■ その後の経過 ≪その後の日本、韓国、中国事情≫ |
1) * ≪その後の日本≫
日本の敗戦時は、家族も身内も家財産も奪われ、余りに酷い国土の荒廃に、張りつめていた人々の心は落胆に変った。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍が駐留し、機雷の処理や破壊物件の片付けなど戦後処理が始まった。 食料配給も始まり、徐々に食料や物資や労働力も確保できる様になると、焼け跡にバラックが建ち少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。
◆◇ 朝鮮動乱特需
そして日本では漸く平和の兆しが見えた頃、朝鮮半島で「朝鮮動乱」が勃発(1950)した。 それは、朝鮮人の悲劇と裏腹に、日本にとっては《特需景気》という真に”慈雨”
となった。 その後約半世紀のアッという間に世界第2位の経済大国にまで発展した。
それには日本は、→①敗戦により過去のしがらみが全てご破算にできたこと、→②戦時中、朝鮮半島からの徴用工の労働力を活用して各種インフラ整備が進んでいたこと、→③日中戦争・太平洋戦争で培った高度技術が全てフル活用できたこと等・・・現在の日本発展には
『明治維新以後、韓国人や中国人の犠牲』大きな踏み台になっていることを忘れてはならない。
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2) * ≪その後の韓国≫
◆◇ 朝鮮動乱
朝鮮動乱
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漸く 「大韓民国(韓国)」 が建国され、やっと手にした平安も束の間、 2年後には スターリンは朝鮮半島支配を企て 朝鮮動乱; 1950)が勃発した。
”金日成軍”が突如戦車を連ねて南進し、ソールから釜山まで韓国全土を占領した。
それに対し国連軍は仁川から増援部隊を送り込み、金日成軍を分断し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。
朝鮮動乱による死者数、使用された焼夷弾共に、太平洋戦争中で日本本土が被ったそれを上まわる大惨劇となった。
釜山には(動乱)の国連軍戦死者の広大な墓地(国連墓地)が設けられている。
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人々は安全な場所を求めて逃げ回り、その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれた為、国境を越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆ど再会できないでいる。
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◆◇ 李承晩ラインと竹島
朝鮮動乱が休戦に達した(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島を含む公海上に突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、(国際法でなく)日韓併合時の屈辱の《仕返し=克日》に闘志を燃やして、日本に突き込んだのではないか・・・と私は思っている。
そして竹島には立派な軍施設を建設し、領有を正当化する教育を、既に 数10年間続けてきた。 今の韓国民はそう信じているので、それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。
日本は、それを ”黙認”してきて、最近になって、島根県が「竹島の日」を設け、日本政府が通り一遍の理屈を主張するのは、政治家の本性が問われる。
◆◇ その後の韓国との係わり
日本に比べ韓国では、戦時中の開発技術もなく、官吏や汚職なども往行して、日韓の経済格差が開けば開く程、日韓併合時に受けた屈辱に対する嫌日感情が沸き上がる状態が続いた。
スタート遅れの感はあったが、1980年前後(?)から『日本に追いつき、追い越せ !!』を合言葉に急速に経済発展を遂げた。 日本との関係は「日韓併合時」の経験者が存命中は、「親日・嫌日」二面を使い分けながら、現在では日本よりも、経済産業面でも、科学技術面でも進んでいる分野が多くなっている。 |
しかしそれには、日本軍は、朝鮮半島に鉄道やダム建設や工場施設、社会制度や教育制度等々・・・充実した遺産を残し、現地人を高官に登用して政務を経験させたことなど・・・韓国の戦後発展に大きく貢献していることなども評価されねばならない。
もし日韓併合でなく、米、英、露何れかの植民地になったとすれば、そんな遺産は考え難い。
しかし日韓の政治家は、徴用工とか慰安婦問題など、経験者(存命なら100歳前後)も一般国民も、とっくに過去になっている問題を引き出して、反感を買うことに熱中するから、両国関係は進展しない。 |
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3) * ≪その後の中国≫ 中国本土(中華人民共和国)
中国本土は、アヘン戦争以降、弟2次大戦終結まで諸外国に侵略され続け、戦勝国とは云え、政治・制度・技術・インフラ基盤・・・等々は、殆ど整備されないまま戦後を迎えた。
しかも中国共産党(毛沢東軍)には、そんな巨大国家統治の経験は無い。 欧米に匹敵する政治組織や、経済・社会制度もなく、紆余曲折を経ながら歴史を刻んでいった。
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その中で、満州国に遺された関東軍の遺産、・・・つまり政治・経済・教育・・・制度はもとより、関東軍が建設した、超近代都市施設、鉄道、電力、資源採掘施など・・・、戦後中国(中華人民共和国)の確立に大いに役立った。
しかし世界が急速に近代化していく中で、10億人以上もの人口を抱えるのだから、文化大革命など紆余曲折を繰り返しながら、現在に至っているのが実態ではないか・・・。 |
◆◇ ラストエンペラー溥儀 ; その後の生涯
溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し”ラストエンペラー” と呼ばれる。 彼は関東軍に巧みに利用され≪満州国皇帝≫にも担ぎあげられた(1932)。 しかし関東軍の配下では【満州国皇帝】とは名ばかりで、何の裁量権もなく利用されるだけだった。
例えば、関東軍が定めた(満州国)制度に従って、反日運動家の処刑の署名や、満州人耕作地を(所有者不在として)日本人入植者に与える《文書の署名》強要など・・・悲劇的な役職であった。
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敗戦時には、日本に亡命しようとしてソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 東京裁判(1946)で、一時 証人として東京に護送され、『関東軍に脅かされて満州国皇帝になった』と主張した。
しかし再度シベリアに戻された。 数年後シベリアから中国に移送され(1950)たが、中国国家や人民を欺いた罪で撫順(戦犯収容所)と、ハルピン(再教育)に約10年間収容された。
戦争犯罪人特赦令(1960)で釈放後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 周恩来は、不幸な運命を辿った溥儀に同情的だったと言われている。
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◆◇ 文化大革命 1966-1977
文化大革命は、政治・社会・思想・文化全般の改革運動と言っても理解が難しい。
しかし毛沢東政権も、20年経れば、政権内部で批判や対立が生じてきた。 その為 毛沢東派は、主導権堅めで、一切の資本主義的思想を排除しようとして大規模な粛正劇に発展した・・・のではないか
?。
それは《紅衛兵》を組織して、党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込んで、政権に反抗する人が大規模粛正された。
併せて文化財も破壊され、経済活動も大きな停滞を招いた。 文化大革命による死者は40万人とも、何100万人とも言われるが・・・私には定かでない。
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紅衛兵の図 |
しかし1970年代になると、次第に沈静化していった。 そして1976年に周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)が失脚して終息した。
それ以後、中国共産党は「改革開放路線」に転換して現在に至っていると言っても、私には具体的な理解は難しい。 |
◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、その後の問題
そんな経緯で、国連の代表権は台湾の【中華民国】にあり、本土の【中華人民共和国】を承認する国は少なかった。 つまり国際的には、本土中国は反乱軍に過ぎなかった。
しかし≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心になって国交正常化交渉が行われた。
ここで注目すべきは、敗戦国(日本)には莫大な賠償要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から『小異を捨てて大同につく』・・・、つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直れない』、適当な妥協点を求めて解決する代わりに、日本は≪中華人民共和国≫を承認ことで決着した。 それを足掛かりに≪中華人民共和国≫を承認する国が増え、遂に、国連の代表権を獲得するという大偉業が成った。
ただ、『小異の解決は、後代の賢明な判断に任せる』 として、『尖閣問題は先送りした』と当時の日本政府役人がテレビで語っていた。
それが事実とすれば、『尖閣は我が国固有の領土』 と言う主張はちょっとおかしい。
我が国固有の領土なら、どうして今まで 灯台なり、漁船避難施設なり、何も建設しないで放置していたのか?。 ”竹島” だって韓国は 既に立派な構築物を設けている・・・。
日中国交正常化後 50年間経た今、尖閣や海底油田開発も、相手の動きに手をこまねいているのでは、黙認 となってしまう・・・。
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4) * ≪その後の台湾≫
◆◇ 日本人の撤退
台湾は、日清戦争(1895)の勝利国(日本)に割譲され 50年間余り、日本の統治下にあった。
その間に、鉄道はほゞ全土に開通し、木材伐採運搬用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラ整備がされ、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられた。 現地人には日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本敗戦により、中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。
阿里山森林鉄道(沼平駅)
木材伐採用鉄道⇒現在は観光用 |
◆◇ 中華民国 遷都;(蒋介石軍入城))
しかしその直後、中国本土では蒋介石政府(国民政府)が、毛沢東軍に追撃される内乱が起り、蒋介石軍は≪中華民国政府≫の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し、台北に
”国民党政府” を組織した(1949)。
つまり、≪中華民国(=正式中国)≫は、首都を台北に移転し、国連常任理事国の資格は継続した。
毛沢東軍は、 本土に《中華人民共和国》を建国した。 しかしそれは「反乱軍(毛沢東軍)による不当国家」に他ならなず、世界には承認されなかった。
しかし毛沢東軍が、台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいたのだろう。
蒋介石も、台湾で独立宣言をしなかったのは、《本土に再入城》を考えたのではないか?・・・、結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は現在も複雑な関係が続いている。
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烏山頭水庫(ウサントウダム湖)灌漑用
ダム湖=建設;八田余市 |
◆◇ 蒋介石(国民党) 政府結成
その蒋介石軍は、外省人(中国本土から一緒にきた側近)で 国民党政府を組織した。
台湾人にとっては、3~4年前まで(約50年間)は、日本統治下で、日本人として生活していたので蒋介石軍に不法侵略される感じだっただろう・・・。
反抗する本省人(台湾人)が大量虐殺された(2.28事件)。 特に日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、殺害された人数は、数万人と言われている。 しかし治安悪化や役人の不正等は、日本統治時代を経験した台湾人には耐え難かったという。
その後アメリカから支援を受け、本格的な民主化の発足は、1988年(昭和63年)に成立した李登輝政権以降になった。
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◆◇ 日本統治時代の遺産 ;
台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代に施された教育や、各種制度やインフラ整備が大いに役立った。 それは(中国本土では毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何十年も先行して発展軌道に乗ることができた。
その後日本は、本土の《中華人民共和国》 と国交正常化(台湾とは断交)し、国連の代表権も失った(1972)が、親日関係は現在も維持されている。 |