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| このページは 『私個人の歴史観』です 史実を述べるものではありません | ||||
| 大東亜戦争への道(1) | 2018/1 記 更新2024/7 |
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| ペリー来航 ~ 大東亜戦争(太平洋戦争)まで |
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| *1 | |||||||||||||
| 1.・・・大東亜戦争への道 (歴史の概要)・・・ | |||||||||||||
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| 3. 「日露戦争」勃発 | ||||||||||||||||||||
| ◆ ロシアの動きと、日英同盟締結 1902 ロシアは、清国と「露清密約」を結び、 「満州」は事実上支配状態にして鉄道を敷設し、旅順には堅固な基地を建設し、シベリア鉄道と連結し、「朝鮮半島に侵略」しようとしていた。 |
![]() 日露戦争の風刺画 |
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| 所がロシアは、ヨーロッパでも南進政策で イギリス植民地を脅かし、英・露は敵対関係になっていた。 その為、期せずして、➡①日英は《日英同盟》を締結し、 ➡②日露間では《朝鮮半島支配》をめぐる 「日露交渉」を開始した。 |
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| しかし交渉が長引くと、シベリア鉄道と連結工事が進み「戦闘不利」と判断した日本は交渉を打切った。 | ||||||||||||||||||||
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◆ 日露戦争 1904-1905 こうして日露戦争に突入した。 しかし(常識的に)日本に勝ち目の薄い、眞に 『国家存亡の危機』に際し、海軍は;連合艦隊司令長官に「東郷平八郎」が選任された。 |
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| 他方、ロシア軍の極東基地は「ウラジオストックと旅順」にあったが、朝鮮半島(日本支配)と 佐世保基地で分断され、連係が難しかったので、支援の為 世界最強のバルチック艦隊が回航された。 しかし英国は、スエズ運河の通行や、英国植民地への寄港や補給などの制限や、バルチック艦隊の情報を刻々と連絡するなど、日本に可能な限りの協力をしていた。 |
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![]() ◆ 日露戦争の経過 「バルチック艦隊」と「極東艦隊」が合流すれば、日本軍の勝ち目がない。 それにはバルチック艦隊到着までに、「旅順艦隊を殲滅」しなければ「挟み撃ち」にされる。 |
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| その中で、特に、次の決戦が小説などに とり挙げられている。 ❷【旅順港閉塞作戦】;旅順湾口に廃船を沈め、湾内に停泊中の艦艇を封じ込める作戦 ❹【《旅順攻囲戦》、《203高地奪取戦》】; 陸軍は膨大な犠牲を払い背後から旅順基地を攻略した ❼【日本海海戦】; 海軍は、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破した。 |
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| 4.日本軍の満州侵出 ~ 満州事変勃発 | |||||||||||||||||
| ◆ 満州侵出 ~ 満州統治権奪取(張作霖爆殺事件) | |||||||||||||||||
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| この間の曲折については次に記載している。 |
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◆ 柳条湖事件(満州事変勃発) (1931) しかし関東軍の統治( |
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| ※ 但し、それが関東軍の「でっち上げ事件」だったことは、終戦後の「東京裁判」まで、 国内にも世界にも伝えられていなかった。 |
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◆ 傀儡国家 ≪満州国樹立≫宣言 (1932) こうして、関東軍は、首都(長春)を"新京" と改名し、元首(執政)に溥儀が即位し、『満州は、中国( 国民党政府)と離脱し独立せり・・・』 と〖満州国樹立〗を世界に宣言した(1932.3.1)。 それは、建前は〖満州人たちが自主的に建設した「近代国家」〗だが、実態は日本の「傀儡国家」だった。 しかし日本国内では〖満州国樹立〗の快挙に、国家を挙げて祝賀ムードに沸き上っていた。 |
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| ◆ 5・15事件 (1932、昭和 7年) しかし国内は、祝賀ムードの裏では、財閥や資本家は労働者を酷使し、政治家は財閥と癒着して我欲に走り・・・政府に対する不満が昂っていた。 「陸軍将校たち」は、そのギャップに触発され、財政難を盾に軍縮を強要する犬養毅総理らを暗殺する「クーデター」を起こした。 |
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| 結果は、彼らの目指した 「軍部主導政府」は実現しなかったが、 →① 軍部の発言力が強まり、政府は軍を抑制できなくなった、 →② 右翼団体や急進的な思想に共感が強まり、行政府は大きく主導性を失った。 |
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◆ ≪リットン調査団≫ ~ 国際連盟脱退 (1933、昭和 8年) それに対し中国政府は、「満州の違法占領」を 国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣された。 そして3ヵ月にわたり調査されたが、調査結果は、 |
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| ①中国を立てれば、欧州各国の中国利権も失われ・・・(?)、 ②日本に制裁を課せば世界に戦乱を招く・・・(?)と、 形式的に中国の主張を認めながら、日本への制裁はあいまいで却って「お墨付き」の様になった。 |
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| しかし【満州国】の承認は、一国も得られず、日本は国際連盟を脱退した。 しかし「反日・抗日の嵐」は、以前にも増して中国本土に拡大し、熾烈さを極めていった。、 | ||||||
◆ 2・26事件 (1936、昭和11年) 一方、日本内地では、政治腐敗や、財閥との癒着、労働者や国民の生活苦・・・は、4年前の「5・15事件」当時から一向に改善されず、打開を巡って、陸軍には 次の二つの派閥が抬頭していた。
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| クーデターは、皇道派将校により決行され、高橋是清、斎藤実ら首相経験者や、重臣たちや警察官も犠牲になった。 しかし彼らの崇敬する昭和天皇は激怒され、彼らは「賊徒」として処罰された。 しかし,結果として 『政権中枢に 陸軍幹部が入る仕組み』ができ上った。 |
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◆ ≪満蒙開拓移民団≫ 1936(昭和11年)~ 日本は、富国強兵、”産めよ増やせよ” の裏に、絶対的な財政難や食糧難があった。 それに経済恐慌の影響で、ハワイやブラジルにも 移民団の受入れが拒否され、失業者も増加していた。 |
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| しかし満州は、見渡す限り肥沃な荒野で、耕せば無限に農地が拡がる。 全国民の食糧も、鉄も石炭も・・・夢あふれる別天地に、広田弘毅内閣は大量の入植者を送り込んだ。 | ||||||
| しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 の現実は、酷寒の雑木原野を人力で開拓し、農産物が収穫できるのは容易でない。 そこで満州国政府は、現地人の住居地や耕作地を、一方的に
【無人農地】と指定し、???ヘクタールの用地が日本人入植者に与えた。 入植者は、太平洋戦争終結まで 30数万人に達した。、”開拓移民団” という日本人社会で生活した。 現地人と交流はあっても中々融け合わず、日本人移民団を恨み、衝突が絶えなかったと言う。 |
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| しかし関東軍が攻勢の間、平穏は保たれていたが、10年余り後、 日本の敗戦で 「関東軍の恐怖」が失せた瞬間、現地民の怒りが爆発し、ソ連軍も侵攻し・・・在留邦人は 途端の災難に見舞われた。 | ||||||
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| 5. 盧溝橋事件 ~ 日中戦争に拡大 | |||||||||||||
| ◆ ≪盧溝橋事件≫ (1937=昭和2年) ⇒日中戦争 こうして日中間の険悪ムードが頂点に達していた頃、「盧溝橋事件」が偶発した。 事件の詳細は 様々言われている様だが、この事件をきっかけに、「日中全面戦争」に拡大していった。 |
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| それは、日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中、何者かが発砲し兵一名が行方不明になった。 その捜査に出た曹長らが、中国軍陣地に近づくとまた発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を始めた。 すると
また銃声の報告が届き、日本軍は中隊を 中国軍部隊に向けて前進させた。 それに中国軍は激しく射撃し、日本側も応射し、全面衝突となった。 しかし約2時間後、小康状態になり、盧溝橋城内での停戦交渉で事件は終結した・・・かに見えた。 しかし日本軍内部では次の2派のせめぎ合いが始まった。 |
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| 結局、【不拡大派】の方向で、中国側に 「謝罪」、「責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を求め、事件を終結させ様としたが・・・、しかし【拡大派】は、 「もし中国が応じなければ、交渉団の生命が危険」と口説き、近衛首相は (交戦でなく) 会議場付近に兵員を待機させることを認めざるを得なかった。 | |||||||||||||
| それは、「中国側は妥協するだろう」 との思惑だったが・・・、蒋介石は「断固抗戦」を決めつけた為、【拡大派】は燃え上がり、一気に日中戦争の火がついた。 | |||||||||||||
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| 石原は、一時、日本勤務の後、関東軍参謀副長として満州に戻ったが、そこは彼の理想と異なり 「日本の植民地化」していた。 しかし先の「満州事変」を成功させた張本人だけに、『日支親善』の理論は、軍部や東條英機(関東軍参謀長)らに対する説得力が欠けていた。 | |||||||||||||
◆ ≪上海事変 ~ 南京大虐殺事件≫ (1937、昭和12年) 日中戦争は、上海(虹橋飛行場内)で衛兵の発砲事件から始まった。 平時なら交戦は回避される所だろう。 しかし➡①危機を感じて陸戦隊(日本)が出動すると、➡②中国正規軍も前進して日本人租界(居住区)を包囲し、➡③市街戦が始まった。 |
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| 中国軍は空から日本人租界や艦隊を爆撃し、日本艦隊も中国軍陣地を砲撃した。 しかし日本は内地から艦隊を次々派遣し、2ヶ月半の激戦で、漸く日本軍は勝利し、敗れた蒋介石軍は南京に向け壊走した。 |
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| その頃、満州守備兵力の手薄から、関東軍本部は 「戦線不拡大」を指令していたが、現地軍は「今一歩で蒋介石軍を壊滅できる・・・!! と、壊走軍を追って南京に進撃し、市民を巻込む無差別虐殺「南京大虐殺事件」を起こした。 その死者数は、30万人と中国側は主張している。 | |||||||||||||
| ◆ 日中戦争(支那事変)の拡大 *****大陸内部への侵攻***** しかし蒋介石軍は、南京が陥落すると武漢へ、武漢も突破されると重慶へと大陸内部へ次々逃避し、日本軍はそれを追い戦場を内陸まで拡大していった。 |
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| ※ 食わずで、住民や農民に変装したゲリラ兵と戦いながら行軍する兵士の大群が、住家を 見つけたら何が起こるか(?) 住民に強奪や強姦、無差別虐殺などなかっただろうか(?) |
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| ◆ ≪日中戦争に米英参戦≫ 蒋介石は、(日本の)満州占領や大陸侵略を世界に訴え、遂に、米英が参戦し、「中国」に兵器支援した為、戦争は泥沼化し、日本は 全世界から孤立し敵対して経済制裁や石油禁輸制裁が課せられた。 |
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| しかし日本政府は、言論統制を強め、「ぜいたくは敵だ !!」、「欲しがりません勝つまでは !!」などのスローガンで民心を鼓舞し、「国家総動員法」を公布し(1938 昭13)、 「中国全土攻撃」を続行した。 | |||||||||||||
| しかしこれまでの戦場は、全て朝鮮半島や中国大陸で、「戦争の残酷さや凄惨さ」は大本営の検閲を通して、内地国民に如何に伝わったていただろう(?) 日中戦争の泥沼化にも拘わらず、「満州国樹立」の興奮醒めやらぬ 国民大衆は、大本営の勇ましい「戦勝」発表や、マスコミ宣伝に引かれ、「必勝」ムード一色になっていた(?) |
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◆ ≪ノモンハン事件≫ (1939=昭和14年) そんな折、満・蒙国境付近で、ソ連・ 蒙古軍が不穏な挑発行動を見せると、秘かに開発した【89式戦車】も揃い、将兵たちは 逸る気持が抑えられなかった。 |
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| 見渡す限り地平線に続く草原を、 2万5千人の歩兵の隊列はイモムシが這う如く、3日、4日、5日・・・明けても暮れても行軍中、銃と弾薬、食糧以外は全部捨て・・・戦線に到着した。 しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を備えて 待機しており、日本が開発した自慢の戦車も、「ソ・蒙軍の新鋭戦車」には歯が立たず、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら敵戦車と戦い、壊滅的大敗に終った。 |
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◆ 南方作戦 ~ 大東亜共栄圏の拡大 1940(昭和15年)頃~ こうして日本は、世界から孤立し、経済制裁や、『石油禁輸制裁』 が課されると、それを東南アジアに求め、 東南アジア諸国の併合を開始した(南方作戦)。 |
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| そんな日本の動きに、アメリカから関係改善の最終通牒 「ハル・ノート」 が示された。 それは、「中国及びインドネシアからの撤兵」、「中国大陸には、蒋介石政権以外は承認されない(つまり満州国は承認しない)」などが条件で、到底、日本の受入れられるものではなかった。 |
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| こうして外交の道が閉ざされた日本は; ⇒①日中戦争続行、 ⇒②南方作戦拡充、 ⇒③戦艦「大和」建造、 ⇒④日独伊三国同盟締結、 ⇒⑤日ソ中立条約締結・・・と、次々「日米開戦への道」を進む以外、レールに岐路なくなっていた。 |
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