このページは、『個人的な想像等を含めて ”歴史”を考える』のが目的です。
あくまで私個人の歴史観なので、真相判断は読者側で願います。


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡    (1840〜1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防   (1911〜1928)
 3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立   (1928〜1934)
 ◆4.日中全面戦争突入        (1934〜1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国   (1940〜    )



2.新制”中華民国” に対する 日本、ソ連、欧米の攻防 (1912〜1928)

 ■ 清朝滅亡と、新制 『中華民国』 の誕生

 * ≪清朝滅亡と 皇帝”溥儀”のその後≫
 その頃、清朝は乱れに乱れ皇帝は強権を失っていた。 そして遂に
”孫文”らの蜂起軍に制覇され(辛亥革命)滅亡した(1911年)。 それにより”溥儀”は退位して一般国民となった。

 


溥儀
(From Wikipedia)

  ◆溥儀;その後の生涯
  話は少し脱線するが、”溥儀”のその後の生涯について少し触れておくと;
 清朝滅亡時、”溥儀” は 6歳だったが、側近たち(?千人)と共に引続き 紫禁城への居住は許された。 そして青年時代まで過ごすが、側近たちは溥儀を 紫禁城に縛りつけて、≪清朝再興≫に未練を残した。
 ”溥儀”自身も次第に ≪清朝再興、皇帝の地位 !?≫という・・・
そんな意識が強く芽生えて来たのだろう。
 それは ”溥儀” の自発的な意志か、それとも関東軍の誘惑か?、脅迫か?・・・ともかく関東軍と接近した。 両親は強く反対だった様だが・・・、結果は巧みに利用される運命に引き込まれた。 (次ページ ”満州国の樹立” 参照)

 注)関東軍とは; 満州に侵出した日本軍の呼び名である。 万里の長城には関所が設けられていて、満州はその東側に当たるので、関東軍と呼ばれた。

  関東軍は、”溥儀”に 清朝再興の夢をちらつかせ、≪満州国皇帝≫に担ぎあげた。 そして彼は
≪満州国皇帝≫に就任するが、それは関東軍の策略に過ぎず、何の裁量権も与えられなかった。 況や≪清朝再興など・・・≫関東軍が 考える筈もない・・・。
 結局彼は、関東軍のロボットになって
『大勢の中国(満州)人を欺く為に』 利用された。 太平洋戦争終了時、日本へ亡命途中でソ連軍に捕まり溥儀はシベリアに抑留された。 数年後に中国に送還されたが、中国法廷で戦犯として更に10年間 撫順の収容所に収容された。 釈放後は一般市民の中で逃避する様にして余生(数年)を過ごした。


 * ≪中華民国(国民政府)≫の誕生  ーーー孫文と袁世凱ーーー
  話を元に戻す。 孫文らは、命がけの改革【辛亥革命】を漸く成功させ、清朝は滅亡した。 そして≪三民主義 (民族主義、民権主義、民生主義)≫を綱領とする
新制≪中華民国≫を建国、首都 を南京に置いた(1912. 1)。

 そして初代臨時大総統には ”孫文” が就任した。 しかし間もなく大総統の座を 袁世凱に譲った。
 袁世凱は、清朝時代 西太后の下で軍事の全権を握っており、辛亥革命直前まで 孫文らとは完全に敵対していた。 それでも大混乱の国内事情では、軍隊を支配してきた彼が適任と判断したのだろうか(想像)・・
・!?。 

  ◆≪孫文≫と≪袁世凱≫の人物像
≪孫文≫は ハワイ育ちで、医学を志しかつては香港で開業医をしていた。 太っ腹で明るく、よく機転が効き、患者や地元社会にも好評だった様だ。 部下を引きつけ、面倒見も良く、友人・知人も多い。  国際情勢に明るい、比類の読書家、情報通で視野も広い・・・など中々の好人物だった様だ。

しかし
≪袁世凱≫は 西太后の下で甘い汁を吸う人物像が想像される。 西太后の意向に反する行為を見つければ直ちに密告した。 時の皇帝 ”光緒帝”が改革派に傾く動きも彼が密告し、光緒帝は幽閉された。
 西太后の没後、孫文らの改革派が優勢になると、 孫文に与して清朝倒し(倒清)に力を貸した。 そして孫文から大統領の地位を引き継ぐと、日本軍に近づいて売国奴的 【21ヵ条要求】 に批准してしまった・・・そんな日和見的、姑息な・・・人物像が想像される。


 * ≪新制;中華民国を取り巻く 列強諸国の
  こうして 新制 ”中華民国(中国)” が発足したが、海外諸国の対応は熾烈だった。
  *新制(中国政府)に対する 諸外国の思惑
 欧州諸国は、『折衝が出来る、約束が守られる中国政府』という意味で 一定の評価をしていた。 
しかし、日本は (自分の主張を通すには) しっかりした政府は必要なかった。 最後まで強くならない様に阻止や侵略を緩めなかった。
  *満州侵出に対する ロシア(ソ連)と日本の関係
 日本は、期せずして日露戦争に勝利すると ”満州占領”を堅固にし、軍国化に弾みをつけた。
ロシアは、(国力増強・アジア進出の為には)満州を諦め切れなかった。 日露戦争敗戦後も、(満州では張作霖や毛沢東)、(朝鮮半島では金日成)を支援して奪還を目指した。 その為、ソ満国境ではソ連軍と関東軍の小競り合いが絶えなかった。
  *満州軍閥(張作霖等)に対する、 中華民国と 日本の関係
 清朝末期、政府の体を成さない状態が半世紀も続くと、満州は事実上 ”張作霖等の支配状態” になっていた。 しかも彼らはロシアの支援を受け住民の評判も良かった・・・。
 しかし蒋介石率いる中国政府は 【満州を含めた全中国統一を・・・】、日本は【満州占領を・・・】目指した為、双方が張作霖掃討策戦を実行した。
 しかし中国と日本は、その後の満州統治を巡っては 自ずと敵対する運命になっていた。


 * ≪日本から 突きつけられた≪21ヵ条要求

 その頃、ヨーロッパでは第一次世界大戦が勃発し、欧州勢力の侵入は下火になった。 そうなると、俄然、勢いづいたのは日本軍だった。 早速、中華民国に
【21ヵ条要求】を突きつけた(1915年)。
それは、≪中国国土内で 日本の主権を認める・・・≫、つまり『日本が中国を植民地化し利権を得ること』を公然と要求するもので、中国にとっては極めて屈辱的な要求だった・・
・!?
 所が、袁世凱(当時;大総統)は、それを独断で批准してしまった。
袁世凱がどう考えてそんな
”売国奴要求” に軽々と批准してしまったのだろうか・・・??
彼は
@清朝(or皇帝政治)を復活を考えて?or 自ら皇帝の座に着く為に?日本と組もうとしたのか?・・・、Aそれとも日本軍の策略にハメられたのか?・・・、Bまたは日本軍に脅迫されたのか?・・・何れにしても、彼は日本軍にとっては恰好の人物だった。
 勿論、これは中国国内は猛反発して、≪倒 ”袁世凱”運動≫が起こり、同年6月に病死した。
その後、≪21ヵ条要求の廃棄≫を求めて五四運動(1919年)等が頻繁に起こった。 しかし軍事力も政治力も段違いの日本が応じる筈がない。 日本は ≪中国領土侵略の出発点≫にしていった。





 ■  国際連盟設立 1920

 この頃、ヨーロッパでは第一次大戦(1914〜18)が勃発した。 ≪英・仏・露 独・奥≫両帝国主義の勢力争いからの勃発だが、過去に例のない広範囲の世界を巻き込む大規模被害を招いた。 その反省から、国際連盟が設立された(1920)。
 それには違法な武力行使国(違反国)に対し、集団的経済政策と軍事制裁が規定され、日本は消極的だった。 しかし国際連盟が 『山東半島における日本の権益を認めた』 ので加盟した。 そして【常任理事国】 に昇格し中核的な役割を担った。
それは、日本はヨーロッパから離れているので 『ヨーロッパ諸国間の紛争には第三者として調停できる』 と評価されていた為である。




 ■ 国民党 『蒋介石政権』 の誕生と興亡

 * ≪中国の無政府状態(1915〜1926)と 中国共産党創党(1917)≫
 袁世凱の死後、満州では日本軍は強引に武力侵略を繰り返し、中国本土では欧米各国が不条理な行動を繰り返し・・・、それに対し中国人の反乱軍も群雄割拠した。 それは中国政府では収拾ができず、「統一政府不在」という状態」が10年以上も続いた。
 その間に ロシアでは、ロシア革命が起こり、新制 『ソビエト連邦』が建国(1917年)された。 そしてスターリンは、満州へ再侵攻を目論んで??、
毛沢東らを指揮して 『中国共産党』を創党(1921年)した。


 *≪革命政府樹立 ⇒ 第一次国共合作へ(1926=昭和元年)≫
 しかし”無政府状態”を看過できない孫文は、改めて≪国民党≫を結成し革命政府を樹立した。 そして孫文は、外国勢に対抗するには、共産党を容認して共産党員と国民党員が共同で、国内統一強化策≪
第一次国共合作≫を画策した。
しかし、孫文は途中で死去し蒋介石が国民党の首領になった。 蒋介石軍は孫文を引き継ぎ(共産党と組んで)首都を南京に移した(1927年)。 この蒋介石政府は 『南京政府』とよばれる。


 *
第一次南京事件(1927)と、共産党を掃討する運動≫
 【第一次南京事件】;
 これは後に起こる≪南京大虐殺≫とは別事件である、混同しない様に断っておく。
第一次世界大戦時、一旦退いていた欧米各国も、再び中国に戻ってきた。 そして再び、不条理な行動を繰り返す様になると、中国各地で外国人排斥運動≪排外運動≫が激化し、日本、イギリス、イタリア、フランス、アメリカの領事館が 襲撃されるという事件が勃発した。 第一次南京事件である
 この時、各国は軍事力で弾圧したが、日本は無抵抗主義を通した。 当時、抗日運動は、諸外国人排斥運動よりも一段と激しかったので、抗日運動が更に激化するのを警戒した為である。 しかし襲撃軍は無抵抗の日本人を集中的に襲い、略奪、暴行、強姦、殺戮・・・等を働いた。 それに日本の国内世論は猛反発し日中間は一層 険悪になった。
 しかし、この事件は ソ連(スターリン)が、”張作霖”軍閥(共産党)に働きかけて起こした事件と分かったが、中国(蒋介石)政府は、被害を受けた諸国から法外な賠償が要求された。
 つまり ”張作霖” は満州住民からの強い支持を受けていたので利用価値があったが、ソ連の支援を受けて満州を独占支配する動きと見られたので共産党敵視に反転した。 張作霖(共産党)が不都合なことは、満州領有を目指す関東軍にとっても同様だった。

 *≪蒋介石軍の北伐 ⇒ 南京政府による全国統一
 斯くして、蒋介石(南京政府)は、スタート直後から共産党(張作霖)に裏切られ、内憂外患状態で 『共産党掃討策戦』 に踏み切った。 共産党(張作霖)の本拠地が満州(中国東北部)だから北伐』と呼ばれる。
 蒋介石は1928年4月 ≪北伐≫を開始し、張作霖軍を北京から撤退させた。
 その後関東軍は張作霖の乗る列車を鉄道爆破して爆殺した。
これにより蒋介石軍は北伐を完了し、正式に南京を首都とする【国民党政府】を発足して、中国全土の統一に乗り出した。
関東軍に爆破された張作霖の専用車
関東軍に爆破された張作霖の専用車
( フリー百科事典『ウィキペディア)
   注) 張作霖
清朝時代、満州の地は殆ど国家統治がなされていなかった・・・。 その時、民衆にとって最も頼りにできたのは ”張作霖”軍閥だった。 
 蒋介石も 日本軍も、満州内の混乱平定に彼を利用していた。 しかし張作霖はソ連の支援を受け、満州の地で民衆を味方にして頭角を現し、欧米にも利用され、権益を追って動く様になると、中国統一を計る蒋介石にも、満州を領有しようとする日本にも、不都合な存在になっていた。

 *≪国民党政府に対する列強各国の思惑
  時に、1928年(=昭和3年)、
【国民党政府】が成立したと言っても、それは『ガタガタの国内情勢にヨチヨチ歩きの政府』が、百戦錬磨の列強諸国と対抗しようという構図だった。
 中国国民党政府、および列強各国や日本の思惑は、

  *国民党政府 ・・・ ; 反乱軍閥(張作霖)を殲滅し、満州を含む中国統一を計ろうとする。

 *イギリス、フランス・・ ; 経済利益を求め=商圏拡大、租借・半植民地化拡大を目指す。
  *アメリカ  ・・・・・・・ ; 中国の資源などを求め、商圏拡大を目指す。
  *ロシア ・・・・・・・・・ ; 満州を支配し、不凍港(旅順、大連)を獲得し、アジア進出を
                  計る(軍事的、経済的目的)。
 *ソ連 ・・・・・・ ; 日露戦争に敗退するも、再度奪還の機会を伺っていた。
  *日  本 ・・・・・・ ; 満州占領(=満州国の設立)、国民党政府を倒し中国本土も
                 支配する野望があった。

 注目すべきは、中国侵略の最凶悪国は、 アヘン戦争(1840年)以来ず〜っとイギリスだった。 しかし、1914年に、第一次世界大戦が勃発すると、欧米諸国は主力を撤退した。
 その結果、その以後は名実とも、
日本が最凶悪国に替わり、しかし満州安泰確保の為には、中国全土の反日・抗日運動の鎮静化、蒋介石軍の殲滅を目指して軍事侵略の矛先を緩めることができなかった。



   感 想 (私の歴史観)

 ■  【政治的貧困と苦悩】の 歴史的連鎖
 孫文らの辛亥革命は 漸く成功したが、世界状勢に乗り遅れて 『新制中国維新』を発足するのは険しかった。  ”蒋介石” 率いるヨチヨチ歩きの≪新制 中華民国≫に対し、百戦錬磨の欧米諸国、とりわけ日本の野望は情け容赦なく襲いかかった。

 それに対し、中国民衆は至る所で反乱軍を旗揚げし外国人排斥運動を起こしたが、武器をもつ外国勢に勝てる筈もなく、衝突の度に、外国勢は益々凶悪化していった。
 中でも日本は、日露戦争に勝利すると、軍事力に任せて満州支配を日毎に強化し、更に上海、南京にも攻略の矛先を延ばした。 それに対し蒋介石軍は敗走を続け、日本軍はそれを追って本土の奥深くまで侵攻した。  その先々で、農民や住民に変装して襲いかかる兵士と、一般住民は区別ができず、無差別大量殺戮を繰り返した(南京大虐殺事件である)。 以後、敗走する《蒋介石軍の殲滅(=中国本土支配)》を目指して、中国本土に深くまで侵攻した(日中戦争)。 そしてその度に勝利の報が日本国内にもたらされ、国中は大々的に沸きたった。
 
 イギリスは香港、ポルトガルはマカオを【租借地】とし、それ以外の各国も上海・南京・等に思いのまま【租界地】を設けていた・・・。
 ソ連も スターリンは、張作霖や毛沢東、金日成などの軍閥を 巧みに指揮し、中国、朝鮮への侵出チャンスを伺った。 彼らは蒋介石軍と一時的に協調する場面もあったが、基本的に蒋介石の足を引っ張った。
最後は(太平洋戦争終了後)、毛沢東軍は 蒋介石軍を攻略して中国全土を支配した。

 しかしこの一連の流れは、蒋介石政府の無力と言うよりも ”西太后時代” までの政治・軍事・その他、あらゆる面での停滞が発端となって、時代の流れに翻弄された結果と考えるべきだろう。
 弱強食時代にはそんな事情はお構いなく、日本も、ソ連も、欧米も、獲物をむさぼる様に侵攻した。
つまり、『
政治の貧困は、100年経ても 連鎖が断ち切れない・・・・・』。

 ”西太后”について小説やドラマなどでは、彼女の豪奢、贅沢、残虐、・・・などが印象に残る。
 しかし政治的印象は殆ど残らない。 しかし『≪滅亡寸前の清朝≫を、半世紀も存続(延命)させたのは大きな偉業』と見るべきせはないか・・・?。
 それは保守思考の下では、幾ら問題があっても『既存の政権や制度をぶっ壊す』 という選択肢はあり得ない。既存状態の存続を死守しようとするのは極めて当然である。 しかし並みの人はそれができない。

 その逆のケースは、盤石な基盤上にあった”江戸幕府” を倒幕に追い込んだ ”
明治維新改革” は、世界史上極めて奇跡中の奇跡である。
何処の世界も、過去からの流れがあるから、簡単に改革は起らない。
しかし、それが一挙に明治維新の(革命と言うべき)大改革が成った日本と西太后中国は、ほぼ同時期に 『180度 真逆の奇跡が起った』 という極めて対照関係になった。 それが日中間の近代史の分かれ目だったと言えよう。

 しかし真の 『
分かれ道』 は、西太后以前(1800年頃)、”大清帝国” という世界に名だたる超大国に伸し上がった直後にある。 皇帝や官僚たちの奢りや、政治腐敗が蔓延し、産業革命という世界の動きを見ようとしなかった・・・。 それが諸外国から侵略される原因になった。 一度踏み外した歴史は連鎖となって、新政権に移行しても結局改革はできないまま、『200年経った今でも尾を引いている・・・ !! 』
・・・現在の中国と日本の近代史からは、そんな教訓を読み取らねばならない。■

  
この続き 3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立(1928〜1934)



 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡    (1840〜1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防   (1911〜1928)
 3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928〜1934)
 ◆4.日中全面戦争突入             (1934〜1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国   (1940〜   )