このページは、『個人的な想像等を含めて ”歴史”を考える』のが目的です。
あくまで私個人の歴史観なので、真相判断は読者側で願います。


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡    (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防   (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立   (1928~1934)
 ◇4.日中全面戦争突入           (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、その後の各国    (1940~   )
  


 4. 日中全面戦争突入(1934~1940)
  ■ 前稿までのあらすじ
 これまで【~満洲事変 ⇒第一次上海事変⇒国際連盟脱退⇒満州国設立(~溥儀の皇帝即位)・・・】 という一連の経過について述べてきた。

 中国(蒋介石政府)は、日本の 『満州への《違法侵略》 と国際連盟に提訴した。 しかし(中国利権は 欧米各国にも妙味があった為)中国を擁護しながらも、日本を罰する調停はされなかった。 
 それは日本にとっては 何の躊躇もなく満州支配固めを続行する口実となった。
 しかも中国(蒋介石政府)には、ソ連も 毛沢東を支援して≪満州・中国≫奪取を目論んでいたから、中国国内は内紛状態になっていた。

 それをあざ笑うかの様に 関東軍は《満州支配と中国侵攻》に快進撃を続け、満州を (中国政府の支配を受けない)《国家(=満州国)》に仕立て上げ”独立国宣言”をした。 それは日本内地では、 侵攻の度に 兵隊さんは最大限に賞賛され、祝賀ムードで沸きあがった。

 しかしそんな侵略拡大には世界中から批難が集中した。 日本政府は、孤立を避けようと懸命な外交努力をしたが、国際連盟決議では、《満州国》は一国の承認も得られず、日本は国際連盟を脱退した。



  ■ 国際連盟脱退後

  *≪ 国際連盟脱退以降の日本 ≫
 日本は 満州を《満州国(=独立国)》 と宣言して、国際連盟脱退(1934)すれば、外国からの干渉は受けないで中国本土で侵略を繰り返した。
そして戦勝に次ぐ戦勝は、軍部は勿論、次第に政府も、国民も・・・、マスコミも、皆んなが酔いしれてしまった。 国内で 『戦争批判』 を口にすれば 『非国民』 と罵られ、村八分にされ、作家は投獄された
!! 。 こうして日本軍国主義に直走る本流を国内の誰もコントロールできなくなっていた。
それはアメリカや、他の列強諸国も、国際連盟でさえも、次の様な状態
!?!?!?で、決定的な抑止力を欠いてた。
  ◆ 『侵略国を抑止しようとする制裁は、より大きい戦争の危機に結びつく』・・・。 
  ◆ 『日本制裁は、回避することこそが平和の維持を意味する』


  *≪国際連盟脱退後の満州国≫
 「満州国独立」と言っても、それは日本が宣言しただけで認める国は一国もなかった。 それで関東軍が≪満州国法律≫を一方的に制定し、適用すれば自ずと抗争が起こる。 日本からは大量の満蒙開拓団(入植者)も送り込み、現地人の耕作地を「不在地主」扱いにして入植者に与えたり、現地人と衝突は絶えなかった様だ。
 それは中国本土にも飛び火して「反日・抗日」を更に助長した。 しかし方々で衝突や事件が起きても、その都度講和を長引かせる間に、また次の事件が発生するという繰り返しで、抗争は大規模でも『〇〇事件』とか『✖✖事変』とか呼んで【戦争扱い】にはせず、最後まで一度も宣戦布告はされなかった。
 そんな「反日・抗日の嵐』の中で、居留民の安全を守る為、関東軍は片時も攻勢の手を緩められない状態が続いていた。

  * ≪盧溝橋事件 (1937)
 盧溝橋事件」は、そんな情勢の中で発生した。 但し、経緯について日中の見解は異なる様だが、勿論、私が真相を知る由もない。 以下”私の歴史観”として・・・;
 日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中に、何者かが発砲し、兵一名が行方不明になった。 その後 伝令に出た曹長らが、中国軍陣地に近づいて発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を開始した。 すると日本軍内に また銃声の報告が届き、中隊を 中国軍部隊に向けて前進させた。 これに対して中国軍は激しく射撃し、日本側も応射し、全面衝突となった。 しかし約2時間後、激戦は小康状態に治まり、北平(現;北京)及び盧溝橋城内での、停戦交渉が行われ事件は終結したかに見えた。

 しかし。これに端を発し≪
関東軍内部・日本政府内部≫では、次の2派のせめぎ合いが始まった。
   ①【事件拡大派】は ;これを機に中国軍に「一撃」を加え、「抗日」の根を断ち切る
       ことを強く主張した。
   ②【事件不拡大派】 (石原莞爾、日本政府)は ;今はソ連の進攻に対処する為にも、
       国力消耗は厳に慎むべきとした。中国軍との戦闘は「不拡大」を主張した。

 結局、不拡大派の主張に沿って、一旦は中国側の 「謝罪」、「責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を 要求し、事件終結を目指したが・・・。
 しかし【事件拡大派】は、あの手この手で口説き、近衛首相は「もし中国が協定破りをすれば、居留民の生命安全が守れない」として派兵(交戦ではなく待機)を承認せざるを得なかった。 それは、日本の攻勢に「中国は折れるだろう」との見方もあったのではないか・・・。 しかし蒋介石は断固応じず「徹底抗戦」を決めたので、日中の【交戦派】は、一気に燃え上がり泥沼の全面戦争に突入した。



  戦争不拡大論と、大東亜共栄圏の理論

  ◇ 不拡大派(参謀本部)の主張は
 『攻略に いくらの兵力で、何ヶ月かかるか分からない所に、兵力をとられれば、ソ連の来襲は必至だし、防戦もできない』。 兵力の窮状を考えると、南京攻略はどう考えても無理・・・と主張。
  ◇ 拡大派は
  『国民政府が存在する限り、支那問題は解決しない。  蒋介石の下野と、国民政府の没落によってのみ、支那問題は解決する。  支那問題さえ解決すれば、対ソ問題も解決し、英国も追随する・・・』と言って気勢をあげた。

 * 石原莞爾の戦争不拡大論と、大東亜共栄圏構想

石原莞爾
Wikipediaより
戦争不拡大論
ソ連は極東軍を増強しているが、日本の備えは全くできていない。 もし、ソ連が満州に侵攻してくれば、たちまち お手上げだ。
大東亜共栄圏構想
日本は今後10年間は、満州経営に専念すべきで、中国と戦うべきではない。
 満州国は満、日、支、鮮、蒙などの諸民族共同国家を建設して、日本を含めた全民族が平等な立場で政治に参加する。 日本が経営する満鉄も関東州も ”満州国”に譲渡する
日支親善
支那(中国)に満州国を承認させることで、日支の国交調整の道は残されている。
全支における、日本の全政治権益(治外法権、特殊権益、陸海軍駐兵権、租界など)を返還し、日支親善を計るのが、日本のとる唯一の策だ。
    石原莞爾は、つい先年【柳条湖事件】をでっちあげ、満州事変を導いた人物だが、その後内地に帰任し、現状を改めて大局的に考察できたのではないか・・・。

 石原に真っ向から対立したのは
東条英機だった。
東条は 官僚として学力は非常に優秀だったと言われているが、教科書以外の応用問題を解く発想法は浮かばなかったのではないか・・・?
 しかし、石原理論には、当事者だけしか知らない軍事機密が多く、機密情報を具体的に説明ができない為、関係者への説得力が弱かった。
 この東条との対立により、石原は解任された。

 * 日本政府の対応
 時の日本政府(近衛内閣)内部でも、戦争拡大か、不拡大か、国の命運を決する激論が戦わされた筈だが・・・、内閣書記官長、風見章の回想記 (部分的に抜粋)には 次の様に記述があるとか(記事出所不明)。 
 『杉山陸相から 政府声明の案文が配られると、各閣僚は黙って目を通すだけだった。  その内、広田外相が、原文に”共産主義勢力”という字句があるのを指摘し、『これではソ連をも 問題にしていると誤解される』 と発言した。
 そこで、みんなああでもない、こうでもないと言いだし、長時間とりとめのない雑談に花を咲かした。  結局、
『”共産主義勢力” を”赤化勢力” に変える』 と話が決まった頃は、真夜中になっていた。  肝心の拡大か、不拡大かについては、中島鉄道大臣が 『この際、支那軍を徹底的に たたきつけるのがよい』と 強行意見を述べると、永井逓信大臣が『それがよい』と相づちを打った。 政戦布告が必要か?などの意見も出たが、多くの閣僚は聞き流すだけだった。

  * 斯くして、近衛内閣の閣僚たちは、”勝った、勝った”の提灯行列に浮かれ、外交折衝をせず、(軍側でなく)
政府が、戦争拡大を 推奨することになった。
  * 斯くして、戦争不拡大論は一掃され、石原完爾は地位を退き、東条英機が日本軍を率いて、戦線はいよいよ拡大し、中国本土の 奥深くまで戦火を浴びることになった・・・。 無責任政府の決断は、戦線拡大に向け 極めて重要な一石になった。と===現在の閣僚たちにも共通しているのではないか・
!??===。



  ■ 日中全面戦争

 盧溝橋事件の最初の発砲は、本当に中国軍だったのか?、or日本軍のでっちあげだったのか?、orそれ以外か?・・・、事件終結交渉の決裂についても・・・真相は想像する以外にない。  しかし盧溝橋事件が引き金となって、日中戦争(支那事変・日華事変)に突入、誰もコントロールできない泥沼状態に入った。
  それは、中国本土の至る所で衝突や事件が起ったが、日本軍は攻勢を維持し、迷走する蒋介石(政府)軍を内陸深くまで追撃した。
 しかし(中国全土で)
反日・抗日の嵐に包まれ、日本軍は 『敵対する者は誰かれ構わず掃討する作戦に転じた。
 しかし日本内地では、軍部も、政府も、マスコミも、国民も・・・皆が【勝利の祝杯】に酔い知れてしまった


 この間に次々起こった”事件”や”事変” の規模や頻度から、一般的には【日中戦争】 と呼ばれている。 ここでは”事件”や”事変” それをひとつ一つを取り上げればキリがないので、以下、幾つかを紹介する。


  * ≪通州事件 (1937)
 盧溝橋事件から約3週間後、北京市近郊の通州で、中国人保安隊による≪日本人の大虐殺事件≫が起った。 殺されたのは、通州の日本軍守備隊、居留民(多数の朝鮮人も含む・・・慰安婦などだろう?)の約260名。
中国側は保安隊と住民(合せて数100人とも1,000人以上とも言われる)は、日本軍守備隊を襲撃し、更に日本人居留民区の一般住民に移り婦女子に至るまで残虐極まりない虐殺を行った。
 その残忍さは(紹介しているHPも見たが)ここでは書けない、およそ人間の仕業とは思えない惨殺劇だった。
これは、突発事件でなく、中国側で事前に計画され準備された組織的行為だったが、事件後日本軍が来ると全員蜘蛛の子を散らす様に逃げたという。 
 この虐殺事件は、日本人及び日本軍を激昂させ、日本国内でも怒り真骨頂となりで、『
中国人敵視の火に油を注ぐ』結果となった。

 この残虐事件から、現在でも 中国人を『最大限の
悪鬼呼ばわり・・・』 する向きがある。 事件の真相は分からないが、そんな【悪鬼】と決めつけるにはちょっと視野が狭いのではないか・・・。
 関東軍が起こした、○○事変とか△△事件とか、この後起こる《南京大虐殺》などに比べれば、明らかに規模が小さい。 立場を逆にして、もし日本軍が起こした事件だったとすれば・・・さほどの大事件として取り挙げられないのではないか・・・??  
 当時、日本軍は満州全土を占領し、中国本土にも攻撃をしかけ、一方的に日本人居住区を設定して住みつき・・・、彼らを 『支那人とか、チャンコロとか・・・』 呼んで軽蔑し・・・、中国全土で 《排日・抗日運動》は頂点に達していた。
 しかし日本人居留区は関東軍に固く守られ、蒋介石軍が刃向かえないから小康状態が保たれていた。
それが 10数年も続いていたから
『日本憎し・・・復讐心』が燃え盛っていても当然だろう。
 その両者が同じ地域に住んでいて・・・、中国側保安隊がどんな組織かは知らないが、スキあらば起こるべくして起こった事件ではないのだろうか・・・?。
 彼らの襲撃計画を日本軍は本当に事前察知できなかったのか?、タカを括って油断していたか?、or ~口実造りの為黙認したことはないのか・・・?? ”真相” は想像する以外にない・・・。

 この後に続発する『日中全面戦争』については、この『盧溝橋事件』と『通州事件』が発端だとして、その原因(責任)は中国側にあると主張する人もいる。
 しかし長期的な前後経緯を考えると、日中戦争の主導権は日本側にあり、中国側は精一杯の反抗を企てた戦闘と見るべきではないか・・・?



  ■ 日中戦争(支那事変・日華事変)
 日中戦争は、次の『第二次上海事件』から始まった。 それは日本軍本部が計画した策戦ではなく、現地に派遣軍が戦闘に勝利すると、退却する相手を更に追撃し・・・、つまり第二次上海事件に勝利した次は 南京まで追撃し、南京も堕ちると、壊走する蒋介石軍を更に漢口まで追撃し・・・、こんな手法で日本軍は 次第に中国の内陸深くまで侵攻した。
 しかし関東軍本部は、ソ満国境付近のソ連軍の動きが不穏で、兵力分散を避け、戦争不拡大を指示していたが、日本政府(内地)は、”勝った勝った” と浮かれる民衆に押され、むしろ(戦争拡大を)認める形になっていた。


  * ≪第二次上海事件≫ (1938.8)
 上海陸戦隊の大山勇夫中尉が虹橋飛行場(上海)に入ろうとした時、衛兵が発砲する事件が起きた。 
海軍の長谷川清中将は、それを日中双方で共同調査するので平静を保つ様に命令した。
しかし危機を感じた陸戦隊(日本)が支隊を上陸させた為、中国正規軍も前進して日本人居住区を包囲した。 通常なら交戦を避け様と慎重を期す所だろうが、一触即発の日中関係(
寧ろ交戦の糸口を探す状態)では一気に戦闘が始まった。
 蒋介石軍は空から 日本人居留地や艦隊を爆撃し、日本艦隊も中国軍陣地を砲撃し、収拾がつかなくなった。 中国軍は米英の支援を得て応戦、日本側は内地から次々艦隊を派遣し本格的な戦闘状態になった。 戦闘は、両者総力戦となり、2ヶ月半の膠着状態が続いたが、ようやく日本が勝利した。 破れた蒋介石軍は南京に向け壊走した。 
現地軍(日本軍)は、関東軍参謀本部は、戦争不拡大の命令を押し切って追撃した。




   ■ 大陸内部への進攻

  * ≪南京への追撃~日中戦争に拡大
 
現地派遣軍(日本)は、今少しの追撃で『【蒋介石軍】さえ倒せば、中国全土は短期間に全面降伏するだろう』。 そうすれば中国全土の排日・抗日も沈静化し、満州も安泰になると手柄を考えた様だが、蒋介石軍は米英の支援を受けて攻撃しながら、点々と居処を変えた(逃避=首都移転)為、日本軍は四面【反日・抗日の嵐】の大陸の奥深くまで、進軍攻撃を続行し続けた・・・(想像)。

 * ≪南京事件 (南京大虐殺)≫
  ◇ 南京城陥落までの動き
  ≪日本側≫
 第二次上海事変の勝利に勢いづいた日本軍(上海へ派遣軍)は、すかさず壊走軍を追い南京に入城した。
の防衛線を次々と突破して、籠城する南京城や南京市街区も包囲した。 翌日投降勧告をしたが中国軍が応じなかった為、総攻撃に移り 3日間で南京城を陥落させた。 それは全市民を巻き込む大掃討作戦になった。

  ≪中国側≫
 上海防衛に当たっていた中国軍は、日本陸軍に背後から追撃され、指揮命令系統に混乱を来たし南京に退却して”南京城”に籠城した。
 中国側についていた軍事顧問(ファルケンハウゼン=ドイツ人)は、(上海戦で要塞を破られれば)南京から撤退を主張していたが、蒋介石は南京での防衛に拘って、緊急増兵した為、総勢 10万人もの兵員が包囲され、総崩れとなった。

  ◇ 残虐行為(南京大虐殺)  1937(昭和12年)
 日本軍は、南京へ追撃中から、南京城陥落後も 6週間にわたって大規模な掃討殺戮を行った。 投降兵捕虜も収容などできる筈がない。 南京の北方にある幕府山では、捕虜約14,000名を殺害。 市民も、女性、子供を問わず、無差別掃討殺害をし、その数は、中国側は30万人とも言っている。
 それに対し安倍内閣・菅義偉官房長官は;人数は不明、30万人というのは誇張し過ぎだ、とクレームをつけているが、先の中国側が起こした”通州事件” の虐殺とは桁違いだ。 中国軍も、包囲される前に撤退していれば、これ程の大虐殺にはならなかったのかどうか?・・・。

 日本軍は、行軍中の食糧や必需品は現地調達としていたので、行く先々で当然、トラブルはあった筈だ。 しかし進軍中、捕虜収容などは不可能だろう・・・とすれば、上海、蘇州、無錫、嘉興、杭州、紹興、常州 ・・・へと進軍中の・・・何が起こったかは・・・想像するしかない・・・。
 南京陥落後、国民党政府は首都を重慶に移した。 そして中国軍(国民党軍)は米英からの支援を得て、南京 → 漢口 → 武漢 → 重慶 → ・・・と 逃避移動しながら抗日戦争に挑んだ。 日本軍は、それを追いながらその先々で起こる事件について、以下主要なもののみ取り上げる。

 
  *  徐州大会戦 ≫ (1938/5 -6) 

 大本営は、除州地域に集中している中国軍を南北から挟撃撃破する作戦をたてた。 北支方面軍と、中支派遣軍は徐州西方地区に包囲網を敷いたが、約50個師の中国軍は、包囲の間隙を脱出した。 何せ 100数十km超の大平原に、日本軍 7個師団余で 3倍の中国軍を包囲するには、一団となって敗走する中国兵は、飛行機を見ると馬も車も放棄して麦畑の中に隠れてしまい戦果は少なかった。 実際の激戦は台児荘付近で 1ヶ月ぐらいで、殆どは『徐州、徐州と人馬は進む・・・』と機動と行軍の連続だった。 日本軍は徐州を占領したものの、中国軍は黄河の南岸堤防を破壊し大洪水を発生させ日本軍の前進は完全に阻止した。
火野葦平  麦と兵隊  (注; 原文から 抜粋要約)

 作戦目的は、蒋介石軍主力に大打撃を与え『敵撃滅』でなければならない。 しかし、蒋介石軍には一大決戦をする企図は毛頭ない。 武漢攻略戦を遅らせるために、日本軍を引きとめる作戦だ・・・
見晴らす限りの大平原、小麦、米、大豆、甘藷、こうりゃん、落花生、菜種、綿花・・・、この地の農産物は豊富だが、時は5月、小麦の採り入れの季節だ。 だが『麦秋』という語感とは違って、中支はもう真夏だった。  戦車はよく過熱して故障し、水質も悪い。 伝染病が猛威をふるう。 風がない。 兵隊は敵弾より怖い暑さに攻められながら焼けたヘルメットに泥をぬる。 地元の農民は戦火に追われて麦を刈る余裕もなく、波打つ麦畑の中を右往左往する。
  火野葦平は従軍記者として同行していた。 後日談として、『当時軍の検閲などもあり、殺戮場面などの記述はできなかった』 記述できないことに相当ストレスを感じていた様子を、親族の誰かが、ラジオで語っていた。

  日本軍は、進軍中の食糧などは現地調達が原則だったので、見渡す限り熱砂の原野を 連日飲まず食わずの行進を続けた。 やっと集落を見つけ、飢えた大群が脱兎の如く襲来すれば住民との間で、それも兵士やテロリストも 住民や農民に扮していたとすれば、・・・そこでどんなことが起ったか・・・??。


   *  武漢作戦 ≫   1938/8 - 11
   ◇ 漢口攻略
  南京陥落後、蒋介石は ”漢口”に逃避・首都移転した。(漢口は武漢市区内の地名) 
 大本営(日本)は、中国要衝(漢口)を攻略し、多くの敵の撃破して、蒋介石の死命を制し中国軍を屈伏させようという作戦で、兵力約30万人、支那側兵力も約60万人という日中戦争では最大規模の作戦であった。
 日本軍は、揚子江の南北両岸を2支隊に分かれて徒歩で進軍したが、漢口に辿り着くには非常に難渋した。
豪雨が1週間余も続き、ぬかるみの中を人も馬も泥んこになって行進した。 しかし敵兵の突撃も勇敢で、弾薬が尽きると死傷者の弾薬や、敵が遺棄した小銃や手榴弾を使ってゲリラと戦い、それも尽きると銃を捨てて敵と格闘する兵もいた。
 行軍の食糧は現地調達なので、数日間飲まず食わずで行進した。 雨の晴れ間に飛来する友軍機が投下する弾薬、食糧、医薬品が命の綱だった。 しかし包帯や医薬品も欠乏し、負傷兵の傷口からウジがはい出した。
付近の畑から掘ったイモをかじって飢えをしのぎ、下痢患者も続出した。 コレラも発生したが、医薬品はなかった。
 そうして北岸を前進した支隊が 10月25日漢口東端に達した。 中国軍は市内から撤退して漢口は陥落したが要衝を占領をして11月11日武漢作戦は終了した。




  *  ノモンハン事件(1939) ≫
 日本国内は、政府も国民も連戦連勝で沸いていた。 しかし日本軍が中国の内陸深く進攻し、満州方面が手薄になる心配から、戦線不拡大の方針だった。 しかしソ連・ 蒙古軍は 満州国との国境付近で、不穏な、挑発行動を見せると、関東軍将兵は血気に逸る気持ちを抑えられない。
 その頃、日本が秘かに開発し、誇りに思っている【89式戦車】も揃っており、将兵たち我れ先に手柄を・・・と、(ソ満・満蒙)国境付近の侵略軍を掃滅する作戦を決行した。
 (張鼓峰事件;ソ満国境 = 1938年、 ノモンハン事件;満蒙国境 = 1939年)

 関東軍本部から戦線まで 約200km。 見渡す限り草原の中、地平線まで続く歩兵の隊列はイモムシの もがくが如く行軍した。 明けても暮れても行軍、また行軍・・・。 3日、4日、・・・と行軍する中に、銃と弾薬、食糧以外は全部捨てて・・・2万5千人の日本兵は丸腰しで戦線に到着した。
 しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を装備して 対峙していた。
 それは、我が国が敵の機関銃陣地攻撃に開発した自慢の秘密戦車は、ソ連・蒙古軍の新鋭戦車の前で、悉く破壊されてしまい、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら、敵戦車と戦った・・・
!? 。 結果は、日・満軍の大師団は壊滅的な大敗に終った。
しかし上層部の責任はあいまいにし、将来への反省もないまま突き進んだ。

   ≪汪兆銘政権を樹立(1940)≫
 南京大虐殺事件以後、大規模な戦闘は少なくなっていた。 その間に、日本軍は、
蒋介石の政敵であった汪兆銘を首班とする新たな政権を樹立した。
その結果、1938年以降の中国には、
   ①日本が率いる
汪兆銘政権
   ②アメリカとイギリスが支援する
国民党政府(蒋介石)
   ③ソ連が支援する
共産党軍(毛沢東派)
  この 三つ巴の政府組織(?)が存在して、戦闘を繰り広げることになった。

 汪兆銘は。蒋介石が主張する 『徹底抗日路線』 を貫けば多数の人命が失われ、国土が破壊することを憂い、日本と妥協の道を選び ”和平建国” を党是とした。
日本はこの”汪兆銘政府” を中華民国政府として尊重した。 しかし実態は《
日本軍に完全に掌握された傀儡政権》で、この政府を承認した国は、同盟国のドイツ、イタリアと、満州国のみだった。

 中国国内は、一般民衆にも反日機運が広まり、蒋介石政府と、共産党はゲリラ戦で日本軍に対抗した。 しかし、共産党(毛沢東)は、ソ連の支援を受けて満州・中国本土支配を目指し、蒋介石政府との対立も深まった。


  * ≪大東亜共栄圏≫ 1940 ~
 大東亜共栄圏理論は、最初 石原莞爾が、侵略国という日本批判を換わそうとして考えたが、1940年7月には、改めて近衛文麿内閣が、大東亜共栄圏の建設を決定した。
 この時の
”大東亜の範囲”は、太平洋戦争の機運が深まるのに備えて、日本、満州、中国、朝鮮を中心とし東南アジア(=資源、食糧の供給)、太平洋諸島(=防衛、戦略上の要地)を含む全地域を指していた。
 この諸国を、欧米列強の植民地から独立させ、日本・満州・支那(中国)を軸として 『相互協力と独立尊重を旨とする ”経済連合組織” 』を建設しようと言うものであった。
 しかし、大東亜共栄圏を構成する 満州国、汪兆銘政権(中国)、フィリピン、ラオス、ビルマ等は、いずれも日本軍の傀儡政権で、事実上、日本の植民地に過ぎなかった。 そして日本軍は共栄圏内から食糧や資源などを徴集したが、実質的に独立はさせずしまいで敗戦になった。

 しかし日本軍の統治下では、現地人に民族軍を創設させ、政治体系の改善や、教育の拡充を計り、現地人を高官にも登用して政務を経験させたり・・・、 日本軍独自の指導や、インフラ整備等々も行っていた。 
それは、オランダ、英、仏などからの独立運動に大いに役だち、日本の敗戦後、次々独立していった。

それは日本は加害者と言っても、統治の仕方は欧米の植民地支配 =”奴隷制度”とは、ひと味違っていた様だ。




  感 想 (私の歴史観)

  ■ 日本と中国、近代化への分かれ目
 産業革命により強力兵器を手した英国は、アフリカなどを次々植民地支配して暴利をむさぼっていた。
それは弱肉強食、経済優先に大転回であり、その波は《黒船来航》により日本にも到達した。
 折から日本は江戸時代を通して太平を謳歌し”平和ボケ” 状態だった。 しかし幕府要人や薩長志士たちの機転で、いち早く大政奉還→江戸城無血開城→明治維新》と、世界史上も奇跡的な大改革を成し遂げ、それにより他のアジア諸国(何れも植民地化された)とは、全く別の道を歩むことができた。

 つまり、彼らがいち早く選んだ道は 『喫緊の近代化』と『富国強兵策』だった。
それは【(政治・教育・銀行・警察等の)諸制度、科学技術、軍事指導、・・・・等々】をいち早く採り入れ、鉄道やダムや発電所建設、鉱工業設備、インフラ基盤等々あらゆる建設資材や技術、制度などを大量輸入した。 、それは欧米諸国にとって絶好の”お得意様” となり、整備・施行及び軍事力強化は驚異的に急進展し、究極は、一躍、アメリカと交戦する程の軍事大国にまで飛躍していた。
 最後は太平洋戦争で敗戦で終ったが、黒船以降約100年間に培った知識や高度技術は、戦後にも大いに貢献し極めて短期間で世界第2位の経済大国に躍進した。

 ■ 日本の近代化に対する朝鮮人たちの事情
 平和ボケから目覚めたばかりで、しかも資源も食料も乏しい日本が、そんな離れ業を成し遂げたのは歴然たる事実だが、問題はその莫大な【労力や人力や財源】は何処からどう捻出したのか?・・・である。
 勿論、生糸輸出その他外貨稼ぎには最大限手は尽くしたとしても、とても賄えるものではない。 所詮、朝鮮人徴用工や、地下資源や、食料や労力など、形はどうであれ《朝鮮、満州、中国》から得られた莫大な ”富” によって賄われたと考えるのが普通だろう。
 明治維新後、日本は【朝鮮半島】に出兵し、日清戦争にも勝利して朝鮮半島を支配下においた。 その後【日露戦争】にも勝利して勢いづき、【日韓併合】して、朝鮮半島からは大量の徴用工を日本各地でダム建設や、鉄道、道路、などインフラ建設などに就労させた。 しかも彼らに対してかなり屈辱的に差別扱いをしていたと聞くが、現在の日本の発展は彼らによって築かれたと言っても過言ではないだろう。

 ■ 日本の近代化に対する満州・中国・満州の事情
 満州は元々清国領土で、その統治は張作霖に任された状態だった。 しかし張作霖はロシアと密接な関係をもち、満州内にシベリア鉄道を延伸させ旅順要塞の建設も認めていた。
 そこに日本は(日清戦争に勝利して)朝鮮半島を獲得したが、ロシアの旅順要塞を完成しシベリア鉄道も増強すれば、折角手にした朝鮮半島が奪取され兼ねない。 ・・・それは10年後日露戦争となり、日本は勝利した。
その結果満州は、次の3者で領土争いが始まった。
 ①日本にとっては地下資源や食料の宝庫、日露戦争勝利の勢いに乗って侵出した。。
 ②張作霖(親ソ連派)は、それまで統治していた権利を譲ろうとしなかった。
 ③中国(蒋介石)、清国から引継いだ正当な中国領土権として張作霖を廃除しようとした。

 結果は軍事力を背景に日本が武力制圧した・・・。 と言っても現地住民(中国人)やロシア人が大勢住んでいる地での戦闘である。 中国全土から猛烈な反日運動が起こり、ソ連も 満州再奪還を狙って毛沢東軍を喚起して安泰という状態ではない。
 それに対し関東軍は軍事力で治安を保つ以外になかった。 それは満州事変にまで規模拡大し反日抗争は益々大規模化した。 それに対し関東軍は傀儡国家”満州国”を仕立て独立国と宣言し、蒋介石軍討滅(=中国侵略)作戦をを展開した。 しかし蒋介石軍は、毛沢東軍(ソ連支援軍)とも対立したので、日本軍は思いのまま侵攻し、内地では戦勝の報がラジオや新聞で大々的に伝えられた。
 つまり、中国(前身は清国)は、アヘン戦争を皮切りに諸外国に侵略され続け、蒋介石政府に代っても主導権がとれないばかりか、満州を奪われ、中国本土深くまで日本軍に追撃(侵略)され続けるハメになった。


この続き ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、その後 (1940~    )

 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡    (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防   (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立   (1928~1934)
 ◇4.日中全面戦争突入             (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、その後の各国   (1940~    )