このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です mail

 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

1. 清朝(西太后政権)日本(明治維新)の興亡(1840頃~1911)
西太后時代(清国=英国侵攻後)~明治時代日本黒船来航後)
 

   大清清帝国(栄光の時代) ~ 欧州列強の侵入

 * 大清帝国栄光の時代 
 
清国(現;中国の前身)は、1616年に女真族のヌルハチにより建国された。
 ヌルハチは明帝国とモンゴル帝国を征服して
新制 『清帝国』を発足させると、『愛新覚羅』姓を名のり、【女真】の呼称を 【満洲】と改名した。
 その後≪1600年代後半~1800年頃まで≫は、最も聡明な皇帝(康熙帝 ⇒雍正帝 ⇒乾隆帝)が3代続き、台湾を併合し、外モンゴルとチベットを服属させ、黒竜江(アムール川)から東トルキスタン、チベットまで 現在の中国領土をほゞ確定し、1800年代初頭 には 世界に冠たる≪大清帝国≫を築いていた。 ところが 乾隆帝(1711-1799)没後、紫禁城は、連日、誇り高い皇帝たちの京劇など饗宴の舞台になっていた。

   ◆◇英国、及び欧州列強の侵出 
  1700年代後半頃、イギリスに始まった産業革命は、西欧列国に、武器、産業、経済、政治等、あらゆる分野に異変をもたらし、その中でもイギリスは、ナポレオン軍に勝利すると、(1800年代から)破竹の勢いで、世界中を植民地化していた。 

   ◆◇ ≪アヘン戦争(1840年)と その後の状態≫ そうして英国は、大清帝国にも交易を求めて侵出してきた。 所が、世界の冠たる「大清帝国」の皇帝たちは「交易は必要なし」と判断した。 しかし、それから何十年か後、軍事・政治経済、文化・・・あらゆる面に卓越した英国は、清国皇帝たちの相手ではなかった。 陶磁器や絹製品や貴重な文化財などが 次々持ち出され、見返りに東インド会社の香辛料や
アヘンが持ち込まれた。
 勿論、貴重品の強制持ち出しや アヘンの強制持ち込みなど・・・清国は不条理を抗議したが、そんな抗議など、受容れる相手ではなく、揚子江河口で激突した。 ”アヘン戦争”である。
 清国軍は前世紀の遺物なる大砲を手漕ぎボートに積み、幾10門もの最新式大砲を装備する大型動力軍艦に立ち向かった・・・ !!!?。 勝敗は言うまでもなく、清国軍の隊長≪林則徐≫は敗戦の責任を問われ遠島に処せられた。
   その後も、英国は第二次アヘン戦争や、アロー号事件など・・・、武力侵略を続け、方々で衝突が起こり、清国内は内乱の収拾がつかなくなっていた (太平天国の乱)。
 それは、ドイツ、フランス、ロシアなどの利権集団も 放置してはいなかった。 英国に続いて侵出し、上海や山東半島、遼東半島周辺などの要衝は、一方的に列強の「租界地や租借地」にして住みつき、とされ、清国人は、土地財産を一方的に奪われ、奴隷扱いにされた。
 こうして欧州勢は、清国の要所を一方的に租界地にしてとされ、清国人は、土地財産を一方的に奪われ、奴隷扱いにされた。
 こうして欧州勢は、清国の要所を一方的に租界地にして住みつき、清国の貴重な財産が持ち出され・・・・、時の皇帝(=咸豊帝)は、紫禁城で京劇に明け暮れる以外、成す術もなかった。



  黒船来航後の 日本国内の動静 ≪黒船来航とその対応≫
  清国が、英国や列強に侵略されていた頃、清国の惨状は、太平の眠りについていた日本にも。長崎に来航するオランダ船や、時おり近海に現れる異国船などにより伝わっていた。
 しかし清国より早く黒船が来航していれば・・・、日本は(黒船を)迎える準備ができたかどうか(?)
 
  ◆ ≪黒船来航と 日本国内の混乱≫
From Wikipedia ”黒船来航”
   (清国;「アヘン戦争」から) 約10年遅れて(1853年)、遂に ”黒船”来航し、開国と交易を迫られた。
 それに対し、
   ① 幕府(大老;井伊直弼)は、開国を決意した。
  ② 
長州藩、水戸藩(徳川斉昭)は、尊皇攘夷を
    主張し幕府と激しく対抗した。
  ③ 
薩摩藩は、幕府派についていたが、後には長州藩と
    組んで倒幕派に転向した。
  ④ 
会津藩と新撰組は、幕府への徹底忠誠を貫いた。
  ⑤ 
来日している欧州商人たちは、利益目的で武器を
    売り、内乱を拡大する動きをした・・・。
 ”黒船”を巡って「幕府」に対し「水戸藩・長州藩」は激しく対抗した為、幕府は独断(勅許を得ないで)で開国を約束した。
  それは水戸藩と幕府の関係は一層険悪化し、井伊直弼は 叛意を抱く志士たちを次々処刑した(安政の大獄 1858-59)。 それに水戸藩の過激派は益々激化し、井伊直弼は暗殺された(桜田門外の変=1860)
  その後、長州藩は薩摩藩と和合して「倒幕運動」に走った。 しかし幕府側は、頼みとする孝明天皇が崩御し、徳川慶喜は大政奉還 ⇒「鳥羽伏見の戦い」を経て、260年間続いた徳川幕府は滅亡した。

  ◆ 混乱の内情と 各々の動向
  そうして、「明治維新政府」の発足となったが、各々の事情について追ってみると、
長州藩  ”尊皇攘夷”を主張、三条実富ら過激派公家も加わり、過激な「倒幕運動」に走った。 しかしそれは、孝明天皇に忌避され京都から追放されると、翌年、陣立てを整えて再度、京都御所に押しかけ、幕府側勢力(会津班、薩摩藩、桑名班等)と交戦「蛤御門の変」となった。 結果、敗北したが、その後も幕府と対立し、最終的に「倒幕⇒薩長中心の明治政府」を創設した。 
孝明天皇;  元々は尊王派だったが、長州藩などの過激行動を忌み、「公武合体」を唱え、妹(和の宮)を将軍(徳川家茂)に嫁がせた。 しかし長州藩は終始倒幕に走り、忌避し続けた。 
薩摩藩; 「蛤御門の変」まで、長州と真っ向から対立していた。 しかしその後、坂本龍馬の仲介で《薩長協力》が成り、長州藩や岩倉具視ら(過激派公家)と合流して、明治新政府樹立(倒幕)を目指し 180度転向した。 それは会津藩や新撰組とは、真っ向から裏切りとなった。 
安政の大獄; 急遽、大老職に付いた”井伊直弼”は、「開国」を巡って水戸藩(徳川斉昭)と激しく対立し、異を唱える志士たちを次々処刑した(安政の大獄)。 それは水戸藩士を更に激昂させ、水戸藩の過激派により、桜田門外で暗殺された(桜田門外の変)。 
勝海舟; 徳川幕府の役人だったが 「開国」に当って「海軍創設」を説いた。 しかし鎖国下にあって外国と戦争経験のない我が国では、理解され難かったが、坂本竜馬が右腕となり、海軍伝習所を開設した。 明治政府発足の際は、西郷隆盛との折衝で「江戸城無血開城」に導いた。 
坂本龍馬; 元々、土佐勤王党(尊皇攘夷派)で、”外国かぶれ”の「勝海舟」を忌み、暗殺を計った。 しかし理路整然とした ”勝”の主張に説得され ”勝”の片腕となって、海軍伝習所の開設を導いた。 犬猿の仲だった薩長も和解させ、薩長協力して明治新政府樹立を目指した。 しかし幕府体制護持を信条とする会津藩や新撰組と敵対し、(明治の幕開け直前に)暗殺された。 
徳川慶喜; 幕末の最終局面、幕府存続をかけて争えば日本中が大戦乱になり、徳川家存続は愚か、日本が外国勢の餌食になるかも知れない重要な局面に、頼みとする孝明天皇が没すると、大政奉還を決断し、、徳川幕府最後の将軍となった。 
大政奉還; それは、260年も続き、健全に機能している幕府を廃し、武士など官職は全員失業すると言う、日本史上、奇跡の大英断と言える。 江戸城の無血開城は【勝海舟と西郷隆盛】との命がけの交渉でまとまったが、この『奇跡』がなければ、日本は分裂していたかも知れない。 
  会津藩;、新撰組と同様、幕府体制護持を信条として命がけで護ってきた。 しかし薩摩藩に裏切られ、幕府将軍(慶喜)は「大政奉還」を決めると、単騎で明治新政府軍と”戊辰戦争”を戦った。 それが敗戦に終ると、戦士は陸奥や蝦夷地に移封され逆賊と呼ばれながらも酷寒地の開拓に勤しんだ。 新撰組も、明治新政府軍と悲劇の戦い(函館戦争)により果てた。



   清国の内情 西太后政権の誕生≫
  その頃、日本も清国も混乱の最中、清国では 『咸豊帝』が崩御し(1861)、政権は 咸豊帝の側室=《西太后》に引継がれた。 しかし彼女は、帝位に就かず、幼児帝を座につかせ背後で権力を行使した。 当時の清国は、英国に侵略されてボロボロ状態だったが、彼女に逆らう者は、次々処刑、粛正する恐怖手法で、清朝はその後 約半世紀に亘って延命させた。
 ◇≪同治帝≫ 
 同治帝は、西太后 の生んだ子供だが 6歳で皇帝に即位した。 幼帝とは言え、気に沿わない者は一声で処刑される・・・。 西太后は、幼帝を操りながら、彼女に従わない者を次々粛正した。 しかし、同治帝は、12年後に(1873年)に病逝してしまった。
 
 ◇≪光緒帝≫
 次の皇帝は;光緒帝(1871~1908)だが、彼は(僅か4歳で)即位した。 それは西太后が強権でねじ伏せたとも言われているが、西太后の実妹の子供なので、彼女は皇帝の伯母である(母ではない)。 それにも拘わらず、『皇太后』という座を固持し、以前にも増して恐怖政治を続行した。

 ◆ 西太后の恐怖政治
  清国は、外国勢に侵略されボロボロにも拘わらず、紫禁城内は、大清帝国の栄光から醒めず、絢爛華美、贅沢三昧で連日京劇に興じていた。 しかし西太后に逆らえば、首脳部も民衆も、直ちに密告される制度で、朝廷には彼女に献策する人も、制止する人もいなくなった。
 それでもともかく、朝廷内部の分裂を防ぎ、清朝をその後約50年延命させた。
 それ は延命と言うより、「進歩の停止期間」で、立ち遅れは、(清朝崩壊後)中国も 約1世紀にわたり 尾を引き、欧米列強や日本に侵略され続ける運命から免れられなかった。 

(
From Wikipedia ”西太后”)
  【西太后】は、庶民出身で紫禁城に入り、宮使いから時の皇帝(咸豊帝)の側室になった。 政治に才覚があるとは思えないが、咸豊帝の崩御後、幼帝を背後で操り、意に背けば即座に処刑するという残酷手法で清朝を守り抜いた。 
 それは、呂公雉(漢代=劉邦の正妻)や、則天武公(唐代=高宗の皇后)と並び中国歴史上≪残酷女帝 3傑≫に称されている。



  明治維新以後の 『日本国内動静』
    *≪明治維新以後の動き≫
 (日本の)明治時代(1868 ~ 1911)は、西太后政権の誕生~清朝終焉まで(1861~1911)とほぼ一致する。 しかし日本は、開国~富国強兵路線をまっしぐらに進み、外国勢に侵略の余地を与えなかった。 その堅実さ及び勤勉さは、世界でも類を見ない。 
 いち早く 大勢のを留学生を欧米に派遣し、軍事、政治、経済、文化など、技術や制度を採り入れた。 技術者も招聘して鉄道やダム、発電所などのインフラや、軍需工場の建設を進めた。
 その他にも、人口増加政策や、あらゆる手段で兵士を募る一方、食料や軍需物資の生産、外貨獲得には製糸工場などもフル操業して ”富国強兵”策を支えた。 その裏では大勢の女工たちが肺病などに倒れた哀史も伝えられている。 軍事面では、海軍鎮守府を設け、兵器や兵力増強に力を注いだ。

   * 朝鮮侵出を巡る 《西郷と大久保》
 しかしそんな富国強兵策を進めるには、食料も、労働力も、地下資源も、経済的にも、朝鮮への侵出が必定だった。 しかしそれは征韓論を唱える「西郷隆盛」と、大久保利通の間で確執が生じた。
 つまり「自からが朝鮮に出向いて協議しよう」とする西郷に対し、大久保は 「(征韓論を主張して)戦争する余力はない」との対立から西郷は下野した。
 その後、明治政府は 大久保が中心になり、”富国強兵”をスローガンに、廃藩置県や徴兵制度(武士制度の廃止)などが次々打出されたが、しかしそれに不満を抱く「薩摩武士団」は”西郷”の下に結集し、政府軍と交戦(西南戦争)になった。 それは政府軍が勝利して西郷は自決した。

   * ≪~朝鮮侵出~≫
  ところで、当時の朝鮮半島は、清国の従属国になっていた。 しかしアヘン戦争以来、清国の国力は弱体化し、(上海、南京、青島、等々)は欧州勢に住みつき、東北部(満州)もロシアの侵入されていた。
 しかし日本の朝鮮侵出には、 威嚇か、牽制か(?)、清国自慢の 『新鋭艦「定遠」(7,430トン)を旗艦とする豪華艦隊』を日本各地に回航して威容を見せつけた。
 それは、横浜沖に停泊中、皇族や大臣、陸海軍将校、新聞記者等の首脳人を招いてレセプションを催し、日本の巡洋艦(「浪速・高千穂」)の2倍もある新鋭艦の「威容」に招待客は圧倒された。

北洋艦隊 旗艦「定遠」

連合艦隊 防護巡洋艦「浪速」
 しかし北洋艦隊は、その後宮島沖にも回航し「呉に赴任中の東郷平八郎(参謀長)」も視察した。
 しかし東郷は、『甲板は不潔で整理整頓されず、自慢の 26cm主砲には洗濯物が干してあるなど、「軍艦は強大堅固でも、乗務人員の訓練も実戦能力も未熟で、海軍将校や指揮官の指揮系統も不統一、近代国家の軍隊とは言えない」』ことを見破っていた。 
 程なく、東郷は、防護巡洋艦「浪速」の艦長に就任(1891)し、3年後に「日清戦争」は勃発した。

  * ≪日清戦争≫ (1894-1895)
 つまり、朝鮮半島内で 親日派や親清派の反乱(甲午農民戦争)を)を招いた。平定の為「北洋艦隊」を出動させると、日本も(朝鮮内の)主導権を護る為・・・期せずして《日清戦争》となった。 呉鎮守府開庁からは 僅か 5年後である。
  それには、「吉野」、「高千穂」、「秋津洲」、「浪速(東郷艦長)」の高速艦隊が編成され、高速速射砲(高速で敵艦に近づき速射砲を連発)で 、北洋艦隊の大艦巨砲と対戦し勝利した。
 それにより、東郷の能力は国内外に知れ渡った。 しかし、東郷が もっと 『世界の英雄』 と名を馳せるのは、その10年後、日露戦争「日本海海戦」での快挙である。
   しかし清国朝廷(紫禁城)では、戦闘の最中も紫禁城では饗宴が催され、『まさか !?、あの矮小国日本に破れるなど !?・・・』予想だにしなかったショックは大きかった。

   * ≪~日清講和条約~≫
  敗戦した清国には、日本から「朝鮮半島、遼東半島、山東半島、台湾の割譲」要求が突きつけられた。 しかし、①遼東半島は、不凍港を求めて満州に侵出していたロシアに、 ②山東半島は、日本の動きを警戒するフランス・ドイツにより割譲を阻止された。 しかし日本は、次の大収穫を得た。
  1.清国は 朝鮮半島から手を引く(=日本の支配下に移す)
  2.清国は
台湾・澎湖諸島を 日本に譲渡する。
  3.清国は
賠償金2億両(約3億円)を 日本に支払う。
 日本は、期せずして朝鮮半島支配と共に、台湾領有も確定し、富国強兵路線は一層勢いづいた。
それにより朝鮮人徴用工が徴募され、日本各地でダム建設や工場建設、工場労働などの過酷労働につき ”富国強兵策” に弾みがついた。
 それは その後の日本が、欧米列強と肩を並べる強国に成長する「第一歩」となった。
しかし、遼東半島割譲が、ロシアにより阻止されたことの軋轢は、10年後≪日露戦争≫に繋がった。

  * ≪~日韓併合と 安重根事件~≫
  当時の朝鮮には固い身分制度があり、多数派の平民や奴婢層は(給料や教育も施される)日韓併合を歓迎し、しかし守旧派は反感を激化させていた。 そこに伊藤博文が派遣されたところ、伊藤はハルピン駅構内で安重根に射殺された(1909=明治42年)。
 安重根は即座に処刑されたが、日韓併合条約は結ばれ(正式に植民地)となった(1910=明治43年)。

 【安重根】について、
 韓国や中国では、
安重根は、死を覚悟で敢然と日本に立ち向かった英雄”と崇められ、最近、ハルピン駅に【安重根記念館が建設されたと聞いている。
 しかし安倍政権=菅官房長官は、『安重根は 特使を射殺した≪テロリスト≫』 と一掃してそれに不快感を示した。 《安重根記念館》は日本に対するプロパガンダの意図としても、双方が広い視野で話合う方が、《積極的平和主義》ではないか・・・?



   清国民衆の改革運動
   * ≪
~ 義和団事件 ~≫ (1900)
 日清戦争に敗れた「清国」に、侵攻する外国勢は(米、英、独、仏、伊、露、日)になっていた。 それは各地で清国住民の土地・財産を強奪して租界地を設けた。 それに堪りかねた「清国民」は全土で
【外国人排斥運動】を起こした。 「義和団」という団体が各地に結成され、大々的な反乱を起こした。 西太后はこれを支持したが、外国勢に対抗できる筈もない。 容赦なく殺戮され、清国は賠償金が要求された。 

   *≪孫文らの改革運動(1900頃~ )と 光緒帝の幽閉≫
 そんなボロボロの国状に堪りかね、康有為、孫文ら知識人は改革に立ち上がった。
 しかし改革運動家も、次の2派が敵対関係になって一丸とはなれかった。
①倒清派(=清朝を倒して民主的な共和国を打ち立てる⇐ 孫文派)
②保皇派(=
皇帝(清朝)を残して法制度を改革する)
 しかし、清朝(西太后)は両派とも認めず、一切の集団、結社、人々の会合も禁止し、違反を見つけ次第処刑した。 その為、改革運動は、遅々として進まなかった。 
 そんな折、光緒帝(前述)は成長すると 「保皇派」に興味を示した。 しかしそれが朝廷役人(袁世凱)に知られ西太后に密告された。
 西太后は、身内中の身内 ”
皇帝の謀反” に大変ショックだったが、皇帝と雖も光緒帝は 幽閉された。 
 そんな事情で、孫文ら改革運動家は海外で活動した。 航空路線もない時代、孫文は、ハワイと日本を拠点に、清朝政府の追手を かい潜りながら、香港や広州、アメリカ、ロンドンを 船便で何度も往復した。 眞に命がけの行動だが、実効は遅々として伴わなかった。



   日露戦争 (1904ー1905年)
  その以前、(弱小国)日本は、(超強大国)ロシアとは、ニコライ 2世の親善訪日や、広瀬武雄はロシアに軍事留学など、『日露の不仲は米英を利するだけ』と、細心の配慮で友好関係維持に努めていた。
 しかし日清戦争勝利で「朝鮮半島」を獲得したが、遼東半島の割譲要求は、ロシアにより阻止されたことで(前述)、日露間の緊張状態は昂ぶっていた。

  しかしロシアから次の提案をしてきた。
  ロシアからの提案
    ① 満州は ロシアの支配下におく
    ② 朝鮮半島は北部を中立地帯として軍事利用は禁止する
  しかし超大国ロシアは、満州に鉄道を敷設し、旅順・大連に堅固な要塞を築き、シベリア鉄道との連結工事が進行中で、何れ朝鮮全土が奪われる計画に他ならない !! 当然、日本側は代案を出す・・・。

  ◆ 日露戦争の直前交渉~国交断絶  1903 - 1904
 日本側は、『
朝鮮半島は日本、満州はロシアの支配下に置く (=満韓交換論)』を提案した。 しかしロシア側は、『小国日本は反抗はできないだろう !!』と タカをくくっていたではないか(?)、それを認めず、「ロシア案(上述)」の主張を貫いた。
   しかし交渉が長引けば、 シベリヤ鉄道と連結工事が進み、一挙に軍事力が増強する。 日本は交渉を打切り、国交断絶を宣言した。
 但し、それは日露間の事情である。 日露戦争勃発の背景には、世界の利権争いから、「日英同盟」に基づく 米英の圧力があったのではないか(?) 各国にはそれぞれ、次の様な立場があった。
 英米仏は、「ロシアの南進作戦(ヨーロッパで英国植民地に侵攻していた)」を止めるには、日本と戦い【ロシアの戦力弱体化】を望んでいた。
日露戦争の風刺画
   ドイツは、日本が強くなれば中国(山東半島・青島)の権益が奪われるので、【日本が負ける】ことを望んだ。
   ロシア(本部)、『日露の争いは英米を利するだけ・・・』と日露の親善努力をしていた(?)
 しかし
旅順師団には 、朝鮮半島攻略は、既成観念になっていたのではないか(?)。
  日本(政府)、(常識的に)勝ち目のない戦争は回避する方針だったが、交渉団にはかなり強気になっていたのではないだろうか?

  ◆ 日露戦争の経過
 
日本が国交断絶を通告すると、ロシアは極東艦隊(旅順・ウラジオストック)の増援に、世界最強と言われるバルチック艦隊を回航した。 それは、極東艦隊と合流すれば、日本には勝ち目がない。 それはバルチック艦隊到着までに、極東艦隊を壊滅させなければ「挟み撃ち」になる。 
  しかし旅順基地は、背後を小高い山に囲まれ、山上には難攻不落な要塞が幾重にも築かれ、攻略の糸口が掴めない。 正面(海側)も、無数の砲台と強力艦隊の巨砲が狙いを定め、近寄れない。
 それには次の戦闘が戦わされ、日本は辛うじて勝利した。 「日露戦争」は全戦闘の総称である
。 
 
 ①仁川沖海戦(海軍)=日本軍は、ウラジオストックから旅順軍港に航行中のロシア艦隊に砲撃し、事実上、宣戦布告となった。
 艦隊は旅順軍港(湾内)に退避し、旅順沖で日本軍が対峙した為、ロシア艦隊は、湾内に閉じ込められた。



旅順要塞


日本海海戦  
NHKテレビ
②旅順港閉塞作戦 (海軍)=旅順湾に閉じ込められた艦艇を封じ込める為、日本軍は 湾口に廃船を沈める作戦を 3次に渡って決行したが失敗し、広瀬武雄は戦死した。
③鴨緑江会戦~南山の戦い(陸軍) =陸軍は、旅順要塞攻囲に先だち、ロシア本国から旅順への「連絡路」を遮断した。 つまり朝鮮から鴨緑江を渡河し(鴨緑江会戦)、遼東半島の「南山(大連市)」でロシア軍と交戦した。 ロシア軍の砲撃により凄しい犠牲を伴ったが、砲弾の尽きたロシア軍は撤退し、旅順への補給路は遮断された。
④旅順基地攻囲戦(第1次/第2次/第3次~陸軍) =陸軍は更に前進し、背後から「旅順要塞」攻略に移った。 しかし背後の山上の堅固な要塞からの激しい砲撃で、3次に亘り甚大な犠牲者を出し、遂に、旅順湾を見下ろす【203高地】を奪取し、山上から旅順要塞を陥落し、旅順湾に停泊中の艦船も撃破した。
⑤黄海海戦、蔚山冲海戦(海軍) =旅順基地が攻囲され、砲撃を免れようと湾外(黄海)に出た旅順艦隊を、海軍が迎撃した。 それを逃れ、ウラジオストックに向った艦船も蔚山冲で撃破した。
⑥遼東会戦、沙河会戦、黒溝台会戦、奉天会戦(陸軍)=旅順要塞が陥落後、満州内部に退却するロシア軍を追撃した。 ロシア軍も応戦したが最後は奉天会戦で撃退し、満州に入城した。 
⑦日本海海戦(1905/2 ~海軍)= 旅順基地陥落後、東郷平八郎率いる連合艦隊は、対馬海峡で ”バルチック艦隊” を待ち受け、その直前を横切る 「丁字戦法」などを駆使して撃滅し勝利した。 
  註)※ 日本海海戦
 日露戦争の最終決戦「日本海海戦」は、東郷平八郎率いる連合艦隊は、対馬海峡で”バルチック艦隊”を待ち受け、北上する艦隊を発見すると、秋山真之考案の丁字戦法を成功させて撃滅し完勝した。
 ロシア側は、遠路バルト海から回航されたが、英国が管理するスエズ運河は通れず喜望峰廻りで、しかも英国植民地の寄港や補給も制約され、長躯対馬海峡に現れた時は兵士たちの士気は落ちていた。 日本側は、艦隊を発見し交戦する気象条件に恵まれたこと、海軍工廠が整備され、艦船修理などがスムーズにできたなど等々、「偶々、幾重もの幸運が重なったから勝てた」と東郷平八郎は述懐していた・・・。
 

  ◆ 
日露戦争に勝利した日本のその後
 日露戦争の勝利は、世界にとって奇跡的な出来事だった。 日本軍(陸軍)は敗走するロシア兵を追って、満州深く侵入した。 こうして入城すると(満州の)支配堅めをし、傀儡国家「満州国」樹立に漕ぎつけた。 しかしそれは、中国全土から「反日・抗日の嵐」を招き、それれは制圧する毎に戦闘規模が拡大し、満州事変⇒日中全面戦争 ⇒大平洋戦争にと、エンドレスに規模拡大するハメに嵌ってしまった。

 しかし「日本海海戦」に若し敗れるか、若しくはバルチック艦隊が発見できず、ウラジオ艦隊と合流していれば、その後の、否、現在の日本は?、世界の勢力図は?、どうなっているだろう(?)

 
東郷平八郎には、そんな日本、否、世界の運命を決する重要な「カギ」が預けられていた
 
  ◆ 
日露戦争に敗れた ロシアのその後
  日露間交渉の経緯は、ロシア本国には如何に伝えられていただろう(?) 突然の 「国交断絶宣言」は不当な裏切り と映ったかも知れない。
 しかし、ロシアにとって、、『弱小国(日本)に裏切られ、敗れた屈辱』は尋常でない筈だ。 自国領土同然になっていた「満州」も失い、ヨーロッパ戦線も退却続きで、ロシア国内は 10年余り悲劇的な混乱の挙句、ロシア革命により)新制【ソビエト連邦】が誕生した。 それには、親日派だったニコライⅡ世は 家族諸とも処刑され、スターリンは(何百万人もの)反抗者を粛正した。
 そんな屈辱は、終戦時「ソ連軍の行った日本領土侵攻」にも尾を引いたかも知れない。
   しかし、若し「日露戦争」が回避されたか、若しくは日本が敗戦していれば、
  ①満州は(永久に) ロシアが領有し、太平洋戦争も起こらなかったかも知れない。
  ②朝鮮も、日本も、ロシアの同盟国になっているか、或いは領有されている可能性も否定できない。



    清国皇帝「溥儀」の即位~清国の滅亡まで
 *fugi  *≪清国皇帝『溥儀』 の即位≫ (1908年12月)
 日露戦争から3年後、西太后に幽閉されていた「光緒帝が逝去」した。
 すると、その日の中に、溥儀の家に使いが来て、『溥儀を第11代皇帝に任命する』と告げられた。
  溥儀は 当時 3歳、因みに光緒帝の甥にあたる 。溥儀の父(=醇親王)は光緒帝の弟である。
  3才の溥儀が清朝皇帝に即位!?!?!?・・・、溥儀一家は想像だにしなかった。 しかし西太后の命令に有無は言えない。 (映画【ラストエンペラー】では)溥儀は驚いて泣き出し、祖母は卒倒し、醇親王(溥儀の父)は おろおろするばかり・・・。
 紫禁城に入った溥儀は西大后と対面し 第11代皇帝(=宣統帝)に即位した。 そして翌日、怪物(西大后)は亡くなった。

 それにしても話ができ過ぎた感じだが。 『西太后は、幽閉されていた光緒帝に毒を盛り、溥儀を皇帝に着かせ、自分が翌日没した』という意味なのか ???
 その後、実質的に政務は溥儀の父(醇親王)らに移り、紫禁城は相変らず≪3歳の皇帝に3000人の臣下がひれ伏す≫儀式が続いた。 しかし即位から 3年後、辛亥革命により 清朝は滅亡し(1911)、溥儀は≪最後の皇帝=ラストエンペラー≫となった。

 
孫文

  * ≪孫文による辛亥革命と 清朝滅亡≫(1911)
 改革運動家たちは、『一切の集団、結社、会合が禁止され、密告されれば直ちに処刑される』 弾圧から逃れる為、海外で活動した。
 孫文は、日本(東京、神戸など)とハワイを拠点にして、追手をくぐりながら、香港や広州、アメリカ、ロンドンを 、何度も命がけで往復した。 活動家たちは 10数年の間、何度も蜂起したが、悉く失敗し多くの仲間が処刑された。
 命がけの改革運動(倒清運動)は、苛酷な弾圧をすり抜けながら、日本から資金や武器の支援を受け、遂に清朝制覇に成功した(1911年)・・・≪辛亥革命≫である。
 そして”孫文”を初代臨時大総統とする新制≪
中華民国≫が誕生した。



   私の歴史観)

   
* ≪清帝国 と日本の明暗≫
 
「清国」は、19世紀(西暦1800年代)初頭には、世界に冠たる強大国を築いていた。 しかし後継の皇帝たちは、世界情勢に無関心で、連日京劇などの享楽に耽っていた。
 それを突いて英国が侵出すると、一方的に「不平等交易」が始まり「アヘン戦争」が勃発した。 しかし巨大な新兵器に、対抗する術もない清国側の弱みは、西欧列強やロシアからも、死骸に群がるハイエナの如く侵略され、主導権がとれないまま、「日清戦争」で弱小国日本に敗れ、その後 大東亜戦争終結まで、約半世紀の間 強大国に翻弄され続けた。

 それに引き換え、日本に ”黒船来航”は、アヘン戦争から10余年後(1853年)で、清国の惨状が伝わっており、勝海舟ら幕府要人や、薩摩藩、長州藩、その他の賢人たちに開国のシナリオを考える期間があった。 それに薩長の志士たちや坂本龍馬ら 命がけの働きで、明治新政府を立上げ、”富国強兵”の大号令に国民一丸となって立ち向かった。 
 そして【明治維新革命】というべき奇跡的大偉業を基盤に、朝鮮人徴用工や、満州の食料や資源が強力な踏み台になって、幾多の戦闘は何れも主導権をもって戦い、大東亜戦争終結まで、新技術開発や科学知識を蓄積した。
 それは、敗戦時、全土が焦土と化しながらも、利権構造や過去のしがらみをご破算にして、ゼロベースから再出発し、短期間に 世界第2位の経済大国に発展した。
 つまり、西太后政権は、外国勢にボロボロにされながら「
清朝の延命」させた、と言っても 日本とは対照的に「進歩の停滞」であり、「それが、後代まで明暗を分けた」という「私の歴史観」である。 ■

  この続き 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防 (1911~1928)



 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡  (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◆5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )