このページは、『個人的な想像等を含めて ”歴史”を考える』のが目的です。
あくまで私個人の歴史観なので、真相判断は読者側で願います。


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840〜1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911〜1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928〜1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934〜1940)
 ◇5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国  (1940〜   )


  5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国(1940 〜  )
   前稿までのあらすじ

 18世紀後半から英国から始まった産業革命は、西欧諸国に武器、産業、経済、政治等に飛躍的発展をもたらした。
それにより英国は世界各地を植民地化し、19世紀始めには清国(現中国)にも相互貿易を求めて侵出した。 しかし世界に冠たる ”清帝国” の皇帝たちはその動きが読みとれなかった。
 貴重品の陶磁器や絹製品や 中国数千年の歴史遺産などが 次々と持ち出され、見返りとして東インド会社(英国植民地)の香辛料や
アヘン等が持ち込まれた。
 清国は、その不条理に当然対抗するが、相手の武力には(アヘン戦争=1840等)如何ともならなず、結局彼らの言いなりになる他なかった。

 それは、英国以外の欧州諸国にも侵入を許す所となり、上海周辺の要地は租界地(外国人居留区)として占領され、何万人もの外国人が住みついた。 租界地には治外法権が敷かれ、住民は家屋敷を奪われ奴隷化された。
 そんな折、時の皇帝(咸豊帝)が崩御し(1861)、政権は”西太后” が引き継いだ。
彼女は海外勢には逆らえず、国内の反抗者を厳しく粛正する恐怖手法で、半世紀もの清朝延命を計った。
 しかしそんな国情には、英国以外の欧州諸国も続々侵入し、ロシアには満州の実効支配を許した。 そしてロシアは遼東半島の大連・旅順まで鉄道敷設して堅固な要塞を建設した。 

 それに”清国”の更なる誤算は、
かつての弱小国”日本”も急速に軍事強化していたことだ。
朝鮮半島をめぐる争い【日清戦争】で破れ、朝鮮の支配権や台湾も失った。 反対に日本は益々勢いづいて日露戦争にも奇跡的勝利し、ロシアの重要な要塞である遼東半島や満州も奪取した。 それは日本は更に軍事大国化に向かって猛進する発端となった。

 海外勢にもて弄ばれる清朝も、遂に孫文らの ”辛亥革命” により滅亡(1911年)し、新制(中国政府)が発足した。 しかし発足ほやほやの新米政府は、弱肉強食の世界で百戦錬磨の日本や欧米諸国と渡り合える状態ではなかった。
 そんな中で、第一次大戦が勃発し欧州勢は手を引いたが、日本軍にとって(中国は)無敵の独壇場となった。
 日露戦争により期せずして入手した満州だが、 富国強兵にまっしぐらの日本は、”産めよ増やせよ”と人口が爆増し、働いても軍需関連に回るばかりで、食料も生活も決して裕福でない。 広い土地、耕せば食糧、地下資源も無尽蔵の大陸は日本人にとって【王道楽土】である。
 日本は即座に、満州の支配堅めに全力投球した。 しかしそれは中国全土に激しい反日・抗日の嵐が巻き起こった。 それを鎮める為に、日本軍は更に強力に大陸侵攻作戦(蒋介石軍掃討作戦・日中戦争)を展開する以外なかった。 しかしそれも連戦連勝して一応の安泰(小康)を確保し、傀儡国家 『満州国』 を樹立した。 そして年々大勢の移民団(開拓団)も送られた。

 その一方【ロシア】では、日露戦争後の大混乱の末、ロシア革命(1919)により新制【ソビエト連邦】が建国された。時の宰相スターリンは、日本に奪われた満州や朝鮮を取り戻す為、毛沢東と金日成を支援した。
 それは中国国内では、蒋介石(中国)軍と毛沢東軍は 内戦や協力を繰返す結果になり、日本軍と戦える状態にはならなかった。
 それで満州は一応小康状態とはいえ、ソ連の挑発や中国全土で【反日抗日運動】は益々激しくなると、日本軍は中国本土深くまで侵攻の手を片時も緩められる状態ではなかった。
 それは中国権益が日本に奪われることに、米英初め世界中から強く反発したが、この期に及んで日本は満州や朝鮮なくして存立できる状態ではない。 内地では、【連戦連勝の報】が届く度に沸きあがり、男子なら当然の様に軍隊で出世に憧れた。 そして国中誰もコントロールできない程、戦意が盛り上がっていた日本は国際連盟を脱退して侵攻を続けた。




    太平洋戦争への道すじ

 * 
≪日本と米英との関係 〜 日米開戦の糸口≫
 日本は、満州を支配しているといっても中国全土で猛烈な反日運動や、絶え間ないソ連の挑発、全世界から【満州支配の違法性】が追求された・・・。 
 しかし国民生活は、食料も経済も殆ど軍需に廻され・・・朝鮮半島や満州頼みという窮状では、(関東軍は)中国に侵攻して成果を持ち帰ること以外の考えはなかった。
 そうして軍拡と中国権益を独占する日本には、世界中から批難が強まった。 米英も容認できないレベルに達すると蒋介石軍に武器・弾薬を支援する一方、日本には国際連盟や軍縮会議などで軍縮を強要した・・・。

 しかし日本は満州国を独立国に仕立てあげ、国際連盟を脱退して中国侵攻や軍拡を続けた。
 遂に日米開戦不可避の気運が高まると、(大東亜共栄圏を謳って)タイ、ニューギニアなど・・・東南アジアを併合して石油など資源を確保するの一方、欧米と対立すいるドイツ、イタリアと【日独伊三国軍事同盟】を締結した・・・。
 そしてアメリカは遂に、経済制裁や石油輸出禁止の制裁に踏み切った。
山本五十六ら海軍幹部の一部や、昭和天皇も開戦には消極的だったが、連戦連勝に浮かれる 陸海軍兵士や、政治家やマスコミや、国民世論は無知力を駆使して 日米開戦への道が正論化されていった。

 * ≪日ソ中立条約≫  (1941年4月)  
 日露戦争で”旅順軍港”という最重要基地を含む【満州全域】を失った【ソ連】は、毛沢東を支援し、執拗にその奪還を狙っていた。 日本に対しては≪恨み心髄≫に達している筈のソ連が・・・この期に日本間の条約など・・・信じ難いことだが・・・《日ソ中立条約》が締結された。

  ◆【ソ連の立場】は
 日独伊が三国軍事同盟を締結し、日・独の動きが不穏になれば、最強連合国である【日・独】の挟み撃ちを恐れたのか?・・・。  しかし戦争末期、日本の敗戦が決定的になると、友好関係(日ソ中立条約)を一方的に破棄して連合国側に参戦した。 戦後世界の主導権を考ての参戦だろうが・・・、しかし敗戦と同時に満州国や日本(北方領土)に侵攻してきたのは、それが本来目的(日ソ中立条約が異常)だったと見るべきだろう。
 
  ◆【日本の立場】は
 日本と米英との対決が深刻化してくるにつれ、開戦準備を着々と進めてきたが、ソ連を敵に回しては開戦できない。 その意味で ”日ソ双方の利害” が一致した。
 あわよくば≪日独伊三国軍事同盟≫と≪日ソ中立条約≫を連結して、【日独伊ソ 4ヵ国】共同して米英と戦うという模索もあった様だが・・・、ともかく日ソ中立条約の締結で、【日米開戦】後 背後を突かれる恐れはなくなった。


真珠湾攻撃
 * ≪太平洋戦争に突入≫
 日本が豊かになる条件は 『戦争に勝つこと』 というのが、挙国一致の認識だったろう。 その一心で国民は汗水流して働き、”志し ある若者”は軍に入隊願し、出世するのは最高の栄誉だった。
 現に中国大陸では日露戦争後、30年間も戦争(事変・事件)を続け、連戦連勝、その毎に日本国中が沸いた。 軍も政府も国民も・日本の ”糧” を確保する為の戦争』 だから負けを想像する人もいない。 日本が生きる為の【正義の戦争】と信じて日米開戦に突き進んだ・・・。

 別の見方では、米国(ルーズベルト大統領)が、石油輸出禁止政策などを実行して『故意に戦争に導いた』 と言う人もいる。
 しかしそれは最後の引き金になったかも知れないが、それ以前に戦争への流れはできていたと、という考えである。
 山本五十六ら、海軍側は物量的にも 【無謀な戦争である】 こと何度も警告している。 それでも中国大陸での 『連戦連勝』に自信過剰になった陸軍将校たちや政府役人や、浮足立った国民の圧倒的な”無知力” が、世界の大勢を見失ったと見るべきだろう。



 * ≪太平洋戦争の経過≫
 日本軍の対戦相手は、中国からアメリカに移り、中国戦線はひとまず下火になった。
中国は当然、連合国側なので、日本人(居留民)は敵国の国土に住む状態だが、日本軍が満州国や中国内を制圧している間は、目立った争いにはならかった様だ。
日本軍は、石油資源や食糧確保の為、直ちに兵を南方に差し向けて、インドシナ・タイ・ビルマ・マレーシア・シンガポール・インドネシア・ニューギニア・ソロモン諸島辺りまで制覇し、快進撃で大東亜共栄圏を築いた。

 しかし開戦から半年後、ミッドウェー海戦(1942.6)の大敗を境に、形勢は一気に逆転した。
ミッドウェー作戦は、《米・豪軍を分断》が第一目的だが、先制攻撃でパールハーバーの空母を誘い出し空軍部隊に大打撃を加え、あわよくばアメリカとの早期講和に漕ぎ着けるなどを目論んで、山本五十六が提唱した。
 しかし策戦計画はは全て敵側に解読され、日本の誇る大量の”零戦機とパイロット” 、最新鋭艦空母(4隻)は、まんまと敵の待ち伏せする包囲網に突入し、全てを失う結果になってしまった。
 これにより主戦力を失った日本軍は、以後アメリカの 物量・科学兵器戦には成す術もなく制海権を奪われ、太平洋駐留部隊は弾薬も食料も不足する中で勇猛に戦い全島玉砕、集団自決に追い込まれた。 多くの島で弾薬も食料も完全に尽き丸腰で敵と戦った、と言うよりも多くは餓死と病死で果てた。 生き残った兵士はジャングルで蛇やネズミなどを食べて命を繋いだ。
 こうして太平洋の島々は ガダルカナル島の激戦から始まり、南洋諸島〜南アジア〜マリアナ〜パラオ〜グアム、サイパン〜フィリピン〜沖縄へと順次陥落した、サイパンが陥落すると(1944.終頃から)B-29による 本土直接空爆が始まった。


 * ≪大陸打通作戦≫ 
 (陸軍=1944.4)

From Wikipedia,the free encyclopedia
 日本は、近海の制海権も制空権も奪われ、物資の入手も窮すると、中国の華北と華南を結ぶ鉄道を確保し、南方の資源を陸路で日本へ運ぶ作戦をたてた。
それは、総距離 2,400km という膨大な作戦であるが、成功すれば、釜山(朝鮮半島)から 中国を縦断し、泰緬鉄道を経てビルマまで、鉄道で繋がる。

それは、アメリカの長距離爆撃機B-29による 中国から日本本土へ爆撃可能な飛行場の占領や、重慶軍(蒋介石軍)の撃破と併せて 計画された。
そして、路線の占領に成功し、地図上は釜山からビルマまで鉄道が繋がった。 しかし中国ゲリラを排除しながら大陸を運行するの容易でなかった。
 B- 29の基地も、マリアナ諸島が陥落して(サイパンから)日本本土爆撃が可能になったので意味がなくなった。



 * ≪インパール作戦≫  (陸軍=1944.3〜7)
  インパールはインド北東部にあり、イギリス軍が駐留して、ビルマ経由中国への補給路を開こうとしていた。
日本軍にとっては、これをが進攻すれば中国軍の弱体化と、インドの独立運動も誘発し、戦争を有利にできる。
 しかし乾季でも川幅600mもの大河を渡河し標高2,000m級の山地行軍、人口希薄地帯での糧食徴発など、作戦は無謀とされていた。
 以下は、新聞雑誌、ウェブ情報、BSIスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等の寄せ集め=「私の歴史観」で、私が調査したものでないことを断っておく。

 太平洋戦線で日に日に悪化する戦局を横目に、『一気に打開したい』という寺内寿一南方軍総司令官の強い思惑を、同時期にビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也が強硬に支持した。 反対する者は大和魂云々とか卑怯者として排除され、確固たる作戦検証のないまま (1944.3) 9万の将兵によって実行された。 それは雨期を避け 3週間で、インパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。
しかし現実は、インパールの手前 15km地点に近づくのに 2か月を要し、大河の渡河や高峻な山地行軍で武器も糧食も失い、餓死や疫病により兵も失う惨状で、対戦体制を整えて対峙しているイギリス軍と立ち向かった。

 それでも牟田口司令官は「100メートルでも進め」と、丘の上に陣取ったイギリス軍への総突撃を指示し続け、この丘は無数の日本兵の血が流れたことから《レッドヒル》と呼ばれている。
 しかしこの惨絶な戦いは、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、天皇にも東條首相は「剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する」と上奏した。

 作戦開始から3か月後(1944年6月)には 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死)し雨期に入っていた。 この地方の降水量は世界一と言われているが、更に30年に一度の大雨だったと言われている。
密林は辺り一面の洪水に、兵士たちは宿営の場所もなく、食料も流される状態でも作戦は中止せず、戦死者は増え続け、ようやく大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。
 しかし作戦中止後、つまりレッドヒル一からの撤退路は、激しい雨の中、敵の攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河を越えるまで400kmには、全戦死者の6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
 腐敗が進む死体。群がる大量のウジやハエ・・・帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12放送)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見たよ、人間が転んでしまえばハゲタカもいきなり飛びついてくる、戦場で目にしたものを絵にしてきたが最も多いのは餓死する仲間たちの姿だった、(1人でいると)肉切って食われちゃう日本人同士でね・・・、ともかく友軍の肉を切って物々交換したり、マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士、・・・それがインパール戦だ」・・・等々。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したか公式の記録はないという。

 この敗北後、各地に残留する日本軍は次々玉砕した。 イギリス軍はビルマを完全に奪還し、中国への補給ルートを確保した。


  * ≪太平洋戦争の経過≫ 図示

沖縄戦連合軍上陸 (S20/3)

連合軍機編隊 (S20)

日本内地空襲 (S20)


   * ≪太平洋諸島陥落〜硫黄島玉砕・沖縄決戦
 太平洋の島々は 南洋諸島〜南アジア〜マリアナ〜パラオ〜グアム、サイパン〜フィリピン〜へと順次陥落し、日本兵の玉砕が相継いだ。
 サイパン島には陥落後は 2,000機の《B-29》出撃基地が建設され(昭和19年終頃)日本本土への往復爆撃が可能となった。 引き続き、遂に本土決戦の砦である硫黄島・沖縄まで迫ってきた。
 硫黄島では島全体を要塞化して抵抗したが、地形が変わるほどの艦砲射撃と空爆を伴う上陸作戦で玉砕した。
 沖縄戦でも海全体を埋め尽くす程の艦船と舟艇による上陸作戦に対し、日本軍は呉軍港から 戦艦”大和”を急行させたが、鹿児島沖で襲撃を受け敢えなく撃沈された。 しかし本土への防波堤として 1日も長く持ち堪える為に、日本軍は住民を壁にして敵軍と対峙する形になったので、住民も死者 10万人という激戦になった。


  * ≪戦況悪化 〜 日本本土空襲≫
 こうして太平洋戦線は遠方の島々から順に陥落し、 サイパンや硫黄島が堕ちると敵機による本土空爆が可能になった(昭和19年終頃〜)。 昭和20年に入ると本土爆撃は益々熾烈の度を極め、本土への無差別爆撃が始まった。
 アメリカ側は、本土で被害が甚大になれば降伏するだろうと、1日も早い降伏を期して無差別爆撃を拡大した。
本土空襲に備え、大都市では児童疎開や、学徒動員などで民家の取壊し(類焼防止帯)なども行われた。
 しかし 何100機もの敵機編隊が、1波、2波、・・・と飛来し、東京、大阪、名古屋など・・・約半年間に主要200都市以上が完膚なきまで焼き尽された。 呉市内も跡形なく焼かれ海軍工廠も完全に爆破された。
 空襲は親にも子にも容赦なく身寄りを奪い、誰の援助もなく路頭に佇む幼子たち、その後の極度な食糧難のさ中をどう生き残ったか・・・。 
 その頃、呉湾周辺には ”大和”など、健全な大型艦船が大集結していた。 人々はそれを勇壮と見たか?、悲壮と見たか?・・・燃料不足で出撃できない大艦船群だった。 しかしその中から”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃して行った(昭和20年3月)。 その後、呉湾に停泊していた大戦艦群の雄姿も1隻残らず、沈座する臥体と化した。

 それでも降伏しないのは計算違いだったか(?)、遂に広島・長崎に原爆が投下された。

 真珠湾奇襲攻撃は、 『アメリカに大打撃を加えることで早期講和』を目論んだ日本だが、攻守逆転し全く反撃不能で何故こんなに執拗に降伏しなかったのか(?)、一旦始まると終えられないのが戦争だろう・・・。

 それでも自から仕掛けた戦争で本土決戦は 1年弱の期間だった。 しかし中国本土は他国の侵略で、満州事変勃発から 10年余り、新制中華民国(中国)発足からは 30年も悲劇が繰り返されていた。 それを日本人はどう考えるか?・・・。


 * ≪ポツダム宣言と ソ連の対日参戦≫  (1945年7・8月)
 ソ連は、日ソ中立条約により、中国・満州・日本への攻撃には参戦しなかった。
しかし日本の戦況悪化した終戦間近、米国、中国、英国の首脳がポツダムで会談し、ポツダム宣言が発せられた。
 日本に、【ポツダム宣言受諾(=無条件降伏)】 を勧告された(1945,7,26)。 しかし日本政府は、受諾を前提にしながらも、天皇制維持など少しでも有利な条件を得ようとして、日ソ中立条約を拠り所に ソ連に 『和平の仲介』 を打診し返事を待った。
 しかしソ連は 日本の申し出を放置し、逆に中立条約を破棄して連合軍側に参戦した。 
そしてアメリカによる原爆投下後、結局(ソ連の仲介なしで)ポツダム宣言を受諾して戦争は終結した(1945,8,15)。


  * ≪戦争終結後の ソ連侵攻≫
 ソ連軍は、戦争終結直後、南樺太・千島列島や満州国等に奇襲侵攻を開始した。
それは正式の終結は『8月15日でなくミズリー号の艦上で調印を行った(9月2日)時だ・・・』という理屈もあるかも知れない。
 しかしソ連が海洋に出るには、南樺太・千島列島が”至上命題”なのは明らかである。 それにアジア進出には【満州奪還】を、日露戦争以来40年間も 執念を燃やし続けてきた。
 『連合国に参戦した』と言っても終戦直前の約1週間に過ぎない。  ソ連軍にとっては、(連合国軍というよりも)『日露戦争で占拠された領土奪還・・・』 という初志目標貫徹の為には、(日本の敗戦は)【千載一遇のチャンス】だったと見るべきだろう。


 * ≪敗戦直後の 満蒙残留兵と入植者たち≫
 敗戦時、関東軍は消耗しきっていて、ソ連侵攻軍に対し何の援護もできないまま、ソ連軍は 残留の関東軍兵士や民間人も有無を言わせず襲撃した。 捕虜として連行された日本人はシベリアに抑留され、過酷労働を強要された。 その数は、定かな数字は分からないが、その数 50万人とも60万人とも・・・、その内栄養失調と寒さで 死者は20数万人以上と言われる。

 満州住民も、日頃の屈辱から日本人に対する復讐感情が一気に噴き出した。 もはや軍事力のない在留兵士や入植者(満蒙開拓団)たちは、現地住民にも襲われ帰還を急いだ。
 しかし列車の運行も まま成らず、取り残された大勢の日本人は、或いは集団自決し、或いは脱出した者もソ連軍や現地住民の襲撃を逃れながら荒野をさまよい、食料もなく衰弱する子供や、力尽きた親兄弟を置き去りにしながら・・・やっと日本に帰還できた「引揚者」は、(入植者30数万人+兵士??万人の中)10万人余りといわれる。

 戦争終結後、無抵抗の一般人にまで残虐悲惨な目に遭ったことについては・・・、それ以前、日本統治時代に(武器をもたない満州や中国人に対して)日本軍がしたことは何だったのか ?? 満州・中国人にとって、当時のことは戦争が終結しても消えない筈だ。 どんな理不尽な行為を働き、強い反日感情を植えつけてきたか・・・検証しないと論ずることはできない。 しかし当時の帰還兵は一切語らないし、後代の日本人も検証に消極的だ・・・。

 終戦時に中国にいた日本軍人の内、BC級戦犯は蒋介石政府に処刑された。 それを除く軍人120万人、民間人80〜90万人は、1年ぐらいで日本への引揚げを完了させた。


 

 
   戦後処理の問題

  * 国際連合設立と戦後ルールの設定≫

 現在でこそ国際連合を中心として戦争回避の力学が働く。 しかし以前 ”弱肉強食”時代は 交戦した敗者には多額の賠償が課せられるのが当り前になっていた。 第1次世界大戦の反省から国際連盟が設立されたが、それも侵略国を制裁する力が不十分で、依然として弱肉強食世界は継続していた。
 日本は国際連盟の設立さえ消極的だったが、当時の満州進出が認められたので加盟した。
 しかし今回、第2次世界大戦の戦後処理は、@勝利側の主戦国(=米・英)と、A甚大な被害国(フランス、中国=蒋介石政府)と、B大国=ソ連の協議により国際連合が創設され、新しいルールが決められた。 しかしソ連の(大戦参加はごく僅かで)どれだけ発言力があったのか(?)。 結果として『南樺太はソ連に、北方領土は日本に帰属、朝鮮半島は独立国に、満州・台湾は中国(蒋介石政府)に』 返還が決められた。

 日本は敗戦国だから有無を言えず決定に従ったが・・・《ソ、中、韓》には、過去(国際連合設立以前)の慣習に照しての不満があったとしても不思議はないだろう。
   @【ソ連】;日露戦争以前の領地など領土に原状回復など、
   A【中国(=後の毛沢東政権)】;日本に侵略され続けた代償、
   B【韓国】;日韓併合時の屈辱に対する日本への仕返しなど、
 その結果、次の様な問題がくすぶり続けてきた。
 ◇ スターリンと米英とは嫌悪な対立は、未だにすっきりしないで続いている、
    北方四島返還にも応じていない。
 ◇ 韓国は、李承晩ラインや竹島占有や、慰安婦問題等反日思想は未だ消滅していない。
 ◇ 中国(毛沢東政権)は、国内の内紛が続出し、日中国交回復も1972年までかかった。
     

  * ≪北方領土問題≫
 《日露戦争を違法として》原状回復を主張するソ連にとって、(終戦時にも実際に占領した)『北方領土は日本に帰属』という国連決議は、不満だったことは想像される。 日本は、国連決議に従って当たり前の様に主張してきたが、70年経った現在まだ解決していない。
 これは日本に当てはめて見ると、偶々敗戦国だった為、国連決議には有無を言わせず《日清戦争も日露戦争も違法として》 満州国と台湾を返還した。
 しかし、もし日本が敗戦国でなければ、国連決議に従ってそんな【貴重な領土】を返還しただろうか・・・?? それは日本国内でも大混乱になるだろうし安々とは返還できないと思う。 それは現ロシアも同じではないか?
 アメリカだって、占領した沖縄を簡単に返還した訳ではない。 時の政府との密約で、『基地付き、核付き、安保付き、治外法権付き、多額の補助金継続付き・・・』で、アメリカ側の権利は現在になっても基本は変わられない。

 領土問題は、国連決議の尊重とか、歴史認識の共有とか・・・そんな政治家の寝言でなく、双方の利益になる方法を真剣に見つけ出さない限り解決しない・・・。

 


  その後の経過

 
  * ≪その後の日本、韓国、中国事情≫
  日本の敗戦は、家族も身内も家財産も失い余りに酷い国土の荒廃に、張りつめていた人々の心は落胆に変わった。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍も入場し、機雷の始末や破壊物件など戦後処理が始まった。食料配給が始まり、徐々に食料や物資や労働力も確保できる様になると、焼け跡にバラックが建ち少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。
 そしてようやく平和が見えた頃、朝鮮動乱の勃発は、朝鮮半島の悲劇と裏腹に日本にとっては《特需景気》という、真に”慈雨” となった。 その後約半世紀で、アッという間に世界第2位の経済大国にまで発展した。
 日本は、@敗戦により過去とのしがらみを全てご破算にできたこと、A富国強兵に寄与した朝鮮半島からの徴用工の労働力や、B日中戦争・太平洋戦争で培った高度技術が全てフル活用できた。 。
 そう考えれば明治維新以後、韓国人や中国人の犠牲の上に成り立っている』ことも忘れてはならない。

 それに比べ韓国では、戦時の技術もなく、過去のしがらみ(官吏汚職など)や、日韓併合時に日本人の手下で働いた人などとの感情問題も中々断ち切れず・・・、日韓格差が開く程 日本に対する反感が増すという国民感情が続いていた。 ≪日本統治時代≫には、政治制度の改善や、教育の拡充を計り、現地人を高官に登用して政務を経験させ・・・、 日本軍独自の指導や、鉄道や各種工場や、ダムなど沢山のインフラを残した。 
それが戦後の独立や発展に大きく寄与したことは間違いない。 それは日本軍も評価されなければならない。

 これに対し中国は、アヘン戦争以降、弟2次大戦終結まで主導権がとれず、諸外国に侵略され続けた。 その為、政治・制度・技術・インフラ基盤・・・等々は、殆ど何もないまま戦後を迎え、その後も紆余曲折を経ながら現在に至っている。
 しかし満州など日本統治地区は、欧米の様な奴隷制度による支配と異なり、政治制度や、鉄道、電力、鉱物資源、産業、教育制度、銀行制度など・・・種々の面で遺した遺産は
、戦後中国(中華人民共和国)を導く上で大きな貢献になった筈だ。
 しかし文化大革命(1966-1977)でつまづき、中国共産党は”改革開放路線”に転換し現在に至っているというが、その意味は私には勉強不足でよく分からない。
 

 * ≪
ラストエンペラー溥儀;その後の生涯≫

 溥儀は、3才(1908)から、清朝滅亡(1911)まで皇帝の座に即位し”ラストエンペラー”と称せられる。 彼は関東軍に巧みに利用され≪満州国皇帝≫にも担ぎあげられた(1932)。 しかし関東軍の配下の【満州国皇帝】とは、名ばかりで何の裁量権も与なく利用されるだけだった。
 例えば、関東軍が定めた(満州国)制度に従って、反日運動家の処刑(文書に署名)や、満州人耕作地を(所有者不在として)日本人入植者に与える《文書の署名》の強要など・・・悲劇的な役職であった。
 敗戦直後日本に亡命しようとしたがソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 東京裁判(1946)では 証人として東京に護送され、関東軍に脅かされて満州国皇帝になったと主張したがシベリアに戻された。 数年後シベリアから中国に移送され
(1950)、中国国家や人民を欺いたことで撫順(戦犯収容所)とハルピン(再教育)で約10年間収容された。 戦争犯罪人特赦令(1960)で釈放後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。周恩来は、清朝皇帝以後不幸な運命を辿った溥儀には同情的だったと言われている。


 * ≪国民党軍(蒋介石)vs 共産党軍(毛沢東)内戦 ≫
 国・共双方は共同して、『強敵国日本』 に交戦すべきだが、ソ連の支援を受ける共産党は≪中国本土の支配≫が目的だから、両者は最後まで噛み合わなかった。
 そして両者間の決定的な衝突は、日本の敗戦撤退後(1946)に起こった。 当初は、蒋介石が アメリカからの軍事支援で攻勢だったが、その後
”自力更生”を目指し支援が停止されると、ソ連から軍事援助を受ける毛沢東軍が反転攻勢に変わった。

 それに対し、蒋介石(国民党政府)は、『中華民国憲法』を制定して≪正当政府≫の体裁を整えて(1948)対抗した。 しかし
毛沢東軍(共産党)は軍事攻勢をかけ、瀋陽、北京、上海、南京・・・と中国全土を武力占領し 『中華人民共和国』を建国した(1949)。


  * ≪その後の中華人民共和国(中国本土)
 戦勝国とは云え、対日戦でボロボロの中国本土では『国家統治状態は無』に等しい。 ず〜っと指導者不在で政治、経済、文化、産業、国家統治・・・など、あらゆる知識も 法制度も 『荒れ放題』 だっただろう。
しかも、中国共産党(毛沢東)はソ連に利用された軍閥であって、国家統治の経験は無い。 欧米に匹敵する進んだ組織や制度もない。 恐らくソ連に指導(or利用)されながら歴史を刻んでいった。

 その中で最も
『救い』 は、満州国や日本統治地区に遺された日本軍の遺産、・・・それは政治制度はもとより、鉄道、電力、鉱物資源、産業、教育制度、銀行制度など・・・、戦後中国(中華人民共和国)の確立に大いに役立った筈だ。 その点、日本の統治は、欧米の《奴隷制度》支配とは、明らかに違っていた。
 しかし、何しろ、世界が急速に近代化していく中で、10億人以上もの未開に等し人口を抱え、文化大革命など紆余曲折を繰り返しながら、現在に至ってもまだ、色々な問題が噴出しているのが実態ではないか・・・。

   ◆ 文化大革命 1966-1977
 文化大革命は、政治・社会・思想・文化全般の改革運動といわれても理解が難しい。
 毛沢東が政権の座について20年経れば、内部からの批判や対立が激化してきた。 その為 毛沢東派は、主導権堅めの為、一切の資本主義的思想を排除しようとして大規模な粛正劇に発展した・・・のが実態ではないだろうか ?。
 
 それは《紅衛兵》を組織して、党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込んで、政権の反抗者が大規模に粛正され、文化財の破壊や、経済活動の大きな停滞を招いた。
 文化大革命による死者は40万人とも、何100万人とも言われているが・・・よく分からない。

 しかし1970年代になると、次第に沈静化していった。 そして1976年に周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)も失脚して終息した。

紅衛兵の図
  それ以後、中国共産党は”改革開放路線”に転換し現在に至っているというが、”改革開放路線”という意味も私には勉強不足で分からない。

   ◆ 日中国交正常化(1972年)と、その後の問題  
 以上の経緯で、国連の代表権は台湾の【中華民国】にあり、現中国【中華人民共和国】を承認する国は少なかった。 つまり本土の中国は、国際的には反乱軍にすぎなかった。
 しかし≪中華人民共和国(本土)≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来を中心にして国交正常化交渉が行われた。
 ここで注目すべきは、敗戦国には莫大な賠償が要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から
『小異を捨てて大同につく』・・・。 つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直られない』、ともかく適当な妥協点を求めて解決するかわり、日本は≪中華人民共和国≫を承認ことで決着した。 それにより≪中華人民共和国≫は国連の代表権を獲得するという大偉業が成り、双方共に画期的な利益を得た。

 ただ
、『小異の解決は後代の賢明な判断に任せる』 として、『尖閣問題は双方が先送りした』と、当時の日本政府役人がテレビで語っていた。
 それが事実とすれば 『尖閣は我が国固有の領土だ。議論の余地なし』 と言う主張はちょっとおかしい。
 しかし我が国固有の領土と言うなら、どうして今までに 灯台なり、漁船避難施設なり、何も建設しないできたのだろうか?。 ”竹島” だって韓国は 既に立派な構築物を設けている・・・。
 日中国交正常化後 40年間経た今、尖閣や海底油田開発の動きも、歴代の日本政府が ”黙認 してきた”と言われ、何十年か後に既成事実とされれば、解決策は軍の出動しかなくなるのではないか・・・・。


 * ≪その後の台湾≫
 台湾は、日清戦争(1895)の勝利国(日本)に割譲され 50年余りは、日本の統治下で平穏に推移していた。
 その間に、鉄道はほぼ全土に開通、木材伐採運搬用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラ整備に加え、治安、政治、経済、教育なども最新の制度を整備されていた。 現地人は日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本の敗戦で、中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。


阿里山森林鉄道(沼平駅)
木材伐採用鉄道⇒現在は観光用

  しかし蒋介石政府は(本土で)、毛沢東軍の追撃され≪中華民国政府≫の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し(台北で) ”国民政府” を組織した(1949)。
 それにより≪中華民国(=正式中国)≫の首都移転で、国連常任理事国の首都は台湾に移った。 本土の《中華人民共和国》は反乱軍(クーデター)という構図だ。
 ここで毛沢東軍が台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいたからだろう。
 蒋介石も台湾で独立宣言をしなかったのは、《中国本土に再入城》を考えたのではないか・・・?。 結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は現在も複雑な関係が続いている。


烏山頭水庫(ウサントウダム湖)灌漑用
ダム湖=建設;八田余市

  その蒋介石政府は、外省人(中国本土から一緒に入城した中国人)で 組織した。 彼らに反抗する本省人(台湾人)を大量虐殺(2.28事件)した。 日本統治時代に高等教育を受けたエリート層などは次々と逮捕・投獄・拷問された。 殺害された人数は、数万人と言われている。 しかし治安悪化や役人の不正等、日本統治を経験した台湾人には耐え難かったという。

 台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代の制度やインフラが大いに役立った。 それは(中国本土が毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何10年も先行して発展軌道に乗ることができた。
 その後日本は中国(本土)との国交正常化(1972)で、台湾は非承認となり、国連の代表権も失ったが、親日関係は現在も維持されている。


 * ≪その後の朝鮮半島≫
 ”日韓併合” とは日本版植民地政策で、欧米の様に原住民を奴隷扱いするのでなく、一定の教育を受けさせ、能力に応じて一定の職位も与えていた。 しかし朝鮮人は下級人種などと差別され、徴用工として、戦場や、各地の軍需工場や工事現場に送り込まれ、危険作業や重労働を強いられた。 私は30年前、韓国に赴任していた時、複数の韓国人から体験談として聴かされた。 
 従軍慰安婦も(安倍首相が) 『強制連行していた証拠はない』と言っても事実無根という確証はない。 それでも給料が支払われ朝鮮の制度で下層階級には親日もあった様だが・・・、多くは日本人に強い嫌悪(克日)を抱いていたので、日本の敗戦時には、各戸に国旗(?)を掲げて日本からの解放を祝ったという。
 その 3年後(1948年)、金日成は ソ連の支持で北朝鮮を、李承晩は 国連の支持で 漸く大韓民国(韓国)を建国し、国境(38度線)が引かれたので多数の家族が離散した。

 
朝鮮動乱

 しかしそれも束の間、金日成軍が、突如戦車を連ねて南進した(=朝鮮動乱; 1950)。
  つまりスターリンは、”金日成”を指揮して朝鮮半島支配を企て、ソールから釜山まで韓国全土が戦乱状態になった。 それに対し国連軍は、仁川から増援部隊を入場させ、金日成軍を分断した。
 要するに朝鮮半島は
”米ソ代理戦争の戦場” となり、韓国全土が地上戦に巻き込まれた。
 一般住民は、金日成軍に服従させられたり、戦火を避けようとして南に北に避難した。
 その後、北緯38度線に沿って
停戦ラインが設けられ、(現在まだ終戦していない為)国境を越えられず、離散した家族の殆どは再会できないでいる。

 日本との関係では、日韓併合時に受けた差別や屈辱は簡単には癒えない。
 
朝鮮動乱が小康状態に達した(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島を含む公海上に突如【李承晩ライン】を設けて日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、(日本の言う国際法でなく)日韓併合時の屈辱に対し《仕返し=克日》に闘志を燃やして、日本の弱みに突け込んだのではないか・・・と思う。
 そして竹島には立派な施設を建設し、領有を正当化する教育を 数10年以上精力的に続けて、今の韓国民はそう信じ込んでいる。 それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。 それを ”黙認”してきて、最近になって島根県や日本政府は、どう解決していく積りか? 通り一遍の理屈を通そうとする政治家の本性が問われる。


 

  ■  感  想

@ 
* ≪ 『歴史認識共有化』 の矛盾  
  『歴史の真実は想像する以外にはない』・・・と言うのが私の持論だ。
過去の歴史は、時の権力により書き替えられ、時勢の願望に合わせて修正される。 断片的な証拠は解釈の仕方でどうにでもなる。 現在伝えられている多くの歴史も、部分的な考察では何が真相か・・・甚だ疑問が多い。
しっかり成文化されている筈の憲法だって、思いもよらぬ解釈変更が成されるのだから、国家間での 『歴史認識の共有化』など・・・、互いに都合の良い材料をデッチあげるだけ・・・。 軽々しく言うのは政治家の寝言でしかない。

A 
* ≪ 国家間の相互理解 ≫ 
  日本は富国強兵策を旗印に30年以上満州に入城して支配し続けた。 @満州まで領土支配を拡げたのは(欧米の)植民地政策に対する防衛上必要だった、A更なる軍隊強化は 満州支配を維持する為に 必須件だった、更にB中国本土侵略も 満州や朝鮮半島の安泰を保つ為に必要条件になった。
 しかしそれは日本側の理屈である。 その為に関東軍は現地でどんな行為を働いたのか・・・?帰還兵や軍当事者は一切語らない、それを(日本人は)聴こうとする人もいない。
 所が当事者も90歳を超え余命が悟られる頃になると、テレビのドキュメンタリーで 『捕虜の扱いに困って上官から処刑を命令され・・・とか、樹に縛りつけて銃剣訓練の的に・・・とか、毒ガスで生体実験を・・・』とか、黙秘の呵責にさいなまれて語る姿が痛ましい。
 しかし中国人や韓国人が、南京大虐殺事件や、慰安婦や徴用工像など・・・日本兵の凶暴を訴え様とすると、日本の政治家はあの手この手で反論や・矮小化する。
 しかし原爆の被爆体験談などは、オバマ大統領や各国首脳を広島に招いたり、大々的に世界に訴えようとする。
 加害の事実を封印して、被害者の立場を強調するのは各国共通かも知れないが、国家間では 『相手の立場を理解1しようとしないで≪相互理解≫など』 と言うから問題がこじれる。

B 
* ≪ 日本元首の靖国神社参拝 ≫ 
  
国の為に誠を捧げた 戦争犠牲者(日本兵)の英霊に対する尊崇の念・・・』、
それは日本人の理屈であっても、だからと言って、日本の元首たちの靖国神社参拝は ちょっと無神経ではないか・・・。
 日本が、現在の様な経済大国に発展できたのは、戦死した日本軍兵士の手柄であることは間違いない。
 しかし、日本軍兵士の手柄は、イクオール朝鮮半島の住民や徴用工の踏み台、及び中国側兵士や現地住民たちの犠牲である。 日本兵士(一人)は、中国戦線で何人の中国人を殺害したか?・・・、日本国の元首たる者は、靖国参拝の前に被侵攻国の犠牲者にも尊崇の念を表さねばならないのではないか・・・。

C 
* 弱肉強食時代の 侵略国と被侵略国について  ■ 
 しかし欧米諸国は中国権益が奪われることになるので強く反発していたが、日本は満州や朝鮮なくして存立はできない。その為には攻撃の手は片時も緩めることはできないかった。
 そして中国では、他国の侵略で、満州事変以後(=本格的な戦闘) 10年以上、日本の満州入場からは30年以上も続いた。 そんなことを日本人はどう考えるか・・・
??

 侵略国(日本)側に対する批難は批難としても、当時の世界では弱肉にならない為、必死に行った自己防衛策だった。 とすれば
【弱肉強食の世界】では侵略された側にも、一定の問題はあるのではないか?・・・。
 それに、日本の侵略が勢いづいた要因には、『
国民政府(蒋介石)軍と 中国共産党(毛沢東)軍が』足を引張り合った責任も考えねばならない。 それは、もし日本の侵略がなくても、満州は当時のロシアに、中国本土は 欧米諸国に侵略されていた可能性は大きいと考えられる。
 もっと以前に遡れば、英国も、中国(当時”清国”)に侵出しアヘン戦争など極めて悪どい侵略行為をしてきた。 その延長上で(日本は)米英と戦うハメになったが、その主原因は(日本の侵略行為と言うよりも)≪中国権益が独占されることの阻止≫だったとすれば、
最後に敗戦国となった日本だけが《侵略国》というレッテルを貼られ、『』(米英は善良国視される)のも・・・如何なものだろう?・・・。 ■

 

 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840〜1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911〜1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928〜1934)
 ◆4.日中全面戦争突入         (1934〜1940)
 ◇5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国  (1940〜    )