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| このページは、私個人の歴史観です。 信憑性は 読者側で判断願います。 | ||||
| 6.戦後処理と その後の各国 (1945 ~ ) |
| ■ 戦後処理;各国の動きの概要 |
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| * ≪国際連合設立と、戦後処理ルール設定≫ |
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| そこで、第二次世界大戦後は、①大戦の主導国(=米・英)と、②被害国代表(=フランス、中国)と、③超大国(=ソ連)が中心に立って【国際連合】が設立された。 そして戦後処理ルールとして、 『 ①南樺太・千島列島は ソ連に返還、 ②北方領土は 日本に帰属、 ③満州・中国本土・台湾は (蒋介石政府)に帰属or 返還、 ④朝鮮半島は 独立国建国 』 が決められたが、各国はそれぞれ次の様な経緯で、必ずしも遵守はされていない。 |
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| ■ 戦後処理の問題 |
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| * ≪国際連合設立と、戦後処理ルールの設定≫ |
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| そこで、第二次世界大戦の戦後処理は、①大戦の主導国(=米・英)と、②被害国代表(=フランス、中国)と、③超大国(=ソ連)が中心に立って【国際連合】が設立され、新しいルールが決められた。 | |||||||||||||||||||||
| その中で、ソ連はどの程度の主導権がとれたかどうか(?)、国際連合の決議に無視や拒否権行使する場面が多かった。 |
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| * ≪戦後処理(国際連合決議)と、関係各国の情勢≫ |
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| ■ その後の経過 ≪その後の日本、中国、韓国、台湾≫ |
| 1) * ≪その後の日本≫ |
| しかし進駐軍による戦後処理が始まり、食料配給も始まり、失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、徐々に生活が戻ってきた。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍により、機雷の処理や破壊物件の片付けなどが始まり、った。 そして食料配給も始まり、徐々に食料や生活物資や失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。 |
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◆◇ * ≪朝鮮動乱特需≫ |
| それから約半世紀、アッという間に世界第2位の経済大国に伸し上がっていた。 それには日本は、→①敗戦により過去のしがらみを全てご破算にできたこと、→②戦時中、朝鮮からの徴用工を利用して各種インフラ整備が進んでいたこと、→③日中戦争・太平洋戦争を通して培った高度技術がフル活用できたこと・・・等々が挙げられる。 しかしそれには、『韓国人や中国人との合作や多大な犠牲』は、現在の日本を築く大きな踏石になっていることも忘れてはならない。 |
| ◆◇ * ≪北方領土問題≫ しかし、もし敗戦国でなければ、巨額な投資をして自国同然になっていた【満州や台湾や朝鮮】を、国連決議に従って返還できただろうか・・・?? |
| アメリカも、一度占領した沖縄を簡単に返還した訳ではない。 時の政府と密約を結び、『基地付き、核付き、治外法権付きに加え、安保条約と多額の補助金付き・・・』で返還されたが、日本の主導権は現在も歪められたままである。 領土問題は、国連決議の尊重とか、歴史認識の共有とか・・・では解決しない。 双方の利益が『Win-Win』 の方法を考えねばならない。 |
| 2) * ≪その後の中国本土≫ | |
| ◆◇ 中国 ≪国民党軍(蒋介石)と 共産党軍(毛沢東)の内戦 ≫ |
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| 終戦と同時に、国・共は合作で復興に取組む所だろうが、「共産党軍(毛沢東)」は。ソ連の支援を受け≪国民党政府(蒋介石)≫に侵攻した(1946)。 | |
| そして瀋陽、北京、上海、南京・・・と中国全土を武力制圧し、 『中華人民共和国』を建国した(1949)。 但し、それは世界には認められず、単に「反乱軍」に過ぎなかった。 しかも中国共産党には、欧米に匹敵する政治組織や、経済・社会制度もなく、人口10億という巨大国家統治には、紆余曲折を経ながら歴史を刻んでいった。 |
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| その中で、満州国に遺された関東軍の遺産、つまり政治・経済・教育・・・制度は勿論、関東軍が建設した、超近代都市施設、鉄道、電力、資源採掘施設など・・・は、戦後中国を築く上で大いに役立った筈だが・・・当時の日本は 『侵略国 !!』と言う意識しか なかっただろう(?) | |
| 一方の蒋介石軍は「中華民国」の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し、首都を台北に移転した。 |
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| ◆◇ ラストエンペラー溥儀 ; その後の生涯 溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し”ラストエンペラー” と呼ばれる。 彼は関東軍に利用され≪満州国皇帝≫に担ぎあげられた(1932)。 しかし【満州国皇帝】とは名ばかりで、例えば、関東軍が定めた制度に従って、例えば、反日運動家の処刑の署名や、満州人耕作地を、強制的に日本人入植者に与える《文書署名》など・・・悲劇的な役職だった。 |
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| 終戦時、日本に亡命する際、ソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 その間に東京裁判(1946)で 証人として一時東京に護送され、『関東軍に脅かされて満州国皇帝になった』と主張した。 しかし再度シベリアに戻され、数年後 中国に戻された(1950)が、中国国家や人民を欺いた罪で撫順(戦犯収容所)~ハルピン(再教育)に約10年間収容された。 戦争犯罪人特赦令で釈放(1960)後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 毛沢東政権;周恩来首相は、不幸な運命を辿った溥儀に同情的だったと言われている。 |
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毛沢東軍(中華人民共和国)は、中国本土支配と言っても、世界が急速に近代化する中で、10億人もの人口を抱え、「20年経れば、政権内部で批判や対立が生じてきた」と理解すべきだろう(?)。 「政治・社会・思想・文化全般の大改革運動」と言っても理解が難しい。 毛沢東派は主導権を揺るがし兼ねなくなと、一切の資本主義的思想を排除しようと「密告制度」を採り入れた大規模な粛正劇に発展した( ?)。 中高大学生など若者は忠誠心から《紅衛兵》を組織し、熱狂して党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込み、政権に反抗する人全てが敵とみなされ、大規模な粛正劇が演じられた。 それは人々は恐怖心から。誰を信じて良いのか、文化財も破壊され、経済活動も停滞し・・・文化大革命による死者は何100万人とか1000万人以上とか・・・、詳しいことは分からない。 |
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| しかし1970年代になると、沈静化していき、1976年、周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)が失脚して終息した。 その後、中国共産党は「改革開放路線」に転換して現在に至っている、と言っても具体的理解は難しい。 | |
| ◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、その後の問題 以上の経緯で、中国本土(中華人民共和国)を承認する国は少なく、【全中国の代表権】は 台湾(中華民国)にあった。 つまり本土中国は、「反乱軍」に過ぎなかった。 |
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| しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心に国交正常化交渉が行われた。 ここで、敗戦国(日本)は莫大な賠償要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から『小異を捨てて大同につく』・・・、つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直れない』、適当な妥協点を求めて解決する代わりに、日本は≪中華人民共和国≫を承認することで決着した。 |
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| それにより≪中華人民共和国≫を承認する国が増え、国連の代表権を獲得する大偉業が成った。 しかし日本と台湾は「国交断絶」となっている。 にも拘わらず、現在、日本も米国も"台湾"と親密化し、本土中国との関係が、歪(いびつ)になることに、新たな問題を生じ兼ねない。 |
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| 3) * ≪その後の朝鮮半島≫ | |
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◆◇ 日韓併合時~終戦時の 『嫌日感情』 しかし終戦時、「日本の植民地政策と人種差別」の問題で、嫌日感情はピークに達していた。 |
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| 従軍慰安婦も 『強制連行していた証拠はない』とか、日本政府は、不名誉な話しは、"蓋"をしたいのかも知れないが・・・、日韓併合時の経験について、『下等人種と人種差別されるのは耐えられなかった、しかし憲兵(日本人配下の朝鮮人)の取締りや、日本兵の怖さや残虐さに反抗は一切できなかった・・・』と、私が韓国赴任時(1990年前後)、経験者から直接聴いた話しが信憑性が高いと思っている。。 | |
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◆◇
≪大韓民国≫建国 終戦後も、日韓併合時に親日に属した人や、貧富の差、ソ連(金日成軍)の動きなど、事情があったのかも知れないが、3年後 李承晩は 朝鮮半島の独立「大韓民国」 を建国した(1948)。 |
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ところが、「大韓民国」建国でやっと訪れた平安も束の間、2年後には 金日成軍(ソ連;スターリンが支援)が、突如、戦車を連ねて侵攻し、 ソールから釜山まで韓国全土が 戦場 となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。 それに対し国連軍は仁川から増援部隊を送り込み、金日成軍を分断し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。 朝鮮動乱による死者数、使用された焼夷弾共に、太平洋戦争中で日本本土が被ったそれを上まわる大惨劇となった。 釜山には(動乱)の国連軍戦死者の広大な墓地(国連墓地)が設けられている。 |
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| 人々は安全な場所を求めて逃げ回り、その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれた為、国境を越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆ど再会できないでいる。 | |
| しかし日本にとっては、"動乱特需"となって、疲弊しきった経済を伸し上げる慈雨になった。 | |
| ◆◇ 李承晩ラインと竹島 "朝鮮動乱"が休戦となった(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島周辺の公海上に、突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、日韓併合時の屈辱の《仕返し》なのか(?)・・・分からない。 |
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| しかし竹島には、れっきとした軍施設を設け、領有の「既成事実化」を 数10年間続け、全韓国民はそれを信じている。 今、それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。 日本政府は、それを”黙認”し、最近になって島根県が設けた「竹島の日」に便乗して通り一遍の理屈を言っても寝言に過ぎない。 双方の利益が『Win-Win』 になる「もっと基本的な戦略」(例えば、双方の教科書改訂など)から話会う戦略を考えなければ意味がない。 |
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| ◆◇ その後の韓国との係わり 日本に比べ韓国は、戦時中の開発技術もなく、官吏や汚職なども往行して、日韓の経済格差が開けば開く程、日韓併合時の屈辱をぶり返し、嫌日感情が沸騰する状態が続いた。 しかし、世代交代もあってか(?)、1980年前後(?)から『日本に追いつき、追い越せ !!』を合言葉に急速に経済発展を遂げた。 日本との関係は「日韓併合時」の経験者が存命中は「親日・嫌日」二面を使い分けながら、経済産業面、科学技術面などでは、現在の日本より先進分野も多くなっている。 |
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| しかし、日本軍の遺した鉄道やダム建設や工場施設、社会制度や教育制度等々・・・充実した遺産を残し、韓国人も登用して政務を経験させ・・・韓国の戦後に大きく貢献していることは評価されるべきである。 若し日韓併合でなく、清、米、英、露・・・何れかの植民地になっていれば、それは先ず考え難い。 |
| 4) * ≪その後の台湾≫ |
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台湾は、日清戦争後 日本に割譲され 50年間余り、日本の統治下にあった。 その間に、鉄道は 全土に巡らされ、木材伐採用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラが整備され、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられた。 現地人には日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本の敗戦で、台湾(領土)は中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。 ◆◇ 中華民国 遷都;(蒋介石軍入城)) しかしその直後、中国本土では、毛沢東軍が反乱を起こし、追撃された蒋介石政府≪中華民国政府≫が(三種の神器)を携えて逃避して来た。 そして、台北に ”国民党政府” を組閣した(1949)。 |
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| 毛沢東軍は、 本土に《中華人民共和国》を建国したが、世界には承認されず、「反乱軍」に過ぎなかった。 しかし台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいた為だろう。 蒋介石政府も、台湾で独立を宣言しなかったのは《本土に再入城すること》を考えたのではないか(?)・・・、 結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は、現在も複雑な関係が続いている。 |
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◆◇ 日本統治時代の遺産 ; 台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代に施された教育や、各種制度やインフラ整備が大いに役立った。 それは(中国本土では毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何十年も先行して発展軌道に乗ることができた。 しかし1972年、日本は、本土《中華人民共和国》 と国交正常化(台湾とは断交)し、国連の代表権も失った。 しかし親日関係は現在も親密に維持されている。 |
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◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、国連代表権喪失 しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心で国交正常化交渉が行われ、日本は≪中華人民共和国≫を承認した。 多くの国もそれに続いて、国連の代表権は本土(中華人民共和国)に遷った。 結果、台湾(中華民国)は、形式上、独立国でなく、日本とは「国交断絶」状態になっている。 |
| ■ 私の歴史観 |
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| * ≪ 日本政治家の靖国神社参拝 ≫ 食料も資源も労働力も乏しい日本が、現在、経済大国に成長し、豊かな生活ができるのは、戦死した兵士たちが外地で戦い、様々な糧をもたらした功績によることは間違いない。 その恩恵を被る後代の、私たちが『国の為に犠牲者になった「日本兵の英霊」に尊崇の誠・・・』を捧げることは当然だろう。 しかし政治家の参拝は事情が異なる。 日本にとっての「功績者」は、相手国にとっては「殺人鬼」である。 しかし一般兵は犠牲者として同情できても、靖国神社には、戦争を指導した主役も合祀されている。 それも一方的に攻撃され犠牲になった「相手国の住民や兵士に対する尊崇の念」など、心にあるのかどうか(?) 勿論、現在の政治家に 「国家間の相互理解」など、臨む方が無理かも知れないが、「自国本意」の行動は慎むべきではないか(?) |
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| * ≪ 戦争兵士のトラウマ ≫ *** ある新聞投書から幾例かを要約 *** おやじは復員兵で骨の髄まで軍隊に染まっていたのでしょう。毎日酒浸りで、食事中も同じ説教を繰り返し、渡河作戦では戦友の遺体を踏んで・・・とか、中国のヤツらを何人切った、毒ガスで人体実験を・・・とかウメキ声で封印を発しながら恫喝的に吐き出す自慢話しに、家族は恐怖を感じていた。 しかし死後になって気づくことは、おやじは過酷な戦場経験のトラウマに一生苦しんだ人だった。 戦後のギャップに順応できず、生きる目標を失って自殺した人も大勢いる。 戦争に行った人も、行かなかった人も、戦地から帰った人も帰れなかった人も、その家族も周りの人も皆な、戦争の被害を受けている人は大勢いる。 世界の誰もが戦争の悲惨さを分かっているのに、なぜなくならないのか・・・? |
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