このページは、私個人の歴史観です。 信憑性は 読者側で判断願います。 mail

 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◇ 6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

6.戦後処理と その後の各国  (1945 ~   )

   ■  戦後処理;各国の動きの概要
   * 国際連合設立と、戦後処理ルール設定≫
 国際連盟は、第一次世界大戦の反省から設立され、違法な武力行使国(違反国)には、集団的経済政策や 軍事制裁が定められたが、制裁は力不足で、第二次世界大戦は抑止できなかった。
   そこで、第二次世界大戦後は、①大戦の主導国(=米・英)と、②被害国代表(=フランス、中国)と、③超大国(=ソ連)が中心に立って【国際連合】が設立された。
 そして戦後処理ルールとして、 『 ①南樺太・千島列島は ソ連に返還、 ②北方領土は 日本に帰属、 ③満州・中国本土・台湾は (蒋介石政府)に帰属or 返還、 ④朝鮮半島は 独立国建国 』 が決められたが、各国はそれぞれ次の様な経緯で、必ずしも遵守はされていない。
1) 日本は、
 終戦時;食料も産業も物資も経済も・・・全ての拠り所(南樺太、千島、満州国、朝鮮、台湾)を失い、焦土と化した国土に、大陸や南洋諸島から数百万の兵士が復員し・・・、それは戦災で身寄りも家も財産も失い落胆に、未曾有の食料難と、大量失業の追打ちが掛かり、苦難のどん底だった。
 しかし
進駐軍による戦後処理が始まり、食料配給も始まり、失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、徐々に生活が戻ってきた。
   そこに朝鮮動乱の勃発(1950)は、朝鮮半島にとって未曾有の悲劇と裏腹に、疲弊し切った日本にとっては「動乱特需」となり、息を盛り返す千載一遇のチャンスとなった。
 しかし北方領土は、終戦に紛れてロシアに侵攻され、奪取されたまま、現在も返還されていない。
 
2)  ソ連は、
『日露戦争は日本の違法侵略』とし、日露戦争が起こらなければ獲得できた(?)領土として
 ①日本の北方領土は、終戦のどさくさに紛れて侵攻し奪取した、
 ②満州、中国本土は、毛沢東軍を支援し、毛沢東軍が蒋介石政府を攻略し、奪取した。、
 ③朝鮮半島は、金日成軍を支援し、一時全土制圧するも、国連軍に追い戻され、
  北部(現・北朝鮮)を占領した。
その後、中国本土と北朝鮮を共産圏に引込み、西側諸国と対抗する勢力を築いた。
3) 中国本土の内戦
毛沢東軍(ソ連の支援を受け)は、蒋介石政府に侵攻して中国本土を占領し、「中華人民共和国」を建国した(1946)。 但し、それは1972年まで、国家として承認はされず、反乱軍に過ぎなかった。
  つまり、蒋介石軍は、「三種に神器」を携えて台湾に逃避し(首都を台北に遷都した形)で、台湾(蒋介石政府)が、全中国を代表する「国家」になっていた。
4) 朝鮮半島の経緯
◆大韓民国建国(1948年);
  李承晩は国連の支援を受け、「大韓民国(朝鮮半島全土)」 を建国した。
   ※しかし日韓併合時の人種差別政策に、反日感情はピークに達しており、それは
    建国後も引継がれた。 それは朝鮮動乱休戦後の「日韓関係」も、李承晩ライン
    や竹島占有、慰安婦問題等、反日感情は残ったまま、未だ解消し切れない。
◆金日成軍の侵攻(=朝鮮動乱; 1950)
  金日成は、ソ連の支援を受け、大韓民国(朝鮮半島全土)に侵攻した。 それはソールから釜山まで韓国全土が "戦場” となったが、国連軍に圧し戻され、38度線を境に、南北に分断された。
 
 ※その際、人々は逃げ回り、その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが引かれ、
  越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆どは再会できないでいる。
  朝鮮動乱が休戦に達した(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島を含む公海上に突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 竹島は現在も、韓国に実質支配されている。
5)  台湾の経緯、
 日本の統治下では、漑用施設などのインフラ整備がされ、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられ、現地人には高等教育も施されていた。
 しかし日本の退去後、中国本土を追われた「蒋介石政府」が(台湾に)逃避してきた(1949)。
それは「中国(中華民国)」の首都が台北に移転した形で、全中国を代表する政府とされていたが、その際、蒋介石は(本土から連れてきた)側近で組閣し、日本式教育を受けた台湾人エリートの多くが処刑された(228事件)。
   しかし、1972年以降は、世界情勢変化により、国連の代表権は 本土中国に移り、現在;台湾は独立国になっていない。 治安は李登輝政権の誕生(1988)まで不安定状態が続いた。 



    戦後処理の問題
   * 国際連合設立と、戦後処理ルールの設定≫
 国際連盟は、第一次世界大戦の反省から設立され、違法な武力行使国(違反国)には、集団的経済政策や 軍事制裁が定められたが、侵略国に対する制裁は力不足で、第二次世界大戦は抑止できなかった。
   そこで、第二次世界大戦の戦後処理は、①大戦の主導国(=米・英)と、②被害国代表(=フランス、中国)と、③超大国(=ソ連)が中心に立って【国際連合】が設立され、新しいルールが決められた。
  その中で、ソ連はどの程度の主導権がとれたかどうか(?)、国際連合の決議に無視や拒否権行使する場面が多かった。
 
  * 戦後処理(国際連合決議)と、関係各国の情勢≫
 国際連合決議として 『 ①南樺太・千島列島は ソ連に返還、 ②北方領土は 日本に帰属、 ③満州・中国本土・台湾は (蒋介石政府)に帰属or 返還、 ④朝鮮半島は 独立国建国 』 が決められた。 
その結果、次の様な問題が、戦後もず~っとくすぶり続けた。
日本は、敗戦国として有無を言えず、南樺太、千島、満州国、朝鮮、台湾を失った。
ソ連は、『日露戦争は日本の違法侵略』とし、毛沢東軍、金日成軍を支援して、日露戦争が起こらなければ獲得できた筈(?)の領土(満州、中国本土・朝鮮・日本の北方領土)の奪還、奪還を計り、次の様な「戦闘、及び政変」が続いた。 その結果は現在の世界情勢にも、強く影響している。
1) 北方領土奪取
終戦に紛れて「北方領土」に侵攻し奪取した、その際北海道にも侵攻しようとしていた。
国連による「日本への返還決議」は無視されたままし現在も返還されていない。
2) 中国本土の内戦
毛沢東軍(ソ連の支援を受け)は、中国で決起し(蒋介石軍を台湾に逃避させて)中国全土を占領、「中華人民共和国」を建国した(1946)。 但し、国際的には「反乱軍」に過ぎず、1972年まで、国家として承認はされなかった。
 ※蒋介石軍は、「三種に神器」を携えて台湾に逃避し、中国(中華民国)の首都は台北に移転した(1949)。 しかし中国全土の代表権は、1972年まで、蒋介石政府(台湾)に有し、国際連合では(台湾が)「常任理事国」になっていた(1972まで)。 
   台湾の経緯、
 日本の統治時代には、漑用施設などインフラ整備、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられ、現地人には高等教育も施されていた。
 しかし、中国本土を負われた「蒋介石政府」が突如入城(1949)すると、日本式教育を受けたエリートを大量処刑し、その約40年李登輝政権が誕生(1988)まで不安定状態が続いた。 
3)  朝鮮半島の経緯
◆大韓民国建国、
終戦から 3年後(1948年)、李承晩は 国連の支持を受け 「大韓民国(朝鮮半島全土)」 を建国した。
 ※しかし日韓併合時の人種差別政策に、反日感情はピークに達しており、それは
  建国後も引継がれた。 それは朝鮮動乱休戦後の「日韓関係」も、李承晩ライン
  や竹島占有、慰安婦問題等、反日感情は残ったまま、未だ解消し切れない。
◆金日成軍の侵攻
その後(1950)、「」は、朝鮮半島支配を企て、韓国に侵攻した。  それは”米ソ代理戦争の戦場” となり(=朝鮮動乱; 1950)が勃発した。
その結果、38度線を境に、南北に分断した。
4)  台湾の経緯、
 日本の統治下では、漑用施設などのインフラ整備がされ、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられ、現地人には高等教育も施されていた。
しかし、中国本土を負われた「蒋介石政府」が入城(1949)すると、日本式教育を受けたエリートを悉く処刑し、李登輝政権が誕生(1988)まで不安定状態が続いた。 しかし国際連合では全中国を代表する「常任理事国」になっていた(1972まで)。



    その後の経過  ≪その後の日本、中国、韓国、台湾≫
   1)  * ≪その後の日本≫
  日本の敗戦は、 30年以上も、巨額な投資を注ぎ込み、食料も産業も物資も経済も・・・頼みの綱(南樺太、千島、満州国、朝鮮、台湾)を全て失い、焦土と化した国土に、大陸や南洋諸島から数百万の兵士が復員した。 それは戦災で身寄りも家も財産も失い落胆の上に、未曾有の食料難や、大量失業の追打ちが掛り苦難のどん底に陥った。
 しかし進駐軍による戦後処理が始まり、食料配給も始まり、失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、徐々に生活が戻ってきた。
 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍により、機雷の処理や破壊物件の片付けなどが始まり、った。 そして食料配給も始まり、徐々に食料や生活物資や失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。
  ◆◇  * ≪朝鮮動乱特需≫
 そこに朝鮮動乱の勃発(1950)は、朝鮮半島にとって未曾有の悲劇と裏腹に、疲弊し切った日本にとっては「動乱特需」となり、息を盛り返す千載一遇のチャンスとなった。。
 
 それから約半世紀、アッという間に世界第2位の経済大国に伸し上がっていた。
それには日本は、→①敗戦により過去のしがらみを全てご破算にできたこと、→②戦時中、朝鮮からの徴用工を利用して各種インフラ整備が進んでいたこと、→
③日中戦争・太平洋戦争を通して培った高度技術がフル活用できたこと・・・等々が挙げられる。 しかしそれには、『韓国人や中国人との合作や多大な犠牲』は、現在の日本を築く大きな踏石になっていることも忘れてはならない。
  ◆◇  * ≪北方領土問題≫
 終戦時に(ソ連に)占領された北方領土は「日本に帰属」という国連決議に沿って返還要求してきた。 しかしソ連は、日露戦争は(日本の)違法侵略だから、それがなければ「ロシア領になっている(筈)」と言う意味か(?)、70数年経た現在も、ソ連は応じていない。
 日本は、敗戦国だから国連決議に有無を言えず、『満州国も、台湾も、朝鮮半島も、南樺太も』返還した。
 しかし、もし敗戦国でなければ、巨額な投資をして自国同然になっていた【満州や台湾や朝鮮】を、国連決議に従って返還できただろうか・・・??
   アメリカも、一度占領した沖縄を簡単に返還した訳ではない。 時の政府と密約を結び、『基地付き、核付き、治外法権付きに加え、安保条約と多額の補助金付き・・・』で返還されたが、日本の主導権は現在も歪められたままである。
 領土問題は、国連決議の尊重とか、歴史認識の共有とか・・・では解決しない。 双方の利益が『Win-Win』 の方法を考えねばならない。



   2) * ≪その後の中国本土≫
 中国は 戦勝国とは云え、アヘン戦争(1840)以来、弟2次大戦終結(1945)まで諸外国に侵略され続け、政治・制度・技術・インフラ基盤・・・等々の整備は、殆どできないまま戦後を迎えた。

 ◆◇ 中国 ≪国民党軍(蒋介石)と 共産党軍(毛沢東)内戦 ≫
  終戦と同時に、国・共は合作で復興に取組む所だろうが、「共産党軍(毛沢東)」は。ソ連の支援を受け≪国民党政府(蒋介石)≫に侵攻した(1946)。
   そして瀋陽、北京、上海、南京・・・と中国全土を武力制圧し、 『中華人民共和国』を建国した(1949)。 但し、それは世界には認められず、単に「反乱軍」に過ぎなかった。
 しかも中国共産党には、欧米に匹敵する政治組織や、経済・社会制度もなく、人口10億という巨大国家統治には、紆余曲折を経ながら歴史を刻んでいった。
  その中で、満州国に遺された関東軍の遺産、つまり政治・経済・教育・・・制度は勿論、関東軍が建設した、超近代都市施設、鉄道、電力、資源採掘施設など・・・は、戦後中国を築く上で大いに役立った筈だが・・・当時の日本は 『侵略国 !!』と言う意識しか なかっただろう(?)
 一方の蒋介石軍は「中華民国」の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し、首都を台北に移転した。
        参照; 後述;4)その後の台湾
 ※ この時点で、 ①毛沢東軍は「反乱軍」に過ぎなかったにも拘わらず台湾まで攻撃しなかったのは、背後に米国がいたからだろう。 ②蒋介石も台湾で独立しなかったのは、将来、中国本土奪還を考えたのではないか(?) どちらもそれを しなかったから、現在も複雑な関係が続いている


 ◆◇ ラストエンペラー溥儀 ; その後の生涯
  溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し”ラストエンペラー” と呼ばれる。 彼は関東軍に利用され≪満州国皇帝≫に担ぎあげられた(1932)。 しかし【満州国皇帝】とは名ばかりで、例えば、関東軍が定めた制度に従って、例えば、反日運動家の処刑の署名や、満州人耕作地を、強制的に日本人入植者に与える《文書署名》など・・・悲劇的な役職だった。
   終戦時、日本に亡命する際、ソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 その間に東京裁判(1946)で 証人として一時東京に護送され、『関東軍に脅かされて満州国皇帝になった』と主張した。
 しかし再度シベリアに戻され、数年後 中国に戻された
(1950)が、中国国家や人民を欺いた罪で撫順(戦犯収容所)~ハルピン(再教育)に約10年間収容された。
 
戦争犯罪人特赦令で釈放(1960)後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 毛沢東政権;周恩来首相は、不幸な運命を辿った溥儀に同情的だったと言われている。

 紅衛兵の図
  ◆◇ 文化大革命 1966-1977
  毛沢東軍(中華人民共和国)は、中国本土支配と言っても、世界が急速に近代化する中で、10億人もの人口を抱え、「20年経れば、政権内部で批判や対立が生じてきた」と理解すべきだろう(?)。
  「政治・社会・思想・文化全般の大改革運動」と言っても理解が難しい。 毛沢東派は主導権を揺るがし兼ねなくなと、一切の資本主義的思想を排除しようと「密告制度」を採り入れた大規模な粛正劇に発展した( ?)。

 中高大学生など若者は忠誠心から《紅衛兵》を組織し、熱狂して党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込み、政権に反抗する人全てが敵とみなされ、大規模な粛正劇が演じられた。
 それは人々は恐怖心から。誰を信じて良いのか、文化財も破壊され、経済活動も停滞し・・・文化大革命による死者は何100万人とか1000万人以上とか・・・、詳しいことは分からない。
 しかし1970年代になると、沈静化していき、1976年、周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)が失脚して終息した。 その後、中国共産党は「改革開放路線」に転換して現在に至っている、と言っても具体的理解は難しい。  


 ◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、その後の問題  
 以上の経緯で、中国本土(中華人民共和国)を承認する国は少なく、【全中国の代表権】は 台湾(中華民国)にあった。 つまり本土中国は、「反乱軍」に過ぎなかった。
   しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心に国交正常化交渉が行われた。
 ここで、敗戦国(日本)は莫大な賠償要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から
小異を捨てて大同につく・・・、つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直れない』、適当な妥協点を求めて解決する代わりに、日本は≪中華人民共和国≫を承認することで決着した。
  それにより≪中華人民共和国≫を承認する国が増え、国連の代表権を獲得する大偉業が成った。
しかし日本と台湾は「国交断絶」となっている。 にも拘わらず、現在、日本も米国も"台湾"と親密化し、本土中国との関係が、歪(いびつ)になることに、新たな問題を生じ兼ねない。
          参照; 下記;4)その後の台湾
  ただ、『小異の解決は、後代の賢明な判断に任せる』 として、『尖閣問題は先送りした』と当時の日本政府役人がテレビで語っていた。
 それが事実とすれば、『尖閣は我が国固有の領土』 と言い切るのはちょっとおかしい。
 我が国固有の領土なら、今まで実質支配しながら、何故 灯台なり、漁船避難施設建設なり、或いは日本が主導権をとる「領土交渉」などしなかったのか(?)。
 ”竹島” だって韓国は 既に立派な構築物を設けている・・・。
日中国交正常化から 50年経た今、尖閣や海底油田開発も「受身対応」で勝利するのは難しい。



  3) * ≪その後の朝鮮半島≫
 ◆◇ 日韓併合時~終戦時の 『嫌日感情』
  しかし終戦時、「日本の植民地政策と人種差別」の問題で、嫌日感情はピークに達していた
 ①日本の植民地政策は、欧米の「奴隷制度」と異なり、現地人にも教育を施し、能力に応じて
  重要な職位も与えられた。
 ②日本軍は、鉄道始め都市建設などインフラ整備、銀行制度や教育制度・・・各種制度など、
  莫大の遺産を残し、戦後復興には極めて役立っている・・・。
 ③しかし朝鮮人に対し露わな人種差別と、日本兵の残虐さには反抗できず、徴用工として日本
  各地の工事現場や、炭坑や軍需工場などで危険作業や重労働を強いられた・・・。等々

 しかし重要任務につく人は、①一部の親日的な人に限られ、 ②都市建設やインフラ建設は、日本軍の為の施設で、(当時の)朝鮮人には恩恵は少なく、 ③激しい人種差別や、朝鮮語の集会や、少しでも反抗の素振りがには厳罰が処せられ・・・、そんな日本統治が半世紀も続くと、反日感情は頂点に達し、「日本の敗戦」に国旗を掲げて祝ったとか・・・。 
 従軍慰安婦も 『強制連行していた証拠はない』とか、日本政府は、不名誉な話しは、"蓋"をしたいのかも知れないが・・・、日韓併合時の経験について、『下等人種と人種差別されるのは耐えられなかった、しかし憲兵(日本人配下の朝鮮人)の取締りや、日本兵の怖さや残虐さに反抗は一切できなかった・・・』と、私が韓国赴任時(1990年前後)、経験者から直接聴いた話しが信憑性が高いと思っている。。
 ◆◇  大韓民国≫建国
  終戦後も、日韓併合時に親日に属した人や、貧富の差、ソ連(金日成軍)の動きなど、事情があったのかも知れないが、3年後 李承晩は 朝鮮半島の独立「大韓民国」 を建国した(1948)。

朝鮮動乱
 ◆◇ 朝鮮動乱
 ところが、「大韓民国」建国でやっと訪れた平安も束の間、2年後には 金日成軍(ソ連;スターリンが支援)が、突如、戦車を連ねて侵攻し、 ソールから釜山まで韓国全土が 戦場 となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。 
 それに対し国連軍は仁川から増援部隊を送り込み、金日成軍を分断し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。
 朝鮮動乱による死者数、使用された焼夷弾共に、太平洋戦争中で日本本土が被ったそれを上まわる大惨劇となった。
 釜山には(動乱)の国連軍戦死者の広大な墓地(国連墓地)が設けられている。
 
   人々は安全な場所を求めて逃げ回り、その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれた為、国境を越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆ど再会できないでいる。
  しかし日本にとっては、"動乱特需"となって、疲弊しきった経済を伸し上げる慈雨になった。
  ◆◇ 李承晩ラインと竹島
 "朝鮮動乱"が休戦となった(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島周辺の公海上に、突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、日韓併合時の屈辱の《仕返し》なのか(?)・・・分からない。
   しかし竹島には、れっきとした軍施設を設け、領有の「既成事実化」を 数10年間続け、全韓国民はそれを信じている。 今、それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。
 日本政府は、それを”黙認”し、最近になって島根県が設けた「竹島の日」に便乗して通り一遍の理屈を言っても寝言に過ぎない。 双方の利益が『Win-Win』 になる「もっと基本的な戦略」(例えば、双方の教科書改訂など)から話会う戦略を考えなければ意味がない。
  ◆◇ その後の韓国との係わり
 
日本に比べ韓国は、戦時中の開発技術もなく、官吏や汚職なども往行して、日韓の経済格差が開けば開く程、日韓併合時の屈辱をぶり返し、嫌日感情が沸騰する状態が続いた。
 しかし、世代交代もあってか(?)、1980年前後(?)から『日本に追いつき、追い越せ
!!』を合言葉に急速に経済発展を遂げた。 日本との関係は「日韓併合時」の経験者が存命中は「親日・嫌日」二面を使い分けながら、経済産業面、科学技術面などでは、現在の日本より先進分野も多くなっている。
  しかし、日本軍の遺した鉄道やダム建設や工場施設、社会制度や教育制度等々・・・充実した遺産を残し、韓国人も登用して政務を経験させ・・・韓国の戦後に大きく貢献していることは評価されるべきである。 若し日韓併合でなく、清、米、英、露・・・何れかの植民地になっていれば、それは先ず考え難い。



   4) * ≪その後の台湾≫

阿里山森林鉄道(沼平駅)
木材伐採用鉄道⇒現在は観光用
 ◆◇ 日本人の撤退
 台湾は、日清戦争後 日本に割譲され 50年間余り、日本の統治下にあった。
 その間に、鉄道は 全土に巡らされ、木材伐採用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラが整備され、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられた。 現地人には日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本の敗戦で、台湾(領土)は中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。


 ◆◇ 
中華民国 遷都;(蒋介石軍入城))

  しかしその直後、中国本土では、毛沢東軍が反乱を起こし、追撃された蒋介石政府≪中華民国政府≫が(三種の神器)を携えて逃避して来た。 そして、台北に ”国民党政府” を組閣した(1949)。 
 註※≪中華民国≫は、首都を台北に移転した形で国連常任理事国の資格は継続した。
  毛沢東軍は、 本土に《中華人民共和国》を建国したが、世界には承認されず、「反乱軍」に過ぎなかった。 しかし台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいた為だろう。
 蒋介石政府も、台湾で独立を宣言しなかったのは《本土に再入城すること》を考えたのではないか(?)・・・、

 結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は、現在も複雑な関係が続いている。

烏山頭水庫(ウサントウダム湖)灌漑用
ダム湖=建設;八田余市
  ◆◇ 蒋介石(国民党) 政府結成
 蒋介石軍は、外省人(中国本土から連れてきた側近)で 国民党政府を組閣した。
 それは、3~4年前まで(約50年間)、日本統治下で、日本国籍を得て過ごした台湾人(本省人)を、蒋介石軍(国民党政府)は受入れず、治安悪化や役人の不正等は、日本統治時代を経験した台湾人には耐え難かった。
  蒋介石は、特に日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、大量虐殺された(2.28事件)。 殺害された人数は、数万人と言われている。
 その後、李登輝政権が成立する(1988年)まで「戒厳令」が敷かれ、本格的な民主化の発足は、それ以降になった。
    ◆◇ 日本統治時代の遺産 ;
 台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代に施された教育や、各種制度やインフラ整備が大いに役立った。 それは(中国本土では毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何十年も先行して発展軌道に乗ることができた。
 しかし1972年、日本は、本土《中華人民共和国》 と国交正常化(台湾とは断交)し、国連の代表権も失った。 しかし親日関係は現在も親密に維持されている。
 ◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、国連代表権喪失  
   しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心で国交正常化交渉が行われ、日本は≪中華人民共和国≫を承認した。 多くの国もそれに続いて、国連の代表権は本土(中華人民共和国)に遷った。
 結果、台湾(中華民国)は、形式上、独立国でなく、日本とは「国交断絶」状態になっている。



  ■  私の歴史観
  * ≪ 日中、日韓の「反日感情 ≫について
 日本は、朝鮮半島、満州。台湾を植民地化し、中国本土にも支配を拡げていた。
 ①日本の植民地政策は、欧米の「奴隷制度」と異なり、現地人にも教育を施し、能力に応じて
  重要な職位も与えられた。
 ②日本軍は、鉄道始め都市建設などインフラ整備、銀行制度や教育制度・・・各種制度など、
  莫大の遺産を残し、戦後復興には極めて役立っている・・・。
 それにも拘わらず、朝鮮(韓国を含む)、中国(満州国~日中戦争)での「日本評」は極めて悪い。 それは戦後も尾を引いて、折角日本軍が遺した歴史的物件や遺構も多くは取壊されている。
  それついては私は、韓国に赴任時、聴いた話しは信憑性が高いと思っている。
 『日本統治時代の人種差別は耐えられなかった。 しかし日本兵は残酷で、危険作業や重労働も命令に従わざるを得なかった』 と。 それは満州でも同様だっただろう(?)
 しかし関東軍兵士たちは、本当に「残虐行為を働いたのか、どうか(?)、帰還兵や軍当事者は一切語らない(語れない)。 日本政府も加害の立場を明言しようとしない。 教科書も表面的な事実しか取上げられない。
 ところが、当時の経験者は 90歳を超え余命が悟られると、テレビドキュメンタリーで 『捕虜の扱いに困り、上官から処刑を命じられ・・・とか、樹に縛りつけて銃剣訓練の的に・・・とか、毒ガスで人体実験を・・・』とか、帰還後も一生をPTSDに翻弄される人や、「胸の中の呵責」にさいなまれ、告白する人の姿が痛ましい。
  * ≪ 日本政治家の靖国神社参拝 ≫
 食料も資源も労働力も乏しい日本が、現在、経済大国に成長し、豊かな生活ができるのは、戦死した兵士たちが外地で戦い、様々な糧をもたらした功績によることは間違いない。 その恩恵を被る後代の、私たちが『国の為に犠牲者になった「日本兵の英霊」に尊崇の誠・・・』を捧げることは当然だろう。
  しかし政治家の参拝は事情が異なる。 日本にとっての「功績者」は、相手国にとっては「殺人鬼」である。 しかし一般兵は犠牲者として同情できても、靖国神社には、戦争を指導した主役も合祀されている。 それも一方的に攻撃され犠牲になった「相手国の住民や兵士に対する
尊崇の念」など、心にあるのかどうか(?)
 勿論、現在の政治家に 「国家間の相互理解」など、臨む方が無理かも知れないが、「自国本意」の行動は慎むべきではないか(?)
  * ≪ 戦争兵士のトラウマ ≫  *** ある新聞投書から幾例かを要約 ***
 おやじは復員兵で骨の髄まで軍隊に染まっていたのでしょう。毎日酒浸りで、食事中も同じ説教を繰り返し、渡河作戦では戦友の遺体を踏んで・・・とか、中国のヤツらを何人切った、毒ガスで人体実験を・・・とかウメキ声で封印を発しながら恫喝的に吐き出す自慢話しに、家族は恐怖を感じていた。
 しかし死後になって気づくことは、おやじは過酷な戦場経験のトラウマに一生苦しんだ人だった。
戦後のギャップに順応できず、生きる目標を失って自殺した人も大勢いる。 戦争に行った人も、行かなかった人も、戦地から帰った人も帰れなかった人も、その家族も周りの人も皆な、戦争の被害を受けている人は大勢いる。 世界の誰もが戦争の悲惨さを分かっているのに、なぜなくならないのか・・・?
 



 日本と中国の近代歴史対比 
 ◆1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◇ 6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )