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| このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です | ||||
| 3. 満州国樹立~日中戦争(1928~1934) |
| ■ 満州国独立宣言 |
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| ◆◇ ≪満州国独立≫宣言 |
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| そうして、首都(=長春)は「新京」と改名し、 元首(執政)は「溥儀」 が即位して、 、『満州は、 国民党政府との関係を離脱し完全に独立せり』 と、≪満州国の独立≫を宣言した(1932-3-1)。 |
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| 建前は〖満州人たちが自主的に建設した「近代国家」〗だが、実態は日本の「傀儡国家」で、「満州国」の承認は、世界どの国にも得られず、日本は国際連盟を脱退した。 |
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| しかし日本国内では〖満州国樹立〗の快挙に、国家を挙げて祝賀ムードに沸き上っていた。 | |
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◆◇ ≪リットン調査団報告 1932(昭和7年)≫ 国際連盟からは、リットンを団長とする実態調査団が派遣され、満州で3カ月にわたり調査した。 しかし提言は形式的に中国側の主張を認めたが、日本を制裁する条項は【あいまい】で ”実” のないものだった。 その為、関東軍は却って「お墨付き」の様にして満州支配を続行した。 |
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| ◆◇ ≪日本の孤立化≫ 調査団報告】と、次々ステージが進んだ。 それは; ◇中国(蒋介石政府)にとっては、リットン調査で擁護されないのみならず、日本と戦いながら、 ソ連の支援を受ける毛沢東軍にも足を引っ張られる関係になっていた。 ◇一方の日本は、迷走する蒋介石軍(恐らく反日ゲリラ)相手の戦いに連勝を続け、 日本国内は「大本営発表」に歓喜に沸いていた。 |
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| ※ しかし、欧米からも疑念の目が強く向けられ、日本政府は孤立を避けようと、懸命に外交努力をしたが、”満州国”は、国際連盟の 1 国の承認も得られなかった。 | ||
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| ■ "溥儀" の満州国皇帝即位 | ||
| ◆◇ ≪溥儀の満州国皇帝即位(1934.3)≫ この時、溥儀は清朝伝統の皇帝服竜袍(ロンパオ=黄色の清朝皇帝専用服)を着た。 夜は一族で大祝宴会を開き、弟の溥傑(ふけつ)の音頭で 『皇帝陛下万歳』の歓声を浴びた。 そして翌月、日本を訪問し大歓迎に接し、溥儀にとっては得意の絶頂だった。 |
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◆◇ ≪傀儡国家 =皇帝;”溥儀”の任務≫ 溥儀の実質任務は、例えば日本人入植者の為に、現地人の土地財産を没収したり、捕虜や反抗者の処刑など、日本人の言う通りに署名することだった。 |
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| ◆◇ ≪ラストエンペラー「溥儀」の生涯≫ |
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| 更に、1937年には、『満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、皇帝の後継者は関東軍が定める』 とされ、関東軍は日本人女性と結婚させようとした。 しかし溥儀には正室や側室もいたがそれも遠ざけられ、結局、溥傑(溥儀の弟)が日本女性”浩”を妻(愛新覚羅浩)にした。 | ||
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| しかし再度シベリアに戻され、数年後シベリアから中国に移送された(1950)。 しかし中国国家や人民を欺いた罪で、撫順(収容所)とハルピン(再教育)に約10年間収容された後、特赦令(1960)で釈放された。 その後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 周恩来は、不幸な運命を辿った溥儀には同情的だったと言われている。 |
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| ■ 満州の国家建設と、呉界隈の賑わい | ||
| つまり道路、鉄道、商工業、諸々の役所施設、デパート、ホテル、・・・農地開拓など、あらゆる施設が建設され、奉天・新京・大連などは、世界が羨む超近代的都市に生れ変っていた。 それには内地業者や、満蒙開拓団など大勢の移民や、”呉”からも、千福酒造や土建関連業者なども参加し大いに潤っていた。 |
![]() 新京 大同大街「康徳会館」 ![]() 奉天 「大和ホテル」 |
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| 何しろ「満州」は、食料も各種資源も豊富で、「日本国存立」の生命線だけに、国家を挙げて大祝賀ムードに包まれた |
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| 昭和10年(1935)開催の「国防と産業大博覧会」は、2ヵ月足らずの入場者70万人という盛況だったという。 |
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| ◆◇ ≪ 国際連盟脱退以降の満州 ≫ 1934~ しかし中国本土にも「反日・抗日運動」は益々激化し、衝突や事件が絶えず日本人居留民の安全を守る為、関東軍は攻勢あるのみ片時も手は緩められなかった。 しかし大規模な戦闘も戦争とは言わず 『〇〇事件』とか 『✖✖事変』と呼んで、勝利の度大本営発表に(国内は)軍部も、政府も、国民も、マスコミも・・・、歓喜していた。 そして 『戦争批判など』 を口にすれば 『非国民』 と罵られ、作家たちは投獄された !! 。 |
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◆◇ ≪満蒙開拓移民団≫ 1936(昭和11年)~ しかし満州の肥沃な荒野は、開墾すれば幾らでも農地が拡がる。 内地に送る食糧も、石炭や鉄鉱石も・・・夢あふれる別天地に、政府(広田弘毅内閣)は大量の入植者を送り込んだ。 以後も内地の窮状に伴い、太平洋戦争終結まで 30数万人もの入植者を送り込んだ。 しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 の謳い文句の現実は、酷寒の雑木原野を人力で開拓し、食糧生産するのは容易でなかった。 |
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入植者は”開拓移民団” という日本人社会の中で生活したが、日本人意識が強く、(満州国籍に変更せず)日本国籍のまま通す人が多かった 食料配給量やその他で、人種(日、中、ソ)差別が激しく、日本人はかなり優遇されていた。 地元住民と交流はあっても、彼らは日本人開拓移民団を敵視し、中々溶け合わなかった。 それでも関東軍が強権支配していた間、《満州国内の安泰》は保たれていた。 |
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| ■ 蒋介石軍の動き * ≪西安事件 1936 ~第2次国共合作 1937≫ |
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張学良は、関東軍に父(張作霖)が爆殺され、故郷(満州)も奪われ、中国内を流浪する将軍だったが、このままでは(日本軍に)中国本土も占領され兼ねないと焦りがあった。 その頃、中国民も反日・抗日感情が沸騰しており、彼は 国民党(蒋介石軍)に、同じ中国人である共産党(毛沢東軍)と合作して抗日行動を実行することを懇願した。 |
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| 蒋介石の戦略は、中国単独では日本に勝てないので(英米ソ)を引き込んで攻略する。 しかしその前に日本を攻略すれば、 「国民党と 共産党の内戦になる」ので、『共産党軍の壊滅が先だ !!』と言う戦略(?)だった。 現に共産党(毛沢東軍)は、本拠地(満州)を(関東軍に)追われ、中国本土に逃避し、そこでも蒋介石軍に追われ、壊滅寸前だった。 しかしそれは共産党としては予期せぬ事態で、激しく対抗した。 そして結局、周恩来が蒋介石と会談し、共産党攻撃を止めて、再度「国・共合作」を取り決めた。 しかし張学良は、どちらにも受入れられず、軟禁されて歴史から消えた。 この事件が、その後の歴史に与えた影響として、 ①共産党(毛沢東軍)は、壊滅の危機を免れた。 ②間もなく勃発した「日中戦争」では「抗日統一戦線」が実現した。 ③しかし大戦終戦後、(蒋介石の)予想通り、「国民党軍と共産党軍」は内戦が勃発し、 毛沢東軍が中国本土を占領、蒋介石軍は台湾に逃避した。 |
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| ■ 私の歴史観 * ≪中国 と 日本 近代史対比≫ |
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