このページは、『個人的に想像しながら ”歴史”を考える』 のが目的です。
あくまで私 個人の歴史観です。 信憑性については読者側で判断願います。

☆☆☆ 朝 鮮 通 信 使 ☆☆☆

ユネスコ『世界の記憶』登録 ; 朝鮮人来朝備前御馳走船行烈図
1
*1  朝鮮通信使とは

   通信とは 「信(よしみ)を通(かよわす)」の意味で、その為の使節団が「朝鮮通信使」です。 その歴史は室町時代から始まりましたが、「文禄慶長の役」(1595)により断絶しました。
 しかし
江戸時代になると、改めて「日朝国交回復交渉」が成立し、朝鮮から平和友好使節団(朝鮮通信使)の来日が始まり、以後江戸時代(約260年間)を通して、両国の平和友好の維持に大きな役割を果たしました。
 それは、
「誠心交隣」を理念として日朝両国が平和な時代を構築し、大陸文化や数多の新しい知識を日本にもたらし、異国情緒を加味するユニークな「江戸町民文化」を醸成しました。 その貢献が評価され、この度日韓両国に保管されている記録資料 が、ユネスコ「世界の記憶」に登録されました。 松濤園所蔵の資料も「朝鮮人来朝備前御馳走船行烈図」等が登録されました。

 本稿は「文禄慶長の役」による断絶後、再開に至る経緯、来日した際 江戸まで行進する模様、及び各地での接待風景などについて、下蒲刈”松濤園” で開かれた「観光ボランティア研修」のレジメ及び配布資料、松濤園”ご馳走一番館”内の展示資料、関連パンフレット等を基にして、書き上げた ”私の歴史観” です。
*2 ”日朝国交断絶”と、”朝鮮通信使再開”の経緯

文禄・慶長の役


亀甲船

文禄・慶長の役
 豊臣秀吉は日本全国を統一すると、明国(現・中国)をも征服しようと野望を抱き、徳川家康や、上杉景勝、軍師黒田勘兵衛ら 名だたる諸大名の反対を押し切って、朝鮮出兵を断行しました。

 当時の朝鮮は明国の従属下にあり、朝鮮皇帝は 明国に任命される(册封体制)になっていました。 そこで秀吉は、(朝鮮に)明国との関係を断ち、「明国侵攻」に協力する様に強要しました。 しかしそれは、『拒否された為、出兵した』 のが「文禄の役」(1592)です。
 秀吉軍は名護屋城(佐賀県)を本陣として、宇喜多秀家を総大将に、毛利輝元・小西行長・加藤清正・福島正則・長宗我部元親・石田三成・大谷吉継らの軍勢約 15万人が出兵しました。
 その中には対馬藩;宗義智軍も含まれていました。 しかし
徳川家康は 「江戸の整備」を理由に参戦しませんでした。

 秀吉軍は釜山から上陸すると、一気に首都漢城(現・ソウル)を占領し、平壌まで進撃しました
 しかし朝鮮国王は明国へ援軍要請し、明国軍が加わった為、戦局は拡大して膠着状態になりました。 更に武将;李舜臣率いる水軍も、亀甲船(船体を鉄板で覆った亀の甲羅の様な形の船)による砲撃で、秀吉軍の補給は分断され、朝鮮に渡った秀吉軍は 餓えと寒さで大量の犠牲者が続出する大苦戦に陥りました。

 そんな中で、互いに攻撃を中断して講和の話会いがなされました。 しかしその過程で、明国から『
秀吉を日本国王に任命する』という条件が示されると、秀吉はそれに激怒して、再度、約14万の軍勢を出兵したのが「慶長の役」(1597)です。
 しかしそれも大苦戦になりましたが、秀吉は病死して撤兵が決まり、 7年間に渡った「文禄慶長の役」は終息しました。
 しかし朝鮮側は、多くの民衆が犠牲になり、反日感情は極限に達していました。 明国も国力が弱まり、その後、女真族に滅ぼされます。 (明国滅亡後)女真族は 「清国」を樹立し、自らを 「満州族」と改名して、(現在の)中国全土を支配します。
 他方の豊臣側も、「文禄の役」では、兵15万人の3分の1が、「慶長の役」ではそれを上回る膨大な犠牲者となり、家臣団は 「武断派」と「文治派」の内紛で政権力が弱まり、「関ヶ原決戦」に尾を引きました。

 その一方、朝鮮から活版印刷術や仏像などの持ち帰りや、捕虜として連れ帰った陶工たちは、優れた陶磁器の製造技術を伝え、それは有田焼や唐津焼、萩焼、薩摩焼など日本各地で特有の陶芸文化が開花するなど、江戸時代の文化は一層趣き豊かなものになりました。


対馬藩”の立場と、日朝 の橋渡し役;

対馬

 対馬には平野(農地)が極端に乏しく、島単独では 住民生活は成り立たちません。 しかし対馬北部から釜山は有視距離にあり、朝鮮との交易が盛んに行われていました。 また、朝鮮半島沿岸は、日本人海賊 「倭寇」に悩まされていて、対馬藩は「和冦の取締り」で朝鮮政府に仕える者もいるなど、朝鮮と密接な関係が保たれていました。
 そこに、1587年(天正15年)豊臣秀吉は、九州を平定すると、対馬藩にも臣従を求め、藩主;宗義智は対馬守に任ぜられました。

 所が秀吉は、(対馬に留まらず)朝鮮にも臣従を強要し、「拒否」されたのを理由に出兵(攻略)を断行(文禄の役)しました。 それは対馬藩;宗義智は大変な板挟みですが、秀吉には背けず5,000人を動員して小西行長隊に加わりました。 しかし外交を担当し常に講和を画策していた様ですが、戦況は大苦戦が続きました。 結局は秀吉の病死により終結しましたが、対馬藩は 1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いは西軍(石田三成軍)に参戦しました。
 それにも拘わらず徳川家康は朝鮮外交を重視し、江戸時代の終息まで対馬藩は朝鮮外交窓口として重用されました。

 日朝間の国交回復実現の経緯

 ①日朝両国の事情
 江戸幕府は、文禄・慶長の役の後、断絶していた国交を回復すべく「通信使の派遣再開」を打診しました。
 朝鮮側には、秀吉の侵略(文禄・慶長の役)で強烈な批判はあっても、連れ去られた捕虜の返還や、明国軍が撤退した後の日本脅威、和冦対策、北方から女真族が南下(侵攻)する危険性などを考えると、日朝友好は必須な状況でした。

 ②交渉再開、国書偽造
 そんな訳で、江戸幕府と朝鮮の間に、対馬藩(藩主;宗義智)が入って交渉に当たりました。 しかし両国の歴史的経過や文化の違いを乗り越えるには、対馬藩は、日朝間で取り交わす国書等の偽造工作をせざるを得ませんでした。 そして(対馬藩の行った偽造は)朝鮮側使者には見破られながらも黙認されました。 後になって徳川幕府にも明かされましたが、幕府も対馬藩主は「お咎めなしで済まされ、対馬藩は朝鮮人使者2名を徳川家康と秀忠に会見させて修好を確定しました。

 ③ 朝鮮通信使再開と、その後の展開
 対馬藩は、1607年(慶長12年)朝鮮通信使の再開を実現させました。 更に 1609年(慶長14年)には釜山に倭館を再建し、500人~1,000人の対馬藩士や島民が居留して貿易も再開されました。 それは現在の釜山市の原点となりました。
 日朝友好関係が整うにつれ、対馬藩は大いに栄えました。
1663年には  5基の船着き場が造成され、「お船江跡」として現在も残っています。 雨森芳洲や陶山鈍翁、松浦霞沼などの人材も輩出しました。 対馬藩の繁栄は、菩提寺万松院、海神神社の壮麗さで伺えます。 参勤交代でも、藩主自らが大勢の家臣団を率いて盛大な大名行列を仕立てていました。


*3 朝鮮通信使の来日

  回答兼刷還使の来日開始
 そして1607年(慶長12年)、断交後初の 朝鮮通信使が、徳川秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見しました。 これを含め 3回は、日本にいる朝鮮人捕虜を送還する意味で、「回答兼刷還使」と呼ばれました。
 日本に連れ去られた被虜人は、奴隷として南蛮などに売られた者、日本に残留した者もあり、実際に帰国した者は6000~7500人ぐらいとされています
その後 4回目からは 両国が友好関係にあった室町時代の前例にちなんで「通信使」と呼ばれました。
 
 “朝鮮通信使の編成と、江戸への来朝ルート
 先ず、江戸幕府の将軍代替りとか、めでたいことに際し、対馬藩は朝鮮に使節を送って通信使派遣を要請します
 すると朝鮮国王からの手紙(国書)を届ける為、正使・副使・従事官の3使の他に、国を代表する輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊、旗手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫などの大体500人の通信使節団が漢城(現・ソール)から出発し、釜山からは船団となって海路で対馬に向かいます。

 対馬からは、対馬藩の案内役人が付いて、壱岐、馬関(下関)を経て瀬戸内海に入ると、通過各藩から警護役人総勢約 1500人が順次加わり、数100隻の大船団を連ねて、上関、蒲刈、鞆の浦、牛窓、兵庫などに寄港しながら大坂まで行きます。 そして淀川は 川御座船」に乗り換えて上り、京都からは 輿(三使)、馬(上・中官)、その他は徒歩行列を連ねて京都~名古屋~江戸へと向かいました。
 江戸城では朝鮮国王からの国書と、将軍から朝鮮国王への返信(国書)が交換され礼物や礼銀が贈られて帰途につきました。 全行程にかかる日数は、大体8ヶ月から10ヶ月を要しました。

江戸城内で進物奉献

 それは 1607年(慶長12年)から1811年(文化8年)まで約200年間に、計12回行われました。 しかし日本から朝鮮への使節は、軍事的理由で朝鮮側から拒否され、1629年の1回だけでした。

  朝鮮通信使行列の沿道風景
 朝鮮通信使行列は、大名行列と異なり正使、副使、従事官などの外交官に、美しい衣装の小童や楽隊、文化人、医師、通訳などの異国情緒に、日本側各藩役人が随行し 総勢2,000人という大行列になります。 沿道は大勢の民衆が見物に集まり、通信使にサインを求めたりしました。
 その模様は、来日の度 多くの画家により絵や版画に描かれており、詳しく伺い知ることができます。
「朝鮮通信使小童図」には馬に乗った小童に町人がサインを求める様子が描かれ、随行員と庶民が接触できたことが伺えます。 両国の著名な書家や画家、工芸家、文人墨客なども大勢が交流する場面もあります。 それは徳川幕府にとっては ”日朝友好・平和外交” と併せ、諸大名や民衆に”威厳を鼓舞するセレモニー” になっていたことが伺えます。

*3.1

朝鮮通信使御座船屏風(部分)


朝鮮通信使行列の図(部分)

*4 朝鮮通信使による日朝の文化交流

  朝鮮通信使との文化交流
 日本滞在(行進)中には、各地に宿泊所や接待場所が設けられ、日本全国の書画家や諸分野の学者たちと交流が行われました。 そして広範囲に亘る新知識や珍しい異国情緒は全国に伝搬され、情緒豊かな江戸文化が醸成されました


東海道五十三次・由井
(葛飾北斎)


富嶽百景
(葛飾北斎)
 例を挙げると;
① 食文化
 当時の日本では、肉食の習慣は一般的でなかったのが、朝鮮料理の食材や料理法の情報が各藩に伝達され、やがて通信使の好物や、焼肉、モツ料理、キムチの作り方など饗応膳にも活かされました。 サツマイモは対馬で栽培を学び、凶作にも役立つ作物であると朝鮮に伝わりまし
た。

② 書 画
 通信使来日の際に筆写された行列絵図は、対馬藩『正徳度朝鮮通信使行列図巻』や、淀藩「朝鮮聘礼使淀城着来図」や、紀州藩「朝鮮通信使御楼船図屏風」などや、また京都を描いた「洛中洛外図」や、江戸の名所や風俗を描いた絵図なども日本の各所に残されています。
当時の画家狩野安信、狩野益信や、歌麿も、葛飾北斎、大雅や渡辺玄など著名画家も、通信使の画員(画家)と交流し、朝鮮通信使来訪の模様を描いています。
 朝鮮通信使の画員も日本で見た光景を描き、一部は日本各地に残しています。  狩野派の花鳥図、名所絵、物語絵、風俗画、武者絵などを描いた屏風絵は、朝鮮に贈呈されたものもあります。

朝鮮通信使行列図(部分)

*4.1工芸、芸能
 日本の街道を練り歩く使節団の行列は、当時の日本人には大変珍しいイベントでした。

朝鮮通信使を模して、唐人おどり(鈴鹿市、津市)や、唐子おどり(牛窓)などが発祥しました。
日光東照宮の祭礼では朝鮮風に変装した唐人行列や、日本各地でも唐人姿の再現行列や、仮装が練り歩いたり、山王祭では、象の張り子や通信使の仮装が出し物になっている様子が、絵巻や歳時記に描かれています。
東近江市の小幡人形や、通信使をモチーフにした唐人人形や、小童人形や、象人形など、異国情緒の人形などが、全国各地に出回っていました。

相良人形

らっぱ吹き童子

古博多人形

布袋の唐人車曳

伏見人形
④ 螺鈿細工
 朝鮮の螺鈿は、王宮所有の木漆工芸品(貝殻細工)で、上流階級で用いられていまし。 王朝体制の中に工人を組織し、王室家具や外国への贈答品として「黒漆螺鈿」を創らせました。
 表面はパール様の光反射が現出されますが、特に朝鮮王朝時代には、例えば牡丹なら牡丹文様に切り取った貝殻を、わざわざ小片に割って貼り付ける《割り貝》という技法に特色があります。 多くは 吉祥の願いを願いを込めた文様がデザインされています。
⑤ 朝鮮通信使行列御祭之図
 朝鮮通信使行列に感激した庶民は、朝鮮風の衣装をまとい楽器を鳴らし練り歩く 「再現行列」の祭りが全国各地でも催され、異国情緒を楽しむ江戸庶民の様子が描かれています。

見立て唐人行列(江戸吉原の遊女たちによる行列 歌麿筆)

  朝貢との関連
 朝鮮通信使は主として将軍家祝賀の為にやってきた国使ですが、彼らは 日本に 「色々な文化や新知識」も伝えました。 しかし徳川幕府は、公式には来賓(招待)とはしないで、将軍権威の誇示に利用しました。
 それは三韓征伐や豊臣秀吉の朝鮮出兵を例に挙げ、「朝鮮は日本に朝貢をしなければ、徳川幕府は、再度侵攻する」などと、「朝鮮通信使は 朝貢使節団」 と言う見方も日本にはありました
 それは対馬藩の 「国書偽造」と関係あるかどうか分かりませんが、朝鮮側にも分かっていただろうと思います。


 朝鮮通信使(朝鮮側)の見た日本
 
使節団の見た日本については、天皇と将軍の関係で、「天皇は政治に無縁だが、江戸幕府の将軍が日本国王号を使用するの不正、天皇に対して非礼だ」という見方や、日本人は「朝鮮通信使を《朝貢使節団》 と考えている」とか、「カタカナという固有文字の存在を知って驚いた」とか、「京都、大坂、江戸といった都市の絢爛豪華さに驚いた」とか、「日本の識字率の高さに驚いた」・・・などの記録があるとのことです。
 通信使に掛ける朝鮮側の目的には、日本の国情視察や、倭寇の調査・守護大名などとの関係、日本の都市や街道の状況、通貨政策など観察、稲作技術、仏典や仏教の状況調査などが含まれていたと聞いています。

*5 朝鮮通信使の接待

 通信使の来日に係る日本側の費用は、当時の年間国家予算を上回る程 膨大でした。 それは各藩の負担になりますが、各藩競争で華美な接待がなされました。

  朝鮮通信使接待の例
静岡市清見寺
 戦国時代、今川家の人質となった幼少の家康は、清見寺の住職に預けられたと言う 徳川家康ゆかりの名刹です。
そこには、朝鮮通信使は、往路か復路かで11回立ち寄っています。 1回目(1607年)と3回目(1624年)は往復路で宿泊所とされました。
 特に1回目の復路は、家康自らが朝鮮通信使の正使らをもてなし、駿河湾に船5艘を浮かべて、富士山の景色を楽しんだ記録もあるとのことです。


鞆の浦「福禅寺迎賓館(対潮楼)

対潮楼
 対潮楼」は、1690年(元禄3年)に迎賓館として 備後国鞆(現在の福山市鞆町)の福禅寺境内に建立されました。 朝鮮通信使一行に 江戸時代を通して 使用され、日本の漢学者や書家らとの交流の場になりました。
 ここから対岸の仙酔島や弁天島などの眺めは、第8次通信使(1711);従事官(李邦彦)は、「日東第一形勝(朝鮮より東で一番美しい景勝)と賞賛したという逸話があります。
 そして、第10次通信使(1748)の正使(洪啓禧)は、これを「
対潮楼」と名づけ日東第一形勝の書を残し、それは今も額にして掲げられています。

 各藩の対応
 各藩にとって、通信使をもてなすことは、大変名誉なことなので、 競い合って豪華なおもてなしがされました。 通信使に不作法のない様、細心の注意を払い、それには農民にも労役の提供や費用の重い負担が強いられました。 しかし各藩競争で趣向を凝らした”おもてなし”がされていました。

 例えば、下蒲刈の場合は、次の様な「お触れ書き」が出され、宿泊所も準備されていました。
① 火の用心、家から煙をたてないこと、 ②海上から見える家はきれいにしておくこと。 ③牛は見えぬ所に繋ぎ、鳴き声は聞こえぬ様にしておくこと。④通信使一行を見下ろさないこと。 ⑤大声、酔っ払いなどせぬこと・・・などです。
 また通信使の歩く所は土埃で失礼がない様に、レッドカーペットが敷かれ、宿泊所も新築され、その内部も豪華な幔幕で飾られました。

  両国間の文化の違いによる摩擦
 しかし朝鮮側の通信使一行には、屋内で唾を吐いたり、階段で小便したり、酒を飲みすぎたり、屏風を割る、食事などに難癖をつける・・・等々の乱暴狼藉や 警護にあたる対馬藩士を侮辱する様な行為もあり、第11次通信使の随員が殺害された《唐人殺し事件》も起きています。

 それは文化の違いか?、朝鮮人を見下す様な風潮もあったのか?、当時の屏風図などには、無作法な姿で見物している日本人姿もある様です。

  雨森芳洲 (あめのもり ほうしゅう、寛文8年(1668) - 宝暦5年(1755))、
. 当時、中国語と朝鮮語のできる学者で、対馬藩に仕えて朝鮮との外交実務に携わりました。 正徳元年(1711年) と享保4年(1719年) の2回、朝鮮通信使の江戸行にも随行した人ですが。 後年、対馬藩主の側用人に就任し、藩政に関する上申書 『治要管見』や、朝鮮外交心得『交隣提醒』 などの本を書いています。
 それには国が異なれば文化や歴史、風習、考え方などが異なる、自分たちと違うからと言って文化水準が低いなどと判断してはならない。 国と国が平和な関係でいられるには 『互いに欺かず、争わず』 と、真心のこもった外交を説いています。


  朝鮮通信使の終了
 通信使の派遣及び接待に係る費用は、日朝ともに年間の国家予算に匹敵するぐらい余りに大きく、負担を回避したい意向と、折からの凶作や、ロシアの動きに警戒を要するなどの外部事情も変化して、第12回朝鮮通信使(1811)は対馬に差し止められたのを最後に、以降の朝鮮通信使は実現しないままになりました。


*6 朝鮮通信使立ち寄りの模様

朝鮮通信使船

「鬼」の絵(船首)

 朝鮮通信使立ち寄り先では、各藩各様の風景が展開されました。
 ここでは、主として下蒲刈の模様について、
(松濤園)で何回か催された 『観光ボランティア研修』で学んだことや、レジメ、及び資料(柴村敬次郎著”御馳走一番館”、下蒲刈町平成11年11月発行)、松濤園関連パンフレットや、朝鮮通信使に関するテレビ番組などを基に 『私の 《歴史観》』 を記します。(本稿の写真はそれらからのコピーです)

  朝鮮通信使船
 目の前(松濤園”ご馳走一番館”内)の船はその時使われた船の10分の1 模型です。 実物は長さ30m、高さ30mの巨大な船ですが、当時は危険を伴う渡海だったので、「安全祈願」の意を込め、船首には邪気を近寄せない様、「鬼」の絵が描かれていました。。  この船6隻に 400~500人が乗ってやって来ます。
釜山から対馬に着くと、日本の船 約50隻が水先警護につきます。 瀬戸内海では沿道各藩から数百隻が加わり大船団で大坂まで進みますが、その途中「下蒲刈島」には(全12回の内)11回立ち寄っています。


*6.1 朝鮮人来朝備前御馳走船行烈図
 この図は、2017年に日韓併せて333点がユネスコ 『世界の記憶』 に登録された中の1点です。
第10次朝鮮通信使(1748)が瀬戸内海の日比沖(岡山県玉野市)を航行する様子が描かれています。 14.5cm×824.9cmの巻き絵には、通信使船やそれを曳航する大小700~800隻の船舶が描かれ、登場する人々の驚きや、会話、絵師の覚書なども付け加えられ、壮大な海上パレードに興奮している様子が伺えます。


朝鮮人来朝備前御馳走船行烈図
この時は逆風の為、鞆の浦出航後 牛窓に到着できず、日比沖で戦中泊になりました。警護を担当する岡山藩の池田外記が船で迎えて先導する様子が描かれています。
長い船旅で退屈しない様、船上で音楽が演奏されている様子が描かれています。
朝鮮通信使船には水先案内人らしい日本人、ラッパを吹く楽人、踊る童子、煙草を吸う人などが描かれています。 楽人は通信使の行列の行進時や、儀式、宴会で音楽を担当する役人です。
朝鮮通信使船5隻と日本船数百隻が描かれていますが、通信使船の船首には航海の安全を祈願する鬼の絵や、船室には梅、松、牡丹など四季の花木や、船全体を華やかに飾り立てられている様子など、日本船との違いが詳細に描かれています。
この時(第10次朝鮮通信使)は、対馬鰐浦で副使船が火災で焼失する事故がありました。 『副使焼失する故に日本船也』と絵師の覚書も書かれています。





副使・正使・従事官




三汁十五菜の膳

*6.2  朝鮮通信使の中で偉いお役人の服装
 松濤園には役人の服装が、 『正使』、『副使』、『従事官』としてモデル展示されていますが、儀式の際は、それぞれが「正使」が着用しているの赤い服を着用します。
副使がまとっている服装はお役人の普段の制服です。 従事官の服装お役人の普段着です。

宿泊所;
 朝鮮通信使の下蒲刈島立ち寄りの際は、広島藩も藩を挙げて失礼失敗のない様おもてなしをしました。
 例えば、通信使の歩く所は土埃が立って衣服を汚さない様に、オランダから輸入したレッドカーペットが一面に敷き詰められ、宿泊所も本陣(正面の大きい建物)でなく、その裏に描かれている 『上の茶屋』 が新築されていました。 その内部もオランダ製の豪華な幔幕で飾り、布団もオランダ製のものを揃えました。 通信使が江戸から帰って来る際には、またデザインも変えておもてなしをしました。

七五三の膳
 「七五三」は 日本では「めでたい数」を表わし、お膳の上の料理数にしています。 こちら(御馳走一番館内)の膳は儀式料理の復元模型で、江戸時代の儀式で出された最高の格式料理です。 普段の儀式では、幕府将軍でも 1つ格下の「五五三膳」までですから、数ヶ月も前から材料を集め、到着する20日ぐらい前から料理を始めました。
 しかしこれ程手間をかけた料理も、好きなものを皿に取って箸を付けたと言う儀礼が済むと全て取り下げられたと言うことです。

三汁十五の膳
 これは実際に食べた1人前の料理です。 通信使の身分によって皿の数が決められ、身分が下がると「三汁十菜」から一番下官では「一汁四菜」になります。
 しかし11代将軍徳川家斉の献立が一汁四菜か、四菜ですから、一番下位でも普段の幕府将軍ぐらいのご馳走がでていました。 それは言葉の通じない相手にも歓迎ぶりか理解される様、また外国に来て見慣れない料理でも、不安を抱かない様に、調理は一目みれば原材料が分かる工夫されています。
 通信使をもてなすことは大変名誉なので、各藩は 競って豪華なおもてなしがなせれましたが、下蒲刈では特に”御馳走”の人気が高かったとのことです。


*7 その他の補足

  上述以外、松濤園 ”ご馳走一番館” に展示されている主な展示品
 
① 地図皿
 江戸時代後期~末期の作品です。 当時の日本人の「日本周辺」の地図観を知ることができます。本州の北には『小人国』、南には『女護国』という実在しない国が描かれています。

②染め付け金債彩朝鮮通信使船図皿
 朝鮮通信使は、様々な絵画や工芸品にも描かれていますが、これは それが描かれた5枚組の皿です。

③釜山浦富士図 (ユネスコ世界記憶遺産登録)
 幕府お抱えの絵師狩野典信の作で、中央には通信使の渡海船が描かれ、舳先から2人が遙か遠方の富士山を望んでいる。江戸時代には、釜山から富士山が見えるという噂が流布していたとのことです。

④対州御城下之図
 嶋田甚之丞が、対馬を見て描いたとみられます。 第12次通信使を対馬で迎え入れる際、日本側正使を務めた小栗忠固などの宿舎になった金石城も描かれています。

⑤藍嶋図
 岩国藩士が、上関での通信使接待の参考にする為、藍島に派遣され、客館の様子を描いた絵図です。1748年に描いたとされています。 藍島の特徴的な地形が描かれ、島の西側には通信使の客館が描かれています。

⑥六十余州名所図会 備後阿武門観音堂
 歌川広重が描いた作品を参考に、後年誰かが描いたと思われます。 広重の描いたものは縦長の構図ですが、この作品は横に長くなっています。

⑦朝鮮通信使来朝図説
 1855年に京都寺町菊屋七郎兵衛による【朝鮮人大行列記大全】を写し、巻き絵仕立てにしたもので、幕府や西国諸藩の出した豪華絢爛な川御座船が描かれています。

⑧朝鮮通信使御楼船図屏風  (ユネスコ世界記憶遺産登録)
 淀川を行くきらびやかな高殿付きの御楼船を中央に、楽人を乗せた船や供船がその前後に配置されています。 六曲の屏風になっていますが、元は巻子装だったと考えられます。

⑨朝鮮通信使大坂河口之図屏風
 瀬戸内海を航海し大坂河口に到着し、川御座船に乗り換えて淀川を上る様子を描いたものです。 この図も元は 1つの巻子装だったのが、切り抜からて屏風にしたてられたと思われます。

⑩朝鮮通信使船団図屏風
 図の中には、①港に入港する朝鮮通信使船団や、②小舟に乗り換え岸に向かう通信使の高官、③船上で楽人が高々と音楽を奏でそれを常夜灯から眺める民衆、④等々、寄港地の賑わう様子が詳細に描かれています。 作者は狩野探信(1653~1718)で、第8次朝鮮通信使と思われます。

⑪朝鮮通信使上関来航図
 6隻の朝鮮通信使船が長州藩の軍船などに警護・曳航され上関に入港する様子が描かれています。 港には通信使の客館や、警護の為の番所が見えます。第11次の朝鮮通信使と推測されています。

⑫朝鮮人渡海船之図
 第12次の朝鮮通信使船を日本の絵師が描いた木版画です。正使が小童を従えて船上の部屋に座り、楽隊が太鼓や笛を演奏、マストには曲芸師がぶらさがる陽気な船旅が描かれています。

⑬狩猟図
 派手な衣装を着た女真人が、高句麗の広大な草原に馬に騎乗して、勇猛果敢に狩りをする様子が描かれています。 女真族(後に「満州族」と改名される)は、当時、果敢に南下し高句麗(現;北朝鮮)の地が脅かされていた様です。

  朝鮮通信使の来日歴史年表
朝鮮通信使の来日歴史
  年号 将軍 朝鮮通信使 目的
第1回 1607年(慶長12年) 徳川秀忠 呂祐吉 日朝国交回復、捕虜返還
第2回 1617年(元和3年) 秀忠 呉允謙 大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還
第3回 1624年(寛永元年) 家光 鄭岦 家光襲封祝賀、捕虜返還
第4回 1636年(寛永13年) 家光 任絖  
第5回 1643年(寛永20年) 家光 尹順之 家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
第6回 1655年(明暦元年) 家綱 趙珩 家綱襲封祝賀
第7回 1682年(天和2年) 綱吉 尹趾完 綱吉襲封祝賀
第8回 1711年(正徳元年) 家宣 趙泰億 家宣襲封祝賀
第9回 1719年(享保4年) 吉宗 洪致中 吉宗襲封祝賀
第10回 1748年(寛延元年) 家重 洪啓禧 家重襲封祝賀
第11回 1764年(宝暦14年) 家治 趙曮 家治襲封祝賀
第12回 1811年(文化8年) 家斉 金履 対馬で差し止め
 
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