このページは、私個人の歴史観です。 信憑性は 読者側で判断願います。 mail

 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◇6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

6.戦後処理と その後の各国  (1945 ~   )
    戦後処理の問題
 
  * 国際連合設立と戦後ルールの設定≫

 以前 ”弱肉強食”時代は、戦争の敗者には多額の賠償が課せられる慣例になっていた。 しかし産業革命以降、第一次世界大戦では戦闘規模が格段に拡大した反省から、戦争を抑止すべく国際連盟が設立された。 しかし侵略国に対する制裁は力不足で、弱肉強食世界は続いていた。 日本はそんな国際連盟の設立にも消極的だったが、満州の「実質的支配状態」が認められたので加盟した。

 しかし、第二次世界大戦の戦後処理は、①勝利側の主戦国(=米・英)と、②甚大な被害国(=フランス、中国)と、③超大国(=ソ連)の協議により国際連合が創設され、新しいルールが決められた。
 しかしソ連は、どれだけ主導権がとれたか(?)、結果として『北方領土は日本に帰属、朝鮮半島は独立国に、満州・台湾は中国(蒋介石政府)に』 返還することが決められた。
  【日本】 は敗戦国だから、有無を言えなかった。 しかし【ソ・中・朝・韓】には、新しい国際連合のルールには、次の様な異議や不満が残ったのではないか(?)
  ①【ソ連】 ;北方領土問題
    日露戦争が不当侵略との主張で、それにより(直接・間接)被害状態からは、
    当時(国際連合以前)の慣習では北方領土は当然とし北海道の割譲も・・・、
  ②【中国】 ;毛沢東軍(ソ連側)の不満
    日露戦争前;満州は、実質的にロシアの支配状態になっていた。その後中国全土に
    侵出を目指し「蒋介石軍とは対立状態」になっていた。 しかし満州・台湾を含め
    全面的に中国(蒋介石政府)に返還された・・・、
  ③【朝鮮・韓国】 ;金日成(ソ連側)
    日露戦争前;ロシアは旅順要塞を築き、朝鮮半島侵略準備が整っていた
  ④【韓国】 ;日韓併合時の屈辱に対する強い反日感情が残った・・・など、
  結果として、次の様な問題が、戦後もずっとくすぶり続けてきた。
  1) ◆ソ連と米英の対立は、(スターリン時代から)現在も未だすっきりしない。 北方四島返還にも応じていない。
  2)
◆中国では、第二次大戦直後、ソ連/毛沢東軍は。蒋介石軍と交戦し、中国全土を占領、「中華人民共和国」を建国した。 但し、国際的には「反乱軍」に過ぎず、1972年まで、国家として承認はされなかった。
◆※蒋介石軍は、台湾に逃避し、中国(中華民国)の首都が台北に移転した形で、中国国家の代表権は、蒋介石政府(台湾)が掌握していた。
  3)
◆朝鮮半島では日本の敗戦から 3年後(1948年)、李承晩は 国連の支持を受け、 漸く 「大韓民国(韓国)」 を建国した。
韓国は、李承晩ラインや竹島占有、慰安婦問題等反日感情(当事者の個人感情)は、未だ解消し切れない。
  4)
 ◆「ソ連/金日成軍」は、その後(1950)朝鮮半島支配を企て韓国に侵攻した。  それは”米ソ代理戦争の戦場” となり(=朝鮮動乱; 1950)が勃発した。
その結果、38度線を境に、南北に分断した。

 1) * ≪北方領土問題≫
  終戦時に(ソ連が)占領した北方領土は「日本に帰属」という国連決議を、日本は主張してきた。
  しかしソ連側は、日露戦争が(日本の)不当侵略だから、それにより受けた(直接・間接)被害を考えると、北海道まで占領しようとしたこともあり、70数年経った現在も、ソ連は応じていない。

 日本は、偶々敗戦国だから国連決議には有無を言えず、満州国も台湾も朝鮮半島も返還した。
 しかし、もし敗戦国でなかったら 【巨額な投資をして超近代的国家に仕立てあげ、自国同然になっていた領土】を、国連決議に従って易々と返還できただろうか・・・??
 アメリカも、一度占領した沖縄を簡単に返還した訳ではない。 時の政府と密約を結び、『基地付き、核付き、治外法権付き、安保条約と多額の補助金付き・・・』で返還されたが、その条件は、基本的には 現在も踏襲されている。
 領土問題は、国連決議の尊重とか、歴史認識の共有とかは・・・政治家の寝言に過ぎない。 双方の利益になる条件を構築しながら一歩ずつ進めるか、・・・または、また戦争をしなければ解決しない。

 2) * 中国 ≪国民党軍(蒋介石)と 共産党軍(毛沢東)内戦 ≫
  終戦と同時に、国・共双方合作(共同)で、復興に取り組むべきところだが、ソ連は共産党(毛沢東軍)を支援して≪中国(蒋介石政府)≫の乗っ取りを企てた。
 そして両者の決定的衝突は、日本軍の(敗戦)撤退後(1946)に起こった。

 当初は、蒋介石が アメリカからの軍事支援で攻勢だったが、その後
”自力更生”を目指し支援が停止されると、ソ連から軍事援助を受け毛沢東軍が反転攻勢を強めた。
 蒋介石(中国;国民党政府)は、『中華民国憲法』を制定、「正規政府」の立場を整えて対抗した。
 しかし
毛沢東軍(共産党)は攻勢を強め、瀋陽、北京、上海、南京・・・と中国全土を武力制圧し 蒋介石軍は「中華民国政府」の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避した。
 それにより、本土には、毛沢東軍が 『
中華人民共和国』を建国し(1949)、正式の中国; 中華民国』は首都を台北に移転した。
 つまり国際的には、中華人民共和国(本土)は「反乱軍」に過ぎず、国家としての代表権は『中華民国(台湾)』が掌握する構図になった。
 毛沢東軍が台湾まで攻撃しなかったのは、背後に米国がいたからだろう。 蒋介石も台湾で独立しなかったのは、将来、中国本土奪還を考えたのではないか(?) どちらもそれを しなかったから、現在も未だ複雑な関係が続いている

 3) * 韓国  大韓民国の建国≫
  日本の敗戦から 3年後(1948年)、李承晩は 国際連合の支持を受け、 「大韓民国(韓国)」 を建国した。 しかし次の様な事情の下で、日韓両国民の感情は複雑だった・・・。
 ◆”日韓併合” つまり「日本版植民地政策」は、欧米の「奴隷制度」と異なり、現地人にも教育を施し、能力に応じて職位も与えられた。 鉄道始め都市建設などインフラ整備、銀行制度や教育制度・・・各種制度など、日本軍の遺した沢山の遺産は、戦後復興には非常に役立っている・・・。
 ◆しかし日本統治が半世紀も続くと朝鮮人意識が芽生え、下等人種と蔑まれ、徴用工として日本各地の工事現場や、炭坑や、軍需工場などで危険作業や重労働を強いられ・・・等々、日本の敗戦時には、嫌日感情は頂点に達し、各戸に国旗を掲げて解放を祝ったとか・・・。
   従軍慰安婦も 『強制連行していた証拠はない』と(安倍首相が)言っても、私が約30年前、韓国に赴任時、日本統治時代の経験者(複数)の話しでは、朝鮮人蔑視が耐えられなかった、しかし憲兵(日本人配下の朝鮮人)の取締りや、日本兵の怖さや残虐さに反抗は一切できなかった・・・と。
  ところが、やっと訪れた平安も束の間、 日本人の引揚げから 5年後には 金日成軍(背後にソ連;スターリン)は 朝鮮半島支配を企て ”米ソ代理戦争の戦場” となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。
 それは朝鮮人にとっては未曾有の悲劇になった。 その反面、日本にとっては、疲弊しきった経済を伸し上げる慈雨になる皮肉な結果になった。



 

   その後の経過  ≪その後の日本、韓国、中国事情≫
 
  1)  * ≪その後の
日本≫

  日本の敗戦時は、家族も身内も家財産も奪われ、余りに酷い国土の荒廃に、張りつめていた人々の心は落胆に変った。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍が駐留し、機雷の処理や破壊物件の片付けなど戦後処理が始まった。 食料配給も始まり、徐々に食料や物資や労働力も確保できる様になると、焼け跡にバラックが建ち少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。

  ◆◇ 朝鮮動乱特需
 そして日本では漸く平和の兆しが見えた頃、朝鮮半島で「朝鮮動乱」が勃発(1950)した。 それは、朝鮮人の悲劇と裏腹に、日本にとっては《特需景気》という真に”慈雨” となった。 その後約半世紀のアッという間に世界第2位の経済大国にまで発展した。
 それには日本は、→①敗戦により過去のしがらみが全てご破算にできたこと、→②戦時中、朝鮮半島からの徴用工の労働力を活用して各種インフラ整備が進んでいたこと、→③日中戦争・太平洋戦争で培った高度技術が全てフル活用できたこと等・・・現在の日本発展には 『明治維新以後、韓国人や中国人の犠牲』大きな踏み台になっていることを忘れてはならない。

 
 
  2) * ≪その後の韓国≫

 ◆◇ 朝鮮動乱

朝鮮動乱
 漸く 「大韓民国(韓国)」 が建国され、やっと手にした平安も束の間、 2年後には スターリンは朝鮮半島支配を企て 朝鮮動乱; 1950)が勃発した。
”金日成軍”が突如戦車を連ねて南進し、ソールから釜山まで韓国全土を占領した。
 それに対し国連軍は仁川から増援部隊を送り込み、金日成軍を分断し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。
 朝鮮動乱による死者数、使用された焼夷弾共に、太平洋戦争中で日本本土が被ったそれを上まわる大惨劇となった。
 釜山には(動乱)の国連軍戦死者の広大な墓地(国連墓地)が設けられている。

   人々は安全な場所を求めて逃げ回り、その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれた為、国境を越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆ど再会できないでいる。

  ◆◇ 李承晩ラインと竹島
 朝鮮動乱が休戦に達した(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島を含む公海上に突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、(国際法でなく)日韓併合時の屈辱の《仕返し=克日》に闘志を燃やして、日本に突き込んだのではないか・・・と私は思っている。
 そして竹島には立派な軍施設を建設し、領有を正当化する教育を、既に 数10年間続けてきた。 今の韓国民はそう信じているので、それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。
 日本は、それを ”黙認”してきて、最近になって、島根県が「竹島の日」を設け、日本政府が通り一遍の理屈を主張するのは、政治家の本性が問われる。


 ◆◇ その後の韓国との係わり
 
日本に比べ韓国では、戦時中の開発技術もなく、官吏や汚職なども往行して、日韓の経済格差が開けば開く程、日韓併合時に受けた屈辱に対する嫌日感情が沸き上がる状態が続いた。
 スタート遅れの感はあったが、1980年前後(?)から『日本に追いつき、追い越せ
!!』を合言葉に急速に経済発展を遂げた。 日本との関係は「日韓併合時」の経験者が存命中は、「親日・嫌日」二面を使い分けながら、現在では日本よりも、経済産業面でも、科学技術面でも進んでいる分野が多くなっている。
   しかしそれには、日本軍は、朝鮮半島に鉄道やダム建設や工場施設、社会制度や教育制度等々・・・充実した遺産を残し、現地人を高官に登用して政務を経験させたことなど・・・韓国の戦後発展に大きく貢献していることなども評価されねばならない。
 もし日韓併合でなく、米、英、露何れかの植民地になったとすれば、そんな遺産は考え難い。
 しかし日韓の政治家は、徴用工とか慰安婦問題など、経験者(存命なら100歳前後)も一般国民も、とっくに過去になっている問題を引き出して、反感を買うことに熱中するから、両国関係は進展しない。
 

  3) * ≪その後の
中国≫
 
中国本土(中華人民共和国)


 中国本土は、アヘン戦争以降、弟2次大戦終結まで諸外国に侵略され続け、戦勝国とは云え、政治・制度・技術・インフラ基盤・・・等々は、殆ど整備されないまま戦後を迎えた。
 しかも中国共産党(毛沢東軍)には、そんな巨大国家統治の経験は無い。 欧米に匹敵する政治組織や、経済・社会制度もなく、紆余曲折を経ながら歴史を刻んでいった。
   その中で、満州国に遺された関東軍の遺産、・・・つまり政治・経済・教育・・・制度はもとより、関東軍が建設した、超近代都市施設、鉄道、電力、資源採掘施など・・・、戦後中国(中華人民共和国)の確立に大いに役立った。
 しかし世界が急速に近代化していく中で、10億人以上もの人口を抱えるのだから、文化大革命など紆余曲折を繰り返しながら、現在に至っているのが実態ではないか・・・。

 ◆◇ 
ラストエンペラー溥儀 ; その後の生涯

 溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し”ラストエンペラー” と呼ばれる。 彼は関東軍に巧みに利用され≪満州国皇帝≫にも担ぎあげられた(1932)。 しかし関東軍の配下では【満州国皇帝】とは名ばかりで、何の裁量権もなく利用されるだけだった。
 例えば、関東軍が定めた(満州国)制度に従って、反日運動家の処刑の署名や、満州人耕作地を(所有者不在として)日本人入植者に与える《文書の署名》強要など・・・悲劇的な役職であった。

  敗戦時には、日本に亡命しようとしてソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 東京裁判(1946)で、一時 証人として東京に護送され、『関東軍に脅かされて満州国皇帝になった』と主張した。
 しかし再度シベリアに戻された。 数年後シベリアから中国に移送され
(1950)たが、中国国家や人民を欺いた罪で撫順(戦犯収容所)と、ハルピン(再教育)に約10年間収容された。
 
戦争犯罪人特赦令(1960)で釈放後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 周恩来は、不幸な運命を辿った溥儀に同情的だったと言われている。

 ◆◇ 文化大革命 1966-1977
 文化大革命は、政治・社会・思想・文化全般の改革運動と言っても理解が難しい。
 しかし毛沢東政権も、20年経れば、政権内部で批判や対立が生じてきた。 その為 毛沢東派は、主導権堅めで、一切の資本主義的思想を排除しようとして大規模な粛正劇に発展した・・・のではないか ?。
 それは《紅衛兵》を組織して、党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込んで、政権に反抗する人が大規模粛正された。
 併せて文化財も破壊され、経済活動も大きな停滞を招いた。 文化大革命による死者は40万人とも、何100万人とも言われるが・・・私には定かでない。

紅衛兵の図
 しかし1970年代になると、次第に沈静化していった。 そして1976年に周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)が失脚して終息した。
 
それ以後、中国共産党は「改革開放路線」に転換して現在に至っていると言っても、私には具体的な理解は難しい。

 ◆◇ 
日中国交正常化(1972年)と、その後の問題 
 
 そんな経緯で、国連の代表権は台湾の【中華民国】にあり、本土の【中華人民共和国】を承認する国は少なかった。 つまり国際的には、本土中国は反乱軍に過ぎなかった。
 しかし≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心になって国交正常化交渉が行われた。
 ここで注目すべきは、敗戦国(日本)には莫大な賠償要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から
『小異を捨てて大同につく』・・・、つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直れない』、適当な妥協点を求めて解決する代わりに、日本は≪中華人民共和国≫を承認ことで決着した。 それを足掛かりに≪中華人民共和国≫を承認する国が増え、遂に、国連の代表権を獲得するという大偉業が成った。

 ただ
、『小異の解決は、後代の賢明な判断に任せる』 として、『尖閣問題は先送りした』と当時の日本政府役人がテレビで語っていた。
 それが事実とすれば、『尖閣は我が国固有の領土』 と言う主張はちょっとおかしい。
 我が国固有の領土なら、どうして今まで 灯台なり、漁船避難施設なり、何も建設しないで放置していたのか?。 ”竹島” だって韓国は 既に立派な構築物を設けている・・・。
 日中国交正常化後 50年間経た今、尖閣や海底油田開発も、相手の動きに手をこまねいているのでは、黙認 となってしまう・・・。

 
 
  4) * ≪その後の台湾≫

 ◆◇ 日本人の撤退
 台湾は、日清戦争(1895)の勝利国(日本)に割譲され 50年間余り、日本の統治下にあった。
 その間に、鉄道はほゞ全土に開通し、木材伐採運搬用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラ整備がされ、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられた。 現地人には日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本敗戦により、中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。

阿里山森林鉄道(沼平駅)
木材伐採用鉄道⇒現在は観光用

 ◆◇ 中華民国 遷都;(蒋介石軍入城))
  しかしその直後、中国本土では蒋介石政府(国民政府)が、毛沢東軍に追撃される内乱が起り、蒋介石軍は≪中華民国政府≫の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し、台北に ”国民党政府” を組織した(1949)。
 つまり、≪中華民国(=正式中国)≫は、首都を台北に移転し、国連常任理事国の資格は継続した。

 毛沢東軍は、 本土に《中華人民共和国》を建国した。 しかしそれは「反乱軍(毛沢東軍)による不当国家」に他ならなず、世界には承認されなかった。
 しかし毛沢東軍が、台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいたのだろう。
 蒋介石も、台湾で独立宣言をしなかったのは、《本土に再入城》を考えたのではないか?・・・、結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は現在も複雑な関係が続いている。


烏山頭水庫(ウサントウダム湖)灌漑用
ダム湖=建設;八田余市

◆◇ 蒋介石(国民党) 政府結成
その蒋介石軍は、外省人(中国本土から一緒にきた側近)で 国民党政府を組織した。
 台湾人にとっては、3~4年前まで(約50年間)は、日本統治下で、日本人として生活していたので蒋介石軍に不法侵略される感じだっただろう・・・。

 反抗する本省人(台湾人)が大量虐殺された(2.28事件)。 特に日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、殺害された人数は、数万人と言われている。 しかし治安悪化や役人の不正等は、日本統治時代を経験
した台湾人には耐え難かったという。
 その後アメリカから支援を受け、本格的な民主化の発足は、1988年(昭和63年)に成立した李登輝政権以降になった。

   ◆◇ 日本統治時代の遺産 ;
 台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代に施された教育や、各種制度やインフラ整備が大いに役立った。 それは(中国本土では毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何十年も先行して発展軌道に乗ることができた。
 その後日本は、本土の《中華人民共和国》 と国交正常化(台湾とは断交)し、国連の代表権も失った(1972)が、親日関係は現在も維持されている。



  ■  私の歴史観
 *   日・中・韓 「国家間の相互理解」について  
 日本は 『
(欧米の)進んだ文明を採り入れ、先進国の仲間入りする為』 には、朝鮮半島から満州。中国本土まで支配地を拡げることは、必要条件だった。 しかしそれには、必ず戦争がセットになる・・・。
 その為に関東軍兵士たちはどんな残虐行為を働いたか・・・?帰還兵や軍当事者は、強いトラウマで、語れない。 日本国政府は、それを明らかにしようとしない。 日・中・韓の戦争について教科書にも表面的な事実しか取り上げられない。
 しかし中国や韓国が、南京大虐殺事件や、慰安婦や徴用工像など・・・日本軍の凶悪事実に触れることに、日本の政治家は、「既に決着済み」とか、事実と異なるとか・・・過敏に抗議反応を示す。
 ところが、当時の経験者の 年齢90歳を超え、余命が悟られる頃になると、テレビドキュメンタリーで 『捕虜の扱いに困り、上官から処刑を命令され・・・とか、樹に縛りつけて銃剣訓練の的に・・・とか、毒ガスで人体実験を・・・』とか・・・、事実を「胸の中に留めていることの」呵責にさいなまれながら告白する姿が痛ましい。
  加害事実を封印して、被害者として立場を強調するのは、中国も韓国も お互い様かも知れないが、誰かが先頭に立ってアクションしなければ、戦争に対する反省も、国家間の相互理解も生まれない・・・?。
 

 * ≪ 日本元首の靖国神社参拝 ≫ 
 国の為に誠を捧げた 戦争犠牲者(日本兵)の英霊に対する尊崇の念・・・』、それは日本人の理屈であっても、日本の元首たちが率先して靖国神社参拝は ちょっと無神経ではないか・・・。
 日本が、現在の様な経済大国に発展できたのは、戦死した日本軍兵士の手柄であることは間違いない。 しかしそれは相手国の兵士や住民も同じ犠牲者である。
 つまり、首謀者側の日本軍兵士の犠牲のみではなく、中国側兵士や現地住民たちの犠牲も加え、朝鮮半島の住民や徴用工の労働が踏み台になって現在の日本がある。
 日本国の元首は、靖国参拝の前に、日本政府の命令で何人の対戦相手国兵士や住民が殺害されたか(?)もセットで尊崇の念を表すべきではないか・・・
。 

 * 
≪ 戦争のトラウマ ≫
  *** ある新聞投書から幾例かを要約 ***
 おやじは復員兵で骨の髄まで軍隊に染まっていたのでしょう。毎日酒浸りで、食事中も同じ説教を繰り返し、渡河作戦では戦友の遺体を踏んで・・・とか、中国のヤツらを何人切った、毒ガスで人体実験を・・・とかウメキ声で封印を発しながら恫喝的に吐き出す自慢話しに、家族は恐怖を感じていた。
 しかし死後になって気づくことは、おやじは過酷な戦場経験のトラウマに一生苦しんだ人だった。
戦後のギャップに順応できず、生きる目標を失って自殺した人も大勢いる。 戦争に行った人も、行かなかった人も、戦地から帰った人も帰れなかった人も、その家族も周りの人も皆な、戦争の被害を受けている人は大勢いる。 世界の誰もが戦争の悲惨さを分かっているのに、なぜなくならないのか・・・?
 



 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◇6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )