このページは、『個人的な想像等を含めて ”歴史”を考える』のが目的です。
あくまで私個人の歴史観なので、真相判断は読者側で願います。


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840〜1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911〜1928)
 ◇3.満州をめぐる攻防 と 満州国設立〜日中戦争へ  (1928〜1934)
 ◆4.日中全面戦争突入      (1934〜1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国   (1940〜  )


3.満州をめぐる攻防と満州国設立日中戦争(1928〜1934)

 ■ 満州事変〜日中戦争へ突入(日本軍の満州侵略)

 *
≪満州の地理・政治・歴史的背景 

 満州は現中国東北部、”万里の長城” の外側にある。
果てしなく広がる原野は、かつて中国本土から窮乏難民や、遠島の罪人、山東省から移民などが開拓を進めていたが、清国にとっては僻地で重要視されていなかった。
しかし、日本やソ連にとっは、食糧、地下資源、及び国家戦略上極めて重要な地として注目されていた。

 つまり、
@ 清国(=西太后政権)時代には、放置状態で統治は張作霖に委ね、張作霖はロシアの支援を受けて満州の地を掌握していた。
A ロシア(後にソ連)にとって、満州は軍事およびアジアへの経済進出拠点として非常に重要で、張作霖を支援して旅順・大連まで鉄道を開通させ堅固な要塞も建設していた。
B 日本は、富国強兵、人口急増政策の下、財政状態も国民生活も極度な窮乏状態にあり、満州の地は鉄鉱石や石炭など地下資源や、広々とした原野は食糧生産にも、夢あふれる王道楽土だった。
C ロシアと日本の関係は、超大国(=ロシア)対、新興小国(=日本)の構図で紛争には至らなかった。 しかし、日本は日清戦争(1895)に勝利し、朝鮮半島が支配下に入ると、日露の野望が正面からぶつかり(日露戦争)に発展した。 しかし日本が勝利すると、満州にいたロシア軍を駆逐する様にして入城した。
Dしかし中華民国(=清国崩壊後の蒋介石政権)時代になると、満州を含めた中国統治を目指した為、中国、日本、張作霖(背後にロシア支援)との間で満州争奪戦が始まった。 しかし日本は張作霖を爆死させて、事実上満州を支配した。
Eそれに対し、ロシアは大混乱の末《ロシア革命(1917=大正6年)》により 新制【ソビエト連邦】が誕生し、ソ連は毛沢東(朝鮮半島にも金日成)を指揮して、満州〜中国本土〜朝鮮半島の奪還に執念を燃やした。


 *中華民国(=蒋介石政府)対 日本軍の対立 

 1928年(昭和3年)、難産の末発足した≪中華民国(蒋介石政府)≫だったが、ヨチヨチ歩きの国家に、百戦錬磨の日本は容赦しなかった。 他の諸外国も態度は冷たかった。
日本軍の満州侵出に対し、抗日運動が中国全土で湧き起こったが、日本軍の前では無力に等しかった・・。

 一方の日本は ”富国強兵”策の下、産めよ増やせよの人口政策と・・・絶対的な食糧難〜耕地不足に加え失業者も増加し、ハワイ、アメリカ、ブラジルなどへの移民を奨励していた。 
しかし世界的な経済恐慌(1929)で、受入先に窮すると満州には有利な条件が揃っていた。 見渡す限り肥沃な荒野を開墾すればいくらでも農地に変わる。 鉄や石炭など地下資源も豊富・・・食糧も日本へ輸送できる。
 そんな夢を新聞や、その直前に始まったラジオ放送が生々しく伝え、国民の目に満州は王道楽土に映った。


 その一方 蒋介石は、中国統一を目指し統治能力を高めてくると、関東軍は(蒋介石の権限が満州に及ばない様に)”満州”を独立国 にする工作をした。 その為
日中間には次々と小競り合いや事件(事変)が勃発した。 当然中国全土が反日・抗日の嵐に包まれた。 それにソ連も毛沢東を支援して虎視眈々と中国侵略を伺う構図となった。
 それは、《満州の安泰》を保つには、関東軍は 『攻撃あるのみ』で、片時も攻撃を緩めることができず、中国本土深くまで侵略し続けた。 それらの戦闘(事変と呼んだ)を取り上げればキリがないので、以下主なものだけ挙げる。

 *柳条湖事件 〜 満洲事変 (1931=昭和6年)

  1931(昭和6)年9月、関東軍参謀;石原莞爾は、奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、南満州鉄道の線路を爆破した(=柳条湖事件)。 そして間髪入れず、『中国側(張学良ら)による破壊工作だ』と断定して全満州を報復攻略した。
 直ちに現場近くの中国軍兵営を占拠し、翌日には奉天、長春、営口の各都市も占領した。 奉天市内では爆弾を投げ込み、(それも中国人の仕業として)ハルピン出兵の口実を作り・・・、そんな手口で、わずか5ヶ月で満州全土を制圧する・・・という歴代 まれな大成功を治めた
!!

 勿論、発端は中国側が起したのでなく、関東軍による
≪でっち上げ事件≫だった。
 しかし当時の日本政府は、一貫して戦争不拡大を掲げて国際外交を進めており、日本政府方針に反する事件だったが、これを咎めることができず黙認せざるを得なかった・・・。 こんな形で軍部独走が次第に常態化し、政府は管理能力を失っていった。
 こうして関東軍は、柳条湖事件の大成功?(
”満州事変”)に端を発し、中国本土にも次々と侵攻を拡大した(”支那事変”)。 それらを一括して ”日中戦争”などと呼ばれる。
 そんな侵略行為は更にエスカレートし中国人の抗日運動は一層激化したが、満州を”独立国”に仕立て上げる工作まで進むと、遂に欧米も看過できなくなり、やがて太平洋戦争(1941年)こ発展する。
 こうして新制”中華民国”建国以来、太平洋戦争終結まで30年もの間、中国本土は ず〜っと(30年戦争)戦場にされ続けた。

 注1) * 『○○事変』とか、『○○事件』とか・・・の意味
『事件』とか『事変』は≪局地的な抗争≫の意味である。 敢えて 『戦争』と呼ばず、『○○事変』とか、『○○事件』と呼び日本は宣戦布告は一切しなかった。 世界には≪局地的な抗争≫と説明し、無用な妨害や干渉がされない配慮をした。
日中間は事実上 戦争状態になったとは言え、≪国家対国家≫の全面的な対決にはならなかった。  国交も、表面的には断絶せず、中国国内に在留邦人は堂々と居住し、領事館も両国におかれていた。

 注2) * 『関東軍』 の意味
中国本土は、外敵を防ぐ目的で≪万里の長城≫が築かれているが、長城には要所々々に関所が設けられている。 満州は、長城の外部、東北部にある。
つまり、日本の満州軍は 『
所の北部に駐留する部隊』という意味で、関東軍と呼ばれた。

 *第一次上海事変(1932.1) 

 上海事変は、1932年の第一次と、1937年の第二次の 2度起きているが、
ここは第一次を指す。
柳条湖事件を皮切りに関東軍の 露骨な侵略は、中国全土に大規模な抗日運動を呼び起こした。 それは中国内だけでなく、世界からも日本非難の目が注がれた。 そこで関東軍は、世界の目を反らす為、次の事件を計画実行した。

 上海駐留の田中義一の愛人(川島芳子)は、中国人の殺し屋を雇い、上海の街を歩いていた日本人僧侶を襲わせた。 つまり
中国人が、日本人僧侶を殺害したという口実をでっち上げた。
 (但し、口実の真偽は分からないが)、日本人居留民が(中国人に対する)怒りを爆発させて各所で暴力事件が発生した。
 それに対し上海工部局は19路軍(私軍)を出動させ、日本側も 海軍陸戦隊が出動させて戦闘状態になった。
最初は、中国軍の方が優勢だったが、日本は内地から派遣部隊を増派し、思いがけない大規模戦闘に発展した(2月20日)。 日本は更に増援部隊を送り、ようやく中国軍が退却するまで1カ月間、戦闘状態が続いた挙句、その後もすったもんださせて、やっと5月5日に停戦協定を成立させた。

  *満州国樹立(1932 = 昭和7年)

 世界中の目を(第一次)上海事変に向かせ、停戦協定を長引かせる裏で、 関東軍は着々と満州の占領固めをしていた。
そして1932年3月1日に
『満州は、 国民党政府との関係を離脱し完全に独立せり』 と、≪満州国の樹立≫を宣言した。 (但し、それは、日本が勝手に宣言しただけで、どこかの国も承認した訳ではない)
 これを機に、満州国の首都(=長春)は新京と改名、元首(=執政)として清朝最後の皇帝溥儀が即位した。
 溥儀は、かつて(清朝)皇帝だった地位が、それより格下の執政とされたのが不満で≪皇帝位≫を要求したが、 『時期尚早』 と撥ねられていた。

  *リットン調査団報告 1932(昭和7年)

 中国(蒋介石政府)は、≪日本の侵略〜満州国設立≫を、 『違法侵略と して、日本の侵入以前の状態に原状回復を求めて 国際連盟に提訴した。
 それに対し実態調査の為、リットンを団長とする調査団が派遣された。
 調査団は3カ月にわたり満州で調査をし提言がされたが、内容は次のとおり、形式的に中国側の主張を認めたが、日本を規制する条項は何れにも【あいまい】で、全く ”実” のないものだった。
 ≪紛争解決に向けた提言≫
・◇満州には、国際連盟が派遣する顧問の指導で中国主権の自治政府を樹立する。
・◇満州は非武装地帯とし、国際連盟の助言を受けた機構が治安の維持を行う。   
・◇日中両国は『不可侵条約』、及び『通商条約』を結ぶこと。

 ◇ リットン調査団について
 

リットン調査団
 彼らは正義というよりも、本心は欧米諸国の使者で、欧米諸国による 【植民地化】 政策を保護しながら・・・、しかし『(中国権益は)日本に奪われない様に・・・』 というそんなものだろう。

 調査団が来る前、関東軍は総力あげて対応準備した。 調査団の通り道はチリ一つなく清掃し、満州国国旗を掲げ、溥儀の写真を飾り、反日、反満州を唱える不穏分子は留置場に送り・・・、想定される問答集も用意されていたという。
 そして溥儀は、関東軍が用意した通りの回答しかできなかったが、調査団との会見後、関東軍幹部は、調査団に対する溥儀の態度は『立派だった』 と褒めたという.。

  溥儀は後日、『あの時自分を 「ロンドンに連れて行って欲しい」 と言いたくて迷った。 しかしそれを言ったら間違いなく殺されていただろう』 と述懐していたという。



  *日本の孤立化

 【柳条湖事件〜満洲事変 ⇒第一次上海事変、⇒満州国設立、⇒リットン調査団報告】と、いよいよ中国本土攻略の基盤は整った。
それからは、事件を起こしては蒋介石軍をおびきだし・・・、迷走する蒋介石(政府)軍を追って内陸の深くまで進撃を繰り返した。
 そんな中国を相手にして連戦連勝で歓喜に沸くパターンは、軍部のみならず国内で常態化し、後戻りはできなくなっていた。 
 一方の中国(蒋介石政府)は、訴えがリットン調査で擁護されなかったばかりか、ソ連の支援を受ける毛沢東も立ちはだかり、最も忌わしい敵;日本と戦いながら毛沢東にも足を引っ張られた。  
 日本は、それをあざ笑う様に、リットン報告を盾に侵略を繰り返し中国利権を独占する動きに走った。
しかしそれ(中国利権独占)は、欧米にも疑念の目が向けられる様になった。
 日本政府は孤立を防ごうとして懸命な外交努力をしたが、世界から危機感をもたれ、遂に、国際連盟での決議がなされた。

  *≪日本の国際連盟脱退  1933(昭和8年) 
 
当時の新聞
”松岡洋右”
1933年3月、松岡洋右外相は、【満州国】の国際承認を求めるため国連会議に出席した。 松岡を待っていたのは、『日本は満洲から撤退し、中国が自治機関を作るよう勧告する』  という勧告案の採択で、松岡外相は国連会議で懸命に演説したが、42対1(棄権1)=つまり、松岡を除く全員が勧告案に賛成した。
つまりどの国からも
『満州国の承認』は得られなかった。

 しかし日本には
『満州国が承認されないで』引下がる選択肢はない。
席上松岡は、『日本及び満州国の見解は、国際連盟の勧告とは異なる・・・』 と演説し、サヨナラと日本語で告げて退出。 =日本は国際連盟から脱退した。
松岡は採択の前、政府からの電報で、脱退も やむを得ないと言われていたが、帰国した松岡は凱旋将軍のように扱われ、新聞も褒め称えた。 国内大衆は拍手喝采して彼を迎え入れた。

  *溥儀の満州国皇帝即位(1934.3)

 関東軍は 満州国支配を安定、強固にする為
”満州国の独立” を宣言した。 それは(どの国にも承認されないで)関東軍が宣言しただけだが、溥儀は(摂政位から)満州国皇帝に昇格した。
 この時、溥儀は清朝伝統の皇帝服竜袍(ロンパオ=黄色の清朝皇帝専用服)を着た。 夜は一族で大祝宴会を開き、弟の溥傑(ふけつ)の音頭で 満場から 『皇帝陛下万歳』の歓声を浴びた。 そして翌月、日本を訪問し大歓迎に接した。 それは溥儀にとっては得意の絶頂だった。

歌舞伎を観劇
 横浜に上陸した溥儀は、列車で東京へ向かい、東京駅では昭和天皇が自らが出迎えた。  皇居内で歓迎の宴を受け、日本の元老達を引見し、軍隊を閲兵し、また、皇太后(昭和天皇の母)の手を取って皇居内を散歩したり、歌舞伎を観劇したり、金閣寺、奈良公園も観光したり・・・、溥儀としは極めて充実した日々を送った。

 帰国した溥儀は 『天皇と私は平等だ、天皇の日本における地位は、私の満洲国における地位と同じだ。 満州国民は私に対し 『日本国民が天皇に対するのと同じだ・・・』 と本気で考えていたのか?
そこまで勘違いしていたと思うと哀れを感じる。(映画”ラストエンペラー”より)

  * ≪傀儡国家≫
 日本主導で創建した『満洲国』の皇帝が ”日本人” では【日中合作(共栄)】という体裁が整わない。 それには、
皇帝;”溥儀” は打ってつけの人材だった。

 満州国憲法では、皇帝は 総理大臣始め大臣を任命することができた。 しかし、次官以下の官僚は 関東軍が任免することになっていたので、関東軍が同意しなければ動きがとれない仕組みだ。 そして関東軍将校の吉岡安直や工藤忠が、常に溥儀につきまとった。 つまり、皇帝”溥儀”は日本人や関東軍の指示通りしか動けない仕組みになっていた。
 溥儀の実質任務は、例えば日本人入植者の為に 現地人の土地財産を没収したり、反抗者の処刑なども日本人の言う通りに承認署名をすることだった。
 更に、1937年には、『満洲帝国皇帝に男子が居ない場合、皇帝の後継者は関東軍が定める』 とされ、日本人女性と結婚させようとした。 しかし溥儀は日本人女性との結婚を拒むと、関東軍に取り囲まれて正室や側室とも遠ざけられた。 結局、溥傑(溥儀の弟)が日本女性”浩”を妻(
愛新覚羅浩)にした。


  * ≪満蒙開拓移民団≫ 1936〜(昭和11年〜)
 日本は、富国強兵、”産めよ増やせよ” とあって絶対的な食糧難に陥っていた。 経済恐慌の影響で失業者も増加したが、ハワイやブラジルなどからは移民受容を拒否された。 それに対し満州には絶好の受け容れ条件が整った。 見渡す限り肥沃な荒野は、開墾すればいくらでも農地に変わる。 日本に食糧を送ることもできる。 鉄も石炭も確保もきる・・・。 そんな夢あふれる別天地(王道楽土)に、日本政府(広田弘毅内閣)は大量の入植者を送り込んだ。 以後、
日本内地の窮状が益々深刻化し太平洋戦争の終結までには 20数万人とも、30数万人とも言われる入植者を送り込んだ。

 しかし 『無尽蔵に広がる満蒙平原・・・』 という謳い文句の現実は、酷寒の地で雑木原野を人力開拓し、食糧生産することなど忽ちできるものではない。
 そこで満州国政府は、現地人の耕作地を 【無人農地】と一方的に指定し、???万ヘクタールの用地を日本人入植者に与え、入植者は
”開拓移民団” という日本人社会の中で生活した。 しかし移民者は、渡満後も日本人意識が強く、(満州国籍に変更せず)日本国籍のまま通した人が多かった。 地元住民(中国人)たちとは交流はあっても、中々解け合うことはなかったと聞いている。
 地元住民たちは、日本人開拓移民団を恨み、敵視し、衝突が絶えず、反日組織は拡大した。
村ごと耕作地を没収された農民たちは、勿論、強く抵抗したが、反日組織と交わらない様に、【集団部落】に塀を囲って隔離されたとか・・・しかし当時の日本人関係者は何も語らない。
 しかし関東軍が強権支配していた間は、一応《満州国の安泰》は保たれていた・・・。
しかし最終顛末は、日本の敗戦と同時に訪れた。 関東軍も日本政府も消耗し切って、入植者たちは何の救援もないままソ連軍に攻撃され、現地民にも襲撃されて、或る村では集団自決し、或いは食料もない荒野をさまよい、衰弱した家族兄弟、赤ん坊や子供を見捨て、置き去りにし散りぢりバラバラで、命からがら日本に帰国できたのは11万人あまり (全入植者の1/3ぐらい?)だった。 こうして帰国した人も、多くの人は住む家も身寄りのあてもない苦難を余儀なくされた。

 



 ■ 蒋介石軍の動き

 * ≪西安事件〜第2次国共合作≫ 1934
  ソ連の目標は、毛沢東(中国共産党)を支援して 《満州奪還・中国支配》することだった。
 

蒋介石(左)と張学良(右)
蒋介石(左)と張学良(右)

 関東軍が”満州国独立”を宣言していた頃、その毛沢東は江西省(西安周辺)まで勢力を伸ばしていた。
 一方の国民党(蒋介石)には、期せずして張学良(張作霖の息子)が帰順し、両者の協力体制 が改めて確立した。

 そこで蒋介石は、国家主席に就任して意欲的に近代化を推進しようと、即座に中国共産党に攻撃を加える為、張学良は合作(共同)して、(毛沢東のいる)西安を訪れた。

 所が、張学良は(やはり毛沢東の相棒だったのか・・・)、蒋介石と 周恩来(毛沢東軍の代表)を会談させて、《抗日強化の為に 国共合作》を応諾させた。
つまり、蒋介石軍は(仕方なく?)共産党(毛沢東)軍を 引き入れた。 【第二次国共合作】 1937である。 (注、国共;=国民党と共産党。 合作;=共同という意味)

 以前、蒋介石政府が中国統一を旗印にして立ち上がった時、満州を掌握していた張作霖は恭順しない為、彼を掃討しようとした。 結果的には関東軍が彼の乗る列車を爆破して爆殺した。 しかし張学良は彼の息子であり、蒋介石も信用していた訳ではないだろうが、対日抗戦の為に、改めて手を組もうとしたのだろうか・・・?

    前ページ; 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防(1911〜1928)
           *
≪第一次南京事件(1927)と共産党を掃討する運動≫ 参照



   感 想 (私の歴史観)

 ■  中国 と 日本 近代史対比 (1)

 それにしても中国(清国)は、1800年頃には世界でも超大国の一角だった。 しかし英国は 18世紀半ばから始まった産業革命により新しい式強力武器を得て、世界中を植民地化した。 その波は遂に清国に波及した。 しかし繁栄の頂点にある大清帝国の皇帝たちは、考えもなく英国との交易を受け容れた。

 所が、その結果は、極めて不条理で、それに対する抗議はアヘン戦争などに発展した。 しかし英国の武力には対抗する術もなく アッと言う間に清国はボロボロにされた。 しかしその後、政権を継いだ西太后も、海外勢には逆らわず従うだけだった。 しかし国内で 彼女に反抗する者は悉く粛正するという残酷手法で、内部崩壊を防ぎ約半世紀に亘って清朝は延命された。

 日本も、もし明治維新改革が成功しなければ、恐らく中国と同様、欧米列強の餌食になっただろう。
もし長州藩と薩摩藩の対立がなければ、坂本龍馬の出番はなかった。 盤石な権力基盤をもつ幕府の【大政奉還】も、【明治新政府】の発足もなかっただろう。 それで【幕府】が欧米と対等に交渉できたとは先ず考え難い。 そう考えると ”明治維新” という(クーデター同然の)大改革の成功は、極めて奇蹟中の奇跡と言える。

 ■  中国 と 日本 近代史対比 (2)
  中日両者間の明暗は、
 @迷走中国(蒋介石政府)は、急進国 日本に侵略され ソ連から支援を受ける毛沢東にも足元をすくわれ、欧米も決して協力的には動かず・・・、主導権がとれないまま立て直しの道筋は愚か、政治的、経済的、技術的・・・な将来基盤や蓄積は何もないまま、終戦を迎えた。

 A一方の日本は、明治維新改革を成し遂げ、欧米各国を味方につけ驚異的な発展を遂げた。
その明暗は、内憂外患の蒋介石中国への侵略を繰り返し、連戦連勝して食糧も資源も・・・戦利品で潤った。 日本内地では勝利の毎にお祭り騒ぎが止まらず、勢い乗る日本は、アメリカと開戦(太平洋戦争)するまで、中国大陸で思い通りに振る舞うことができた。

 Bその間に開発し培ってきた莫大な軍事関連技術や、政治、経済、社会などの制度は、戦後 いち早く平和産業、や国家戦略上あらゆる面に活かされ、日本は世界中で覇を競う先進経済大国に発展した。
 一方の中国は主導権のないまま侵略され続け、終戦後になってもまだ内戦状態が続き、中々スタートが切れないという、日中間は両極端の明暗に分かれた。
 その経過は、西太后政治開始から150年、新制中国建国から100年以上経た現在もまだ・・・尾を引いているのが、両国の現状ではないだろうか?。
 それは現在の日本も、『失われた〇〇年間とか・・・』、今の世界状勢が続く限り、『一度蓄積した貧困政治の負財は、100年以上経っても容易に払拭できない』という歴史教訓と理解すべきだろう。


  この続き ◆4.日中全面戦争突入(1934〜1940)






 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡    (1840〜1911)
 ◆2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防   (1911〜1928)
 ◇3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立   (1928〜1934)
 ◆4.日中全面戦争突入          (1934〜1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入〜日本敗戦、その後の各国    (1940〜   )