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大東亜戦争への道 2018/1 記
更新2023/11
ペリー来航 ~ 大東亜戦争(太平洋戦争)まで 
      緒  言
 ”大東亜戦争は何故起ったか・・・?” 
 「大東亜戦争」とは、「日中戦争」と1941年に始まった「日米戦争」を合せた呼び名とされているが、侵略イメージを考慮し、戦後は専ら 《太平洋戦争》 の呼び名が使われている。
 しかしそれは、朝鮮半島、満州、中国の大陸を舞台に 《日清戦争、日露戦争、日韓併合、満州事変、日中戦争・・・》と、「半世紀に亘る戦闘の一部(最終章)」に過ぎない。
  重要なことは『日本開国以来、辿った戦闘史』と考え、『大東亜戦争への道』と題して追ってみる。
 
*1
 1.・・・大東亜戦争への道 (歴史の概要)・・・
ペリー来航 ~ 明治新政府樹立
  18世紀後半から本格化した産業革命は、西欧諸国に強力兵器をもたらした。 特に、英国はそれを武力にして世界を植民地化し、アメリカ大陸にも大量移民を送り、清国(現;中国)にも侵出し・・・、世界の秩序を一方的に改変していった。
 それは、遂に日本にもペリー艦隊が来航(1853-54)して、開国が迫られた。
 しかしそれには、開国と同時に、治外法権や不平等条約も次々結ばせられる幕府を批判し、徳川斉昭(水戸藩)や長州藩は、天皇制を基盤とする「尊王攘夷」を主張し、激しく倒幕運動に走り、大混乱となったが、結果的に長州藩と薩摩藩を中心とする《明治新政府》が発足した。

《朝鮮》に侵出~日清戦争~日露戦争勃発
 《明治新政府》は、驚愕的に進んだ世界情勢に追随すべく 《日本の近代化》に急角度の舵を切った。 しかし、食料も、資源も、資金も、労働力も乏しい日本は、それを朝鮮半島に求めた。
 しかし朝鮮半島は、清国と従属関係にあり、日本の侵出は(半島内で)親日派と親清派の抗争を招き 「日清戦争(1894-95)」勃発に繋がった。
 しかし日本は、それに勝利し、朝鮮半島が支配下に入ると、眼前の 「満州」には ロシアは鉄道を敷設し旅順に堅固な要塞を築いて、着々と「朝鮮半島」に侵出準備を進めていた。
 しかし日本は、超大国ロシアと戦争には(常識的に)「勝ち目」がなく、「国家存亡の危機」 と目されていたが、「日露交渉」は決裂し、立て続けに日露戦争(1904-5)の勃発となった。
 しかし結果は、英国の強力な支援や、種々の好運も重なって、日本の奇跡的勝利となった。

日露戦争後~満州事変~日中戦争 ~太平洋戦争への道
  奇跡とは言え、強大国ロシアに勝利した日本軍は、破竹の勢いで満州に入城した。
 満州は、清国(後の中国)領土で張作霖が統治していたが、事実上、強国ロシアに支配されていた。 そこに入城した日本軍は、ロシアに代って「満州支配=新国家建設」に着手した。
   しかしそれから 20年余り経ると、三者が 「満州支配権」を争う構図が生れていた。
つまり;
 ① 日本(関東軍)は、自国領の様に着々と国土開発や「近代都市建設」が進めていた。
 ②  張作霖軍閥は、満州での勢力を強め、ソ連や欧米勢とも接近の動きを見せていた。
 ③ 中国(蒋介石政府)は、国内体制が整い「中国全土統治」を目指して、満州奪還軍
    (=張作霖軍閥討滅軍)を派遣した。
  そこで関東軍は、張作霖の乗る列車を爆破して爆殺し(1928)、満州統治権を奪取した。
所がそれは、熾烈な反日・抗日事件が巻き起った。 
関東軍は武力制圧するも、事態が益々拡大すると、関東軍(石原莞爾)は「南満州鉄道爆破事件」を自作自演した(柳条湖事件)。
 つまり、 鉄道線路を故意に爆破し、 『満州人の犯行だ !! 』と「口実造り」して、即座に「満州全土攻撃」を決行し、 極めて短期間で全土を制圧した(満州事変)。 
 そうして国家の体裁を繕い、「満州国」として独立を宣言した(1932)。
それに対し中国政府は 「日本の違法占領」を国際連盟に訴え、リットン調査団が派遣された。
 しかし「調査報告」は、⇒①中国を立てれば欧州各国の中国利権が失われ、⇒②日本を制裁すれば却って戦乱を招く(?)・・・と、あいまいな内容で、日本には却って「お墨付き」の様になった。 しかし「満州国」は、世界の 一国の承認も得られず、日本は国際連盟を脱退した。 
  そうして、「満州」を占領し続ける日本(関東軍)と中国(蒋介石軍)は、盧溝橋事件の偶発から「日中戦争」に拡大すると、遂に、米英や全世界は中国に味方し、日本はと敵対関係が深刻化した。
 しかし、食料も・財政資金も、資源も、エネルギーも、労力も・・・全て満州頼み、労働者も産業も軍需関連一色、国家予算も極端に軍関連に偏重した状態では、【国家の存続】の為、米英との対戦(太平洋戦争)は避けられなくなっていた。 
   ◇ 大東亜戦争への道(歴史経過=年表)   別表参照 
 

*2
  2.・・・大東亜戦争はなぜ起こったか?・・・
*21
   日本開国 ~明治維新~日本近代化政策
   ◆ 黒船来航 ~ 幕末の動乱
  黒船の来航で開国が迫られた時、大衆は「大平の眠り」についていた。 しかし幕府(大老;井伊直弼)は、世界情勢を判断し開国の決断をした。
 それに対し徳川斉昭(水戸藩)や長州藩は尊王攘夷論を主張して、激しく立ちはだかった。
   しかし対立は解けようもなく、幕府独断(勅許を得ない)で「日米修好通商条約」を締結した。
 それにより双方は一層険悪化し、井伊直弼は、 叛意を貫く志士たちを悉く処刑した(安政の大獄 1858-59)。 それに水戸藩の過激派は激昂し、井伊直弼は「桜田門外の変」で暗殺された(1860)
 その後、徳川斉昭も没すると、孝明天皇は、分裂した国論を統一しようと「公武合体」を推進した。 しかし長州藩は、不平等条約などを次々結ぶ幕府の弱腰を批判して、過激な「倒幕運動」に走り「禁門の変」や「幕長戦争」などが引き起こされた。
 そうこうしながら、長州藩は薩摩藩と和合し、薩・長中心に「倒幕運動」がエスカレートする一方、幕府側は、頼みとする孝明天皇が崩御し、徳川慶喜が大政奉還 ⇒「鳥羽伏見の戦い」を経て 260年間続いた徳川幕府は滅亡した。
 
 しかしそれとは別に、欧米列強と対等折衝するには、小栗上野介は、欧米の先進文明を採り入れて艦船建造する 「近代的造船所(横須賀製鉄所)」の建設にかかり、勝海舟や坂本竜馬は、「海軍伝習所」創設 を進めていた。
 ◆ 明治新政府の発足と 近代化政策推進
  こうして 発足した「明治新政府」は、”富国強兵”をスローガンに、幕府が進めていた海軍や、横須賀製鉄所の引継ぎと、欧米の先進技術や諸制度輸入に、一層、力を注いだ。
 そして鉄道、工場、発電所やダム建設、炭鉱開発等のインフラ整備、及び技術者や専門官も派遣して政治、教育、警察、銀行、軍事などの制度も導入し、文明開花と軍事力強化に邁進した。
  しかし問題は、それに必要な財源・労働力・兵員・糧食・資源・・・等々である !!
我が国 唯一輸出品である生糸の増産は勿論、国民も生活を最大限犠牲にして働いた。 しかしそれで間に合う様な額ではない。 朝鮮半島への侵出は必定だった。
  ◆ 《日朝修好条規》(1874)~《日清戦争》  (1894-1895)
 (日本の)朝鮮半島には、「朝鮮国の独立」を促して《日朝修好条規》(1874)を締結した。 しかし《清国》は(朝鮮の)宗主国と言う関係になっていたので、日清間は緊張状態が生じていた。
 そんな外部の動きに連動し、朝鮮内部で反乱(甲午農民戦争)が起こり、 平定の為、清国軍(北洋艦隊)を派遣すると、日本も主導権争いから《日清戦争》が勃発した。 
 しかし日本は勝利し、下関での講和条約により、朝鮮半島と台湾も獲得する大収穫になった。 そして朝鮮から大量の徴用工を徴募して、日本国内のインフラ工事や軍事・産業基盤の強化に一層拍車が掛かり ~日韓併合に突き進んだ。
 ◆ 義和団事件(北清事変) 1900-1901
 一方、日清戦争に敗れた清国には、日本や欧米列強に続々侵入され、方々に租界地や租借地が設定された。 それに反抗する清国民は、方々で民衆組織 ”義和団” を結成し、外国公使館を襲撃する事件が起きた。
 しかし列強の武力には足元にも及ばず、逆に多大な賠償を要求され、日本や連合軍(英・米・露・仏・独・奥・伊・ハンガリー)に、天津や北京などは、虫食い状に侵略される結果になった。
 *22
    「日露戦争」勃発
  ◆ ロシアの動きと、日英同盟締結 1902
 その間にロシアは、弱体化した清国と「露清密約」を結び 《義和団事件》終結後も満州に居座って、遼東半島まで鉄道を敷設し、堅固な旅順要塞を築いていた。 そして満州鉄道をシベリア鉄道と連結する工事も進め、日本の獲得した朝鮮半島占領の準備を進めていた。
   所が、ロシアはヨーロッパで南進《膨張政策》により イギリス植民地を脅かし、英・露は敵対関係を強めていた。 期せずして、➡①日英は《日英同盟》を締結した。 それと合せて、➡②《朝鮮半島支配》を巡って 「日露交渉」が続けられた。
   しかし、シベリア鉄道との連結・増強工事は着々と進み、これ以上交渉が長引けば、日本は「戦闘不利になると」判断し、交渉を打切った。
 その以前、(弱小国)日本は、(超大国)ロシアとの力関係から、丁重に友好関係を保ち、最善に気遣いの下でニコライ 2世の親善訪日や、広瀬武雄はロシアに軍事留学をしていた。
  しかしこの期に及び、 ➡① ロシアは、日本軍を軽視したか? 或いは ➡② 日本は、日清戦争の勝利や「日英同盟締結」により自信を強めたか・・・?、或いは ➡③米英に強く後押しされたか・・・? 等々で、かなり強気に臨んだのではないだろうか・・・?
  ◆ 日露戦争  1904-1905
 こうして日露戦争に突入した。 しかし(常識的に)勝ち目のない 『国家の存亡』が掛かった戦争に、陸軍は乃木希典、海軍は;東郷平八郎が連合艦隊司令長官に就任した。
   ロシア軍の極東基地はウラジオストックと旅順にあったが、連係路は朝鮮半島 (日本支配)と 佐世保基地に挟まれ、連係は難しかったので補強の為、遠路バルチック艦隊を回航された。
 しかし英国は、経路途中(英国植民地)への寄港や補給の非協力や、スエズ運河を通行させないなどの抵抗と共に、バルチック艦隊の挙動情報を、刻々と日本に伝えていた。
 ◆ 日露戦争の経過
 バルチック艦隊回航は、到着する前に「旅順基地攻略」しなければ、旅順艦隊が出動して「挟み撃ち」される。
 しかし旅順基地の背後は、小高い山に囲まれ、山上には堅固な要塞が幾重にも築かれ、攻略の糸口が掴めない。
 正面(海側)にも、最強艦隊と、無数の砲台が睨みを効かせ手の施し様がない。

  しかし結果は、陸軍が莫大の犠牲を払って「旅順要塞」背後の「203高地」から突破し、旅順基地を攻略、湾内に集結していた艦隊も撃破した。 その後、海軍(連合艦隊)は、対馬海峡でバルチック艦隊を待ち伏せし、交戦(日本海海戦)に完勝した。
 それには、下記❶~❼の戦闘が戦わせられた。 「日露戦争」とは、それら全戦闘の総称である。
それは、約 1年間は苦戦の連続で、偶々「運よく勝てた」と言うのが実態だろう?
その中で、特に、次の決戦が小説などによく とり挙げられている。
 【旅順港閉塞作戦】;旅順湾口に廃船を沈め、湾内に停泊中の艦艇を封じ込める作戦
 《旅順攻囲戦》、《203高地奪取戦》】; 陸軍は膨大な犠牲を払い背後から旅順基地を攻略した
 日本海海戦】; 海軍は、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破した。



  ◇ 海 軍 ;
仁川沖海戦  =日本軍は、ウラジオストック軍港から旅順軍港に航行中のロシア艦隊に砲撃し、事実上、宣戦布告となった。
 艦隊は旅順軍港に退避し、湾内に閉じ込められた。



日本海海戦(日露戦争)
NHKテレビ


奉天占領直後の城内
NHKテレヒ
旅順港閉塞作戦  =旅順湾に集結している艦艇を封じ込める為、湾口に廃船を沈める作戦を 3次に渡って決行したが失敗、広瀬武雄は戦死した。
  ◇ 陸 軍 ;
鴨緑江会戦~南山の戦い  =陸軍は、旅順要塞攻囲に当たり、朝鮮半島から鴨緑江を渡河(鴨緑江会戦)し、遼東半島に進出して「南山(大連市)」でロシア軍と交戦した。 ロシア軍の砲撃により凄まじい犠牲を払いながら、砲弾の尽きたロシア軍は撤退し南山を占領、ロシア本国と旅順との連絡路遮断に成功した。
旅順攻囲戦(第1次/第2次/第3次)  =陸軍は更に前進し、背後から「旅順要塞」攻略に移った。 しかし背後の山上には堅固な要塞が築かれており、激しい砲撃により、3次に亘り莫大な犠牲者を出し、遂に、旅順湾を見下ろす【203高地】を奪取し、山上から旅順要塞を陥落させ、旅順湾に停泊中の艦船も撃破した。
  ◇ 海軍 ;
黄海海戦、蔚山冲海戦 =旅順攻囲戦の砲撃を避け、ウラジオストックに逃避する旅順艦隊を黄海で迎撃した。 それを逃れた艦隊も蔚山冲で発見し撃破した。
  ◇陸軍 ;
遼東会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦 =旅順要塞陥落後、満州内部に退却するロシア軍を追撃した。 ロシア軍も応戦したが最後は奉天(現;瀋陽)会戦で撃退し、満州に入城した。 
   ◇海軍 ;
日本海海戦(1905/2)= 東郷平八郎率いる連合艦隊は、対馬海峡で ”バルチック艦隊” を待ち受け、その直前を横切る 「丁字戦法」などを駆使して撃滅し、劇的勝利となった。
 ロシアは、遠路バルト海からバルチック艦隊を回航したが、英国管理のスエズ運河は通れず、喜望峰廻りで、途中、英国植民地への寄港や補給も制限され、艦船の修理もできず、対戦時は、兵士の士気も落ちていた。

 それに交戦時、「天気晴朗なれど波高し」、砲撃の命中率は毎日訓練を重ねていた日本軍に有利だったなど、バルチック艦隊には、不運が重なり壊滅状態になった。
 ※注); 結果、イギリス(日英同盟)の協力、(造船所が整備され)先の交戦で傷んだ艦船修理が素早く出来た、気象条件など幾つもの好運が重なって、偶々、歴史的完勝となった。
    しかしそんな条件の一つでも欠けて・・・、バルチック艦隊がウラジオ艦隊と合流していたら、その後の日本は?、否、世界の歴史(勢力図)はどうなっているだろう・・・??
日露戦争は、「日本にとって、否、世界の歴史にとって」 極めて大きな「分岐点」になった。
  ◇勝利した「日本」は破竹の勢いで満州に侵攻し、
◇敗れた「ロシア」は満州利権を失い、樺太も南半分を日本に割譲し、ヨーロッパ戦線も
  敗退続きで、国内は大混乱の末、「ロシア革命」により 「ソビエト連邦」誕生に繋がった 
*23
     日本軍(関東軍)の 満州侵出 ~ 満州事変勃発~日中戦争に拡大
 ◆ 満州侵出 ~ 満州統治権奪取(張作霖爆殺事件) 
※1 満州は; ⇒当時、清国(西太后政権)の領土で「張作霖」が統治していた。
    しかしロシアは、清国と「露清条約」を締結し、満州は事実上ロシア支配の状態になり、
    ロシア人も大勢住んでいた。
     日清戦争に破れた清国は、国力が弱まり、列強各国にも侵入され、満州統治は
    ”張作霖”軍閥に丸投げ状態になっていた。
※2 そこに日露戦争に勝利した日本軍(関東軍)は; ⇒ 敗走軍を追って満州に入城し
    「奉天会戦」でロシア軍を撃退し(ロシアに代って)事実上、南満州の支配権を獲得した。
◇ その後、「第一次世界大戦」が勃発(1914-18)すると、英、独、仏は アジアから戦力を引き、「残った日本」は影響力を強め、満州支配に向け、農地開発や近代国家建設に着手した。
※3 しかし満州入城から20余年後; 満州を巡る情勢は変化していた。
   ① 張作霖軍閥は ⇒満州中心に勢力範囲を拡げ、欧米とも接近する動きを見せていた
  ②(清国の崩壊後を継いだ)”中華民国(蒋介石政府)は; ⇒国力を回復し「中国全土統治
    (=満州奪還)」を目指し「張作霖討伐軍(北伐軍)」を派遣した。
  ③日本は; ⇒、既に、(満州に)莫大な投資をして「近代国家」建設を進めており、満州支配
    を巡って「日・中・張作霖」は、三者それぞれが敵対関係になっていた。
※4 そこで「関東軍」は; ⇒、張作霖の乗る「列車爆破事件」を決行して爆殺(1928)し、
   「満州統治権」を先取した。 それは現地では; ⇒激しい「排日・抗日事件」が巻き起こり、
   関東軍は、その都度 武力鎮圧したが、事態は益々激化していった。 
この間の曲折については次に記している。
◆2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928) 

 ◆ 柳条湖事件(満州事変勃発) (1931)
  こうして「反日・抗日事件」が絶えなくなると、関東軍(石原莞爾)は 、南満州鉄道の線路爆破事件を自作自演した。 勿論、故意に爆破した事件だが、即座に 『満州人の犯行 !! 』と口実造りして、即座に満州全土を攻撃し、極めて短期間に全土制圧する驚異的大成功を治めた。
   但し、それが関東軍の「でっち上げ事件」だったと正式判明したのは、終戦後の「東京裁判」で、それまで、国内にも世界にも伝えられていなかった。
 大成功と言っても満州は勿論、周辺には、・・・「反日・抗日の嵐」が、更に激しく湧き上がり、関東軍は武力により、恐怖心を煽り続けることで小康状態が保たれていた。
  ◆ 5・15事件 (1932、昭和 7年)
 その頃 世界恐慌の煽りを受け、日本国内も不況に陥っていた。
財閥は労働者を酷使し、政治家は財閥と癒着して我欲に走り・・・、「ロンドン海軍軍縮条約」(1930) により 保有艦船も削減され・・・、政府は慢性的財政難で軍縮を強要し・・・。
 そこに 『満州事変の大成功』 の報が伝わると、自らの功を焦る若手将校たちは、軍縮を進め様とする犬養毅総理らを暗殺する「クーデター」を断行した。
   結果は、彼らの目指した 「軍部主導の政府」は実現しなかったが、
   →① 軍部の発言力が強まり、政府は軍を抑制できなくなった、
   →② 右翼団体や急進的な思想に共感が強まり、政治情勢に大きな影響を与えた。
*24
   満州国樹立(1932)~ 日中戦争に拡大 
  ◆ ≪満州国樹立≫宣言
 こうして、関東軍は、満州全土を制圧すると国家体制を繕い、『満州は、中国 国民党政府と離脱し、独立せり』 と、≪満州国樹立≫を宣言した(1932.3.1)。
  それは、首都(長春)は "新京" と改名し、元首(執政)に溥儀が即位し、『満州人たちが自主独立して「近代国家を建設」を支援する』 と言う建前だが、実態は日本の為の「傀儡国家」だった。
  ◆ ≪リットン調査団≫
  それに対し中国(蒋介石政府)は、「満州不法占領」を 国際連盟に提訴した。 国際連盟からは、リットンを団長とする調査団が派遣され、 3ヵ月にわたり調査した。
 しかし調査結果は、
①中国を立てれば、欧州各国の中国利権も失われ、②日本に制裁を加えれば世界に戦乱を招く・・・(?) 形式的に中国側の主張を認めたが、日本を規制する条項はあいまいで、却ってお墨付きの様に解釈して満州国(占領)を続行した。
  ◆ 国際連盟脱退 (1933、昭和 8年)
  しかし【満州国】は、国際連盟では一国の承認も得られなかった。
 しかし『食料も、資源も、労働力も、全て満州頼み』の日本は、巨費を投じた「満州国」を手放せる筈もなく国際連盟を脱退した。
  ◆ 2・26事件 (1936、昭和11年)
  その頃、日本国内も、政治腐敗や、財閥との癒着、労働者や国民の生活苦も・・・、4年前の5・15事件当時から一向に改善されず、世論も 政府批判が強まっていた。
  それを打開しようと、陸軍には 次の二つの派閥が抬頭していた。
①「統制派」; 中枢の高官が中心、(軍部寄りの)「政治の実権を把握」することを目指した
②「皇道派」; 青年将校が中心で、『昭和維新』 を旗印に天皇中心の政治改革を目指した
 そんな背景で、皇道派将校は クーデターを決行し、高橋是清、斎藤実ら首相経験者や、重臣たちや警察官が犠牲になった。
   しかし彼ら(皇道派)が崇敬していた昭和天皇は激怒され、彼らは「賊徒」として処罰され、,結果として「統制派」の『陸軍幹部が政権中枢に入る仕組み』ができ上った。
   ≪満蒙開拓移民団≫ 1936(昭和11年)~
  日本は、富国強兵、”産めよ増やせよ” の裏に、絶対的な食糧難があった。 それに経済恐慌の影響で失業者も増加し、ハワイやブラジルからも 移民団の受容れを拒否された。
  しかし満州には、見渡す限り肥沃な荒野を耕せば、農地は幾らでも拡がる。 日本内地の食糧も、鉄も石炭も豊富・・・夢あふれる別天地に、広田弘毅内閣は大量の入植者を送り込んだ。 それは太平洋戦争終結まで 30数万人に達した。 
 しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 の現実は、酷寒の雑木原野を人力で開拓するのは容易でない。 そこで満州国政府は、現地人の住居地や耕作地を、一方的に 【無人農地】として、???ヘクタールの用地が日本人入植者に与えられた。
 入植者は ”開拓移民団” という日本人社会で生活した。 現地人と交流はあっても中々融け合わず、彼らは日本人移民団を恨み、衝突が絶えなかったと言う。
それは例えば;
 ◆(日、中、ソ)の人種差別は激しく、食料配給量も、日本人はかなり優遇された。
 ◆満蒙開拓団が大勢入植し、現地農民の耕作地が強制的に奪われた。
 ◆鉄道建設や都市建設などでは、大財を成す日本人業者や商人が続出した。
 ◆鉄道、遊技場、ホテル、百貨店・・・等々豪華施設も次々設けられたが、日本人以外の
  現地住民には利用が難しかった。 等々
  しかし関東軍が攻勢の間、満州は 一応平穏に保たれていた。
 しかし日本人への反感は強く、それから10年余り後 「日本の敗戦」(1945)により、関東軍が威力を失った瞬間、怒りは爆発し、ソ連軍も侵攻し、満州在留邦人は猛烈な災難に見舞われた。 
  大勢の在留邦人は 帰還列車もなく、老若男女を問わず無差別に襲撃され、或いは集団自決し、或いは捕虜としてシベリア抑留、或いは食料もない荒野を彷徨い、衰弱する仲間や子供や家族を置き去りにしながら、幾10里の道を歩いて、極く一部の人が故国日本に辿り着いた。
  ◆ ≪盧溝橋事件≫ (1937=昭和2年) ⇒日中戦争
  話を戻す。 こうして日中間の険悪ムードが頂点に達した頃、「盧溝橋事件」が偶発した。 事件及び経緯については様々な見方はある様だが・・・、それは、日中戦争の糸口となった。
  それは、日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中、何者かが発砲し兵一名が行方不明になった。 その為 伝令に出た曹長らが、中国軍陣地に近づくとまた発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を始めた。 すると また銃声の報告が届き、日本軍は中隊を 中国軍部隊に向けて前進させた。 それに中国軍は激しく射撃し、日本側も応射し、全面衝突となった。 しかし約2時間後、小康状態になり、盧溝橋城内での停戦交渉で事件は終結した・・・かに見えた。 しかしこれに端を発し、日本内部で次の2派のせめぎ合いが始まった。
 ①【事件拡大派】は ;(東條英機ら)は、これを機に中国軍に徹底的に「打撃」を与え、
    「抗日」の根を断ち切ることを強く主張した。
 ②【事件不拡大派】 (石原莞爾と日本政府)は ;中国軍と戦っている間に、ソ連が侵攻して
   来くれば対処できない。 「国力の消耗は厳に慎むべし」と、戦闘は「不拡大」を主張した。
 結局、【不拡大派】の方向で、中国側に 「謝罪」、「責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を求め、事件を終結させ様としたが・・・、
 【拡大派】は、 「もし中国が応じなければ、交渉団の生命が危険」と口説き、近衛首相は (交戦でなく) 会議場付近に兵員を待機させることを認めざるを得なかった。
 それは、「中国側は妥協するだろう」 との思惑だったが・・・、蒋介石は「断固抗戦」を決めつけた為、【拡大派】は燃え上がり、「暴支膺懲」を合言葉に、一気に日中戦争の火がついた。
石原莞爾の理念  *** 大東亜共栄圏の理念 ***
 西欧や米国の圧倒的勢力に牛耳られている世界は、それと対等に渡り合える勢力をアジア築くことにより最終安定化する。 それは日・満・中・朝・蒙の五国が結集して共に栄える「大東亜共栄圏」を築かねばならない。 その中心は満州国であって日本が支配すべきでない。 中国(蒋介石軍)を殲滅ではなく、『日支親善』の道はまだ残されていると説いていた。
  石原は、一時、日本で勤務した後、関東軍参謀副長として満州に戻ったが、そこは彼の理想と異なり「日本の植民地化」していた。 石原の理念は、先の「柳条湖事件」を主導し、満州事変勃発の張本人だっただけに説得力に欠け、軍部や東條英機(関東軍参謀長)らと激しく対立した。
 ◆ ≪上海事変 ~ 南京大虐殺事件≫ (1937、昭和12年)
  日中戦争の発端は、上海(虹橋飛行場内)で衛兵の発砲事件から開始した。
 平時なら、互いに交戦は回避する筈だが、日中がピリピリする状況では、 ➡①危機を感じた陸戦隊(日本)が出動すると、➡②中国正規軍も前進して日本人租界(居住区)を包囲し、➡③市街戦が始まった。 そして中国軍は空から日本人租界や艦隊を爆撃し、日本艦隊も中国軍陣地を砲撃した。
 しかし中国軍は米英の支援を受け、日本側は内地から艦隊を次々派遣して本格的な戦闘が、2ヶ月半続き、漸く日本が勝利し、敗れた蒋介石軍は南京に向け壊走した。
  その頃、ソ連軍は急速に軍備を新増しており、それが満州攻撃に向けられると、守備兵力が手薄な為、関東軍本部は 「戦線不拡大」方針だった。 しかし現地軍は「蒋介石軍さえ倒せば、全て解決する・・・」と 指令を無視し、壊走軍を追って南京に進撃した。 そして南京城を包囲し、市民も含め無差別虐殺「南京大虐殺事件」となった、死者数は、30万人と中国側は主張している。
  ◆ 日中戦争(支那事変)の拡大 *****大陸内部への侵攻*****
    しかし蒋介石軍は、南京が陥落すると、武漢へ、武漢も突破されると重慶へと大陸内部へ次々逃避した。 日本軍はそれを追い戦場を内陸まで拡大していった。
 そんな勝利続きに、東條英機は;「我が国はアジアに「力」を示しつつある。 逃げる蒋介石軍を追い続けるべきだ !!、我らは皇軍だ、敵の戦闘機さえ精神力で落とすのだ・・・!」と鼓舞した。
 対する石原は「東條サン、あんたは実戦を知らん。無茶な進軍は敗戦を呼ぶだけ だ !!」 と真っ向から対立し解任された。
   しかし日本軍の行軍は、糧食や必要物資は現地調達が原則だった。 灼熱の原野を飲まず食わずで、住民や農民に変装したゲリラ兵と戦いながら行軍する兵士の大群が、住家を見つけた時 何が起きるか・・・??  住民に強奪や強姦、無差別襲撃などなかっただろうか? 
  しかし米英は 蒋介石軍に武器支援していた為、局地戦に幾ら勝っても、犠牲者と 極度な疲弊を招く泥沼状態に陥った。 それでも日本国内では、大本営発表の「勝利の報」に湧き上がった。
 しかし日本政府は、言論統制を強め、「ぜいたくは敵だ !!」とか、「欲しがりません勝つまでは !!」などのスローガンで民心を鼓舞し、「国家総動員法」を公布(1938 昭13)して、人員や物資を自由に動かせる様にし、軍部は 「中国全土を制覇(第二の満州国設立)」を目指して攻略を続行した。
  ◆ ≪ノモンハン事件≫ (1939=昭和14年)
  そんな折、 満州国の国境付近で、ソ連・ 蒙古軍が不穏な挑発行動を見せると関東軍将兵たちは 逸る気持ちが抑えられなかった。
 日本が秘かに開発した 【89式戦車】も揃っており、(ソ・満・蒙) 国境の掃討作戦を決行した。
   見渡す限り地平線に続く草原を、 2万5千人の歩兵の隊列はイモムシが這う如く、3日、4日、5日・・・明けても暮れても行軍中、銃と弾薬、食糧以外は全部捨て・・・戦線に到着した。
 しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を備えて 待機しており、我が国が開発した自慢の秘密戦車も、「ソ・蒙軍の新鋭戦車」には歯が立たず、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら敵戦車と戦かい壊滅的大敗に終った。
 ※ この間、日中を巡る曲折は、次に記している。 
 ◆3.満州をめぐる攻防 と 満州国設立~日中戦争へ (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入            (1934~1940)

*3
  3.・・・太平洋戦争への道・・・《日米開戦》・・・
    日米開戦への流れ
  こうして米英も "敵"にまわし、中国戦線が泥沼状態に陥り、財政は極度に疲弊し・・・、しかし後に引けない日本は、日米開戦も辞さず、 ⇒①蒋介石軍掃討作戦継続、 ⇒②南方作戦、 ⇒③戦艦「大和」建造計画、 ⇒④日独伊三国同盟締結、 ⇒⑤日ソ中立条約締結・・・と、「日米開戦への道」を突き進む以外、"道"はなくなっていた。
  ◆ ≪南方作戦≫ 1939(昭和15年)頃~
  日本は、アメリカから「石油禁輸制裁」に対し、それを東南アジアに求める「南方作戦」(後述)に転じ、「アジアの安定」を建前に 東南アジア諸国の併合を開始した。
  こうして本格的に南方侵出を進める日本に、アメリカから、関係改善の最終条件 「ハル・ノート」 が示された。 しかし「大陸から兵を引く(=満州返還)」など、到底受けられる内容ではなかった。
    ◆ ≪ソ連~ドイツの立場 & 日ソ中立条約(1941)≫
  その頃、ヨーロッパでは、ナチスドイツが急速に抬頭し一触即発状態になっていた。
 ソ連は、①「南進政策(膨張政策)」で英米と敵対し、②日本とも「日露戦争以来」激しく対立し、③ドイツとも、ポーランド侵攻を巡り水面下で激しい敵対関係になっていた。
 そこに日本軍の動きは、ソ連にとって 「米英側につくか、ドイツにつくか・・・」立場は微妙だった。
 英米につけば 日・独に挟撃される恐れがある。 それはドイツにとっても、ソ連が敵(英米側)つけば同様な事情にあり・・・取敢えず(?) 「ソ独不可侵条約(1939)」を締結した。
 
 それは、欧州の軍事バランス上影響が大きく、世界にとって驚愕的な出来事だった。
 ところが日本もドイツに接近し「日・独・伊三国同盟」を締結(1940)した。 そうなると、日・独の関係を警戒して(?)、「日ソ中立条約」を締結した。
 そうして 「➡①日本はアメリカに、➡②ソ連はポーランドに、➡③ドイツはヨーロッパに」侵攻のお膳立てが整った。
 ◆ ファシズム国家ナチスドイツの抬頭  *****《日・独・伊三国同盟》*****
  ナチスドイツは、《独ソ不可侵条約》締結により ソ連の脅威がなくなると 隣国ポーランドに侵攻し(1939)、それに欧州各国が応戦する形で 「第二次世界大戦」が勃発した。 
 するとナチスドイツは、矢継ぎ早に ポーランド西部、オランダ、ベルギー、フランスを占領する 快進撃を続け、翌年(1941)には「独ソ不可侵条約」 を一方的に破棄して、ポーランド東部からソ連領バルト諸国に侵攻し、ソ連は大打撃を受けた。 
 そんなナチスドイツの躍進に、日本国内は「ドイツに続け !!」、「大日本帝国はアジアの中心・・・ !!」と、《日独伊三国同盟》締結の気運が一気に昂揚した。
  しかし山本五十六らは、(三国同盟締結は)「米英との戦争が決定的になる !!、戦争になれば絶対に勝てない !!」と、命がけで反対したが、流れは「三国同盟」締結に動いた。
 ◆ 御前会議~太平洋戦争突入 (1941 昭和16年)
 天皇陛下は「君臨すれども統治せず」、通常、議会に口(くち)は挟まれない。 しかし昭和天皇は、御前会議(9/6)で 『戦争回避すべく外交に全力を尽くす様・・・』 強い口調で発言をされた。
 しかし近衛内閣は、日米開戦に戦意沸騰する陸軍将校や国民を収拾できず退陣に追い込まれた。
 東條英機は、強硬な開戦論者で、近衛内閣を退陣させた張本人だったが、この期の収拾は、現;陸軍大臣である東條以外に人材が見当らず、東條内閣が組閣された。
 その東條も、総理の立場で日米開戦の決断には大変煩悶の末、結局、歯車は止められず、昭和天皇も「多勢に無勢」、詩句を引用して遺憾の意を表された。
  後の昭和天皇回顧録では、上奏は「肝心なことを隠し、実態とかけ離れた報告ばかり・・・」、それに天皇が口を挟めば、全て「 お墨付きになってしまう・・・」 ことを憂慮されていた様だ・・・
*32
   ≪日米開戦≫ (1941)
  ◆ 真珠湾攻撃 (1941/12/8 )
 米英との開戦は、昭和天皇は強く憂慮され、山本五十六も強く躊躇していた。
 しかし南方作戦の成功と、国内の好戦圧力に強圧され、山本五十六の『短期決戦でアメリカ太平洋艦隊を撃破し、戦意を喪失させ早期講和に持ち込む』・・・ そんなシナリオで 断行された。 
 『ニイタカヤマノボレ1208』の暗号を受け、山本五十六司令長官率いる連合艦隊のハワイ真珠湾奇襲により太平洋戦争の幕が開いた。
 それには浅海に停泊中の艦隊に航空魚雷を発射する難題を克服して、奇襲は2時間で空前の損害を与え、『トラトラトラ』(我奇襲に成功せり)の知らせに、国中は熱狂した。

真珠湾攻撃 
  しかし空母3隻が外洋にいて破壊できなかったことと、地上施設の破壊は不完全だったことに禍根が残った。
 また、宣戦布告も、攻撃開始後に届けられ、『卑怯なだまし討ち』とアメリカ国民の戦意に火がついた。


*4
  4.・・・陸軍の東南アジア作戦・・・”南方作戦”・・・
     南方作戦 ~ 大東亜共栄圏の拡大
 南方作戦は、→①イギリス領マレーと、アメリカ領フィリピンを奪取し、→②それを足場にシンガポール、蘭印(現インドネシア)を攻略し資源を確保し、→③スンダ列島に防衛線を築くことにあった。
 この地域は、当時;総人口6,000万人、3分の2はジャワ島に集中、オランダ総督府はバタビア(現;ジャカルタ)にあった。 油田地帯は スマトラ島や、ボルネオ島やジャワ島東部にあり、産出量(1939年=800万トン)は 日本内地の(500万トン)を上回っていた。 その他; 錫、ボーキサイト、ゴムなども産出していた。
 大東亜共栄圏は、「列強植民地からの独立」を奨めて支持を集め、マレーシア半島、シンガポール、インドネシア、フィリピン、パプアニューギニア、マリアナ・・・と太平洋の国々の併合を進めた。
 結果、日本の敗戦で独立の約束は果たせなかったが、日本は、西欧の植民地支配(=奴隷制度)と違い、現地人の教育や重要ポストに登用、インフラ整備など、戦後独立に大きく貢献している。
 ◆ マレー沖海戦 ~ シンガポール攻略戦 1941/12 ~
 シンガポールは英国植民地だが、インドネシアの資源(石油、ゴムなど)を日本への輸送経路上の要衝にある。 日本陸軍も(海軍;”真珠湾奇襲成功” に負けじと)マレー半島(コタバル)に奇襲上陸を敢行し、シンガポール攻略を仕掛けた。

プリンスオブウェールス
(マレー沖海戦で撃沈) 
 英国東洋艦隊は、その援軍に新鋭艦と航空隊を派遣した。 所がそれは日本軍の索敵機に発見され、 マレー半島東方沖で鹿屋航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)により、新鋭戦艦2隻(プリンスオブウエールス、レパルス)は 撃沈された。 
  それは 『航空機で新式戦艦の撃沈はできない』 という常識を覆す海軍史上初の大成果だった。 その後シンガポールは、激しい市街戦で飛行場や貯水池や給水施設を破壊し奪取した。
   ◆ フィリピン占領   1941/12~ 
 当時フィリピン(比国)は米国が植民地支配していた。 日本にとっては南方作戦で(インドネシアの)資源輸送経路の要衝としてフィリピン独立を約束し、150日で全土を占領した。
 その際、数万人の米国兵や比国兵捕虜を 食糧補給地点まで100km 徒歩移動させ、多数の死者が発生したが、比国の独立運動家は日本を支持した。
  しかし日本は敗戦し、独立の約束は果せなかったが、米国の植民地支配から解放し、日本統治時代に整備されたインフラや諸制度などの遺産が、戦後独立に果したことは評価されるべきだ。
◆ 銀輪部隊
 自転車部隊(銀輪部隊)はフィリピンやマレー半島のジャングルや椰子林などの道を進んだ。 当時、歩兵部隊を安定輸送できるほど自動車はなく、徒歩移動が中心だった。
しかし侵攻速度が重要な南方作戦では、歩兵部隊が 兵器・物資輸送を携えて移動するには、現地の自転車を徴発して自転車部隊を急造した。
 自動車や戦車が通れない狭い道も通れ、川は担いで渡れ、銀輪部隊は破壊された橋梁の修復も行うなど、非常に有効だったと言う、自動車輸送隊も助けながら攻略を続けた。
   ◆ 蘭印(現在;インドネシア)作戦 ;   (1942/1 - 1942/3)
  日本軍は、石油、及び地下資源やゴムなどの獲得の為、蘭印(現インドネシア)に侵攻した。
 蘭印はオランダの植民地で日本政府は無血進駐を考えていた。 しかしオランダは、米英と密接な関係国になっていたので戦争状態になった。
 しかし大本営は 開戦から占領まで120日間を考えていたが、日本軍は 92日間という快進撃で、目標のジャワ島上陸まで成功した。
 

*5
 5.・・・戦線拡大・・・ 《国力を越えて領土拡大》・・・
    国力を超えて、回り続ける歯車
 陸軍の南方作戦は、マレー半島から、シンガポール、フィリピン、インドネシア戦線・・・と快進撃を続けた。 海軍も《真珠湾攻撃》と並行して、大平洋の島々を占領し兵員を送り込んだ。
 勢いに乗じて、陸軍はビルマへ進攻計画を実行し、海軍も海上輸送路の確保し、陸軍/海軍は 互いに競い合いながら快進撃が続いた。
   ◆ ビルマ(現;ミャンマー)侵攻作戦   1941- 1942
 《日本軍》は; マレー半島、シンガポール、インドネシアを確保していたので、英米から中国への補給路は、インド東部(インパール)からビルマ経由で雲南省への空・陸ルートに限られていた。 日本軍は、その補給ルートを遮断しようと、ビルマ侵攻を企てた。
 《英国軍》にとっては; ⇒◇日本軍がビルマを占領すれば、インド東部(インパール等 中国への補給基地)に脅威が及ぶ。 日・独・伊の連係強化に繋がる恐れがある。
 ⇒◇それには、ラングーン(ビルマの首都)を攻略し、既に占領されているマレー半島と シンガポール奪還が至上命題だった。
 しかし《大本営》は; 兵力に限りがあるので、ビルマへの侵攻計画は認めなかった。
 しかし《南方軍》は; 快進撃に乗じ それを無視して、1941年末ビルマ侵攻を開始した。
 結果; 日本軍は、ビルマ独立義勇軍の協力を得て英国軍を急襲し、首都ラングーン(現;ヤンゴン)を陥落した。 ビルマ中北部では激戦になったが、勢いに乗る日本軍はビルマ全域を制圧し、連合軍(英国軍)は多くの犠牲者と捕虜を残して退却した。(1941-42)
  しかし日本軍の拠点からビルマに通じる連絡路が不備で、米英軍の(中国への)武器補給ルートの遮断はできなかった。   注) ⇒ インパール作戦
◆ 泰緬鉄道 (建設 1942 - 43)
 日本軍はビルマを制圧したと言っても、国境付近には山脈が連なり、ビルマに通じる 満足な連絡路はなかった。 その為、山脈を越える全長約400キロの鉄道(泰緬鉄道)建設を計画し、1942年6月から着工した。 作業員はタイ人、ビルマ人、マレー人、インドネシア人など(南方作戦=前述)の捕虜 62,000人や、募集して集めた人員合せ総員30万人という人海戦術で突貫工事を進めた。 それは猛烈な過酷労働に加え、コレラの流行や栄養失調で、約半数もの死者が出るなど難航の末、鉄道は1943年10月に開通した。

※注)泰緬鉄道は タイ~ビルマ(現;ミャンマー)間を繋ぐ鉄道で、第二次世界大戦中、日本陸軍が建設し運行した。 建設時大量の死者を出したことから「死の鉄道」とも呼ばれる。
 現在はビルマ側の全線を含む3分の2が撤去され、バンコクのトンブリー駅~ナムトック駅までタイ国有鉄道で運行されている。
 川と山のほぼ垂直な岩盤を掘削して敷かれた線路や、カンチャナブリでの連合軍捕虜と日本人合作の「クワイ川架橋工事」は、映画『戦場にかける橋』の舞台となった。 旧日本軍時代を偲び、風光明媚な自然の中を走る鉄道は、観光客の人気路線になっているという。
 
  沿線、タイ西部のカンチャナブリには、旧日本軍の捕虜収容所の様子を伝える「戦争博物館」や、泰緬鉄道建設の過酷な労働やマラリアなどで死んだ連合軍捕虜の墓石が並ぶ「連合軍共同墓地」があり、またクワイ川の鉄橋近くには、泰緬鉄道建設中に犠牲となった全ての捕虜、労務者、日本人将校、軍属の霊を慰める慰霊塔があるという。
 

*6
 6.・・・戦況の転換・・・ 
 こうして緒戦は、陸・海軍は競い合って戦線を拡大していった。 しかし「占領地運営」について考慮は不十分で、開戦から約半年後、ミッドウェー海戦での完敗後、成す術もなく戦況は一気に悪化した。

  【ミッドウェー海戦】   1942-6-5
  ーーー運命の海戦、その時連合艦隊を待ち受けていたもの・・・!?】ーーー
   ミッドウェー作戦は、米豪の連係を遮断する狙いだった。 アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えて戦意を喪失させ、早期講和に持込む・・・。 そんな計画で、山本五十六司令長官が強硬に主張し、綿密に作戦が練られ、日本海軍最精鋭空母群と最強艦隊を投入する奇襲攻撃・・・の筈だった。
 所がアメリカ軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーで航空機を捕捉し、待伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突込み・・・最精鋭空母と共に、多数の航空機やパイロットも失う大惨敗を喫した。
 ※ 《ミッドウェー海戦の敗北》は、最精鋭空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)と共に、多数の航空機、優秀なパイロットなど主力部隊を失い、日本軍の攻勢は一気に逆転し、米軍の攻撃に成す術もなく、太平洋上の島々は順次玉砕・陥落に追いやられた。 そうして制空権も制海権を失い、残された日本兵は、補給が絶たれジャングルを彷徨いながら餓死や病死していった。
 *62
  【ガダルカナル島の攻防戦】  1942/8 ~1943/2
   ーーー兵士たちを見舞った密林の悲劇ーーー
   ガダルカナル島は、アメリカ軍とオーストラリア軍を分断する要衝として飛行場を設営していた。
《ミッドウェー海戦敗北 1942/6》後、米軍の反撃は ガダルカナル島から始まった(同/8月)。 

青枠 ;勝利戦、 黄枠 ;惨敗戦
   日本軍は、飛行場を奪取された後 3回にわたる奪還作戦が失敗に終り、制空権・制海権共に奪われ、残された兵士は深刻な食料不足に陥った。

 しかし日本軍にとって「飛車・角」に当たる要衝を、敵方に渡す決断ができず、御前会議で撤退を決めたのは、4ヶ月後(1942/12)になった。

 しかし制海権を奪われた海域は、艦船が近づけず、実際の撤退は翌年2月になり、その時は、既に日本軍兵士は殆ど全滅(戦死者6,000人、餓死・病死者15,000人)という惨状だった。
 以後太平洋の島々は、遠方から順に陥落していった。
*63
  【次第に戦局が厳しくなる日本軍】
      ****** 防戦一方となった戦地の戦い ******
   太平洋戦争開戦後 約半年間は、日本軍は破竹の勢いで南方領土を拡大した。 しかしミッドウェー海戦敗北を境に、戦況は一気に逆転し、南方の島々から順次陥落していった。
 ◆ソロモン海戦  (1942/8) 
 ガダルカナル戦線(前述)、 及びニューギニア戦でも多くの犠牲者を出した。
 ◆マリアナ沖海戦 (1944/6) 
アウトレンジ戦法で逆襲
日本は、航続距離の長い《零戦》の特徴を活かし、遠方から敵艦隊襲撃を試みた。
しかしアメリカ軍のレーダーに捕捉され、零戦の機数を上回るヘルキャット(戦闘機)の待ち伏せ攻撃や、VT信管の艦砲射撃により完敗し、大量の航空機と主力空母も失った。
VT信管
軍艦から艦砲射撃の弾丸は従来=時限爆発式だったのを、電波で目標(航空機)に近づき、距離を測定して爆発する(VT信管)を開発し、撃墜精度が格段に向上した。
  ◆ サイパンの戦い (1944/7)
サイパンは、第一次世界大戦後20年以上日本が統治していた島で、『絶対国防圏』としていた。 陥落時、日本軍守備隊は猛烈に抵抗し《バンザイ突撃》を敢行して全員死亡した。
 陥落後、1944年末には 2,000機ものB-29基地として整備され、爆撃機の日本本土への往復が可能となり、本土無差別爆撃が本格化した。 
 ◆ レイテ沖海戦 ・ 戦艦『武蔵』の最期とフィリピン住民殺害 (1944/10~) 
フィリピンは南方資源の補給中継地として要衝になっていた。
それを奪回しようとするアメリカ軍を、日本海軍は総力を挙げて阻止する構図に、 日本軍は、空母を囮にして、戦艦《武蔵》・《大和》を含め、3方向から攻略する奇襲作戦を企てたが、足並みが揃わず、多数の戦艦と共に戦艦《武蔵》も失い、連合艦隊は壊滅した。
惨敗を知った住民は日本兵を見離し、補給の絶たれた日本兵は飢餓から住民を襲い、フィリピン人死者は110万人超という、派遣された日本兵を上まわる殺戮劇となった。
  ※モンテンルパ刑務所と、歌手渡辺はま子の物語
 この刑務所に、戦犯として収監されていた日本人兵には、無実の罪を着せられ一方的に死刑囚にされた者も多かった。 1951年;死刑執行が始まり、恐怖に襲われる死刑囚から、1952年のある日、歌手;渡辺はま子の下に、あなたに歌って欲しいと・・・「~モンテンルパの夜は更けて~」・・・と、自作の歌詞と楽譜を添えて 1通の手紙が届いた。
 しかし渡航も困難な時代、渡辺はま子は、例え逮捕されようとも・・・許される筈もない刑務所を無理やり訪れ、死刑囚を含む大勢の捕虜の前で涙ながら歌った。
 それがフィリピン大統領に伝わり、特赦を得て全員釈放され夢にみる日本に帰還した。 既に何人かが処刑された場所は、現在は「日本人記念墓地公園」になっているという。
 ◆ 硫黄島の戦い  (1945/3)
太平洋の島々は 南洋諸島~南アジア~マリアナ~パラオ~グアム、サイパン~フィリピン~と順次陥落した。 硫黄島では島全体を要塞化して激しく抵抗したが、地形が変わる程の艦砲射撃と空爆を伴う上陸作戦で玉砕した。
  ◆ 沖縄戦  (1945/3 - 4)
沖縄本島は、本土上陸作戦の開始拠点。
◇アメリカ軍は史上最大規模;(艦船1,500隻、兵員延べ50数万人、艦載機;数100機)投入
◇大本営も 『決戦の場』と見て呉軍港から 戦艦”大和”に特攻指令を下した。
  しかし鹿児島沖で襲撃を受け敢えなく撃沈された。
◇沖縄島民と兵士は、海全体を埋め尽くす大艦船群や舟艇群を前に、本土決戦の防波堤
  として《軍民一体》となって一日も長く持ち堪えようとした。
◇戦死者は; 兵士 10万人、住民(自決を合わせ)9万人(=全住民の2割)に達した。
※ 巨大戦艦『大和』の最期  (1945.3)
 遂に沖縄が戦場になると、呉湾に大挙集結していた戦艦群から、日本海軍の誇る世界最大戦艦《大和》に沖縄戦出撃命令が下された。 『一億総特攻のさきがけ』 としての特攻出撃だった。 しかし情報は、アメリカ軍に筒抜けで、豊後水道で米艦 艦載機に発見され、4月7日;鹿児島県坊ノ岬沖で、米航空隊に待ち伏せされ、戦闘機、爆撃機、雷撃機から魚雷の集中攻撃を受け沈没した。 生存者は《大和》乗組員3,332人の内、276人のみだった。
*64 
   インパール作戦 (陸軍=1944.3~7)
  インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に支配されていた為、米英から中国に兵器や資材を供給する唯一の補給基地になっていた。 
 日本軍は、それを攻撃すれば中国軍が弱体化し、インドの独立運動も促して味方にすることもできる。 しかしインパールまで 470kmのルートは、乾季でも河幅 600mの大河を渡り、標高 2,000mの人口希薄な山岳地帯を行軍せねばならず、糧食などの補給や調達は不可能で、作戦は無謀とされていた。
 以下、新聞・雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等を寄せ集め「私の歴史観」として記す。 
 しかし、太平洋戦線は、日に日に悪化していく戦局を横目に、陸軍も 『一発逆転を期したい』 思いが漲っていた。 そんな背景にあって、南方軍総司令官;寺内寿一の強い思いを、ビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也は強硬に支持した。
 それは確固たる作戦検証をしないまま、反対する者は「大和魂云々・・・」とか「卑怯者・・・云々」呼ばわりして排除し、 9万人の将兵によって (1944.3)実行に移された。
 それは雨期を避け、3週間でインパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。 ・・・しかし現実は、大河の渡河や高峻な山地の強行軍は、武器や糧食の運搬も困難で、大勢の将兵を餓死や疫病により失う惨状だった。
 インパールの手前 15km地点まで、(3週間の予定に) 2か月を要し、丘の上に陣取って待ち構えているイギリス軍と丸腰で対戦した。
 牟田口司令官は、兵士に 「100メートルでも進め」と、突撃指示をし続け、無数の日本兵の血が流れたことから 、この丘は《レッドヒル》 と呼ばれていると言う。
 しかしこの惨絶は、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、東条首相は 『剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する』 と天皇に上奏した。 
 作戦開始から3か月後 (1944/6)は雨期に入り、既に 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死) していた。 この地方の降水量は世界一と言われ、然も 30年に一度の大雨だったとされている。
 密林の中は一面の洪水で、兵士たちは宿営場所もなく、食料も流される始末だった。 それでも作戦は中止されず戦死者は増え続け、漸く大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。
 しかし作戦中止後も、レッドヒルからの撤退には、激しい雨の中、敵攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河まで 400km の間は、全戦死者の 6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
 腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ・・・、帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12放送)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見た」、「人間が転んでしまえばハゲタカが いきなり飛びついてくる」、「戦場で目にしたものを絵にしてきたが最も多いのは餓死する仲間たちの姿だった」、「1人でいると肉切って食われちゃう、日本人同士でね・・・」、「ともかく友軍の肉を切って物々交換したり・・・」、「マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士・・・それがインパール戦だった」等々の証言が飛び交っていた。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したのか公式記録はないという。
 その後、イギリス軍はビルマを完全に奪還し、中国への補給ルートを確保し、ビルマ各地に残留していた日本兵も次々玉砕した。


*7
  7. ・・・庶民も戦争に巻き込まれていく戦争末期・・・
  ◆  出陣学徒壮行会 1943
   ーーー学業半ばに、愛する家族を残して

学徒出陣式
   日本政府は窮余の策として《学徒出陣》を決定した
 1943年11月21日、 雨が降りしきる中、神宮外苑競技場で出陣式が挙行された。大学生や専門学校生を対象とした学徒出陣は、戦時体制強化の一環だった。
 雨の神宮外苑には、東京と近県77校から若者たちは、学業も夢も志半ばに、短期間の訓練を終え、直ちに最前線に送られた・・・。
*72
   ◆ 広がる日米の兵力格差 『特攻隊』 1944
  ーーー祖国よ、さらば・・・、悲しく散った若い命ーーー
 アメリカはソロモン、タラワ島、トラック諸島、マリアナ・・・と太平洋の島々を次々攻略していく。 日本軍はサイパン防衛も、インパール作戦も、レイテ沖海戦も、次々破られ・・・、この期に、唯一の戦局挽回手段として特攻隊が組織された。
 1944年10月25日海軍がフィリピンで編成した 『神風特攻隊』を皮切りに、4,000人もの若者が次々と飛びたった。

人間魚雷『回天』 
  また、1 トン以上の爆薬を積んだ人間魚雷『回天』は、敵艦に当たれば確実に撃沈できると信じ、出撃した2,000人余の平均年齢は21歳、予科練を繰上げ卒業したての若者たちだった。
*73
  ◆ 日本本土空襲 ~ 終戦  (1944 末 ~ 1945/8)
 ◇ 日本本土空襲
   サイパン島陥落後、1944年末には 2,000機ものB-29基地として整備された。 そして;  
  サイパンから、連日100機を超える B-29の編隊が 1波、2波、3波・・・と往復し本格爆撃が続いた。 連合国側は、1日も早く降伏させようと日増しに熾烈さを極め、日本側は民家の取壊し(類焼防止帯)や児童疎開などにより、 1日も長く持ち堪える持久戦を続け、東京、大阪、名古屋など・・・200以上の大都市が焼き尽くされた。
※   そして最後は広島・長崎への原爆投下⇒・・・終戦という結末となった。 しかし犠牲者は、親も子も容赦なく膨大数に達し、極度の食糧難で、駅などには誰の援助もなく佇む孤児たちが溢れた。 彼らはその後、どの様にして、何人生き残られただろう?。
  ◇  終戦工作と「日ソ中立条約」の結末
 太平洋戦争末期、日本は、降伏決意に当たり、少しでも有利な条件が得られる様 《日ソ中立条約》を拠り所に、ソ連に仲介を求めようとした。 しかしソ連から回答はなかった。
 一方、アメリカは一刻も速く日本を降伏に追い込もうと、ソ連に参戦を求めていた。 結果、ソ連は終戦間際 (1週間前)に《日ソ中立条約》を破棄して連合国側に参戦した。
 そして日本の敗戦に乗じて、満州や南樺太や北方領土に侵攻し占領し、《国際連合》の「領土決定」に、服従しないまま現在に至っている・・・。
太平洋戦争を巡る曲折は、次にも記しているので参照願いたい。
5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、  (1940~1945)
6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )


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  8. ・・・終りに 『大東亜戦争(太平洋戦争)は何故起ったか?』・・・
   ” 私の歴史観 ”
 歴史は「史実を知るだけでは、何の役にも立たない」。 人類史上例のない大規模戦争が何故起きたか、それぞれの局面でどう対処すれば、結果はどうなっただろうか・・・?  それは、史実よりも、歴史に派生して、各人各様に、様々な角度で考え見ることが大切である。 私は次の点に注目している。
 ❶産業革命がもたらした強力兵器により《弱肉強食世界の秩序》が急崩壊したこと。
 ➋それにより強大国のエゴは、世界を好きな様に操つり、結果的にコントロールできなくなること。
 ❸清国(西太后時代)は、そんな時代の流れに乗遅れ、一旦、列強諸国の餌食になると
   世界中の強食国が、獲物に群がる "はいえな" の如く群がり、抜け出せなくなったこと。
 ❹しかし餌食が底をつく頃、"はいえな" 同志の利害争いが、更に激しく(世界大戦)なった、
 ❺そして、最後の勝利国は「正義国」となり、最後の敗戦国に「諸悪の責任」が被せられる。
 ※ はっきり言えることは、各国の利益が共有できる間は、互いの協力関係が増進する。 しかし「自国ファースト」のエゴしか考えないから、何かの拍子にバランスが崩れた途端に、『昨日の味方は今日の敵』と化す。 しかし国家間はエゴの固まりだから誰もコントロールできない。
 例えば、英国は大東亜戦争では勝利国だが、かつては植民地戦略やアヘン戦争などの最凶悪国だった。 しかし過去の犯歴は、最後の戦勝で全てが不問にされ、最後の戦争敗戦国「日本」だけに《侵略国》のレッテルを貼って一件落着とするから・・・世界の恒久平和実現は難しい。■



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