このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です
mail
更新; 2022/09
 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 ◇2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦 (満州国設立~日中戦争)  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

2.新制”中華民国” 日本、ソ連、欧米の攻防(1912~1928)

 ■ 清朝滅亡と、新制 『中華民国』 の誕生

 * ≪清朝滅亡と 皇帝
”溥儀”のその後≫
 
溥儀
   ◆◇ 溥儀;その後の生涯
 清朝は乱れに乱れ、遂に”孫文”らの蜂起軍に制覇されて幕を閉じた(辛亥革命=1911年)
 その際”溥儀” は 6歳だったが、側近たち(?千人)と共に 紫禁城に居住が許され、青年時代まで(約20年間)を過ごした。
 しかし側近たちは≪清朝再興≫に未練を残し(?)、溥儀を紫禁城に縛りつけた。
 ”溥儀”自身も、次第に ≪清朝再興、or皇帝の地位への愛着≫が芽生えて来たのか(?)、or 外界に憧れ(?)、それに関東軍が 誘いかけたか(?)・・・両親は強く反対だった様だが、関東軍と接近した。
   関東軍は、”溥儀”に 「清朝再興」を誘惑し、≪満州国皇帝≫に担ぎあげた。 しかし関東軍は、「清朝再興」など眼中になく、 『満州支配』する為のロボットとして利用された。
    (3.満州をめぐる攻防戦 参照)
  しかし関東軍(日本)が太平洋戦争に敗戦した為、溥儀は(日本への)亡命を試みたが、ソ連軍に捕まり、シベリアに抑留された。
 しかし東京裁判で、一時(東京に)送還されたが直ぐシベリアに戻され抑留された。 数年後、中国に送還されたが、中国法廷では、戦犯として更に10年間 撫順の収容所に収容された。 釈放後は一般市民の中で逃避する様に余生(数年)を送った。

故宮(紫禁城の一部)
 *≪紫禁城≫ 
  紫禁城は、「明」時代(1406年~1616年)に建設され、以後ずっと政治の中枢になった建物である。
 当時のものは焼失、後継の清王朝が再建し、清朝滅亡まで宮殿として皇帝の居住兼 政治舞台となった。
 清朝最後の皇帝;”溥儀””一族は、清朝滅亡(1911)後も 紫禁城内に居住が許され、1924年まで居住した。
 その後、1925に改装され、毛沢東は紫禁城の城門 ”天安門”で、”中華人民共和国”の建国宣言(1949年)をした。
 現在は”故宮博物院”になっている。



  ■ ≪中華民国(国民党政府)≫誕生とその後の興亡
 * ≪中華民国誕生  ーーー孫文と袁世凱ーーー
  話を戻す。 孫文らの革命運動は、遂に成功し清朝は滅亡した【辛亥革命】。
 孫文は、首都 を南京に置き、≪三民主義 (民族主義、民権主義、民生主義)≫を綱領とする
新制≪中華民国≫を建国した。 そして初代臨時大総統に就任した。

 しかし間もなく大総統の座を 袁世凱に譲った。 袁世凱は、清朝時代 西太后の下で軍事の全権を掌握し、辛亥革命直前まで 、孫文とは真っ向から敵対関係にあったが、大混乱の国内事情では、「軍」を掌握してきた彼が適材と見られたのだろうか・・・(?)

  ◆◇ ≪孫文≫と≪袁世凱≫の人物像
 ≪孫文≫は ハワイ育ちで、医学を志し かつては香港で開業医をしていた。 太っ腹で明るく、よく機転が効き、患者や地元社会にも好評だった様だ。 部下を引きつけ、面倒見も良く、友人・知人も多い。 国際情勢に明るい、比類の読書家、情報通で視野も広い・・・など好人物評の様だ。
    しかし≪袁世凱≫は 西太后の右腕として働く人物像が描かれている。 西太后の意に反する兆候を見つかれば・・・、時の皇帝 ”光緒帝”も密告され幽閉された。
 しかし西太后の没後、孫文らの改革派勢力が優勢になると、 孫文に与して清朝を倒す「引き金」を引いた。 孫文から大統領の座を引き継ぐと、日本軍に中国支配を認める 【21ヵ条要求】 (後述)を独断で批准してしまった・・・など、日和見的な印象が免れない。

 * ≪新制;中華民国を取り巻く 列強諸国の思惑

   ◆◇ ≪中国の無政府状態≫ (1915~1926)
 こうして新制 ”中華民国(中国)” が発足したが、海外諸国の対応は厳しかった。
   つまり
    ①
欧州諸国からは、『折衝に責任のもてる相手』という意味で 一定の評価もされていた様だが
    ②日本は、 しっかりした政府でなく、外部の言いなりになる政府を望んでいた・・・など。
 
    海外諸国の熾烈な対応に翻弄され、「統一政府不在」状態が 10年以上も続いた。
 
   ◆◇ ≪日本から 突きつけられた≪21ヵ条要求≫(1915年)
 その間、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、欧米軍は引揚げ、残った日本は 連合国側に属していたので、 敵対国ドイツの租借地だった≪山東半島・青島≫を占領した。
   更に、中国内の日本主権(つまり中国支配)を認めさせるなど≪21ヵ条要求を突きつけた
 中国には極めて屈辱的な要求だが、袁世凱(当時大総統)は独断で批准した。
 しかし彼は死去したが、中国内(五四運動=1919年)や、欧米列強からも強い「日本不信」を浴び、取下げられた。
 しかし袁世凱は、なぜそんな”売国奴” と言える批准をしたのだろう・・・??
日本軍の脅威に屈したか? 日本と組んで皇帝政治復活の下心か? それとも、日本軍の策略にハメられたのか?・・・その他、想像は様々だが・・・、しかしそれが日清・日露戦争を勝ち抜き勢いづく日本と、内憂外患続き(中国)との力関係だろう。
    ◆◇ ≪中国・満州を取り巻く情勢
  ①日本は、日露戦争に勝利し(1905) ”満州”に入城すると、「張作霖」(当時、満洲統治者)を
   利用しながら、満州内の開発や近代的都市建設など、「満州支配固め」を進めていた。
  ②一方、満州の影響力を失ったロシアは、ロシア革命により新制「ソビエト連邦」が成立(1917)し、
   毛沢東を支援して「中国共産党を創党(1921)し、満州・中国に侵出を計っていた。
  ③その頃、ヨーロッパでは、第一次世界大戦が勃発し、
   ◇敵対国;ドイツの租借地になっていた≪山東半島や青島≫を、日本が占領した。
   ◇一旦、中国から退いていた欧米各国軍が、(終戦後)戻って来て、再び不条理な侵攻が
    を繰返された。
     ◆◇ ≪国際連盟設立≫ 1920年(大正9年)
 戦争に敗れると多額の賠償が課せられる。 それは、以前 ”弱肉強食”時代から慣例だったが、ヨーロッパで勃発した第一次世界大戦(1914~18)は、≪(英・仏・露) 対 (独・奥)≫の勢力がぶつかり合い、過去に例のない大規模被害となった。 その反省から、国際連盟が設立された(1920)。
   それは違法な武力行使国(違反国)には、集団的経済政策や 軍事制裁が定められ、日本は消極的だった。 しかし 『山東半島における日本の権益』 が認められたので加盟し、【常任理事国】 に昇格し中核的な役割を担った。 日本はヨーロッパから離れているので 『ヨーロッパ諸国間の紛争に第三者の立場で調停できる』 ことが期待された。



  ≪「新制国民党政府;(蒋介石政府)」の再出発 ≫
   ◆◇ 第一次国共合作 (1926=昭和元年) 
  こうして内憂外患状態の中華民国だったが、孫文は改めて≪国民党政府≫を樹立した。 それには共産党を容認し、共産党員と国民党員が共同して、外国勢に対抗する≪国共合作≫を画策した。
 しかし孫文は途中で(1925)死去し、蒋介石が引き継いで(共産党;毛沢東軍と組んで)首都を南京に置いた(1927年)。 この「蒋介石政府」は 『
南京政府』とも呼ばれる。


  【新制国民党政府】 ;しかし 『ヨチヨチ歩きの政府』に対し、百戦錬磨の日本や列強諸国の思惑は次の様な構図になっていた。 
 新制「国民党政府(蒋介石政府)」に対する列強各国や日本の思惑
◇国民党(蒋介石)政府 満州を含む中国全土の統一(日本・張作霖軍閥から満洲奪還)
◇イギリス、フランス 経済利益を求め=商圏拡大、租借・半植民地化の拡大
◇アメリカ 中国の資源などを求め、商圏拡大
◇ソ連・中国共産党
 (毛沢東軍閥)
改めて 満州奪還、中国への侵出の機会を伺う
◇日 本 満州領有、傀儡国家「満州国」の樹立

  ◆◇≪第一次南京事件(1927)≫
     注)これは後に起こる≪南京大虐殺≫とは別事件である、混同しない様。
 第一次世界大戦勃発により、一旦、中国から退いていた欧米各国軍が戻ってきた。 そして再び不条理な侵攻を繰返す様になると、「外国人排斥運動」が激化し、日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの領事館を 襲撃する事件が起こった。 それが第一次南京事件である。
   各国は軍事力で弾圧したが、日本は、抗日運動が、他の外国人に対するよりも一段と激しかった為、更なる激化を警戒し、無抵抗主義を貫いた。
 しかし襲撃は無抵抗の日本人を集中的に襲い、略奪、暴行、強姦、殺戮・・・等を働いた。 それに日本国内の世論は激怒し日中間は一層 険悪になった。
  ◆◇≪新制「蒋介石政府」の「北伐」 と、関東軍の満州支配≫
 
やっと体制が整った「蒋介石政府」だったが、この事件(第一次南京事件)で被害を受けた諸国から法外な賠償を要求される「外患」状態に陥った。
 しかしこれは、ソ連(スターリン)が(⇒中国共産党)に働きかけていたことが判明すると、蒋介石政府は、国共合作を破棄し、中国全土統一を目指して「北伐軍」を派遣し、共産党軍及び張作霖軍閥掃討を計った。
   ◆◇ ≪満州領有化を進める日本 ≫
  満州は、中国(旧清国)の領土だったが、日露戦争(1905年)に勝利した日本は、敗残兵を追って入城した。 見渡す限り肥沃な荒野は、真に食糧の宝庫であり、石炭など豊富な資源・・・等々も豊富で・・・、勢いに乗る「日本」にとっては、絶対に確保すべき領土となっていた。
 そうして、満州を統治していた「張作霖」軍閥も利用しながら、鉄道建設やインフラ整備など、近代的な都市国家建設を進めていた。
 ◆◇ ≪張作霖爆殺事件 ≫
  しかしそれから20年も経てば、「都市国家建設」は着々進み・・・、しかし張作霖はロシアや欧米勢力と接近し、(日本に)非協力的になっていた、
 そこに新制「中国(蒋介石)政府」の「北伐軍」派遣により、張作霖は中国(北京)から追われ本拠地満州に逃避を計った。 
 それに対し関東軍は、張作霖の乗る列車爆破により「爆殺」し(1928)、満州統治権を奪取した。 
 「張作霖爆殺事件」は、関東軍将校たちが、独断で実行した事件だが・・・、日本政府は追認せざるを得ず、昭和天皇回顧録は《軍部独断専行》の始まりと述懐されていた。
関東軍に爆破された張作霖の専用車
関東軍に爆破された張作霖の専用車
   注)※ 張作霖(1875-1928)
清朝(西太后)時代、満州の統治は、張作霖”軍閥に丸投げ状態だった。 それは満州に入城した日本軍(関東軍)も、満州内の鎮静化に彼を利用していた。
 しかしその後20年経ると、満州は事実上「関東軍の支配状態」になっていたが、彼は日本にとって非協力的になり、ソ連や欧米にも接近し勢力を伸ばす動きを見せていた。
 それは、中国全土(満州を含む)統治を目指す蒋介石軍にも、傀儡国家「満州国」建設を目指す日本にも不都合な存在になっていた。 



    ≪満州を巡る興亡 ≫
  張作霖爆殺事件後、関東軍による「統治」は、満州全土で「反日・抗日の嵐」が巻き起こり、それは益々激化し嫌日事件は絶えなくなった。
 
 ◆◇≪柳条湖事件 ~ 満洲事変≫ (1931=昭和6年)
  そこで関東軍参謀;石原莞爾は、奉天郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を故意に爆破した。 そして間髪入れず『中国側(張学良ら)による破壊工作だ
!!』と断定して、直ちに現場近くの中国軍兵営を占拠し、翌日には奉天、長春、営口の各都市も占領した。
 奉天市内では爆弾を投げ込み、(それも中国人の仕業として)ハルピンにも出兵口実を作り・・・、そんな手口で攻撃を繰返しわずか5ヶ月で全満州全土を制圧する希代稀な大成功を治めた(=満州事変) 。
 当時、日本政府は、一貫して戦争不拡大方針を掲げて国際外交を進めていた。
 しかし、(満州事変は)関東軍が独断で起こした≪でっち上げ事件≫だったが、日本政府の立場は、"軍"
を擁護せざるを得ず、軍部独走が常態化し、政府は管理能力を失っていった。
 
  ◆◇≪第一次上海事変(1932-1)≫
    注);「上海事変」は、1932年の第一次と、1937年の第二次 がある。
ここは第一次を指す。
 「満州事変」の 露骨な侵略は、中国全土に大規模な抗日運動を呼び起こし、それは世界からも日本非難の目が注がれた。 そこで関東軍は、世界の目を反らす為、次の事件を工作した。
 上海駐留の田中義一の愛人(川島芳子)は、中国人の殺し屋を雇い、上海の街を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。 つまり中国人が、日本人僧侶を殺害する事件を工作した。
 それに日本人居留民は、(中国人への)怒りを爆発させてあちこちで暴力事件が発生した。
 それに対し(中国側)上海工部局が 19路軍を出動させると、(日本側も) 海軍陸戦隊を出動させて戦闘状態になった。
 それには、日本は内地からも派遣部隊を増派し、思いがけない大規模戦闘になった。
 日本は更に増援部隊を送り、約 1カ月間 戦闘状態が続いた挙句、その後もすったもんだで長引かせ、やっと5月5日に停戦協定を成立させた。
   その間に、関東軍は満州の占領固めをし、 『満州は、 国民党政府との関係を離脱し独立せり』 と、≪満州国建国≫を宣言した。
  注1) * 『○○事変』とか、『○○事件』とか・・・の意味
『事件』とか『事変』は≪局地的な抗争≫の意味である。 敢えて 『戦争』と呼ばず、『○○事変』とか、『○○事件』と呼び、日本は宣戦布告は一切しなかった。 世界には≪局地的な抗争≫と説明し、無用な妨害や干渉がされない配慮をした。
日中間は事実上 戦争状態になったとは言え、≪国家対国家≫の全面的な対決にはならなかった。  国交も断絶はしないで、中国国内に在留邦人は堂々と居住し、領事館も両国におかれていた。
 注2) * 『関東軍』 の意味
 中国本土は、外敵を防ぐ目的で≪万里の長城≫が築かれているが、長城には要所々々に関所が設けられている。 満州は、長城の外部、東北部にある。
つまり、日本の満州軍は 『
所の北部に駐留する部隊』という意味で、関東軍と呼ばれた。



   私の歴史観

 * 西太后時代以降; 【政治的貧困と苦悩】の連鎖
 
  ようやく 孫文らの辛亥革命が成功した。 しかし 『新制中華民国』発足に世界状勢は険しかった。 ”蒋介石” 率いるヨチヨチ歩きの政府に、百戦錬磨の欧米諸国や、とりわけ日本の野望は厳しく襲いかかった。 それには、中国民衆も各地で「外国人排斥運動」の反乱軍が蜂起した。 しかし外国勢の武力には勝てる筈もなく、その度に(外国勢は)凶悪化した。 中でも日本は、日露戦争に勝利すると、満州に居座り武力で支配した。
   中国本土で、イギリスは香港を、ポルトガルはマカオを【租借地】とし、それ以外の各国も上海・南京・等に思いのまま【租界地】を設けていた・・・。
 ソ連;スターリンは、張作霖や毛沢東、金日成などの軍閥を指導し、中国、朝鮮へ侵出を狙っていた。 毛沢東軍は、一時的に 蒋介石軍と協調する場面もあったが基本的に蒋介石の足を引っ張っていた。
 しかし日本は、満州支配を固めるにつれ、反日・抗日の嵐は中国全土に波及し、居留邦人を守るには、更に武力行使が必要になり、その循環で、遂には、中国全土攻略を目指すにハメになった。
 しかしそれは、清国(中国)が餌食となり、(日本も含め)世界各国が 「獲物に群がる野獣の如く」 我先に集結した結果であり、それは、蒋介石政府の無力と言うより ”西太后時代” の【政治的立遅れのツケ】 が尾を引いたと見るべきだろう。 
 ”西太后”については、豪奢、贅沢、残虐などが語られている。
 しかし政治的素養について、当時の保守思想の下では、 『既存の政権や制度の存続が絶対条件』 だから、≪滅亡寸前だった清朝≫を半世紀近くも延命したことは功績としても、彼女は強権を駆使し献策する人も制止する人もいない。 そんな政権が半世紀も続いたところに最大の問題がある。
 それに比し、日本は、「盤石な基盤の上に築かれていた”江戸幕府” を、無血開城に追い込んだ」明治維新改革 は、史上極めて稀な大偉業と言える。
 日本の明治時代と、清国の西太后時代は、ほぼ同時期に 全く対照的な歴史的経緯を辿った。
 それが日中間の近代史の分かれ道で、負
の連鎖は、『100年経た最近まで尾を引いている  !! 』。■
   3.満州をめぐる攻防戦(満州国樹立~日中戦争) (1928~1934)



 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 ◇2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦 (満州国樹立 ~日中戦争) (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )