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大東亜戦争への道(1) 2018/1 記
更新2024/7
ペリー来航 ~ 大東亜戦争(太平洋戦争)まで 
      緒  言
 ”大東亜戦争は何故起ったか・・・?” 
 「大東亜戦争」とは、昭和16年前後に「アジアと太平洋で始まった戦争」の総称である。 しかし侵略イメージの連想から、現在は専ら、最も象徴的な《太平洋戦争》の名称で代表されている。
 しかしそれでは、朝鮮半島、満州、中国大陸を舞台に 《日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争・・・》と、「約半世紀にわたり日本が関わった戦闘のイメージ」は消えてしまう。 本稿では、敢えて『大東亜戦争への道』と題し、開国以来、日本の辿った戦闘経過を追っていく。


*1
 1.・・・大東亜戦争への道 (歴史の概要)・・・
  ◆ペリー来航 ~ 明治新政府樹立
  ペリー艦隊が来航し(1853-54)、開国を迫られた頃、国民大衆は太平の眠りについていた。 しかし強力武器を背景に、開国を迫られ、治外法権や不平等条約が強要される「幕府」に、「長州藩や水戸藩」は激しく対立して倒幕運動に走った為、国内は大混乱になった(幕末の動乱)。 しかし結果として、日本は「開国」し、幕府は滅亡して《明治新政府》が発足した。

  ◆《朝鮮》に侵出~日清戦争~日露戦争勃発
  こうして発足した明治新政府は、世界と歩調を合せる為、 真っ先に《軍事力強化》と 《近代文明輸入》に急角度の舵を切った。 しかし、食料も、資源も、財源も、労働力も乏しい日本は、それを求めて朝鮮半島に侵出した。 しかし朝鮮半島は、清国の従属国になっていた為、日本と清国の間に緊張状態を招き、「日清戦争(1894-95)」勃発に繋がった。
  しかし日本は、それに勝利して朝鮮半島を獲得した。 しかしロシアも 「満州(清国領土)」を実質支配し、旅順に要塞を築き、「朝鮮半島に侵攻する」計画を進めていた。
  しかし超大国ロシアと戦争になれば(常識的に)「勝ち目」はなく、日本政府は、戦争回避方針で「日露間交渉」が続けられたが、結局、決裂し「日露戦争勃発」となった (1904-5)。

  ◆日露戦争 ~満州事変~日中戦争 ~太平洋戦争への道
  しかし「日露戦争」は、英国の強力支援や、様々な幸運も重なって、甚大な犠牲を伴いながらも、日本軍は奇跡的勝利し、その勢いで満州に侵攻した。
 当時「満州」は、清国(後の中国)領土張作霖が統治していたが、事実上 「ロシア支配」の状態だったので日本軍が侵攻すると、ロシアに代って支配し「新国家建設」を始めた。 
   ところが20余年後、満州を巡って事態は、 ①日本(関東軍)、②張作霖軍閥、③中国(蒋介石政府)の3者による 「満州争奪合戦」 になっていた。 
 つまり、① 日本(関東軍)にとっては「国土建設」が進み、自国領土同然になっていた。
しかし、② 張作霖軍閥は、ソ連や欧米勢に接近して満州の主導権を奪還する動きを見せ、
 ③ 中国(蒋介石政府)も、体制を整え 「中国全土統治」を目指して満州奪還軍を派遣した
  そこで関東軍は、張作霖の乗る列車を爆破して殺害し「満州統治権」を先取した(1928)。
しかしそれは、「反日・抗日の嵐」となり、武力鎮圧しても「嫌日事件」が
絶えなくなると、関東軍(石原莞爾)は、「南満州鉄道爆破事件」(柳条湖事件)を自作自演し、それを『満州人の犯行 !!』 とでっちあげ、即座に満州全土攻撃を決行し、満州全土を制圧」した(満州事変=1931)。
 そして、国家の体制を整え、元首(執政)に溥儀が即位して「満州国」の建国宣言をした(1932)。 
  それに対し、中国(蒋介石政府)は、「満州違法占領」を 国際連盟に訴え、リットン調査団が派遣された。 しかし調査報告は、日本への実質的制裁は下されなかった。 しかし「満州国」の承認は、世界のどの国からも得られず、(日本は)国際連盟を脱退した。
  しかし 「日・中関係」は 益々険悪化し、極度な緊張状態の中で、発砲事件(盧溝橋事件)の偶発から 「日中全面戦争」に拡大していくと、遂に、米英も 中国に味方し 武器支援した為、日本は全世界とも孤立し敵対関係になった。
  しかし,、労働者も、産業も、国家予算も・・・全て 軍事関連に偏重し、食料も・財政も、資源も、エネルギーも、労働力も・・・、全て大陸頼みの日本は、中国戦線から「撤兵」などできる筈もなく、もはや米英を相手に戦う(太平洋戦争)しか道はなくなっていた。 
     ◇ 大東亜戦争への道(歴史経過=年表)   別表参照 



*2
  2 日本開国 ~明治維新~日本近代化政策
    ◆ 黒船来航 ~ 幕末の動乱
   18世紀後半から本格化した産業革命は、西欧諸国に強力兵器をもたらした。 特に、英国はそれにより世界中を植民地化し、アメリカ大陸に大量移民を送り、清国(現;中国)にも侵出し・・・「弱肉強食時代」の小規模秩序を破壊していった。
   そして、遂に、日本にもペリー艦隊が来航(1853-54)し、開国を強要されると、幕府(大老;井伊直弼)は、開国を決断をせざるを得なかった。 しかし徳川斉昭(水戸藩主)や長州藩は「尊王攘夷」を主張し、同意が得られず独断で「日米修好通商条約」を締結した。
  しかし「治外法権や不平等条約」も次々締結させられる幕府と、水戸藩や長州藩との関係は更に険悪化し、⇒安政の大獄 (1858-59)、⇒桜田門外の変 (1860)、⇒禁門の変、⇒幕長戦争・・・等々、事件や戦闘が次々引き起こされた(幕末の動乱)。  しかし結末は 徳川慶喜は「大政奉還」し 《明治新政府》が発足した(1868)。
 しかしそれとは別に、欧米列強と対等に折衝する為には ;、
 ◇幕府の小栗上野介は、欧米の先進文明を採り入れ、艦船建造する 「近代的造船所」の
     必要性を説き、横須賀製鉄所の建設に着手していた。
 ◇勝海舟、坂本竜馬は、海軍創設の必要性を主張し、「海軍伝習所」を創設していた。

  ◆ 明治新政府の発足と 近代化政策推進
  こうして 発足した「明治新政府」は、軍事、政治、経済あらゆる面で驚愕的に進歩した世界と接し、「軍事力強化と、文明開花」に全力を注いだ。
 つまり、幕府の進めていた海軍創設や横須賀製鉄所は 更なる増強を計り、鉄道、近代的工場、発電所、ダム建設、炭鉱開発・・・等々、全ゆるインフラ整備に加え、技術者や専門官を派遣して政治、経済、教育、警察、銀行、軍事などの諸制度も導入した。 
   しかしそれに必要な財源、労働力、兵員、糧食、エネルギー資源・・・等々は、我が国 唯一の輸出品「生糸」の増産(富岡製糸場など)は勿論、国民も 生活を最大限犠牲にして働いた。
 しかしそれとは別に、「朝鮮半島への侵出」も必定だった。

    ◆ 《 朝鮮半島に侵出 ~ 北洋艦隊の回航 》
 当時の朝鮮半島は 「清国の従属国」だったので、清国からの独立を促し《日朝修好条規締結した(1874)。 しかしそれは「日本と清国の間で緊張」を招いた。
 
北洋艦隊「旗艦;定遠」
 それに対し清国軍(北洋艦隊)は、日本に威嚇か、牽制か(?)、清国自慢の 『新鋭艦「定遠」(7,430トン)を旗艦とする豪華艦隊』を日本各地に回航して威容を見せつけた。 それは、横浜沖に停泊中、皇族や大臣、陸海軍将校、新聞記者等の首脳人を招いてレセプションを催し、日本の巡洋艦(「浪速・高千穂」)の2倍もある新鋭艦の「威容」に招待客は圧倒された。

 しかし北洋艦隊は、その後宮島沖にも回航し「呉に赴任中の東郷平八郎(参謀長)」も視察した。
 しかし東郷は、『甲板は不潔で整理整頓されず、自慢の 26cm主砲には洗濯物が干してあるなど、「軍艦は強大堅固でも、乗務人員の訓練も実戦能力も未熟で、海軍将校や指揮官の指揮系統も不統一、近代国家の軍隊とは言えない」』ことを見破っていた。 
  それは「日清戦争の勝因」に繋がったと見るべきか(?) 東郷は(東郷邸では)、来る日清戦争を予見して作戦など考えていたのではないだろうか(?)

    ◆ 《日清戦争勃発》1894-1895)
  つまり東郷は、程なく防護巡洋艦「浪速」の艦長に就任(1891)し、3年後に「日清戦争」は勃発した。
  朝鮮半島では、日本に侵出後 「親清派や親日派などの反乱」(甲午農民戦争)が起こり、清国は平定の為「北洋艦隊」を出動させた。 それには日本も(朝鮮内の)主導権を確保には・・・、期せずして《日清戦争》勃発となった。 呉鎮守府開庁から 僅か 5年後である。、
  それには(陸軍も宇品から大勢の兵士が出征したが)、海軍は「吉野」、「高千穂」、「秋津洲」、「浪速(東郷艦長)」の高速艦隊が編成され、高速速射砲(高速で敵艦に近づき速射砲を連発)で 、北洋艦隊の大艦巨砲と対戦し勝利した。
  それにより、東郷の能力は国内外に知れ渡った。
 しかし、東郷が もっと 『世界の英雄』 と名を馳せるのは、10年後に起こる日露戦争「日本海海戦」の快挙(後述)である。
  日清戦争に勝利した日本は、下関講和条約により、朝鮮半島と、台湾も獲得する大収穫を得て、大量の徴用工を徴募して、日本国内の工場労働やインフラ工事に従事し、軍事及び産業基盤の強化に拍車が掛かり「日韓併合」に突き進んだ。

  ◆ 義和団事件(北清事変) 1900-1901
  日清戦争に敗れた清国は、日本や欧米列強に(死骸に群がるハイエナの如く)侵略された。 それに反抗する清国民衆は、各地で ”義和団” を結成して、外国公使館を襲撃する事件が起きた。
  しかし列強の武力には足元にも及ばず、逆に多大な賠償を要求され、日本や欧米(英・米・露・仏・独・奥・伊・ハンガリー)に、香港や天津や北京や上海などは、虫食い状に租界地や租借地が設定された。
 その裏では、次の事態が同時進行していた。
 ①「遼東半島」の割譲要求が、ロシアの反対により阻止され、日露間は新たな軋轢が生じていた。

 ②日清戦争に敗れた清国は、日本や欧米列強に侵略され、満州も事実上ロシア支配になっていた。 



   3. 「日露戦争」勃発
  ◆ ロシアの動きと、日英同盟締結 1902
 ロシアは、清国と「露清密約」を結び、 「満州」は事実上支配状態にして鉄道を敷設し、旅順には堅固な基地を建設し、シベリア鉄道と連結し、「朝鮮半島に侵略」しようとしていた。

日露戦争の風刺画
    所がロシアは、ヨーロッパでも南進政策で イギリス植民地を脅かし、英・露は敵対関係になっていた。
 その為、期せずして、➡①日英は《日英同盟》を締結し、 ➡②日露間では《朝鮮半島支配》をめぐる 「日露交渉」を開始した。
 しかし交渉が長引くと、シベリア鉄道と連結工事が進み「戦闘不利」と判断した日本は交渉を打切った。
 その以前、(弱小国)日本は、(超強大国)ロシアとの力関係から、ニコライ 2世の親善訪日や、広瀬武雄はロシアに軍事留学など、友好関係維持には細心の配慮をしていた。
 しかし日清戦争後の講話条約で、遼東半島の割譲要求を、ロシアにより阻止され(前述)、日露間には緊張状態は昂ぶっていた。 
  しかし「日露交渉」の決裂は、 ➡ ①ロシアは、日本の軍事力を軽視したか(?) 或いは ➡② 日本は、日清戦争の勝利や「日英同盟」を締結して自信を強めたか(?)、或いは ➡③米英に強圧されたか(?) ・・・、しかし「窮鼠」の思いもあったのではないだろうか(?)

   ◆ 日露戦争  1904-1905
 こうして日露戦争に突入した。 しかし(常識的に)日本に勝ち目の薄い、眞に 『国家存亡の危機』に際し、海軍は;連合艦隊司令長官に「東郷平八郎」が選任された。
   他方、ロシア軍の極東基地は「ウラジオストックと旅順」にあったが、朝鮮半島(日本支配)と 佐世保基地で分断され、連係が難しかったので、支援の為 世界最強のバルチック艦隊が回航された。
 しかし英国は、スエズ運河の通行や、英国植民地への寄港や補給などの制限や、バルチック艦隊の情報を刻々と連絡するなど、日本に可能な限りの協力をしていた。

  ◆ 日露戦争の経過
 「バルチック艦隊」と「極東艦隊」が合流すれば、日本軍の勝ち目がない。 それにはバルチック艦隊到着までに、「旅順艦隊を殲滅」しなければ「挟み撃ち」にされる。
 しかし旅順基地は、背後を小高い山に囲まれ、山上には難攻不落な要塞が幾重にも築かれ、攻略の糸口が掴めない。 正面(海側)も、無数の砲台と強力艦隊の巨砲が狙いを定め、近寄れない。
 それには、下記❶~❼の戦闘が戦わされ、日本は辛うじて勝利した。 「日露戦争」はそれら全戦闘の総称である。
 それは、約 1年間苦戦の連続で甚大な犠牲を伴い、陸軍は背後の「203高地」占領に成功した。、そして湾内に集結していた艦隊も撃破し、その後、連合艦隊は、対馬海峡でバルチック艦隊と交戦(日本海海戦)し勝利したが、それは幾重もの「幸運に恵まれた「奇跡的勝利」と言うのが実態だろう(?)
  その中で、特に、次の決戦が小説などに とり挙げられている。
 【旅順港閉塞作戦】;旅順湾口に廃船を沈め、湾内に停泊中の艦艇を封じ込める作戦
 《旅順攻囲戦》、《203高地奪取戦》】; 陸軍は膨大な犠牲を払い背後から旅順基地を攻略した
 日本海海戦】; 海軍は、世界最強といわれたバルチック艦隊を撃破した。

  ◇ 海 軍 ;
仁川沖海戦  =日本軍は、ウラジオストックから旅順軍港に航行中のロシア艦隊に砲撃し、事実上、宣戦布告となった。
 艦隊は旅順軍港(湾内)に退避し、旅順沖で日本軍が対峙した為、ロシア艦隊は、湾内に閉じ込められた。



日本海海戦  NHKテレビ


奉天会戦   .
奉天占領直後の城内 NHKテレヒ
  ◇ 海 軍 ;
旅順港閉塞作戦  =旅順湾に閉じ込められた艦艇を封じ込める為、日本軍は 湾口に廃船を沈める作戦を 3次に渡って決行したが失敗し、広瀬武雄は戦死した。
  ◇ 陸 軍 ;
鴨緑江会戦~南山の戦い  =陸軍は、旅順要塞攻囲に先だち、ロシア本国から旅順への「連絡路」を遮断した。 つまり朝鮮から鴨緑江を渡河し(鴨緑江会戦)、遼東半島の「南山(大連市)」でロシア軍と交戦した。 ロシア軍の砲撃により凄しい犠牲を伴ったが、砲弾の尽きたロシア軍は撤退し、旅順への補給路は遮断された。
  ◇ 陸 軍 ;
旅順基地攻囲戦(第1次/第2次/第3次)  =陸軍は更に前進し、背後から「旅順要塞」攻略に移った。 しかし背後の山上の堅固な要塞からの激しい砲撃で、3次に亘り甚大な犠牲者を出し、遂に、旅順湾を見下ろす【203高地】を奪取し、山上から旅順要塞を陥落し、旅順湾に停泊中の艦船も撃破した。
  ◇ 海軍 ;
黄海海戦、蔚山冲海戦 =旅順基地が攻囲され、砲撃を免れようと湾外(黄海)に出た旅順艦隊を、海軍が迎撃した。 それを逃れ、ウラジオストックに向った艦船も蔚山冲で撃破した。
  ◇陸軍 ;
遼東会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦 =旅順要塞が陥落後、満州内部に退却するロシア軍を追撃した。 ロシア軍も応戦したが最後は奉天(現;瀋陽)会戦で撃退し、満州に入城した。 
  ◇海軍 ;
日本海海戦(1905/2) = 旅順基地陥落後、東郷平八郎率いる連合艦隊は、対馬海峡で ”バルチック艦隊” を待ち受け、その直前を横切る 「丁字戦法」などを駆使して撃滅し、劇的勝利した。
 ロシアは、遠路バルト海からバルチック艦隊を回航したが、英国管理のスエズ運河を通れず、喜望峰廻りで、途中、英国植民地の寄港や補給が制限され、艦船修理もできず、兵士の士気も落ちていた。
 それに交戦時、「天気晴朗なれど波高し」、砲撃の命中率は毎日訓練を重ねていた日本軍に有利だったなど、バルチック艦隊には、不運が重なり壊滅状態になった。
  ※注); 結果、イギリス(日英同盟)の協力、(造船所が整備され)訓練で傷んだ艦船修理や改造が素早く出来たことや、気象条件なども幸運が重なって、偶々、歴史的完勝となった。
 そんな条件が一つでも欠けて、バルチック艦隊が ウラジオ艦隊と合流していたら・・・、その後の日本は?、否、世界の歴史はどうなっているだろう・・・(?)
日露戦争は、「日本、否、世界の歴史にとっても」 極めて重要な「分岐点」だったと言える。
  ◇勝利した「日本」は破竹の勢いで満州に侵攻し、
◇敗れた「ロシア」は満州利権を失い、樺太も南半分を日本に割譲された。
  ヨーロッパ戦線も敗退続きで、国内は大混乱の末「ロシア革命」により 「ソビエト連邦」が
  誕生し、現在の世界にも極めて大きく影響している。 



    4.日本軍の満州侵出 ~ 満州事変勃発
  ◆ 満州侵出 ~ 満州統治権奪取(張作霖爆殺事件) 
※1 満州は; ⇒当時、清国の領土で「張作霖」が統治していた。
  しかし清国は、日清戦争に破れると、日本や欧米列強各国が侵入しボロボロになっていた。
  ロシアも、「満州(=清国領)」に侵入し、事実上支配し大勢のロシア人も住んでいた
※2 そこに日露戦争に勝利した日本軍(関東軍)は; ⇒ 敗走軍を追って満州に入城し
   「奉天会戦」でロシア軍を撃退すると、(ロシアに代って)南満州を事実上支配状態にした。
 ◇その後、「第一次世界大戦」が勃発し(1914-18)、英、独、仏がアジアから戦力を引くと、「残った日本」の一人舞台になり、満州の農地開発や国家建設を着々と進めた。
※3 しかし満州入城から20余年後;満州支配を巡って、次の三者が争う構図になっていた。
 ① 日本は; ⇒傀儡国家建国を目指し、既に、莫大な投資して、満州開発や近代都市建設が進み、自国領同然になっていた。
奉天大広場(大和ホテル)
 ② 張作霖軍閥は; ⇒ソ連や欧米勢と接近し、満州支配を固める動きを見せていた。
 ③ 中国(蒋介石政府)は; ⇒国内体制が整い、軍隊を再編成して 「中国全土統治」を目指し、満州奪還軍(張作霖軍閥殲滅軍)を派遣した。
 ◇そこで「関東軍」は; ⇒そこで関東軍は、張作霖の乗る「列車爆破事件」を工作して、張作霖を爆殺(1928)し、満州を占領した。
※4 「張作霖爆殺事件」について、将校たちは 「 関東軍の《権威》を威武することによってのみ
  事態は鎮静化する」と、思い込んでいたのではないだろうか(?)、 しかし日本政府の立場は
  追認せざるを得ず、昭和天皇回顧録では《軍部独断専行》の始まりと述懐されていた。
    この間の曲折については次に記載している。
      ◆2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防 (1911~1928) 

  ◆ 柳条湖事件(満州事変勃発) (1931)
  しかし関東軍の統治(後述;参照)は、満州全土に 「反日・抗日の嵐」となり、武力制圧するも「嫌日事件」が絶えなくなると、関東軍(石原莞爾)は 、南満州鉄道の「線路爆破事件」を自作自演した。 そして『満州人の犯行 !! 』とでっち上げ満州全土を攻撃、驚異的 短期間に「満州全土」制圧に成功した。
    ※ 但し、それが関東軍の「でっち上げ事件」だったことは、終戦後の「東京裁判」まで、
      国内にも世界にも伝えられていなかった。

    ◆ 傀儡国家 ≪満州国樹立≫宣言 (1932)
 こうして、関東軍は、首都(長春)を"新京" と改名し、元首(執政)に溥儀が即位し、『満州は、中国( 国民党政府)と離脱し独立せり・・・』 と〖満州国樹立〗を世界に宣言した(1932.3.1)。
  それは、建前は〖満州人たちが自主的に建設した「近代国家」〗だが、実態は日本の「傀儡国家」だった。 しかし日本国内では〖満州国樹立〗の快挙に、国家を挙げて祝賀ムードに沸き上っていた。


    ◆ 5・15事件 (1932、昭和 7年)
  しかし国内は、祝賀ムードの裏では、財閥や資本家は労働者を酷使し、政治家は財閥と癒着して我欲に走り・・・政府に対する不満が昂っていた。
  「陸軍将校たち」は、そのギャップに触発され、財政難を盾に軍縮を強要する犬養毅総理らを暗殺する「クーデター」を起こした。
    結果は、彼らの目指した 「軍部主導政府」は実現しなかったが、
   →① 軍部の発言力が強まり、政府は軍を抑制できなくなった、
   →② 右翼団体や急進的な思想に共感が強まり、行政府は大きく主導性を失った

   ◆ ≪リットン調査団≫ ~ 国際連盟脱退 (1933、昭和 8年)
  それに対し中国政府は、「満州の違法占領」を 国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣された。  そして3ヵ月にわたり調査されたが、調査結果は、
    ①中国を立てれば、欧州各国の中国利権も失われ・・・(?)、
    ②日本に制裁を課せば世界に戦乱を招く・・・(?)と、
 形式的に中国の主張を認めながら、日本への制裁はあいまいで却って「お墨付き」の様になった。
   しかし【満州国】の承認は、一国も得られず、日本は国際連盟を脱退した。 しかし「反日・抗日の嵐」は、以前にも増して中国本土に拡大し、熾烈さを極めていった。、

   ◆ 2・26事件 (1936、昭和11年)
  一方、日本内地では、政治腐敗や、財閥との癒着、労働者や国民の生活苦・・・は、4年前の「5・15事件」当時から一向に改善されず、打開を巡って、陸軍には 次の二つの派閥が抬頭していた。
①「統制派」;  中枢の高官を中心、 「軍部寄りの政治実権を掌握」を目指す
②「皇道派」;  青年将校を中心、 "昭和維新"を旗印に「天皇中心の政治改革」を目指す
   クーデターは、皇道派将校により決行され、高橋是清、斎藤実ら首相経験者や、重臣たちや警察官も犠牲になった。 しかし彼らの崇敬する昭和天皇は激怒され、彼らは「賊徒」として処罰された。
 しかし,結果として 『政権中枢に 陸軍幹部が入る仕組み』ができ上った

    ≪満蒙開拓移民団≫ 1936(昭和11年)~
  日本は、富国強兵、”産めよ増やせよ” の裏に、絶対的な財政難や食糧難があった。 それに経済恐慌の影響で、ハワイやブラジルにも 移民団の受入れが拒否され、失業者も増加していた。
  しかし満州は、見渡す限り肥沃な荒野で、耕せば無限に農地が拡がる。 全国民の食糧も、鉄も石炭も・・・夢あふれる別天地に、広田弘毅内閣は大量の入植者を送り込んだ。
 しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 の現実は、酷寒の雑木原野を人力で開拓し、農産物が収穫できるのは容易でない。 そこで満州国政府は、現地人の住居地や耕作地を、一方的に 【無人農地】と指定し、???ヘクタールの用地が日本人入植者に与えた。
 入植者は太平洋戦争終結まで 30数万人に達した。、”開拓移民団” という日本人社会で生活した。 現地人と交流はあっても中々融け合わず、日本人移民団を恨み、衝突が絶えなかったと言う。
それは例えば;
 ◆(日、中、満、ソ)の人種差別は激しく、食料配給量なども、日本人はかなり優遇された。
 ◆満蒙開拓団の入植には、現地農民の耕作地が強制的に奪われた。
 ◆鉄道建設や都市建設などで、大財を成す日本人業者や商人が続出した。
 ◆鉄道、遊技場、ホテル、百貨店・・・等々豪華施設も次々建設されたが、日本人以外の
   現地住民には利用が難しかった。 等々
 しかし関東軍が攻勢の間、平穏は保たれていたが、10年余り後、 日本の敗戦で 「関東軍の恐怖」が失せた瞬間、現地民の怒りが爆発し、ソ連軍も侵攻し・・・在留邦人は 途端の災難に見舞われた。
  老若男女を問わず無差別に襲撃され・・・、捕虜としてシベリア抑留され、或いは集団自決し、或いは帰還列車も 食料も ない荒野を彷徨い、衰弱する仲間や、子供や、家族を置き去りにしながら、幾10里の道を歩いて、極く一部の人が故国日本に辿り着いた。



     5. 盧溝橋事件 ~ 日中戦争に拡大
  ◆ ≪盧溝橋事件≫ (1937=昭和2年) ⇒日中戦争
  こうして日中間の険悪ムードが頂点に達していた頃、「盧溝橋事件」が偶発した。 事件の詳細は 様々言われている様だが、この事件をきっかけに、「日中全面戦争」に拡大していった。
  それは、日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中、何者かが発砲し兵一名が行方不明になった。 その捜査に出た曹長らが、中国軍陣地に近づくとまた発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を始めた。 すると また銃声の報告が届き、日本軍は中隊を 中国軍部隊に向けて前進させた。 それに中国軍は激しく射撃し、日本側も応射し、全面衝突となった。 しかし約2時間後、小康状態になり、盧溝橋城内での停戦交渉で事件は終結した・・・かに見えた。
 しかし日本軍内部では次の2派のせめぎ合いが始まった。
 ①【事件拡大派】は ;(東條英機ら)は、暴支膺懲(=これを機に中国全土を徹底的に殲滅し、   「抗日」の根を断ち切ることを強く主張した。
 ②【事件不拡大派】 (石原莞爾と日本政府)は ;中国軍と戦っている間に、ソ連が侵攻して
   来くれば対処できない。 「国力の消耗は厳に慎むべし」と、戦闘は「不拡大」を主張した。
 結局、【不拡大派】の方向で、中国側に 「謝罪」、「責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を求め、事件を終結させ様としたが・・・、しかし【拡大派】は、 「もし中国が応じなければ、交渉団の生命が危険」と口説き、近衛首相は (交戦でなく) 会議場付近に兵員を待機させることを認めざるを得なかった。
 それは、「中国側は妥協するだろう」 との思惑だったが・・・、蒋介石は「断固抗戦」を決めつけた為、【拡大派】は燃え上がり、一気に日中戦争の火がついた。
石原莞爾の理念  *** 大東亜共栄圏の理念 ***
 西欧や米国の圧倒的勢力に牛耳られている世界は、それと対等に渡り合える勢力をアジア築くことにより最終安定化する。 それは日・満・中・朝・蒙の五国が結集して共に栄える「大東亜共栄圏」を築かねばならない。 その中心は満州国であって日本が支配すべきでない。 中国(蒋介石軍)を殲滅ではなく、『日支親善』の道はまだ残されていると説いていた。
  石原は、一時、日本勤務の後、関東軍参謀副長として満州に戻ったが、そこは彼の理想と異なり 「日本の植民地化」していた。 しかし先の「満州事変」を成功させた張本人だけに、『日支親善』の理論は、軍部や東條英機(関東軍参謀長)らに対する説得力が欠けていた。

  ◆ ≪上海事変 ~ 南京大虐殺事件≫ (1937、昭和12年)

  日中戦争は、上海(虹橋飛行場内)で衛兵の発砲事件から始まった。 平時なら交戦は回避される所だろう。 しかし➡①危機を感じて陸戦隊(日本)が出動すると、➡②中国正規軍も前進して日本人租界(居住区)を包囲し、➡③市街戦が始まった。
  中国軍は空から日本人租界や艦隊を爆撃し、日本艦隊も中国軍陣地を砲撃した。
 しかし日本は内地から艦隊を次々派遣し、2ヶ月半の激戦で、漸く日本軍は勝利し、敗れた蒋介石軍は南京に向け壊走した。
  その頃、満州守備兵力の手薄から、関東軍本部は 「戦線不拡大」を指令していたが、現地軍は「今一歩で蒋介石軍を壊滅できる・・・!! と、壊走軍を追って南京に進撃し、市民を巻込む無差別虐殺「南京大虐殺事件」を起こした。 その死者数は、30万人と中国側は主張している。
 
  ◆ 日中戦争(支那事変)の拡大 *****大陸内部への侵攻*****
    しかし蒋介石軍は、南京が陥落すると武漢へ、武漢も突破されると重慶へと大陸内部へ次々逃避し、日本軍はそれを追い戦場を内陸まで拡大していった。
   ◇そして勝利続きに、東條英機は
    「我が国はアジアに「力」を示しつつある。 逃げる蒋介石軍を追い続けるべきだ !!
    我らは皇軍だ、敵の戦闘機さえ精神力で落とすのだ・・・!」と鼓舞した。
  ◇対する石原莞爾は
    「東條サン、あんたは実戦を知らん。無茶な進軍は敗戦を呼ぶだけ だ !!」と、
    真っ向から衝突して解任された。
    ※ 日本軍の行軍は、糧食や必要物資は現地調達が原則だった。 灼熱の原野を飲まず
     食わずで、住民や農民に変装したゲリラ兵と戦いながら行軍する兵士の大群が、住家を
     見つけたら何が起こるか(?)  住民に強奪や強姦、無差別虐殺などなかっただろうか(?) 
 
  ◆ ≪日中戦争に米英参戦≫
  蒋介石は、(日本の)満州占領や大陸侵略を世界に訴え、遂に、米英が参戦し、「中国」に兵器支援した為、戦争は泥沼化し、日本は 全世界から孤立し敵対して経済制裁や石油禁輸制裁が課せられた。
   しかし日本政府は、言論統制を強め、「ぜいたくは敵だ !!」、「欲しがりません勝つまでは !!」などのスローガンで民心を鼓舞し、「国家総動員法」を公布し(1938 昭13)、 「中国全土攻撃」を続行した。
   しかしこれまでの戦場は、全て朝鮮半島や中国大陸で、「戦争の残酷さや凄惨さ」は大本営の検閲を通して、内地国民に如何に伝わったていただろう(?)
 日中戦争の泥沼化にも拘わらず、「満州国樹立」の興奮醒めやらぬ 国民大衆は、大本営の勇ましい「戦勝」発表や、マスコミ宣伝に引かれ、「必勝」ムード一色になっていた(?)

  ◆ ≪ノモンハン事件≫ (1939=昭和14年)
  そんな折、満・蒙国境付近で、ソ連・ 蒙古軍が不穏な挑発行動を見せると、秘かに開発した【89式戦車】も揃い、将兵たちは 逸る気持が抑えられなかった。
   見渡す限り地平線に続く草原を、 2万5千人の歩兵の隊列はイモムシが這う如く、3日、4日、5日・・・明けても暮れても行軍中、銃と弾薬、食糧以外は全部捨て・・・戦線に到着した。
 しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を備えて 待機しており、日本が開発した自慢の戦車も、「ソ・蒙軍の新鋭戦車」には歯が立たず、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら敵戦車と戦い、壊滅的大敗に終った。
 ※ この間、日中を巡る曲折は、次に記している。 
 ◆3.満州をめぐる攻防 と 満州国設立~日中戦争へ (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入            (1934~1940)

   ◆ 南方作戦 ~ 大東亜共栄圏の拡大  1940(昭和15年)頃~
  こうして日本は、世界から孤立し、経済制裁や、『石油禁輸制裁』 が課されると、それを東南アジアに求め、 東南アジア諸国の併合を開始した(南方作戦)。
    そんな日本の動きに、アメリカから関係改善の最終通牒 「ハル・ノート」 が示された。
 それは、「中国及びインドネシアからの撤兵」、「中国大陸には、蒋介石政権以外は承認されない(つまり満州国は承認しない)」などが条件で、到底、日本の受入れられるものではなかった。
   こうして外交の道が閉ざされた日本は;
 ⇒①日中戦争続行、 ⇒②南方作戦拡充、 ⇒③戦艦「大和」建造、 ⇒④日独伊三国同盟締結、 ⇒⑤日ソ中立条約締結・・・と、次々「日米開戦への道」を進む以外、レールに岐路なくなっていた。 
    ☆ 南方作戦は 石油禁輸制裁に対し、それを東南アジアに求める作戦で、先ず⇒①イギリス領マレーと、アメリカ領フィリピンを奪取し、それを足場に ⇒②シンガポール、蘭印(現インドネシア)を攻略し資源を確保し、⇒③スンダ列島に防衛線を築くことにあった。
この地域は、当時;総人口6,000万人、3分の2はジャワ島に集中。 油田地帯は スマトラ島や、ボルネオ島やジャワ島東部にあり、産出量(1939年=800万トン)は 日本内地の(500万トン)を上回っていた。 その他; 錫、ボーキサイト、ゴムなども産出していた。
     ☆ 大東亜共栄圏は、「列強植民地からの独立」を奨めて支持を集め、マレーシア半島、シンガポール、インドネシア、フィリピン、パプアニューギニア、マリアナ・・・と太平洋の国々の併合を進めた。
 結果、日本の敗戦により、独立の約束は果たせなかったが、西欧の植民地支配(=奴隷制度)と違い、現地人の教育や重要ポストに登用、インフラ整備など、戦後独立に大きく貢献している。
     6.太平洋戦争《日米開戦》への道 (1939 ~ 1945 )     

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