このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です mail
更新; 2022/ 09
 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◇4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

4. 日中全面戦争突入(1934~1940)


 * ≪前稿までのあらすじ≫
  これまで【日清戦争 ⇒日露戦争 ⇒満州入城 ~満洲事変 ⇒第一次上海事変⇒満州国樹立(~溥儀の皇帝即位)⇒国際連盟脱退・・・】 の経過について触れてきた。
 
 満州支配を巡り「反日・抗日事件」が益々激化すると、関東軍は 外から干渉されない様、独立国に仕立て上げ「満州国独立」を宣言した。
 それは日本では祝賀ムードで沸き上がった。

 しかし中国(蒋介石政府)は、満州の「違法占領」と国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣された。
 しかし調査報告は、形式的に中国を擁護しながら、実質的に日本を罰するものにはならなかった。
 つまり中国利権は、欧米各国にも妙味があり、日本に制裁を下せば、更なる混乱拡大を恐れたか(?)・・・、関東軍には 却って「お墨付き」にして支配を続行した。
 しかし「満州国」の商人は、国際連盟の一国からも得られず、日本は国際連盟を脱退した。

 満州国内では、人種(日、中、ソ)差別は激しく、地元住民との交流はあっても、衝突が絶えなかったと言う。 それでも関東軍が武力支配していた間は小康状態 は保たれていたが、関東軍と中国(蒋介石軍)の間は益々険悪化していった。



   日中戦争に突入 
  ◆◇ ≪盧溝橋事件≫ (1937 昭和12年))
  そんな「
祝賀ムード(日本)」と、「反日・抗日の嵐(中国)」の狭間で、「盧溝橋事件」は偶発した。 経緯は色々取りざたされているが、”私の歴史観”として;
  日本軍が永定河岸(北京郊外)で演習中に、何者かが発砲し日本兵一名が行方不明になった。 その後 伝令に出た曹長らが、中国軍陣地に近づいて発砲された。 しかし行方不明だった兵は帰隊したが、日本側調査団は、盧溝橋城に入って中国側と交渉を始めた。 すると日本軍部から また銃声の報告が届き、中隊を前進させた。 これに対し中国軍は激しく射撃し、日本側も応射する全面衝突となった。 しかし約2時間後、小康状態に治まり、盧溝橋城内での停戦交渉で事件は終結したかに見えた。
  しかし。これに端を発し≪関東軍内部・日本政府内部≫では、次の2派のせめぎ合いが始まった。
  ①【
事件不拡大派】 (石原莞爾、日本政府)は ;今は ソ連の侵攻に警戒が必要だ。
    国力の消耗は厳に慎むべきと主張し、中国軍との戦闘は「不拡大」を主張した。

   ②事件拡大派】 ;(東條英機ら)は、これを機に中国軍に「一撃」加え、「抗日」の根を断ち切る
    べきだと強く主張した。
   事件「不拡大派」と、「拡大派」の主張
  ◆ 不拡大派(参謀本部)の主張
 『攻略は 幾らの兵力で、何ヶ月かかるか分からない所に、兵力をとられれば、ソ連の来襲は必至だ、防戦もできない』。 兵力の窮状を考えると、南京攻略はどう考えても無理だ。
 ◆ 拡大派の主張は
    『国民党(蒋介石)軍が存在する限り、支那問題は解決しない。 解決策は蒋介石軍の殲滅と、国民党政府の没落しかない。
 「満州を基地にして、中国全土を日本領土(植民地)にする」 ことにより日中関係は安定する、対ソ問題も解決し英国も追随して来る。
   結局、不拡大派の主張に沿って、一旦は中国側に 「謝罪と責任者の処罰」、「抗日団体の取締り」等を 要求することで収拾を計ろうとしたが・・・、しかし【事件拡大派】は、あの手この手で口説き、近衛首相は「もし中国が協定を破れば、居留民の安全が守れない」から、兵を(交戦目的でなく)待機させることを承認せざるを得なかった。
 それは 「中国側も妥協するだろう」との見方だったが・・・、蒋介石は断固応じず日中戦争に突入した。 【交戦派】は一気に燃え上がり、「
暴支膺懲」や「対支一撃論」が飛び交った。
  ◆◇ ≪石原莞爾の大東亜共栄圏構想 

石原莞爾  
1   戦争不拡大論
ソ連は極東軍を増強しているが、日本側の備えはできていない。 もし、ソ連が侵攻してくれば、(満州は)たちまち お手上げだ。
 大東亜共栄圏構想
日本は今後10年間は満州経営に専念すべきだ。中国と戦うべきでない。
満州国は、「満、日、中、鮮、蒙」の五族共同国家(ユートピア)にして、全民族が平等な立場で政治に参加する。 日本が経営する満州鉄道も関東州も ”満州国” に譲渡する
3   日支親善
支那(中国)に、満州国が承認されれば、
全支における日本の政治権益(治外法権、特殊権益、陸海軍駐兵権、租界など)を返還して、日支親善の道をとる。 それが日本のとる唯一の策だ。
 ◇ 石原莞爾は、つい先年(1931)【柳条湖事件】をでっちあげ、満州事変を導いた張本人だが、その後内地に帰任して、世界の動きを大局的に考える様になっていた・・・。
 しかし、石原理論は、当事者しか知らない軍事機密を明示できず、説得力が弱かった。
 ◇東條は、石原の上司で、学力は非常に優秀、几帳面な性格で典型的な保守官僚肌だったが、それは日本軍や政府首脳陣も、国民にも分かり易かったのでは・・・(?)
 東條と石原の間で激論が交わされたが、東條(石原の上司)の主張が通り石原は解任された。

   ◆◇ ≪日本政府の対応≫
 時の政府(近衛内閣)も、戦争拡大か、不拡大か、国の命運を決する激論が戦わされたが、内閣書記官長、風見章の回想記 (部分的に抜粋)には 次の様に記述があるとか・・・(記事の出所は不明)。
 『杉山陸相から 政府声明の案文が配られると、各閣僚は黙って目を通すだけだった。 その内、広田外相が、原文に”共産主義勢力” という字句があるのを指摘し、『これではソ連を 問題にしていると誤解される』 と発言した。
 そこで、みんなああでもない、こうでもないと言いだし、長時間とりとめのない雑談に花を咲かせた。 結局、『”共産主義勢力” の字句を”赤化勢力” と変更する』 ことに話が決まった頃は、真夜中になっていた。 肝心の戦争拡大か、不拡大かについては、中島鉄道大臣が 『この際、支那軍を徹底的に たたきつけるのがよい』と 強行意見を述べると、永井逓信大臣が 『それがよい』と相づちを打った。 宣戦布告が必要か? などの意見も出たが、多くの閣僚は聞き流すだけだった。
   こうして近衛内閣の閣僚たちは、”勝った、勝った”と提灯行列に浮かれ、外交折衝をしないで、戦争拡大を 推奨することになった。
 結果として、戦争不拡大論は一掃され、石原完爾は解任され、東條英機が日本軍を率いて、戦線はいよいよ拡大し、中国本土の奥深くまで戦火を浴びる(「日中戦争」に突入する)ことになった・・・。

 * ≪日中全面戦争への流れ≫
  盧溝橋事件で最初の発砲は、本当に中国軍だったのか?、事件後の交渉決裂の経緯も・・・真相は想像以外にない。 しかし盧溝橋事件が引き金になって、次々起った”事件”や”事変” を総称して 【日中戦争】 (又は支那事変、日華事変など)と呼ばれる。
 しかしその「流れ」には、背景に(私感として)次の様な各国事情が考えられる。
日本》は、東條英機が主導権をとり、中国本土の方々で起こる「反日・抗日衝突や事件」の歯止めには、蒋介石軍を殲滅し、「中国全土」を併合する方針を決めた。
それに対し《蒋介石》は、日本の 『国際法違反』を世界に訴え、米英世界を味方につけ、日本を孤立化させる作戦で、日本軍には局地戦(ゲリラ戦)で対抗した。
日本内地》では、局地戦の度、大本営発表の「戦勝報道」に、軍部も、政府も、マスコミも、国民も・・・感動し、『暴支膺懲』 とか、『対支一撃論』 などと有頂天になっていた。
 しかし《米英》は、「日本が、満州や中国本土を占領することは容認せず、中国軍(蒋介石軍)に武器支援した。 日本には撤兵を要求し、経済制裁・石油禁輸制裁を課した。
  ◇戦況が「泥沼状態になると、日本政府は
言論統制を強め「ぜいたくは敵だ !!」、「欲しがりません勝つまでは !!」などスローガンを打出し
 ・  「国家総動員法」を公布(1938 昭13)して、人や物資を自由に動かせる様にし、
 ・  軍部は 「中国全土制覇」を目指して、揚子江から徐州にも攻撃を広げた。
 以下、その後起こった ”事件”や”事変” の幾例かを挙げる 

   ◆◇ 通州事件≫ (1937 昭和12年)
 盧溝橋事件から約3週間後、北京市近郊の通州で、中国人保安隊による≪日本人の大虐殺事件≫が起った。 殺されたのは 日本軍守備隊、居留民(多数の朝鮮人も含む)など・・・約260名。
 中国側は保安隊と住民(数100人とも1,000人以上とも言われる)が、日本軍守備隊を襲撃し、更に日本人居留区の一般住民も攻撃して老若婦女子にまで残虐極まりない仕業で虐殺した。
 それは突発事件でなく、中国側が計画し準備した組織的行動だったが、事件後日本軍が来ると、蜘蛛の子を散らす様に逃げたという。 
 この残虐事件は、日本国内も激昂させ、『中国人敵視の火に油を注ぐ』結果となった。
   何しろ残虐極まりない事件だけに、これを理由に中国人を 『最大限 悪鬼呼ばわり』 する人は多い様だ。 しかし、もし日本軍が起した事件だったら、そんなに大事件と扱われただろうか(?)
 先に関東軍が起こした 「満州事変」や、この後 起こる「南京大虐殺」や、「○○事変」などに比べると、一過性で規模が小さい。
 当時、日本軍は満州を占領し、中国本土にも「日本人居住区」が多数あり、現地人を 『支那人とか、チャンコロとか』 と呼んで屈辱的に見下し、 「反日事件」も絶えない状態だった。 日本人への《憎悪の感情》は頂点に達していたのを、関東軍の武力(恐怖心)で、辛うじて平穏状態に保たれていた状態だから 起るべくして起った事件ではないか・・・?。
 彼らの襲撃計画を日本軍は、本当に察知できなかったか(?)、タカを括って油断していたのではないだろうか(?) 真相は想像する以外にない。
 

   ◆◇ ≪第二次上海事件≫ (1937.8 昭和12年8月)
 日中戦争は、次の『第二次上海事件』から本格化した。 それは日本側が計画した作戦ではなく、ちょっとした発砲事件から、日・中双方の軍隊が出動し、大規模戦争に発展した。
 上海陸戦隊の大山勇夫中尉が虹橋飛行場に入ろうとした時、衛兵が発砲する事件が起きた。 海軍の長谷川清中将は、日中双方で共同調査するので平静を保つ様に命令した。
 しかし危機を感じた陸戦隊(日本)は支隊を上陸させると、中国正規軍は日本人居住区を包囲した。 平時なら慎重に交戦は避けるところだろう。 しかし互いに「交戦する糸口を探る状態」では一気に戦闘が開始された。
 それは、中国軍は空から 日本人居留地や艦隊を爆撃し、日本は内地から艦隊を次々派遣し本格的な戦闘状態になった。 しかし中国軍は米英の支援を受け、戦闘は両者総力戦(上海事変)になった。 そして2ヶ月半の膠着状態が続いて、ようやく日本軍が勝利したが、破れた中国軍は南京に向け壊走した。

  ◆◇ 南京への追撃南京事件 (南京大虐殺)
 それに対し、関東軍参謀本部は、ソ満国境付近のソ連軍の動きが不穏で、兵力分散を避けるべく「戦争不拡大命令」を出していた。
 しかし現地派遣軍は、今一撃加えれば、『中国軍は全面降伏し、反日・抗日運動も安泰化する・・・』 と、「戦争不拡大命令」を無視して壊走軍を追撃し南京市街に入城した。
   ◇ 南京城陥落までの動き
 ≪日本側≫
  南京では、敗走(中国)軍の防衛線を次々と突破して、籠城する南京城や南京市街区も包囲し、投降勧告をしたが応じなかった為、総攻撃に移り 3日間で南京城を陥落させた。 それは全市民を巻き込む大掃討劇になった。
  ≪中国側≫
 上海戦に敗れた中国軍は、日本軍の追撃に指揮系統が混乱状態で退却し”南京城”に籠城した。 中国側の軍事顧問(ファルケンハウゼン=ドイツ人)は、南京から撤退を主張したが、中国軍は南京防衛に拘わり緊急増兵した為、総勢 10万人もの兵員が包囲され、総崩れした。
  ◇ 残虐行為(南京大虐殺)  1937.12 (昭和12年)
 日本軍は、南京城陥落後も 6週間にわたって大規模な掃討殺戮を行った。 投降兵や捕虜も現地で収容できる筈がなく、南京の北方にある幕府山では、捕虜約14,000名を殺害。 市民も、女性、子供を問わず無差別殺害をした。 その総数は、中国側によると30万人とも言う。

 それに対し安倍内閣・菅義偉官房長官は;「人数は不明、30万人は誇張し過ぎ」とクレームをつけているが、先に中国側が起こした”通州事件” での虐殺とは桁違いだ。
 中国軍も、包囲される前に撤退すれば、そんな大虐殺事件にはならなかっただろう、しかしそれが出来ないのが当時の日中関係だろう。
 
   ◆◇ ≪大陸内部への侵攻≫ *****国家総動員法公布 1938(昭和13年)
 南京陥落後、国民党政府は首都を重慶に移した。 中国軍(国民党軍)は米英からの支援を受けながら、南京 → 漢口(武漢) → 重慶 → ・・・と 逃避移動した。 それを追って日本軍は【反日・抗日の嵐】に包まれながら、大陸の奥深くまで追撃した・・・。
 しかし米英の武器支援で、(日本軍は)局地戦に幾ら勝利しても返す泥沼の長期戦に陥っていた。
 しかし、一旦踏み込むと撤退は、事実上不可能・・・、①国民に「言論統制」を強め、「ぜいたくは敵だ !!」、「欲しがりません勝つまでは !!」などのスローガンを打出して民心を鼓舞する一方、 ②政府は、人や物資を自由に動かせる様 「国家総動員法」を公布し、 ③軍部は 「大陸全土の制覇(第二の満州国にする)」を目指して攻撃は揚子江から徐州にも広げていった。 
 
 ◆◇ ≪ 徐州大会戦 ≫ (1938/5 -6  昭和13年) 
 大本営は、除州地域に集中している中国軍を南北から挟撃する作戦をたてた。 北支方面軍と、中支派遣軍は徐州西方地区に包囲網を敷いたが、約50個師団の中国軍は、包囲網の間隙を脱出した。 何せ 100数十 km超の大平原に、日本軍は 7個師団余で 中国軍を包囲するのだから、敗走する中国兵は、飛行機が見えると麦畑の中に隠れ戦果は少なかった。 実際の激戦は台児荘付近で 1ヶ月ぐらいで、殆どは 『徐州、徐州と人馬は進む・・・』 と行軍の連続だった。 そして徐州を占領したものの、中国軍は黄河の南岸堤防を破壊し大洪水を発生させ、日本軍の前進は完全に阻止された。
火野葦平  麦と兵隊  (注; 原文から 抜粋要約)
 作戦目的は、蒋介石軍主力に大打撃を与え『敵を撃滅』しなければならない。 しかし、蒋介石軍には一大決戦をする企図は毛頭ない。 武漢攻略戦を遅らせるために、日本軍を引きとめる作戦だ・・・、見晴らす限りの大平原、小麦、米、大豆、甘藷、こうりゃん、落花生、菜種、綿花・・・、この地の農産物は豊富だが、時は5月、小麦の採り入れの季節だ。 だが『麦秋』という語感とは違って、中支はもう真夏だった。  戦車はよく過熱して故障し、水質も悪い。 伝染病が猛威をふるう。 風がない。 兵隊は敵弾より怖い暑さに攻められながら焼けたヘルメットに泥をぬる。 地元の農民は戦火に追われて麦を刈る余裕もなく、波打つ麦畑の中を右往左往する。
   日本軍は、進軍中の食糧などは現地調達が原則だったので、見渡す限り熱砂の原野を 連日飲まず食わずの行進を続けた。 飢えた大群が、やっと集落を見つけ、脱兎の如く襲来すれば住民との間で、何が起るか・・・?? 行く先々で中国兵が、農民や一般住民に変装して抗日ゲリラ戦を挑めば、見分けができず・・・ 見境いなく殺害した。

  火野葦平は従軍記者として同行していた。 後日談として 『当時、軍の検閲があり、強奪、強姦、無差別殺戮場面などは記述できず、自分の書いた記事が戦意を煽る結果になった』 ことの呵責から、最後は自殺に追い込まれたと、親族の誰かがラジオで語っていた。

   ◆◇ ≪ 武漢作戦 (漢口攻略)≫   1938/8 - 11 (昭和13年)
  南京陥落後、蒋介石は ”漢口”に逃避・首都移転した。(漢口は武漢市内の地名) 
 大本営(日本)は、中国の要衝(漢口)を攻略した。 蒋介石(中国)軍を屈伏させようという作戦で、兵力約30万人、支那側兵力も約60万人という日中戦争では最大規模の作戦だった。
 日本軍は、揚子江の両岸を2支隊に分かれ徒歩で進軍したが、漢口に着くまで非常に難渋した。
豪雨が 1週間余も続き、ぬかるみの中を人も馬も泥んこになって行進した。 しかし敵兵の突撃も勇敢だったので、弾薬が尽きると死傷者の弾薬や、敵が遺棄した小銃や手榴弾を使って戦った。

 行軍中の食糧は現地調達で、数日間飲まず食わずの行進中、晴れ間に飛来する友軍機が投下する弾薬、食糧、医薬品が命綱だった。 しかし包帯や医薬品も欠乏し、負傷兵の傷口からウジがはい出した。
 付近の畑から掘ったイモで飢えをしのぎ、下痢患者も続出した。 コレラが発生しても、医薬品はなかった。 そうして揚子江北岸を前進した支隊が 10月25日漢口東端に達し、漢口が陥落すると中国軍は、更に内陸の重慶に移り、重慶戦が始まる。  それでも国内には、『連戦連勝』 の報で戦意を煽っていた。



   ■ 太平洋戦争へのレール
   こうして中国戦線が行き詰り、米英も圧力を強め、ソ連も不穏な動きを見せてきた。 しかし何か糸口を見出さなければ、日本国の生命線が閉ざされる・・・。

   ◆◇ ≪ ノモンハン事件(1939) ≫  昭和14年
  その頃、満蒙国境付近で、ソ連・ 蒙古軍が不穏な挑発行動を見せると、関東軍将兵は 血気に逸る気持ちを抑えられかった。 日本が秘かに開発した、誇りの 【89式戦車】が揃い、将兵たちは我れ先に手柄を・・・と、(ソ・満・蒙)国境付近の侵略軍を掃滅する作戦を決行した。
 
 関東軍本部から戦線まで 約200km。 

ノモンハン責任なき闘い(NHKテレビ)
見渡す限り 地平線まで続く 草原を、歩兵主力の隊列はイモムシが這う如く行軍した。 明けても暮れても・・・3日、4日、・・・と行軍する中に、銃と弾薬、食糧以外は全部捨て・・・2万5千人の日本兵は丸腰しで戦線に到着した。
 しかしそこには5万7千人の敵兵が、200台の新鋭戦車、大砲、武器・弾薬を装備して 待機していた。

 それは、我が国が敵の陣地攻撃用に開発した自慢の秘密戦車は、ソ連・蒙古軍の新鋭戦車に、悉く破壊され、兵士たちは≪タコ壺≫と呼ぶ一人用の壕を掘って、空腹に耐えながら、敵戦車と戦った・・・ !? 。 結果は、日・満軍の大師団は壊滅的な大敗に終った。
 しかし上層部は責任をあいまいにして、将来への反省もしないまま済まされた。

    ◆◇ ≪ 南方作戦(1939) ≫  昭和14年
 ノモンハン事件の完敗で、西進も北進も閉ざされた。 それに対し世論は 『南方に進出せよ !!』 と言う流れになった。 南方には、オランダ領インドネシアには豊かな油田がある。 イギリス領ビルマを占領すれば、英米(インパール基地)から中国軍への「物資や兵器輸送ルート」を断ち切ることもできる。
 
   ◆◇ ≪汪兆銘政権を樹立(1940)≫  昭和15年
 南京大虐殺事件以後、日本軍は、蒋介石の政敵だった汪兆銘を首班とする政権を樹立した。
その結果、1938年以降の中国には、
   ①日本が率いる汪兆銘政権、
   ②アメリカとイギリスが支援する国民党政府(蒋介石)、
   ③ソ連が支援する共産党軍(毛沢東派)、
  この 三つ巴の政府(?)組織が存在して、反目しあうイレギュラーな仕組みになった。
  汪兆銘は。蒋介石が主張する 『徹底抗日路線』 では、「多数の人命が失われ国土は崩壊する」と、日本と妥協する ”和平建国” を党是とした。
 日本はこの”汪兆銘政府” を中華民国政府として尊重した。 しかし実態は《日本軍の完全な傀儡政権》で、承認した国は、同盟国のドイツ、イタリアと、満州国のみだった。
 共産党軍と蒋介石軍の関係は複雑だが、一応「国共合作」で日本軍に対抗し、中国民衆には反日抗日機運が高まっていた。
 
   ◆◇ ≪大東亜共栄圏≫ 1940 ~  (昭和15年~)
 大東亜共栄圏は、以前、石原莞爾が提唱した構想とは別に、近衛文麿内閣が 1940年7月に改めて「大東亜共栄圏」の建設を決定した。
 この ”大東亜の範囲”は、日米戦争の気運がひしひしと高まるのに備え、東南アジア(=資源、食糧の供給)や、太平洋諸島(=防衛、戦略上の要地)への進出を目指した。
 それは、これらの諸国に、欧米列強の植民地からの独立を促し、 『相互協力と独立尊重を旨とする ”経済連合組織” 』を建設しようと言う「南方作戦」の一環だった。
 
 そして大東亜共栄圏を構成する各国、 満州国、汪兆銘政権(中国)、フィリピン、ラオス、ビルマ等は、いずれも日本軍の傀儡政権を樹立した。 そして共栄圏内から食糧や資源などを徴集したが、その後太平洋戦争の戦況が悪化し、独立の約束は果せないまゝ敗戦になった。 
  しかし日本軍の統治時代、現地人に民族軍を創設させ、政治体系の改善や、教育の拡充を計り、現地人を高官にも登用して政務を経験させ・・・、 日本軍独自の指導や、インフラ整備等々も行っていた。 
 日本は加害者と言っても、統治の仕方は欧米の植民地支配 =”奴隷制度”とは違い、戦後の独立運動に大いに役だっている。
  



  ■ 私の歴史観
 
 * ≪日中戦争勃発から太平洋戦争への導火線≫
 食料も資源も労働力も乏しい日本が、莫大な戦費と犠牲を払い日清・日露戦争に勝ち進むと、当然の様に満州に侵出した。
 満州は元々清国(後に中国)領土だが、その頃;
  ◇武力に勝る関東軍は、鉄道整備や都市建設など国土開発に取り組んだ。
  ◇中国は、清朝から移行前後、無政府状態で手の出せない状態が続いていた、
 そうして約20年後、
  ◇関東軍は、莫大な投資で満州開発が進み、食料も資源も労働力も自国領同然になっていた。
  ◇中国政府(蒋介石軍)は、漸く国内体制が整い中国全土統一「満州奪還軍」を派遣した。
  ◇すると関東軍は、先回りして張作霖を爆殺して満州での主権を独占した。
 しかし関東軍の「満州主権」には、方々で「反日・抗日事件」が頻発し、武力制圧に追われた。 しかしそんな防御的制圧は、更に事件頻発を招きエンドレスになると、(関東軍は)攻撃に転じ「満州全土攻略」を断行した(満州事変)。 それは一時的な大成功と引換えに、満州のみならず中国本土でも、益々反日・抗日感情が激化し、居留邦人の生命を守る為、関東軍は片時も攻撃の矛先を緩められなくなり・・・、日中関係は行き着く所まで行く以外、レールはなくなっていた。
 日中戦争に至る経緯の反省として、
 一旦、戦争に巻き込まれると「防衛力強化」、つまり「弱肉強食理論」ではエンドレスになり、結果として「攻撃力が最大の防御手段」になってしまう。 双方で「WinーWin」の関係が構築できる、外交、政治、経済政策を伴わなければ、「防衛手段」は「先制攻撃」と同義語に転じてしまう。
 「防衛力強化」と言う裏には、そんな事例を しっかり考えなければ、同じことが繰返される。
 
  この続き ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、その後 (1940~    )


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◇4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )