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| このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です | ||||
| 4. 日中全面戦争突入(1934~1940) |
| * ≪前稿までのあらすじ≫ |
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それは日本では祝賀ムードで沸き上がった。 しかし中国(蒋介石政府)は、満州の「違法占領」と国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣された。 しかし調査報告は、形式的に中国を擁護しながら、実質的に日本を罰するものにはならなかった。 つまり中国利権は、欧米各国にも妙味があり、日本に制裁を下せば、更なる混乱拡大を恐れたか(?)・・・、関東軍には 却って「お墨付き」にして支配を続行した。 しかし「満州国」の商人は、国際連盟の一国からも得られず、日本は国際連盟を脱退した。 満州国内では、人種(日、中、ソ)差別は激しく、地元住民との交流はあっても、衝突が絶えなかったと言う。 それでも関東軍が武力支配していた間は小康状態 は保たれていたが、関東軍と中国(蒋介石軍)の間は益々険悪化していった。 |
| ■ 日中戦争に突入 | |||||||||||
| ◆◇ ≪盧溝橋事件≫ (1937 昭和12年)) そんな「祝賀ムード(日本)」と、「反日・抗日の嵐(中国)」の狭間で、「盧溝橋事件」は偶発した。 経緯は色々取りざたされているが、”私の歴史観”として; |
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| ①【事件不拡大派】 (石原莞爾、日本政府)は ;今は ソ連の侵攻に警戒が必要だ。 国力の消耗は厳に慎むべきと主張し、中国軍との戦闘は「不拡大」を主張した。 ②【事件拡大派】 ;(東條英機ら)は、これを機に中国軍に「一撃」加え、「抗日」の根を断ち切る べきだと強く主張した。 |
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| それは 「中国側も妥協するだろう」との見方だったが・・・、蒋介石は断固応じず日中戦争に突入した。 【交戦派】は一気に燃え上がり、「暴支膺懲」や「対支一撃論」が飛び交った。 |
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| ◆◇ ≪石原莞爾の大東亜共栄圏構想≫ | |||||||||||
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| ◇ 石原莞爾は、つい先年(1931)【柳条湖事件】をでっちあげ、満州事変を導いた張本人だが、その後内地に帰任して、世界の動きを大局的に考える様になっていた・・・。 しかし、石原理論は、当事者しか知らない軍事機密を明示できず、説得力が弱かった。 |
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| ◇東條は、石原の上司で、学力は非常に優秀、几帳面な性格で典型的な保守官僚肌だったが、それは日本軍や政府首脳陣も、国民にも分かり易かったのでは・・・(?) 東條と石原の間で激論が交わされたが、東條(石原の上司)の主張が通り石原は解任された。 |
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| ◆◇ ≪日本政府の対応≫ |
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| 結果として、戦争不拡大論は一掃され、石原完爾は解任され、東條英機が日本軍を率いて、戦線はいよいよ拡大し、中国本土の奥深くまで戦火を浴びる(「日中戦争」に突入する)ことになった・・・。 |
| * ≪日中全面戦争への流れ≫ | ||||||||||
| しかしその「流れ」には、背景に(私感として)次の様な各国事情が考えられる。 |
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◆◇ ≪通州事件≫ (1937 昭和12年) 中国側は保安隊と住民(数100人とも1,000人以上とも言われる)が、日本軍守備隊を襲撃し、更に日本人居留区の一般住民も攻撃して老若婦女子にまで残虐極まりない仕業で虐殺した。 それは突発事件でなく、中国側が計画し準備した組織的行動だったが、事件後日本軍が来ると、蜘蛛の子を散らす様に逃げたという。 この残虐事件は、日本国内も激昂させ、『中国人敵視の火に油を注ぐ』結果となった。 |
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| ◆◇ ≪第二次上海事件≫ (1937.8 昭和12年8月) |
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| ◆◇ ≪南京への追撃 ~ 南京事件 (南京大虐殺)≫ しかし現地派遣軍は、今一撃加えれば、『中国軍は全面降伏し、反日・抗日運動も安泰化する・・・』 と、「戦争不拡大命令」を無視して壊走軍を追撃し南京市街に入城した。 |
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| ◆◇ ≪大陸内部への侵攻≫ *****国家総動員法公布 1938(昭和13年) しかし米英の武器支援で、(日本軍は)局地戦に幾ら勝利しても返す泥沼の長期戦に陥っていた。 |
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| しかし、一旦踏み込むと撤退は、事実上不可能・・・、①国民に「言論統制」を強め、「ぜいたくは敵だ !!」、「欲しがりません勝つまでは !!」などのスローガンを打出して民心を鼓舞する一方、 ②政府は、人や物資を自由に動かせる様 「国家総動員法」を公布し、 ③軍部は 「大陸全土の制覇(第二の満州国にする)」を目指して攻撃は揚子江から徐州にも広げていった。 | ||
| ◆◇ ≪ 徐州大会戦 ≫ (1938/5 -6 昭和13年) |
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◆◇ ≪ 武漢作戦 (漢口攻略)≫ 1938/8 - 11 (昭和13年) 大本営(日本)は、中国の要衝(漢口)を攻略した。 蒋介石(中国)軍を屈伏させようという作戦で、兵力約30万人、支那側兵力も約60万人という日中戦争では最大規模の作戦だった。 日本軍は、揚子江の両岸を2支隊に分かれ徒歩で進軍したが、漢口に着くまで非常に難渋した。 豪雨が 1週間余も続き、ぬかるみの中を人も馬も泥んこになって行進した。 しかし敵兵の突撃も勇敢だったので、弾薬が尽きると死傷者の弾薬や、敵が遺棄した小銃や手榴弾を使って戦った。 付近の畑から掘ったイモで飢えをしのぎ、下痢患者も続出した。 コレラが発生しても、医薬品はなかった。 そうして揚子江北岸を前進した支隊が 10月25日漢口東端に達し、漢口が陥落すると中国軍は、更に内陸の重慶に移り、重慶戦が始まる。 それでも国内には、『連戦連勝』 の報で戦意を煽っていた。 |
| ■ 太平洋戦争へのレール | |
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| ◆◇ ≪ ノモンハン事件(1939) ≫ 昭和14年 |
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しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を装備して 待機していた。 それは、我が国が敵の陣地攻撃用に開発した自慢の秘密戦車は、ソ連・蒙古軍の新鋭戦車に、悉く破壊され、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら、敵戦車と戦った・・・ !? 。 結果は、日・満軍の大師団は壊滅的な大敗に終った。 しかし上層部は責任をあいまいにして、将来への反省もしないまま済まされた。 |
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| ◆◇ ≪ 南方作戦(1939) ≫ 昭和14年 |
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| ◆◇ ≪汪兆銘政権を樹立(1940)≫ 昭和15年 その結果、1938年以降の中国には、 ①日本が率いる汪兆銘政権、 ②アメリカとイギリスが支援する国民党政府(蒋介石)、 ③ソ連が支援する共産党軍(毛沢東派)、 この 三つ巴の政府(?)組織が存在して、反目しあうイレギュラーな仕組みになった。 |
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| 日本はこの”汪兆銘政府” を中華民国政府として尊重した。 しかし実態は《日本軍の完全な傀儡政権》で、承認した国は、同盟国のドイツ、イタリアと、満州国のみだった。 共産党軍と蒋介石軍の関係は複雑だが、一応「国共合作」で日本軍に対抗し、中国民衆には反日抗日機運が高まっていた。 |
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| ◆◇ ≪大東亜共栄圏≫ 1940 ~ (昭和15年~) |
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| この ”大東亜の範囲”は、日米戦争の気運がひしひしと高まるのに備え、東南アジア(=資源、食糧の供給)や、太平洋諸島(=防衛、戦略上の要地)への進出を目指した。 それは、これらの諸国に、欧米列強の植民地からの独立を促し、 『相互協力と独立尊重を旨とする ”経済連合組織” 』を建設しようと言う「南方作戦」の一環だった。 |
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| そして大東亜共栄圏を構成する各国、 満州国、汪兆銘政権(中国)、フィリピン、ラオス、ビルマ等は、いずれも日本軍の傀儡政権を樹立した。 そして共栄圏内から食糧や資源などを徴集したが、その後太平洋戦争の戦況が悪化し、独立の約束は果せないまゝ敗戦になった。 | |
| 日本は加害者と言っても、統治の仕方は欧米の植民地支配 =”奴隷制度”とは違い、戦後の独立運動に大いに役だっている。 |
| ■ 私の歴史観 * ≪日中戦争勃発から太平洋戦争への導火線≫ |
| 満州は元々清国(後に中国)領土だが、その頃; ◇武力に勝る関東軍は、鉄道整備や都市建設など国土開発に取り組んだ。 ◇中国は、清朝から移行前後、無政府状態で手の出せない状態が続いていた、 そうして約20年後、 ◇関東軍は、莫大な投資で満州開発が進み、食料も資源も労働力も自国領同然になっていた。 ◇中国政府(蒋介石軍)は、漸く国内体制が整い中国全土統一「満州奪還軍」を派遣した。 ◇すると関東軍は、先回りして張作霖を爆殺して満州での主権を独占した。 |
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一旦、戦争に巻き込まれると「防衛力強化」、つまり「弱肉強食理論」ではエンドレスになり、結果として「攻撃力が最大の防御手段」になってしまう。 双方で「WinーWin」の関係が構築できる、外交、政治、経済政策を伴わなければ、「防衛手段」は「先制攻撃」と同義語に転じてしまう。 「防衛力強化」と言う裏には、そんな事例を しっかり考えなければ、同じことが繰返される。 |
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