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| このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です |
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| 2.新制”中華民国” 対 日本、ソ連、欧米の攻防(1912~1928) |
| ■ 清朝滅亡と、新制 『中華民国』 の誕生 * ≪清朝滅亡と 皇帝”溥儀”のその後≫
その際”溥儀” は 6歳だったが、側近たち(?千人)と共に 紫禁城に居住が許され、青年時代まで(約20年間)を過ごした。 しかし側近たちは≪清朝再興≫に未練を残し(?)、溥儀を紫禁城に縛りつけた。 ”溥儀”自身も、次第に ≪清朝再興、or皇帝の地位への愛着≫が芽生えて来たのか(?)、or 外界に憧れ(?)、それに関東軍が 誘いかけたか(?)・・・両親は強く反対だった様だが、関東軍と接近した。 |
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| 関東軍は、”溥儀”に 「清朝再興」を誘惑し、≪満州国皇帝≫に担ぎあげた。 しかし関東軍は、「清朝再興」など眼中になく、 『満州支配』する為のロボットとして利用された。 ( |
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| しかし東京裁判で、一時(東京に)送還されたが直ぐシベリアに戻され抑留された。 数年後、中国に送還されたが、中国法廷では、戦犯として更に10年間 撫順の収容所に収容された。 釈放後は一般市民の中で逃避する様に余生(数年)を送った。 |
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| ■ ≪中華民国(国民党政府)≫誕生とその後の興亡 |
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| * ≪中華民国誕生≫ ーーー孫文と袁世凱ーーー 孫文は、首都 を南京に置き、≪三民主義 (民族主義、民権主義、民生主義)≫を綱領とする 新制≪中華民国≫を建国した。 そして初代臨時大総統に就任した。 しかし間もなく大総統の座を 袁世凱に譲った。 袁世凱は、清朝時代 西太后の下で軍事の全権を掌握し、辛亥革命直前まで 、孫文とは真っ向から敵対関係にあったが、大混乱の国内事情では、「軍」を掌握してきた彼が適材と見られたのだろうか・・・(?) |
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* ≪新制;中華民国を取り巻く 列強諸国の思惑≫ ◆◇ ≪中国の無政府状態≫ (1915~1926) つまり ①欧州諸国からは、『折衝に責任のもてる相手』という意味で 一定の評価もされていた様だが ②日本は、 しっかりした政府でなく、外部の言いなりになる政府を望んでいた・・・など。 |
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| 海外諸国の熾烈な対応に翻弄され、「統一政府不在」状態が 10年以上も続いた。 | ||||||
| ◆◇ ≪日本から 突きつけられた≪21ヵ条要求≫(1915年) |
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更に、②中国内の日本主権(つまり中国支配)を認めさせるなど≪21ヵ条要求≫を突きつけた。 中国には極めて屈辱的な要求だが、袁世凱(当時大総統)は独断で批准した。 しかし彼は死去したが、中国内(五四運動=1919年)や、欧米列強からも強い「日本不信」を浴び、取下げられた。 |
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| ◆◇ ≪中国・満州を取り巻く情勢≫ ①日本は、日露戦争に勝利し(1905) ”満州”に入城すると、「張作霖」(当時、満洲統治者)を 利用しながら、満州内の開発や近代的都市建設など、「満州支配固め」を進めていた。 ②一方、満州の影響力を失ったロシアは、ロシア革命により新制「ソビエト連邦」が成立(1917)し、 毛沢東を支援して「中国共産党を創党(1921)し、満州・中国に侵出を計っていた。 ③その頃、ヨーロッパでは、第一次世界大戦が勃発し、 ◇敵対国;ドイツの租借地になっていた≪山東半島や青島≫を、日本が占領した。 ◇一旦、中国から退いていた欧米各国軍が、(終戦後)戻って来て、再び不条理な侵攻が を繰返された。 |
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| ◆◇ ≪国際連盟設立≫ 1920年(大正9年) |
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| それは違法な武力行使国(違反国)には、集団的経済政策や 軍事制裁が定められ、日本は消極的だった。 しかし 『山東半島における日本の権益』 が認められたので加盟し、【常任理事国】 に昇格し中核的な役割を担った。 日本はヨーロッパから離れているので 『ヨーロッパ諸国間の紛争に第三者の立場で調停できる』 ことが期待された。 | ||||||
| ■ ≪「新制国民党政府;(蒋介石政府)」の再出発 ≫ | ||||||||||
| ◆◇ 第一次国共合作 (1926=昭和元年) しかし孫文は途中で(1925)死去し、蒋介石が引き継いで(共産党;毛沢東軍と組んで)首都を南京に置いた(1927年)。 この「蒋介石政府」は 『南京政府』とも呼ばれる。 |
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新制「国民党政府(蒋介石政府)」に対する列強各国や日本の思惑
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◆◇≪第一次南京事件(1927)≫ 注)これは後に起こる≪南京大虐殺≫とは別事件である、混同しない様。 |
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| 各国は軍事力で弾圧したが、日本は、抗日運動が、他の外国人に対するよりも一段と激しかった為、更なる激化を警戒し、無抵抗主義を貫いた。 しかし襲撃は無抵抗の日本人を集中的に襲い、略奪、暴行、強姦、殺戮・・・等を働いた。 それに日本国内の世論は激怒し日中間は一層 険悪になった。 |
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| ◆◇≪新制「蒋介石政府」の「北伐」 と、関東軍の満州支配≫ しかしこれは、ソ連(スターリン)が(⇒中国共産党)に働きかけていたことが判明すると、蒋介石政府は、国共合作を破棄し、中国全土統一を目指して「北伐軍」を派遣し、共産党軍及び張作霖軍閥掃討を計った。 |
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| ◆◇ ≪満州領有化を進める日本 ≫ そうして、満州を統治していた「張作霖」軍閥も利用しながら、鉄道建設やインフラ整備など、近代的な都市国家建設を進めていた。 |
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| ■ ≪満州を巡る興亡 ≫ ◆◇≪柳条湖事件 ~ 満洲事変≫ (1931=昭和6年) 奉天市内では爆弾を投げ込み、(それも中国人の仕業として)ハルピンにも出兵口実を作り・・・、そんな手口で攻撃を繰返しわずか5ヶ月で全満州全土を制圧する希代稀な大成功を治めた(=満州事変) 。 |
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しかし、(満州事変は)関東軍が独断で起こした≪でっち上げ事件≫だったが、日本政府の立場は、"軍" を擁護せざるを得ず、軍部独走が常態化し、政府は管理能力を失っていった。 |
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| ◆◇≪第一次上海事変(1932-1)≫ 注);「上海事変」は、1932年の第一次と、1937年の第二次 がある。ここは第一次を指す。 |
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| ■ 私の歴史観 * 西太后時代以降; 【政治的貧困と苦悩】の連鎖 |
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ソ連;スターリンは、張作霖や毛沢東、金日成などの軍閥を指導し、中国、朝鮮へ侵出を狙っていた。 毛沢東軍は、一時的に 蒋介石軍と協調する場面もあったが基本的に蒋介石の足を引っ張っていた。 |
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しかしそれは、清国(中国)が餌食となり、(日本も含め)世界各国が 「獲物に群がる野獣の如く」 我先に集結した結果であり、それは、蒋介石政府の無力と言うより ”西太后時代” の【政治的立遅れのツケ】 が尾を引いたと見るべきだろう。 |
| しかし政治的素養について、当時の保守思想の下では、 『既存の政権や制度の存続が絶対条件』 だから、≪滅亡寸前だった清朝≫を半世紀近くも延命したことは功績としても、彼女は強権を駆使し献策する人も制止する人もいない。 そんな政権が半世紀も続いたところに最大の問題がある。 |
| それに比し、日本は、「盤石な基盤の上に築かれていた”江戸幕府” を、無血開城に追い込んだ」”明治維新改革” は、史上極めて稀な大偉業と言える。 日本の明治時代と、清国の西太后時代は、ほぼ同時期に 全く対照的な歴史的経緯を辿った。 それが日中間の近代史の分かれ道で、負の連鎖は、『100年経た最近まで尾を引いている !! 』。■ |
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