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このページは 『私個人の歴史観』です 史実を述べるものではありません |
大東亜戦争への道 | 2018/1 記 更新2023/11 |
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ペリー来航 ~ 大東亜戦争(太平洋戦争)まで |
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*1 |
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1.・・・大東亜戦争への道 (歴史の概要)・・・ | |||||||||||||||||||||
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2.・・・大東亜戦争はなぜ起こったか?・・・ | |||||||||||||||||||||
*21 日本開国 ~明治維新~日本近代化政策
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*22 「日露戦争」勃発 |
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◆ ロシアの動きと、日英同盟締結 1902 その間にロシアは、弱体化した清国と「露清密約」を結び 《義和団事件》終結後も満州に居座って、遼東半島まで鉄道を敷設し、堅固な旅順要塞を築いていた。 そして満州鉄道をシベリア鉄道と連結する工事も進め、日本の獲得した朝鮮半島占領の準備を進めていた。 |
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所が、ロシアはヨーロッパで南進《膨張政策》により イギリス植民地を脅かし、英・露は敵対関係を強めていた。 期せずして、➡①日英は《日英同盟》を締結した。 それと合せて、➡②《朝鮮半島支配》を巡って 「日露交渉」が続けられた。 | |||||||||||||||||||||
しかし、シベリア鉄道との連結・増強工事は着々と進み、これ以上交渉が長引けば、日本は「戦闘不利になると」判断し、交渉を打切った。 | |||||||||||||||||||||
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◆ 日露戦争 1904-1905 こうして日露戦争に突入した。 しかし(常識的に)勝ち目のない 『国家の存亡』が掛かった戦争に、陸軍は乃木希典、海軍は;東郷平八郎が連合艦隊司令長官に就任した。 |
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ロシア軍の極東基地はウラジオストックと旅順にあったが、連係路は朝鮮半島 (日本支配)と 佐世保基地に挟まれ、連係は難しかったので補強の為、遠路バルチック艦隊を回航された。 しかし英国は、経路途中(英国植民地)への寄港や補給の非協力や、スエズ運河を通行させないなどの抵抗と共に、バルチック艦隊の挙動情報を、刻々と日本に伝えていた。 |
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◆ 日露戦争の経過 バルチック艦隊回航は、到着する前に「旅順基地攻略」しなければ、旅順艦隊が出動して「挟み撃ち」される。 しかし旅順基地の背後は、小高い山に囲まれ、山上には堅固な要塞が幾重にも築かれ、攻略の糸口が掴めない。 正面(海側)にも、最強艦隊と、無数の砲台が睨みを効かせ手の施し様がない。 しかし結果は、陸軍が莫大の犠牲を払って「旅順要塞」背後の「203高地」から突破し、旅順基地を攻略、湾内に集結していた艦隊も撃破した。 その後、海軍(連合艦隊)は、対馬海峡でバルチック艦隊を待ち伏せし、交戦(日本海海戦)に完勝した。 それには、下記❶~❼の戦闘が戦わせられた。 「日露戦争」とは、それら全戦闘の総称である。 |
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それは、約 1年間は苦戦の連続で、偶々「運よく勝てた」と言うのが実態だろう? その中で、特に、次の決戦が小説などによく とり挙げられている。 ❷【旅順港閉塞作戦】;旅順湾口に廃船を沈め、湾内に停泊中の艦艇を封じ込める作戦 ❹【《旅順攻囲戦》、《203高地奪取戦》】; 陸軍は膨大な犠牲を払い背後から旅順基地を攻略した ❼【日本海海戦】; 海軍は、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破した。 |
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*23 日本軍(関東軍)の 満州侵出 ~ 満州事変勃発~日中戦争に拡大 |
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◆ 満州侵出 ~ 満州統治権奪取(張作霖爆殺事件) | |||||||||||||||||||||
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この間の曲折については次に記している。 ◆2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防 (1911~1928) |
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◆ 柳条湖事件(満州事変勃発) (1931) こうして「反日・抗日事件」が絶えなくなると、関東軍(石原莞爾)は 、南満州鉄道の線路爆破事件を自作自演した。 勿論、故意に爆破した事件だが、即座に 『満州人の犯行 !! 』と口実造りして、即座に満州全土を攻撃し、極めて短期間に全土制圧する驚異的大成功を治めた。
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◆ 5・15事件 (1932、昭和 7年) その頃 世界恐慌の煽りを受け、日本国内も不況に陥っていた。 財閥は労働者を酷使し、政治家は財閥と癒着して我欲に走り・・・、「ロンドン海軍軍縮条約」(1930) により 保有艦船も削減され・・・、政府は慢性的財政難で軍縮を強要し・・・。 そこに 『満州事変の大成功』 の報が伝わると、自らの功を焦る若手将校たちは、軍縮を進め様とする犬養毅総理らを暗殺する「クーデター」を断行した。 |
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結果は、彼らの目指した 「軍部主導の政府」は実現しなかったが、 →① 軍部の発言力が強まり、政府は軍を抑制できなくなった、 →② 右翼団体や急進的な思想に共感が強まり、政治情勢に大きな影響を与えた。 |
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*24 満州国樹立(1932)~ 日中戦争に拡大 |
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◆ ≪満州国樹立≫宣言 こうして、関東軍は、満州全土を制圧すると国家体制を繕い、『満州は、中国 国民党政府と離脱し、独立せり』 と、≪満州国樹立≫を宣言した(1932.3.1)。 それは、首都(長春)は "新京" と改名し、元首(執政)に溥儀が即位し、『満州人たちが自主独立して「近代国家を建設」を支援する』 と言う建前だが、実態は日本の為の「傀儡国家」だった。 |
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◆ ≪リットン調査団≫ それに対し中国(蒋介石政府)は、「満州不法占領」を 国際連盟に提訴した。 国際連盟からは、リットンを団長とする調査団が派遣され、 3ヵ月にわたり調査した。 しかし調査結果は、 ①中国を立てれば、欧州各国の中国利権も失われ、②日本に制裁を加えれば世界に戦乱を招く・・・(?) 形式的に中国側の主張を認めたが、日本を規制する条項はあいまいで、却ってお墨付きの様に解釈して満州国(占領)を続行した。 |
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◆ 国際連盟脱退 (1933、昭和 8年) しかし【満州国】は、国際連盟では一国の承認も得られなかった。 しかし『食料も、資源も、労働力も、全て満州頼み』の日本は、巨費を投じた「満州国」を手放せる筈もなく国際連盟を脱退した。 |
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◆ 2・26事件 (1936、昭和11年) その頃、日本国内も、政治腐敗や、財閥との癒着、労働者や国民の生活苦も・・・、4年前の5・15事件当時から一向に改善されず、世論も 政府批判が強まっていた。
しかし彼ら(皇道派)が崇敬していた昭和天皇は激怒され、彼らは「賊徒」として処罰され、,結果として「統制派」の『陸軍幹部が政権中枢に入る仕組み』ができ上った。 |
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◆ ≪満蒙開拓移民団≫ 1936(昭和11年)~ 日本は、富国強兵、”産めよ増やせよ” の裏に、絶対的な食糧難があった。 それに経済恐慌の影響で失業者も増加し、ハワイやブラジルからも 移民団の受容れを拒否された。 |
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しかし満州には、見渡す限り肥沃な荒野を耕せば、農地は幾らでも拡がる。 日本内地の食糧も、鉄も石炭も豊富・・・夢あふれる別天地に、広田弘毅内閣は大量の入植者を送り込んだ。 それは太平洋戦争終結まで 30数万人に達した。 | |||||||||||||||||||||
しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 の現実は、酷寒の雑木原野を人力で開拓するのは容易でない。 そこで満州国政府は、現地人の住居地や耕作地を、一方的に
【無人農地】として、???ヘクタールの用地が日本人入植者に与えられた。 入植者は ”開拓移民団” という日本人社会で生活した。 現地人と交流はあっても中々融け合わず、彼らは日本人移民団を恨み、衝突が絶えなかったと言う。 |
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しかし関東軍が攻勢の間、満州は 一応平穏に保たれていた。 しかし日本人への反感は強く、それから10年余り後 「日本の敗戦」(1945)により、関東軍が威力を失った瞬間、怒りは爆発し、ソ連軍も侵攻し、満州在留邦人は猛烈な災難に見舞われた。 |
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大勢の在留邦人は 帰還列車もなく、老若男女を問わず無差別に襲撃され、或いは集団自決し、或いは捕虜としてシベリア抑留、或いは食料もない荒野を彷徨い、衰弱する仲間や子供や家族を置き去りにしながら、幾10里の道を歩いて、極く一部の人が故国日本に辿り着いた。 | |||||||||||||||||||||
◆ ≪盧溝橋事件≫ (1937=昭和2年) ⇒日中戦争 話を戻す。 こうして日中間の険悪ムードが頂点に達した頃、「盧溝橋事件」が偶発した。 事件及び経緯については様々な見方はある様だが・・・、それは、日中戦争の糸口となった。 |
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それは、日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中、何者かが発砲し兵一名が行方不明になった。 その為 伝令に出た曹長らが、中国軍陣地に近づくとまた発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を始めた。 すると また銃声の報告が届き、日本軍は中隊を 中国軍部隊に向けて前進させた。 それに中国軍は激しく射撃し、日本側も応射し、全面衝突となった。 しかし約2時間後、小康状態になり、盧溝橋城内での停戦交渉で事件は終結した・・・かに見えた。 しかしこれに端を発し、日本内部で次の2派のせめぎ合いが始まった。 | |||||||||||||||||||||
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結局、【不拡大派】の方向で、中国側に 「謝罪」、「責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を求め、事件を終結させ様としたが・・・、 【拡大派】は、 「もし中国が応じなければ、交渉団の生命が危険」と口説き、近衛首相は (交戦でなく) 会議場付近に兵員を待機させることを認めざるを得なかった。 |
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それは、「中国側は妥協するだろう」 との思惑だったが・・・、蒋介石は「断固抗戦」を決めつけた為、【拡大派】は燃え上がり、「暴支膺懲」を合言葉に、一気に日中戦争の火がついた。 | |||||||||||||||||||||
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石原は、一時、日本で勤務した後、関東軍参謀副長として満州に戻ったが、そこは彼の理想と異なり「日本の植民地化」していた。 石原の理念は、先の「柳条湖事件」を主導し、満州事変勃発の張本人だっただけに説得力に欠け、軍部や東條英機(関東軍参謀長)らと激しく対立した。 | |||||||||||||||||||||
◆ ≪上海事変 ~ 南京大虐殺事件≫ (1937、昭和12年) 日中戦争の発端は、上海(虹橋飛行場内)で衛兵の発砲事件から開始した。 平時なら、互いに交戦は回避する筈だが、日中がピリピリする状況では、 ➡①危機を感じた陸戦隊(日本)が出動すると、➡②中国正規軍も前進して日本人租界(居住区)を包囲し、➡③市街戦が始まった。 そして中国軍は空から日本人租界や艦隊を爆撃し、日本艦隊も中国軍陣地を砲撃した。 しかし中国軍は米英の支援を受け、日本側は内地から艦隊を次々派遣して本格的な戦闘が、2ヶ月半続き、漸く日本が勝利し、敗れた蒋介石軍は南京に向け壊走した。 |
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その頃、ソ連軍は急速に軍備を新増しており、それが満州攻撃に向けられると、守備兵力が手薄な為、関東軍本部は 「戦線不拡大」方針だった。 しかし現地軍は「蒋介石軍さえ倒せば、全て解決する・・・」と 指令を無視し、壊走軍を追って南京に進撃した。 そして南京城を包囲し、市民も含め無差別虐殺「南京大虐殺事件」となった、死者数は、30万人と中国側は主張している。 | |||||||||||||||||||||
◆ 日中戦争(支那事変)の拡大 *****大陸内部への侵攻***** しかし蒋介石軍は、南京が陥落すると、武漢へ、武漢も突破されると重慶へと大陸内部へ次々逃避した。 日本軍はそれを追い戦場を内陸まで拡大していった。 そんな勝利続きに、東條英機は;「我が国はアジアに「力」を示しつつある。 逃げる蒋介石軍を追い続けるべきだ !!、我らは皇軍だ、敵の戦闘機さえ精神力で落とすのだ・・・!」と鼓舞した。 対する石原は「東條サン、あんたは実戦を知らん。無茶な進軍は敗戦を呼ぶだけ だ !!」 と真っ向から対立し解任された。 |
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しかし日本軍の行軍は、糧食や必要物資は現地調達が原則だった。 灼熱の原野を飲まず食わずで、住民や農民に変装したゲリラ兵と戦いながら行軍する兵士の大群が、住家を見つけた時
何が起きるか・・・?? 住民に強奪や強姦、無差別襲撃などなかっただろうか? しかし米英は 蒋介石軍に武器支援していた為、局地戦に幾ら勝っても、犠牲者と 極度な疲弊を招く泥沼状態に陥った。 それでも日本国内では、大本営発表の「勝利の報」に湧き上がった。 |
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しかし日本政府は、言論統制を強め、「ぜいたくは敵だ !!」とか、「欲しがりません勝つまでは !!」などのスローガンで民心を鼓舞し、「国家総動員法」を公布(1938 昭13)して、人員や物資を自由に動かせる様にし、軍部は 「中国全土を制覇(第二の満州国設立)」を目指して攻略を続行した。 |
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◆ ≪ノモンハン事件≫ (1939=昭和14年) そんな折、 満州国の国境付近で、ソ連・ 蒙古軍が不穏な挑発行動を見せると関東軍将兵たちは 逸る気持ちが抑えられなかった。 日本が秘かに開発した 【89式戦車】も揃っており、(ソ・満・蒙) 国境の掃討作戦を決行した。 |
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見渡す限り地平線に続く草原を、 2万5千人の歩兵の隊列はイモムシが這う如く、3日、4日、5日・・・明けても暮れても行軍中、銃と弾薬、食糧以外は全部捨て・・・戦線に到着した。 しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を備えて 待機しており、我が国が開発した自慢の秘密戦車も、「ソ・蒙軍の新鋭戦車」には歯が立たず、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら敵戦車と戦かい壊滅的大敗に終った。 |
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*3 |
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3.・・・太平洋戦争への道・・・《日米開戦》・・・ | |||||||||||||||||||||
日米開戦への流れ | |||||||||||||||||||||
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◆ ≪南方作戦≫ 1939(昭和15年)頃~ 日本は、アメリカから「石油禁輸制裁」に対し、それを東南アジアに求める「南方作戦」(後述)に転じ、「アジアの安定」を建前に 東南アジア諸国の併合を開始した。 こうして本格的に南方侵出を進める日本に、アメリカから、関係改善の最終条件 「ハル・ノート」 が示された。 しかし「大陸から兵を引く(=満州返還)」など、到底受けられる内容ではなかった。 |
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◆ ≪ソ連~ドイツの立場 & 日ソ中立条約(1941)≫ その頃、ヨーロッパでは、ナチスドイツが急速に抬頭し一触即発状態になっていた。 ソ連は、①「南進政策(膨張政策)」で英米と敵対し、②日本とも「日露戦争以来」激しく対立し、③ドイツとも、ポーランド侵攻を巡り水面下で激しい敵対関係になっていた。 |
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そこに日本軍の動きは、ソ連にとって 「米英側につくか、ドイツにつくか・・・」立場は微妙だった。 英米につけば 日・独に挟撃される恐れがある。 それはドイツにとっても、ソ連が敵(英米側)つけば同様な事情にあり・・・取敢えず(?) 「ソ独不可侵条約(1939)」を締結した。 |
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それは、欧州の軍事バランス上影響が大きく、世界にとって驚愕的な出来事だった。 ところが日本もドイツに接近し「日・独・伊三国同盟」を締結(1940)した。 そうなると、日・独の関係を警戒して(?)、「日ソ中立条約」を締結した。 そうして 「➡①日本はアメリカに、➡②ソ連はポーランドに、➡③ドイツはヨーロッパに」侵攻のお膳立てが整った。 |
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◆ ファシズム国家ナチスドイツの抬頭 *****《日・独・伊三国同盟》***** ナチスドイツは、《独ソ不可侵条約》締結により ソ連の脅威がなくなると 隣国ポーランドに侵攻し(1939)、それに欧州各国が応戦する形で 「第二次世界大戦」が勃発した。 |
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するとナチスドイツは、矢継ぎ早に ポーランド西部、オランダ、ベルギー、フランスを占領する 快進撃を続け、翌年(1941)には「独ソ不可侵条約」 を一方的に破棄して、ポーランド東部からソ連領バルト諸国に侵攻し、ソ連は大打撃を受けた。 | |||||||||||||||||||||
そんなナチスドイツの躍進に、日本国内は「ドイツに続け !!」、「大日本帝国はアジアの中心・・・ !!」と、《日独伊三国同盟》締結の気運が一気に昂揚した。 しかし山本五十六らは、(三国同盟締結は)「米英との戦争が決定的になる !!、戦争になれば絶対に勝てない !!」と、命がけで反対したが、流れは「三国同盟」締結に動いた。 |
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◆ 御前会議~太平洋戦争突入 (1941 昭和16年) 天皇陛下は「君臨すれども統治せず」、通常、議会に口(くち)は挟まれない。 しかし昭和天皇は、御前会議(9/6)で 『戦争回避すべく外交に全力を尽くす様・・・』 強い口調で発言をされた。 しかし近衛内閣は、日米開戦に戦意沸騰する陸軍将校や国民を収拾できず退陣に追い込まれた。 |
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東條英機は、強硬な開戦論者で、近衛内閣を退陣させた張本人だったが、この期の収拾は、現;陸軍大臣である東條以外に人材が見当らず、東條内閣が組閣された。 その東條も、総理の立場で日米開戦の決断には大変煩悶の末、結局、歯車は止められず、昭和天皇も「多勢に無勢」、詩句を引用して遺憾の意を表された。 |
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後の昭和天皇回顧録では、上奏は「肝心なことを隠し、実態とかけ離れた報告ばかり・・・」、それに天皇が口を挟めば、全て「 お墨付きになってしまう・・・」 ことを憂慮されていた様だ・・・ | |||||||||||||||||||||
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*4 |
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4.・・・陸軍の東南アジア作戦・・・”南方作戦”・・・ | |||||||||||||||||||||
南方作戦 ~ 大東亜共栄圏の拡大 | |||||||||||||||||||||
南方作戦は、→①イギリス領マレーと、アメリカ領フィリピンを奪取し、→②それを足場にシンガポール、蘭印(現インドネシア)を攻略し資源を確保し、→③スンダ列島に防衛線を築くことにあった。 | |||||||||||||||||||||
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大東亜共栄圏は、「列強植民地からの独立」を奨めて支持を集め、マレーシア半島、シンガポール、インドネシア、フィリピン、パプアニューギニア、マリアナ・・・と太平洋の国々の併合を進めた。 結果、日本の敗戦で独立の約束は果たせなかったが、日本は、西欧の植民地支配(=奴隷制度)と違い、現地人の教育や重要ポストに登用、インフラ整備など、戦後独立に大きく貢献している。 |
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◆ フィリピン占領 1941/12~ 当時フィリピン(比国)は米国が植民地支配していた。 日本にとっては南方作戦で(インドネシアの)資源輸送経路の要衝としてフィリピン独立を約束し、150日で全土を占領した。 その際、数万人の米国兵や比国兵捕虜を 食糧補給地点まで100km 徒歩移動させ、多数の死者が発生したが、比国の独立運動家は日本を支持した。 しかし日本は敗戦し、独立の約束は果せなかったが、米国の植民地支配から解放し、日本統治時代に整備されたインフラや諸制度などの遺産が、戦後独立に果したことは評価されるべきだ。 |
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◆ 蘭印(現在;インドネシア)作戦 ; (1942/1 - 1942/3) 日本軍は、石油、及び地下資源やゴムなどの獲得の為、蘭印(現インドネシア)に侵攻した。 蘭印はオランダの植民地で日本政府は無血進駐を考えていた。 しかしオランダは、米英と密接な関係国になっていたので戦争状態になった。 しかし大本営は 開戦から占領まで120日間を考えていたが、日本軍は 92日間という快進撃で、目標のジャワ島上陸まで成功した。 |
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*5 |
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5.・・・戦線拡大・・・ 《国力を越えて領土拡大》・・・ | |||||||||||||||||||||
国力を超えて、回り続ける歯車 陸軍の南方作戦は、マレー半島から、シンガポール、フィリピン、インドネシア戦線・・・と快進撃を続けた。 海軍も《真珠湾攻撃》と並行して、大平洋の島々を占領し兵員を送り込んだ。 勢いに乗じて、陸軍はビルマへ進攻計画を実行し、海軍も海上輸送路の確保し、陸軍/海軍は 互いに競い合いながら快進撃が続いた。 |
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◆ ビルマ(現;ミャンマー)侵攻作戦 1941- 1942 | |||||||||||||||||||||
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*6 |
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6.・・・戦況の転換・・・ | |||||||||||||||||||||
こうして緒戦は、陸・海軍は競い合って戦線を拡大していった。 しかし「占領地運営」について考慮は不十分で、開戦から約半年後、ミッドウェー海戦での完敗後、成す術もなく戦況は一気に悪化した。 【ミッドウェー海戦】 1942-6-5 ーーー運命の海戦、その時連合艦隊を待ち受けていたもの・・・!?】ーーー |
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ミッドウェー作戦は、米豪の連係を遮断する狙いだった。 アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えて戦意を喪失させ、早期講和に持込む・・・。 そんな計画で、山本五十六司令長官が強硬に主張し、綿密に作戦が練られ、日本海軍最精鋭空母群と最強艦隊を投入する奇襲攻撃・・・の筈だった。 所がアメリカ軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーで航空機を捕捉し、待伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突込み・・・最精鋭空母と共に、多数の航空機やパイロットも失う大惨敗を喫した。 |
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*62 【ガダルカナル島の攻防戦】 1942/8 ~1943/2 ーーー兵士たちを見舞った密林の悲劇ーーー |
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ガダルカナル島は、アメリカ軍とオーストラリア軍を分断する要衝として飛行場を設営していた。 《ミッドウェー海戦敗北 1942/6》後、米軍の反撃は ガダルカナル島から始まった(同/8月)。 |
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しかし日本軍にとって「飛車・角」に当たる要衝を、敵方に渡す決断ができず、御前会議で撤退を決めたのは、4ヶ月後(1942/12)になった。 しかし制海権を奪われた海域は、艦船が近づけず、実際の撤退は翌年2月になり、その時は、既に日本軍兵士は殆ど全滅(戦死者6,000人、餓死・病死者15,000人)という惨状だった。 以後太平洋の島々は、遠方から順に陥落していった。 |
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*63 【次第に戦局が厳しくなる日本軍】 ****** 防戦一方となった戦地の戦い ****** |
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太平洋戦争開戦後 約半年間は、日本軍は破竹の勢いで南方領土を拡大した。 しかしミッドウェー海戦敗北を境に、戦況は一気に逆転し、南方の島々から順次陥落していった。 | |||||||||||||||||||||
◆ソロモン海戦 (1942/8) | |||||||||||||||||||||
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◆マリアナ沖海戦 (1944/6) | |||||||||||||||||||||
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◆ サイパンの戦い (1944/7) | |||||||||||||||||||||
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◆ レイテ沖海戦 ・ 戦艦『武蔵』の最期とフィリピン住民殺害 (1944/10~) | |||||||||||||||||||||
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◆ 硫黄島の戦い (1945/3) | |||||||||||||||||||||
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◆ 沖縄戦 (1945/3 - 4) | |||||||||||||||||||||
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*64 インパール作戦 (陸軍=1944.3~7) |
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インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に支配されていた為、米英から中国に兵器や資材を供給する唯一の補給基地になっていた。 日本軍は、それを攻撃すれば中国軍が弱体化し、インドの独立運動も促して味方にすることもできる。 しかしインパールまで 470kmのルートは、乾季でも河幅 600mの大河を渡り、標高 2,000mの人口希薄な山岳地帯を行軍せねばならず、糧食などの補給や調達は不可能で、作戦は無謀とされていた。 |
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以下、新聞・雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等を寄せ集め「私の歴史観」として記す。 | |||||||||||||||||||||
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*7 |
7. ・・・庶民も戦争に巻き込まれていく戦争末期・・・ | |||||
◆ 出陣学徒壮行会 1943 ーーー学業半ばに、愛する家族を残して |
学徒出陣式 |
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日本政府は窮余の策として《学徒出陣》を決定した 1943年11月21日、 雨が降りしきる中、神宮外苑競技場で出陣式が挙行された。大学生や専門学校生を対象とした学徒出陣は、戦時体制強化の一環だった。 雨の神宮外苑には、東京と近県77校から若者たちは、学業も夢も志半ばに、短期間の訓練を終え、直ちに最前線に送られた・・・。 |
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*72 ◆ 広がる日米の兵力格差 『特攻隊』 1944 ーーー祖国よ、さらば・・・、悲しく散った若い命ーーー |
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アメリカはソロモン、タラワ島、トラック諸島、マリアナ・・・と太平洋の島々を次々攻略していく。 日本軍はサイパン防衛も、インパール作戦も、レイテ沖海戦も、次々破られ・・・、この期に、唯一の戦局挽回手段として特攻隊が組織された。 1944年10月25日海軍がフィリピンで編成した 『神風特攻隊』を皮切りに、4,000人もの若者が次々と飛びたった。 |
人間魚雷『回天』 |
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また、1 トン以上の爆薬を積んだ人間魚雷『回天』は、敵艦に当たれば確実に撃沈できると信じ、出撃した2,000人余の平均年齢は21歳、予科練を繰上げ卒業したての若者たちだった。 | |||||
*73 ◆ 日本本土空襲 ~ 終戦 (1944 末 ~ 1945/8) |
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◇ 日本本土空襲 サイパン島陥落後、1944年末には 2,000機ものB-29基地として整備された。 そして; |
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◇ 終戦工作と「日ソ中立条約」の結末 | |||||
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太平洋戦争を巡る曲折は、次にも記しているので参照願いたい。 5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、 (1940~1945) 6.戦後処理とその後の各国の関係 (1945~ ) *8 |
8. ・・・終りに 『大東亜戦争(太平洋戦争)は何故起ったか?』・・・ | ||
” 私の歴史観 ” 歴史は「史実を知るだけでは、何の役にも立たない」。 人類史上例のない大規模戦争が何故起きたか、それぞれの局面でどう対処すれば、結果はどうなっただろうか・・・? それは、史実よりも、歴史に派生して、各人各様に、様々な角度で考え見ることが大切である。 私は次の点に注目している。 |
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❶産業革命がもたらした強力兵器により《弱肉強食世界の秩序》が急崩壊したこと。 ➋それにより強大国のエゴは、世界を好きな様に操つり、結果的にコントロールできなくなること。 ❸清国(西太后時代)は、そんな時代の流れに乗遅れ、一旦、列強諸国の餌食になると 世界中の強食国が、獲物に群がる "はいえな" の如く群がり、抜け出せなくなったこと。 ❹しかし餌食が底をつく頃、"はいえな" 同志の利害争いが、更に激しく(世界大戦)なった、 ❺そして、最後の勝利国は「正義国」となり、最後の敗戦国に「諸悪の責任」が被せられる。 |
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※ はっきり言えることは、各国の利益が共有できる間は、互いの協力関係が増進する。 しかし「自国ファースト」のエゴしか考えないから、何かの拍子にバランスが崩れた途端に、『昨日の味方は今日の敵』と化す。 しかし国家間はエゴの固まりだから誰もコントロールできない。 | ||
例えば、英国は大東亜戦争では勝利国だが、かつては植民地戦略やアヘン戦争などの最凶悪国だった。 しかし過去の犯歴は、最後の戦勝で全てが不問にされ、最後の戦争敗戦国「日本」だけに《侵略国》のレッテルを貼って一件落着とするから・・・世界の恒久平和実現は難しい。■ |
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