このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です  mail

 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◇3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

3. 満州国樹立日中戦争(1928~1934)


  ■ 満州国樹立
  ◆◇ ≪柳条湖事件~満州事変~満州国樹立≫宣言
 関東軍参謀;石原莞爾は、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を故意に爆破し、間髪入れず、『中国側(張学良ら)による破壊工作だ !!』と断定して報復攻撃し、全満州を制圧した。
 勿論、関東軍による≪でっち上げ事件≫だが、満州は完全に日本の支配下に入った。(柳条湖事件 ・満洲事変 1931=昭和6年)
 当時、日本政府は、一貫して戦争不拡大を掲げて国際外交を進めていたが、関東軍の起こした事件は、(対外的に)正当化せざるを得ず、中国内だけでなく世界からも日本批難の目が注がれた。 そこで関東軍は 「第一次上海事変」を工作して
世界の目を向かせ、その裏で「満州国樹立」準備を進めていた。

  ◆◇ ≪満州国樹立≫宣言
 そうして
1932年3月1日、関東軍は
 『満州は、 国民党政府との関係を離脱し完全に独立せり』
と、≪満州国の樹立≫を宣言した。
 但し、それは、日本が宣言しただけで、世界のどの国からも承認されなかった。
 それに合わせて、満州国の首都(=長春)は「新京」と改名、元首(執政)には「溥儀」が即位した。
 溥儀は、かつて清朝での地位 「皇帝」より格下の「執政」とされたのを不満とし、「皇帝」位を要求したが 時期尚早と撥ねられた。

  ◆◇
≪リットン調査団報告 1932(昭和7年)
 中国(蒋介石政府)は、≪日本の侵略~満州国樹立≫を違法と して、日本の満州侵入以前の原状回復を求め 国際連盟に提訴した。 そして国際連盟からリットンを団長とする実態調査団が派遣された。
 調査団は満州で3カ月にわたり調査したが、提言は形式的には中国側の主張を認め、しかし日本を規制する条項は【あいまい】で、 ”実” のないものだった。 その為、関東軍は却って「お墨付き」の様にして満州支配を続行した。
 ≪紛争解決に向けた 「リットン調査団」 の提言≫
・◇満州には、国際連盟が派遣する顧問の指導で中国主権の自治政府を樹立する。
・◇満州は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた機構が治安の維持を行う。   
・◇日中両国は『不可侵条約』、及び『通商条約』を結ぶこと。 等々

 リットン調査団について
 
リットン調査団

 彼らは正義というよりも、欧米諸国の使者で、欧米諸国による 【植民地化】 を正当化しながら「中国の立場」も認め 、しかし『日本に制裁を加えれば、世界の混乱を招く・・・』 等々、
 つまり、①国際連盟の非力さ、②欧米列強の我欲、③日本の行為に「お墨付き」を示唆する内容になり・・・、以後 ”日中戦争 →大平洋戦争” に繋がる重大要因になったと見るべきだろう。
 調査団が来る前、関東軍は総力あげて対応準備した。 調査団の通り道はチリ一つなく清掃し、満州国国旗を掲げ、溥儀の写真を飾り、反日、反満州国を唱える不穏分子は留置場に送り、想定される問答集も用意されていたという。
 そして溥儀は、関東軍が用意した通りの回答しかできなかったが、関東軍幹部は 『溥儀の態度は『立派だった』 と褒めたという.。
 しかし溥儀は後日、『あの時自分を 「ロンドンに連れて行って欲しい」 と言いたくて迷った。 しかしそれを言ったら間違いなく殺されていただろう』 と述懐していたという。

  ◆◇ ≪日本の孤立化

  日本(関東軍)は、【柳条湖事件~満洲事変 ⇒第一次上海事変、⇒満州国樹立、⇒リットン
  調査団報告】と、次々ステ
ージが進んだ。 それは;
   ◇中国(蒋介石政府)にとっては、リットン調査で擁護されないのみならず、日本と戦いながら、
    ソ連の支援を受ける毛沢東軍にも足を引かれる関係になっていた。
   ◇一方の日本は、迷走する蒋介石(政府)軍(と言うより恐らく反日・抗日ゲリラ)を相手に
    連勝を続け、日本国内は「大本営発表の勝利報道」に歓喜に沸いていた。
 しかしそれは、満州・中国との嫌悪は勿論、欧米からも疑念の目が強く向けられ、日本政府は孤立を避けようと、懸命な外交努力をした。 しかし”満州国”は、国際線名では 1 国の承認も得られなかった。

 
 当時の新聞 ”松岡洋右”
◆◇ ≪日本の国際連盟脱退  1933(昭和8年)≫
 1933年3月、松岡洋右外相は、【満州国】の国際承認を求めるため国連会議に出席した。 松岡を待っていたのは、『日本は満洲から撤退し、中国が自治機関を作る』  という勧告案の採択だった。 松岡は懸命に反対演説したが、42対1(棄権1)=つまり、松岡を除く全員が勧告案に賛成した。
つまり、(日本の投じた 1票以外)どの国からも
『満州国の承認』は得られなかった。
 
しかし『満州国が承認されない』 と言って引下がる選択肢はなかった。 松岡は、『日本及び満州国の見解は、国際連盟の勧告とは異なる・・・』 と演説し、サヨナラと告げて国際連盟を脱退した。
 松岡は採択の前、政府からの電報で、脱退も やむを得ないと言われていたが、帰国した松岡は凱旋将軍の様に、新聞もラジオも褒め称え、国内大衆は拍手喝采で彼を迎え入れた。

  ◆◇ 溥儀の満州国皇帝即位(1934.3)
 関東軍は 満州国支配を安定・強固にする為
”満州国の独立” を宣言した。 勿論、関東軍が宣言しただけだが、溥儀は(摂政位から)満州国皇帝に昇格した。
 この時、溥儀は清朝伝統の皇帝服竜袍(ロンパオ=黄色の清朝皇帝専用服)を着た。 夜は一族で大祝宴会を開き、弟の溥傑(ふけつ)の音頭で 満場から 『皇帝陛下万歳』の歓声を浴びた。 そして翌月、日本を訪問し大歓迎に接し、溥儀にとっては得意の絶頂だった。

歌舞伎を観劇
 横浜に上陸した溥儀は、列車で東京へ向かい、東京駅では昭和天皇自らが出迎えた。 皇居内で歓迎の宴が設けられ、日本の元老達を引見し、軍隊を閲兵し、皇太后(昭和天皇の母)の手を取って皇居内を散歩したり、歌舞伎を観劇したり、金閣寺、奈良公園も観光し・・・極めて充実した日々を送った。

 帰国した溥儀は 昭和天皇の日本における地位は、私の満洲国における地位と同じだ。 満州国民は私に対し 『日本国民が天皇に対するのと同じだ・・・』 と演説した。 本気でそこまで勘違いしていたと思うと哀れを感じる。(映画”ラストエンペラー”より)


  ◆◇ ≪傀儡国家 =皇帝;”溥儀”の任務≫
 日本主導で創建した『満洲国』だが、皇帝は ”満州人” でなければ体裁が整わない。 それには、
皇帝;”溥儀”(1906-67)は打ってつけの人材だった。
 満州国憲法では、皇帝は 総理大臣始め大臣を任命する。 しかし、次官以下の官僚は 関東軍が任免する仕組みなので、関東軍が同意しなければ動きがとれなかった。 しかも関東軍将校;「吉岡安直や工藤忠」が、常につきまとい、皇帝”溥儀”は、その指示通りに動くしかなかった。
 溥儀の実質任務は、例えば日本人入植者の為に 現地人の土地財産を没収したり、捕虜や反抗者の処刑など、日本人の言う通りに署名することだった。

  ◆◇ ≪ラストエンペラー「溥儀」の生涯≫  
 ”溥儀” についてもう少し触れると、溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し、”ラストエンペラー” と呼ばれる。 その後彼は、関東軍に巧みに利用され「満州国皇帝」に担ぎあげられた(1932)。 しかし「満州国皇帝」とは名ばかりで、何の裁量権もなく、関東軍の指示通りに動くしかない・・・悲劇的な役職だった。
 更に、1937年には、『満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、皇帝の後継者は関東軍が定める』 とされ、関東軍は日本人女性と結婚させようとした。 溥儀には正室や側室もいたが、日本人女性との結婚を拒むと、それも遠ざけられた。 結局、溥傑(溥儀の弟)が日本女性”浩”を妻(愛新覚羅浩)にした。
   敗戦の際には、日本に亡命しようとしたがソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 東京裁判(1946)では 証人として、一時東京に護送され、「関東軍に脅かされて満州国皇帝になった」と主張した。
 しかし再度シベリアに戻され、数年後シベリアから中国に移送された(1950)。 しかし中国国家や人民を欺いた罪で、撫順(収容所)とハルピン(再教育)に約10年間収容された後、特赦令(1960)で釈放された。 その後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。
 周恩来は、不幸な運命を辿った溥儀には同情的だったと言われている。

             参照;清国皇帝『溥儀』 の即位



 ■ 蒋介石軍の動き
 * ≪西安事件 1936 ~第2次国共合作 1937≫
 蒋介石(左)と張学良(右)
蒋介石(左)と張学良(右)
  話しを戻す。 こうして関東軍が着々と満州の支配堅めをしている間も、国民党(蒋介石軍)と共産党(毛沢東軍)は激しく対立していた。 そんな中で、張学良が武力で蒋介石を監禁する事件(西安事件)が起こった。

 張学良は、関東軍に父(張作霖)が爆殺され、故郷(満州)も奪われ、中国内を流浪する将軍だったが、このままでは(日本軍に)中国本土も占領され兼ねないという焦りがあった。
 その頃、中国民も反日・抗日感情が沸騰しており、彼は 国民党(蒋介石軍)に、同じ中国人である共産党(毛沢東軍)と結んで抗日行動を実行することを懇願した。
  しかし過去の経緯があり、「共産党(毛沢東)憎し」の蒋介石は、頑として聴かなかった。
 蒋介石の戦略は、中国単独では日本に勝てないので(英米ソ)を引き込んで攻略する。 しかしその前に日本を攻略すれば、その後 「国民党と 共産党とは内戦になる」ので、『共産党軍を壊滅させる方が先だ
!!』と言う戦略(?)だった。 現に共産党(毛沢東軍)は、本拠地(満州)を(関東軍に)追われ、中国本土に逃避し、そこでも蒋介石軍に追われ、壊滅寸前の状態だった。
 そこで張学良は、態度を反転し、蒋介石軍と組んで共産党壊滅の先鋒に立った。
 それは共産党にとっては予期せぬ事態に激しく対抗した。
 しかし結局、周恩来が蒋介石と会談し、共産党攻撃を止めて、再度「国・共合作」を取り決めた。
 しかし張学良は、どちらにも受入れられず、軟禁されて歴史から消える事になった。

 この事件が、その後の歴史に与えた影響として、
  ①間もなく起った「盧溝橋事件」を発端に勃発した「日中戦争」で「抗日統一戦線」が実現し、
   米英を味方につけた。
  ②共産党(毛沢東軍)は、壊滅の危機を免れた。
  ③しかし第二次世界大戦後、(蒋介石の予想通り)「国民党軍と共産党軍の内戦になり」
   毛沢東軍が中国本土を占領し、蒋介石軍は台湾に逃避する結果になった。

  ◆◇ ≪ 国際連盟脱退以降の満州 ≫ 1934~
 「満州国独立」と言っても、関東軍が制定した≪満州国法律≫は、現地住民と日本人の差別扱いは酷かった。 入植者(”開拓移民団” )は、日本人社会の中で生活し、地元住民との交流はあっても、食料配給量やその他は、人種(日、中、ソ)差別は激しく、住民同志の衝突が絶えなかったと言う。 それでも関東軍が武力支配していた間は、一応、《満州国内の安泰》は保たれていた。

 しかし中国本土でも「反日・抗日運動」は益々激化し、衝突や事件が絶えず日本人居留民の安全を守る為、関東軍は攻勢あるのみ片時も手は緩められなかった。
 そして大規模な戦闘も戦争とは言わず 『〇〇事件』とか 『✖✖事変』と呼んで、勝利の度大本営発表に(国内は)軍部は勿論、政府も、国民も・・・マスコミも歓喜していた。 そして 『戦争批判など』 を口にすれば 『非国民』 と罵られ、作家たちは投獄された !! 。

  ◆◇ ≪満蒙開拓移民団≫ 1936(昭和11年)~
  経済恐慌の影響で、国内は失業者が溢れ、ハワイやブラジルからも移民受容れが拒否された。
 しかし満州の肥沃な荒野を開墾すれば幾らでも農地が拡がる。 内地に送る食糧も、石炭や鉄鉱石も・・・夢あふれる別天地に、政府(広田弘毅内閣)は大量の入植者を送り込んだ。 以後
も内地の窮状に伴い、太平洋戦争終結まで 30数万人もの入植者を送り込んだ。
  しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 の謳い文句の現実は、酷寒の雑木原野を人力で開拓し、食糧生産するのは容易でなかった。
 そこで満州国政府は、現地人の耕作地を村ごと 【無人農地】とし、???万ヘクタールもの用地を日本人入植者に与えた。 耕作地を没収された農民たちは、勿論、強く抵抗したが、反日組織と交わらない様、【集団部落】に塀を囲って隔離された。
 入植者は”開拓移民団” という日本人社会の中で生活したが、日本人意識が強く、(満州国籍に変更せず)日本国籍のまま通す人が多かった
 食料配給量やその他は、人種(日、中、ソ)差別は激しく、日本人はかなり優遇されていた。 地元住民と交流はあっても、彼らは日本人開拓移民団を敵視し、中々溶け合うことはなかった。 それでも関東軍が強権支配していた間は、《満州国内の安泰》は保たれていた。
 

 しかしその顛末は、約10年後、日本の敗戦と同時に反日感情が爆発した。 関東軍も日本政府も消耗し切って、在留日本人たちは何の救援もないまま、ソ連軍に攻撃され、現地民にも襲撃され、或いは村ごと集団自決し、或いは食料もない荒野をさまよい、衰弱した家族兄弟、赤ん坊や子供を見捨て、置き去りにしながら、命からがら日本に帰国できたのは11万人あまり (?)と言われている。 こうして帰国した人も多くは住む家も仕事もなく、食糧難も極限状態で苦難を余儀なくされた。



   私の歴史観
  * ≪中国 と 日本 近代史対比

  中国・日本両者間の明暗は、
 ①それにしても中国(清国)は、1800年頃には世界に冠たる超大国だった。 しかし英国は 18世紀半ばから始まった産業革命により新式武器を手に入れ、その波は遂に清国に波及した時、有頂天にある大清帝国の皇帝たちは、何の備えもないまま英国との交易を開始した。 それは次々圧しつけられる不条理に、アヘン戦争(1840)などが勃発したが、英国の武力には足元にも及ばず、ボロボロにされてしまった。

 それから数十年後、清国を引継いだ中国(蒋介石政府)も、欧米勢の侵攻を止められず、急進してきた日本にも侵略され ソ連の支援する毛沢東に足を掬われ・・・、政治、経済、軍事、科学技術等々・・・基盤が育たないまま大東亜戦争が終結まで外部勢力に翻弄され続けた。

 ②一方の日本は、明治維新改革を成し遂げると、欧米各国を味方につけ驚異的な発展を遂げた。
その結果、日韓併合や満州支配も実現し、食糧も資源も・・・国民生活も潤った。
 しかし、それにより中国全土に巻き起こる「反日・抗日の嵐」は、年を追う毎に凄まじく、鎮静する為の戦闘規模は、際限なく拡大する結果になった。
 
蒋介石軍は、内憂外患の中で「日本軍の不法侵略」を全世界に訴える(プロパガンダ)と、局地戦(ゲリラ戦)を展開した
それに対し米英は、日本が中国を呑み込む事態は容認できず、蒋介石軍に武器支援した。
一方の日本軍は、その後各地での衝突や局地戦に連勝し、日本内地は有頂天になって 「暴支膺懲」とか「対支一撃論」が飛び交った。 しかし幾ら勝利しても兵力や財力を消耗するだけという泥沼状態に陥った。
それが更に昂じ、米英は、(日本に)「経済制裁や石油禁輸制裁」を課す様になると、日米開戦(太平洋戦争)気運は、愈々高まった。 
 ③ こうして愈々「太平洋戦争」が開戦し、日本は敗北するが、戦争を通して開発し、経験し、培われた科学技術や、政治、経済、社会制度などは、戦後あらゆる方面に活かされ、いち早く世界中で覇を競う先進経済大国に発展した。
 一方の中国は主導権のないまま、日本敗戦後もまだ、蒋介石軍と毛沢東軍の内戦が続き、中々発展軌道に乗れないで、日中の戦後は両極端に明暗が分かれた。

 ④それは、アヘン戦争当時から始まって100数十年、西太后時代から約150年、新制中華明国建国から100年以上、中華人民共和国建国から60年経た最近まで・・・尾を引くことになっていると言うのが、両国の現状ではないだろうか?。
 それは現在の日本も、『失われた〇〇年間とか・・・』、一度蓄積した貧困政治の負債は、100年経ても容易に払拭できないことを歴史教訓とすべきだろう。


  この続き ◆4.日中全面戦争突入(1934~1940)



 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◇3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )