全面衝突となった。 しかし約2時間後、激戦は小康状態に治まり、北平(現;北京)及び盧溝橋城内での、停戦交渉が行われ事件は終結したかに見えた。

 しかし、これに端を発し≪
関東軍内部・日本政府内部≫では、次の2派のせめぎ合いが始まった。
 @【事件拡大派】は ;これを機に中国軍に「一撃」を加え、「抗日」の根を断ち切る
     ことを強く主張した。
 A【事件不拡大派】 (石原莞爾、日本政府)は ;今はソ連の進攻に対処する為にも、
     国力消耗は厳に慎むべきとした。中国軍との戦闘は「不拡大」を主張した。

 結局、不拡大派の主張に沿って、一旦は中国側の 「謝罪」、「責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を 要求し、事件終結を目指したが・・・。
 しかし【事件拡大派】は、あの手この手で口説き、近衛首相は「もし中国が協定を破れば、居留民の生命安全が守れない」として派兵(=交戦ではなく待機名目)を承認せざるを得なかった。 それは、日本の攻勢に「中国は折れるだろう」との見方もあった様だが・・・、しかし蒋介石は断固として応じず「徹底抗戦」を決めたので、日中の【交戦派】は、一気に燃え上がり泥沼の全面戦争に突入した。

 そうして日本は、国家総動員法を公布(1938 昭13)し、蒋介石軍掃討作戦、大東亜共栄圏拡大、戦艦建造計画・・・と、 ”太平洋戦争への道” を突き進み、遂にイギリス、アメリカも完全に敵に廻して、日米開戦をも辞さない運命に嵌っていった。

 
この間、日中を巡る紆余曲折は、次に記しているので参照願いたい。
 ◆3.満州をめぐる攻防 と 満州国設立〜日中戦争へ (1928〜1934)

 ◆4.日中全面戦争突入            (1934〜1940)


***
 
3.・・・太平洋戦争への道・・・《日米開戦》・・・

   大東亜共栄圏の拡大

 こうして全世界からの批難にも拘わらず侵略を止められない日本は、遂にアメリカから石油禁輸制裁が叫ばれる様になり、日米の開戦気運は深刻さを増してきた。
 それに対し日本は、石油や資源を求め 【大東亜共栄圏(アジア諸国が共に栄える)】を唱え、つまりアジア各国に、「列強の植民地からの独立」を進言して支持を集め、マレーシア半島、シンガポール、インドネシア、パプアニューギニア、フィリピン、マリアナ・・・や太平洋の国々の併合を進めた。

 その結末は、日本軍の戦況悪化〜敗戦により、独立の約束は果たせなかったが、日本との併合は、西欧の植民地支配(=奴隷制度)と違い、現地人も教育し重要ポストにも登用し、インフラ整備なども行っていたので、戦後独立には貢献した筈だ。 そんな事情もあってか、これらの国々には日本に対し好意的な国が多い。

 
   日ソ中立条約  1941

 こうして欧亜の情勢が風雲急を告げると、ソ連の立場は微妙だった。 ソ連は欧州戦線で米英と敵対し、アジアでも満州を巡って日本と真っ向から敵対している。 そこに日独伊が三国同盟を結んだ。 独が侵攻すると日独の挟み撃ちになり兼ねない状態になる。
 日本にとっても、ソ連が(一時的でも)もし米英と仲直りすれば、日米開戦どころではない。 結局『ソ連は、連合国に参加しない、日ソ間も互いに攻撃しない』 という《日ソ中立条約》が締結された。
参考までにその後の結末を付記しておくと、
 太平洋戦争末期、日本は、敗戦を決意せざるを得なくなった時、少しでも有利な降伏条件を模索して、《日ソ中立条約》を拠り所に、ソ連に仲介を依頼しようとした。 しかしソ連からの回答はなかった。
 その頃、米英中仏(=戦争被害甚大な当事国)は、戦後の世界秩序(国際連合設立等)について検討していた筈だ。 それには(ヤルタ会談等は)大国と言う資格でソ連も参加していたが、恐らく主導権は 戦争の当事国が握っていたのではないか? 戦後の世界の主導権を考えると、ソ連は不参戦を通すのは得策でないだろう。 終戦間際 (1週間前)に《日ソ中立条約》を破棄して連合国側に参戦した。

 しかしソ連は、この期に参戦し、日本の敗戦に乗じて満州や南樺太や北方領土へ侵攻し占領した。 《国際連盟時代》なら、大国ソ連のそんな行為は 容認された(制裁できなかった)だろう。 しかし米英主導で設立された新制《国際連合》による「領土決定」には、ソ連は服従しないまま現在に至っている・・・。

  真珠湾攻撃   (1941/12/8 )

 ”山本五十六”はアメリカとの《国力差》から、日米開戦は躊躇していた。 しかし日本国中からの好戦圧力に押され、『短期決戦でアメリカ太平洋艦隊を撃破し、優位にたって早期講和に持ち込む』 というシナリオで【真珠湾奇襲攻撃】を断行した。 『ニイタカヤマノボレ1208』の暗号を受け、日本海軍はハワイ真珠湾奇襲で太平洋戦争の幕を開けた。 それは浅海に停泊中の艦隊に航空魚雷を発射そるという難題を克服し空前の損害を与えた。
 奇襲は2時間で終わり、『トラトラトラ』(我奇襲に成功せり)の知らせに、国中は熱狂した。

 しかし外洋にいた空母3隻と、地上施設の破壊は不徹底で将来に禍根を残した。 また日本の宣戦布告は、攻撃が始まった後に届けられ、『卑怯なだまし討ち』と、アメリカ国民の戦意に火をつける結果になった。



真珠湾攻撃




 4.陸軍の東南アジア作戦・・・”南方作戦”・・・
  
 南方作戦の目的は、@イギリス領マレーと、アメリカ領フィリピンを迅速に奪取し、Aこれを踏み台にして蘭印(現インドネシア)を攻略し資源を確保して、Bスンダ列島に防衛線を築くことだった。
 この地域は、当時の総人口6,000万人、3分の2はジャワ島に集中、オランダ総督府はバタビア(現;ジャカルタ)にあった。 油田地帯は スマトラ島や、ボルネオ島やジャワ島東部にあり、産出量(1939年=800万トン)は 日本内地の(500万トン)を上回っていた。 その他; 錫、ボーキサイト、ゴムなども産出していた。

   マレー沖海戦 (1941/12)

 ◆ シンガポール攻略戦
 シンガポールは英国植民地だが、インドネシアの資源(石油、ゴムなど)を日本へ輸送する経路上の要衝である。 日本陸軍は(海軍の ”真珠湾奇襲成功” に負けじと)マレー半島(コタバル)に奇襲上陸し、シンガポール攻略を目指した。
 それに対し英国東洋艦隊は、援軍に新鋭艦と航空隊を派遣した。
 所がそれは日本軍の索敵機に見つかり、12月10日 マレー半島東方沖で鹿屋航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)との戦闘になり、新鋭戦艦2隻(プリンスオブウエールス、レパルス)は、援軍どころかが撃沈されてしまった。
 それは『新式戦艦は、航空機では撃沈できない』という常識を覆す海軍史上初の大成果だった。
 この後、シンガポールを、激しい市街戦の末、飛行場や貯水池や給水施設を破壊して、奪取した。(1942/2)



プリンスオブウェールス
(マレー沖海戦で撃沈)

    フィリピン占領;   (1941/12〜1945 )

 当時フィリピン(比国)は米国が植民地支配していた。 日本にとっては南方作戦で(蘭印の)資源輸送経路の要衝なので、日本陸軍はルソン島に上陸し、順調に150日でフィリピン全土を占領した。
 その際、数万人の米国兵や比国兵捕虜を 食糧が補給できる地点まで100km を徒歩移動させ、死亡者が多数発生する事件が起きた。 しかし比国の独立運動家は日本を支持し、日本軍もフィリピンの独立を支援した。

※フィリピン住民殺害劇
 しかし戦争末期、日本軍の戦況が悪化し補給が絶えると、飢餓の為日本兵は住民を襲う様になった。 それは比国住民も抗日組織が出来あがり、各地で衝突が起こった。 それは、比国に派遣された日本兵の総数をも上まわる110万人超ものフィリピン人が殺害される結果になった。

 ◆ 銀輪部隊;

 自転車部隊(銀輪部隊)はフィリピンやマレー半島のジャングルや椰子林などの道を進んだ。
当時、歩兵部隊を安定して輸送できるほど自動車はなく、歩兵移動は徒歩が中心だった。
しかし侵攻速度が重要な南方作戦では、歩兵部隊が 兵器・物資輸送の自動車に追随して移動する為、現地の自転車を徴発して自転車部隊を急造した。
自動車や戦車が通れない狭い道も通れ、川は担いで渡れ、銀輪部隊は破壊された橋梁の修復も行い、自動車輸送隊を助けながら南方攻略を続けた。

   蘭印(現在;インドネシア)作戦 ;   (1942/1 - 1942/3)

 日本軍は(現在のインドネシア)へ侵攻した。
狙いは石油資源及び豊富な地下資源やゴムなどの獲得(上述)だった。
 インドネシアはオランダの植民地だが、日本政府はできれば無血進駐を実現したいと考えていた。 しかし日本が敵国(;米英)は、オランダと密接な関係国だった為、戦争状態になった。
 しかし日本軍の進撃は、タラカン、メナド、バリクパパン、アンボン、パレンバンなどへと進み、最終目標のジャワ島にも上陸に成功した。 大本営は開戦から占領まで120日間の予定が、92日間で完了するという快進撃だった。
 



 5.・・・『戦線拡大』・・・
   国力を超えて、回り続ける歯車

 陸軍の南方作戦は、マレー半島から、シンガポール、フィリピン、インドネシア、ビルマ戦線・・・と展開して資源を手に入れた。 海軍も《真珠湾攻撃》と併行して占領下の島々へ補給や兵員輸送を確保し、ビルマへの海上輸送路もほぼ確保し、陸軍/海軍は 互いに競い合いながら快進撃が続いた。
 勢いに乗じて、陸軍は更にビルマへの進攻計画を実行し、海軍も、《米・豪軍の分断》の為ミッドウェー島への進攻し作戦を企て、日本の領土は国力を越えて拡大しようとしていた。

    ビルマ侵攻作戦   1941- 1942
 ビルマ(現; ミャンマー)に進攻作戦は
@  英米から中国への補給路は、(日本軍が マレー半島、シンガポール・インドネシアを確保後)インド東部(インパール)から雲南省への空・陸ルートに限られた。
 日本軍は、 ビルマに進攻し、その補給ルートを遮断すれば、戦況は極めて有利になる。
A それに対し 英国軍にとっては、
◆日本軍が勢いに乗って、ビルマを占領すれば、更に西進してインド東部(インパール等;中国への補給基地)にも脅威となる。 日・独・伊の連係強化にもなり兼ねない。
◆それにはラングーン(ビルマの首都)攻略して、占領されているマレー半島、シンガポール奪還が至上命題だった。
B 大本営としては、防衛線としてビルマ確保の考えはあったが、兵力が限られ侵攻計画はしなかった。
◆しかし南方軍は快進撃に乗じて 1941年末からビルマ進攻を開始した。
 《結果》 日本軍は、ビルマ独立義勇軍の協力も得られたので英国軍を急襲し、首都ラングーン(現;ヤンゴン)が早期陥落できた。 ビルマ中北部では激戦となったが、勢いに乗って日本軍がビルマ全域を制圧し、連合軍(英国軍)は多くの犠牲者と捕虜を残して退却した。(1941-42)
◆泰緬鉄道  (建設 1942 - 43)

 日本軍はビルマを制圧したが、(タイ・ビルマ国境付近は山脈が連なり)、ビルマに通じる鉄道はおろか 満足な道路もなかった。 その為日本軍は、山脈を越える全長約400キロの鉄道(泰緬鉄道)建設を計画し、1942年6月から工事を開始した。 作業員は捕虜62,000人、募集で集まったタイ人、ビルマ人、マレー人、インドネシア人が合わせて 総員30万人という人海戦術で雨季も通して突貫工事を進めた。 現場ではコレラが流行し、約半数もの死者が出たが、鉄道は1943年10月に開通した。

※注)泰緬鉄道は、第二次世界大戦中はタイとビルマ(現;ミャンマー)を日本陸軍が建設し運行したが、建設時大量の死者を出したことから「死の鉄道」とも呼ばれる。
 現在はビルマ側の全線を含む3分の2が撤去され、バンコクのトンブリー駅〜ナムトック駅までタイ国有鉄道で運行され、風光明媚な自然の中を走り、観光客の人気路線になっているという。

 川と山の斜面の硬い岩盤をほぼ垂直に掘削して敷かれた線路や、映画『戦場にかける橋』の舞台となった連合軍捕虜と日本人合作でクワイ川の架橋工事など、旧日本軍時代を偲ぶ旅行者が多い様だ。
  沿線のカンチャナブリには、旧日本軍の捕虜収容所の様子を伝える「戦争博物館」や、泰緬鉄道建設の過酷な労働やマラリアなどで死んだ連合軍捕虜の墓石が並ぶ「連合軍共同墓地」があり、またクワイ川の鉄橋近くには、泰緬鉄道建設中に犠牲となった全ての捕虜、労務者、日本人将校、軍属の霊を慰める慰霊塔があるという。

 



6. 戦況の転換

 こうして緒戦は、陸/海両軍は競い合って戦線を急速拡大していった。 
しかし両軍の互いの連係は必ずしも十分ではなかった。 戦線が拡大後の占領地運営についての考慮は不十分だった。


  【ミッドウェー海戦】   1942-6-5
  ーーー運命の海戦、その時連合艦隊を待ち受けていたもの・・・!?】ーーー

 ミッドウェー作戦は、米豪の連係を遮断するのが狙いだった。 ハワイのアメリカ太平洋艦隊を撃滅すれば、早期にアメリカと講和を結べる・・・。 そんな狙いで、連合艦隊山本五十六司令長官が強硬に主張した作戦だった。 それは綿密に計画され、日本海軍の最精鋭空母群と最強艦隊を投入し奇襲攻撃・・・の筈だった。
 所がアメリカ軍は、日本軍の暗号を事前に解読して待ち伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網の中に突き進み・・・、その結果、攻撃機動部隊の最精鋭空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)と、多数の航空機、優秀なパイロットも全て失うという惨敗に終わった。
 ※ 《ミッドウェー海戦の敗北》が転機になって、それまで勝ち誇ってきた日本軍の攻勢は一気に逆転した。
主力艦、航空機、パイロットなど主力攻撃部隊を失った日本海軍は、残った艦船も交戦の毎に撃沈され、太平洋上の島々も成す術もなく、順次玉砕・陥落に追いやられた。
 そして制空権・制海権を奪われ、島に取り残された日本兵への補給が絶たれ、食料も見あたらないジャングルを彷徨いながら多くは病死や餓死していった。 それでも大本営は終戦の瞬間まで偽りの戦果を華々しく発表し続けていた・・・。 

  【ガダルカナル攻防戦】  1942/8 〜1943/2
   ーーー兵士たちを見舞った密林の悲劇ーーー

 ガダルカナル島には当初、日本軍が飛行場を設営していた。
《ミッドウェー海戦敗北 1942年6月》後、米軍の本格的反攻はソロモン諸島の要衝ガダルカナル島から始まり、同8月アメリカに奪取された。
 日本軍は その後3次にわたる奪還作戦を展開したが失敗に終わった。 時既に制空権・制海権を奪われ、輸送船が近づけなくなり、深刻な食料不足に陥った。
 しかし御前会議で撤退を決めたのは 4ヶ月後(1942/12)で、しかも実際の撤退は翌年2月になった。 理由は想像する以外ないが、日本軍兵士の殆どが死亡(戦死者6,000人、餓死者15,000人)という結果になった。
 
 
青枠 ;勝利戦、 黄枠 ;惨敗戦
  

 
【次第に戦局が厳しくなる日本軍】
   ーーー防戦一方となった各戦地での戦いから終戦まで

 日本陸軍は、敵陣地を攻略し食料や物資は現地入手を原則として、太平洋戦争開戦後約半年間はあまり苦労なく領土を拡大した。 しかしその後、ミッドウェー海戦敗北を契機に、戦況は一気に逆転し、南方の島々は順次陥落すると、残留兵士たちは糧食も絶え極限状態に追い込まれていった。
 ソロモン海戦(1942/8)
   ガダルカナル戦線(前述)、 ニューギニア戦線でも多くの犠牲者が出す
 マリアナ沖海戦 (1944/6)
  ※  アウトレンジ戦法で逆襲
日本は、航続距離の長い《零戦》の特徴を活かし、遠方から敵艦隊襲撃を試みた。
しかしアメリカは、レーダーで完全に捕捉し、零戦の機数を上回るヘルキャット(戦闘機)が上空で待ち伏せ攻撃し、VT信管による艦砲射撃もあって、日本は完敗、大量の航空機と主力空母も失った。
VT信管
軍艦から艦砲射撃の弾丸は従来=時限爆発式だったのを、電波で目標(航空機)に近づき、距離を測定して爆発する(VT信管)を開発し、撃墜精度が格段に向上した。
 サイパンの戦い (1944/7)

サイパンは20年以上日本が統治し『絶対国防圏』としていた。
日本軍守備隊は猛烈な抵抗を行うも、追いつめられた日本軍は《バンザイ突撃》を敢行して全員死亡した。
 
 サイパン陥落後、1944年末には 2,000機ものB-29基地として整備された。
それにより爆撃機の日本本土への往復が可能となり、本土無差別爆撃が本格化した。
 
 レイテ沖海戦 ・ 戦艦『武蔵』の最期     (1944/10)
  フィリピンは南方資源補給の中継地として要衝だった。
 空母を囮にして、戦艦《武蔵》・《大和》を含め三方向から再上陸する奇襲作戦を企てたが、反撃に遭遇し、多数の戦艦と共に戦艦《武蔵》も失い、連合艦隊は事実上壊滅した。
  日本軍の戦況悪化は現地民にも知られ、補給が絶たれ、兵士は飢餓で住民を襲う様になると抗日組織が跋扈した。 日本兵はそれを殺害し、フィリピン人死者は110万人超という日本兵の戦死者を上まわる殺戮劇が起こった。
 ◆硫黄島の戦い  (1945/3)
  太平洋の島々は 南洋諸島〜南アジア〜マリアナ〜パラオ〜グアム、サイパン〜フィリピン〜と順次陥落した。 硫黄島では島全体を要塞化して激しく抵抗したが、地形が変わる程の艦砲射撃と空爆を伴う上陸作戦で玉砕した。
  沖縄戦  (1945/3 - 4)
  沖縄本島は、本土上陸作戦の開始拠点。
◇アメリカ軍は史上最大規模の(艦船1,500隻、兵員延べ50数万人、艦載機;数100機)を投入
◇大本営も 『決戦の場』と見て呉軍港から 戦艦”大和”に特攻指令をだした。 しかし鹿児島沖で襲撃を受け敢えなく撃沈された。
◇島民と兵士は、海全体を埋め尽くす大艦船団と舟艇群を前に、本土決戦の防波堤として《軍民一体》となって一日も長く持ち堪えようとした。
◇戦死者は; 兵士 10万人、住民(自決を合わせ)9万人(=全住民の2割)に達した。
  日本海軍の総力を結集した巨大戦艦『大和』の最期  (1945.3)

 遂に沖縄が戦場になると特攻作戦はピークに達した。 軍首脳は、本土玉砕をも辞さない覚悟で(昭和20年3月)燃料不足の為、呉湾に大集結していた戦艦群の中から、遂に史上最大の戦艦《大和》に沖縄戦出撃命令を下した。 それは艦隊決戦ではなく 『一億総特攻のさきがけ』 として特攻出撃命令だった・・・。
 しかし「大和」出撃情報はアメリカ軍には筒抜けで、豊後水道で米艦隊に発見され、4月7日;鹿児島県坊ノ岬沖に達した所で、米航空隊の待ち伏せを受けた。 戦闘機、爆撃機、雷撃機から膨大量の魚雷攻撃を受け、壮絶な最期を遂げた。 《大和》乗組員3,332人の内、生存者は276人だった。
  日本本土空襲、原爆投下 〜 終戦  (1944 末 〜 1945/8)
   サイパンからは、連日100機を超える B-29の編隊が 1波、2波、3波・・・と飛来する本格爆撃が続いた。 連合国側は、1日も早く降伏させようと日増しに熾烈化し、それに対し日本は大都市の民家取壊し(類焼防止帯)や児童疎開もして 1日も長く持ち堪える持久作戦を続けた。
  ※   そして東京、大阪、名古屋など・・・200都市以上、大都市の殆どが焼き尽くされ、最後は広島・長崎への原爆投下・・・終戦という結末となった。た。
 それは親も子も容赦なく犠牲者数は膨大に達した。 加えて厳酷な食糧難のさ中、街には誰の援助もなく佇む幼な子たちも溢れた。彼らはどの様にして生き残ったか?・・・テレビドキュメンタリーNHKスペシャル「”駅の子”の闘い」で生き残った人の証言など・・・聴くと堪らない。



    インパール作戦  (陸軍=1944.3〜7)

 インパールはインド北東部のイギリス軍基地で、ビルマ経由で中国への補給路を開こうとしていた。
日本軍にとっては、これをが進攻すれば中国軍の弱体化と、インドの独立運動も誘発し、戦争は有利になる。
 しかし乾季でも川幅600mもの大河を渡河し標高2,000m級の山地行軍、人口希薄地帯での糧食徴発など、作戦は無謀とされていた。
 以下は、新聞雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等の寄せ集め=「私の歴史観」である。

 太平洋戦線で日に日に悪化する戦局に、『一気に打開したい』という寺内寿一南方軍総司令官の強い思惑を、同時期にビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也は強硬に支持した。 反対する者は大和魂云々・・・とか卑怯者として排除され、確固たる作戦検証のないまま (1944.3) 9万の将兵によって実行された。 それは雨期を避け 3週間で、インパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。
 しかし現実は、インパールの手前 15km地点に近づくのに 2か月を要し、大河の渡河や高峻な山地の強行軍で、武器や糧食を失い、餓死や疫病により兵も失う惨状で、対戦準備を整えて対峙しているイギリス軍と対戦した。

 それでも牟田口司令官は「100メートルでも進め」と、丘の上に陣取ったイギリス軍への突撃を指示し続けた。 この丘は無数の日本兵の血が流れたことから《レッドヒル》と呼ばれている。
 しかしこの惨絶は、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、東條首相は「剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する」と天皇に上奏した。

 作戦開始から3か月後(1944年6月)には 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死)し雨期に入っていた。 この地方の降水量は世界一と言われているが、更に30年に一度の大雨だったと言われている。
密林は辺り一面の洪水で、兵士たちは宿営の場所もなく、食料も流される状態でも作戦は中止せず、戦死者は増え続け、ようやく大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。
 しかし作戦中止後、つまりレッドヒルからの撤退は、激しい雨の中、敵の攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河まで400kmは、全戦死者の6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
 腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ・・・帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12放送)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見た、人間が転んでしまえばハゲタカもいきなり飛びついてくる、戦場で目にしたものを絵にしてきたが最も多いのは餓死する仲間たちの姿だった、(1人でいると)肉切って食われちゃう日本人同士でね・・・、ともかく友軍の肉を切って物々交換したり、マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士、・・・それがインパール戦だ」・・・等々の証言が飛び交っていた。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したか公式の記録はないという。

 その後、イギリス軍はビルマを完全に奪還し、中国への補給ルートを確保し、ビルマ各地に残留していた日本兵は次々玉砕した。

 
 



7. 庶民も戦争に巻き込まれていく戦争末期

   出陣学徒壮行会
   ーーー学業半ばに、愛する家族を残して

 日本政府は窮余の策として《学徒出陣》を決定した
 1943年11月21日、 雨が降りしきる中、神宮外苑競技場で挙行された。大学生や専門学校生を対象とした学徒出陣は、戦時体制強化の一環だった。
雨の神宮外苑には、東京と近県77校から未来ある若者たちは、学業も夢も志半ばに、短期間の訓練を終え、直ちに最前線に送られることになった・・・。

   広がる日米の兵力格差 『特攻隊』 1944
  ーーー祖国よ、さらば・・・、悲しくも散った若き命ーーー

 アメリカはソロモン、タラワ島、トラック諸島、マリアナ・・・と太平洋の島々を次々攻略していく。 日本軍はサイパン防衛も、インパール作戦も、レイテ沖海戦も、失敗・・・。
 この期に及んで、日本のできる唯一、戦局挽回すべく組織された特攻隊。 1944年10月25日、海軍がフィリピンで編成した『神風特攻隊』を皮切りに、その後多くの若い命が次々と飛びたち戦場に消えて行った。
 1トン以上の爆薬を積んだ人間魚雷『回天』は、敵艦に当たれば確実に撃沈させられると考え、出撃した隊員(敷島隊)の平均年齢は21歳。 中には予科練をでたばかりの17歳の少年も含まれていた。

海軍の特攻兵器・人間魚雷『回天』

太平洋戦争を巡る紆余曲折は、次にも記しているので参照願いたい。
◆5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後    (1940〜    )
 

 8. 終りに 『大東亜戦争は何故起こったか・・・?』

   ” 私の歴史観 ”

 大東亜戦争に至る経過について大筋は間違いないと思う。 しかし「経過を知るだけでは何の役にも立たない」。 人類史上例のない大規模世界戦争が何故起きたか、それぞれの局面で世界はどうすべきだったか・・・? 《大東亜戦争》勃発までの半世紀に起こった様々な事件や背景について、様々な角度で考えて見ることが必要である。

 ◆ 時代背景について・・・
@  産業革命で『力』をつけた強国(英国他複数)は我欲を駆り立て、弱国の植民地化やアジア方面にも、獲物に群がる獣の様に侵攻した。
 A  蒋介石中国が獲物にされ続けたのは、前身の清時代末期、弱肉強食世界での《政治的/軍事的》対処が無防備だったこと、それが最後まで尾を引いたと考える。
 B 大国ロシアも、日露戦争の勃発/敗戦は大誤算になった。 新制「ソ連」誕生後、誤算を取り戻そうと更なる拡張政策を進めたのは、当時としては当り前の成り行きだろう・・・。
 C  イギリスも、清国に対しアヘン戦争やアロー号事件など、謀略無尽な利権追求も、新兵器利用で一方的に弱者いじめになったが、当時の弱肉強食世界では自然な成り行きだろう。
 D  しかし第一次世界大戦勃発して欧米軍が退去すると、満州と中国は日本の独壇場になった。
しかし反日抗日で囲まれた状態では軍事費は嵩む一方、高度文化輸入も・・・と借金地獄だから、朝鮮や満州を死守は絶対条件になっていた、・・・しかし敵は中国全土にはびこり、益々戦線拡大、猛烈侵攻に繋がったのも自然の成り行きだろう。
 E  それが 『世界の脅威』になり、米英が中心になり(中国を含めた)対日連合軍(連合国)を結集した。・・・というのが「私の歴史観」である。
 しかしそれは太平洋戦争直前のことであって、その以前には(日本と一緒に) 【中国利権に群がる仲間】 だった。 それが何時の間に 『世界正義の国』に転向したのか・・・? そんな我欲が人類史上例のない大規模世界戦争の最大の原因ではないか・・・?
 F  何れにせよ、日本の国情は一歩も譲れない状態で、敷かれたレールを突っ走る以外なくなっていた。 それもここまで連戦連勝の日本は、軍部の奢りも 国民大衆も好戦一色、開戦への流れは山本五十六ら慎重派も制御不能に陥っていた。

 ◆ 大東亜戦争(太平洋戦争)は何故起きたか?(考察)

 大東亜戦争が何故起きた・・・、と言うよりも中国・朝鮮・日本の(国家間衝突)が、『何故大東亜戦争(世界大戦規模)にまで拡大したか?』 だが、”私の歴史観” では 特に注目すべきは次の3項目と見ている、

 
@、産業革命がもたらした強力兵器が《弱肉強食世界》の秩序を急崩壊したこと。
 英国が手に入れた「超強力兵器」は、(当時の 英・仏対戦に留まらず)世界中を植民地化し、清国(現;中国)までも侵出した。 期せずして勃発した《第1次世界大戦》も空前の大規模化し、国際連盟が設立されたが、その後も、列強の軍事能力の急速に拡大に、国際連盟のコントロール能力が追いつかなかった。

 
A、強大国のエゴと、 国際連盟が 強大国主導になっていたこと。
 列強各国は、競い合って日本との貿易拡大や、日本の近代化に多大な協力をした。 しかし日本には食料も、資金も、地下資源も、労働力も、科学的知識もない。 対価支払いには、日本は朝鮮や満州や中国に侵攻する以外にないことは分かっていながら、軍事留学まで受け入れた思惑は、何だったのだろう?
 それに対し(リットン調査報告など)国際連盟も、欧米諸国や日本に有効な制裁をしないから、日本は日中戦争をエスカレートした。 それは 産業も労働者も軍需関連に偏重し、若者は徴兵、または軍を志願し、行き着く先は戦勝を続ける以外、食料も、文化輸入も、借金地獄も、・・・国民生活は成り立たなくなっていた。

 
B、清国(西太后時代)の政治不作が、後代(中華民国時代)にも延々と尾を引いたこと
 西太后時代の政治不作は、清国(現中国)本土は 英米仏独に武力侵入され、満州の統治権は露、日に奪われ、従属国(朝鮮)も、台湾も日本に奪われ・・・国力が地に墜ちてしまった。
  それは、1911年(明治44年)漸く辛亥革命が成り、新制中華民国(孫文政権)が新出発したが、よちよち歩きの新政府には、欧米諸国も、日本も、ロシア(後ソ連)も、全て獲物に野獣が群がる如く、襲いかかり、孫文を引き継いだ蒋介石も、日本軍の侵攻を受け「中国本土を逃げ回るだけ」になった。 しかし侵略をエスカレートする日本軍の行為が世界中から非難を浴び、世界と戦う結果になった。

 
しかしはっきり言えることは、『戦闘(戦争)』が現実味を帯びる様になった時には、もう阻止は【至難の業】になっている。 (日本を含む)関係各国の小競り合いの段階で手を打てば、反省材料は沢山あった。
 日中戦争も、日本と欧米諸国が 利益共有できていた間は 寧ろ協力し合っていた。 しかし利益が一方的に日本に偏ったことから日本と欧米の紛争だが、日本は簡単に引き下がられないで大東亜戦争に発展した。
 英米中仏は、最後の大東亜戦争では勝利国だが、一方的に米英が忠義国という訳ではない。 以前のアヘン戦争など、最凶悪犯歴や途中の犯歴は全て不問にし、最後の敗戦国「日本」だけに 《侵略国》のレッテルを貼って一件落着とした。 だから恒久平和は難しい。■



  
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