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このページは、想像やフィクションをベースにした 『私個人の歴史観』です |
1. 清朝(西太后政権) と 日本(明治維新)の興亡(1840頃~1911) |
西太后時代(清国=英国侵攻後)~明治時代(日本=黒船来航後) |
■ 大清清帝国(栄光の時代) ~ 欧州列強の侵入 * ≪大清帝国栄光の時代≫ 清国(現;中国の前身)は、1616年に女真族のヌルハチにより建国された。 ヌルハチは明帝国とモンゴル帝国を征服して新制 『清帝国』を発足させると、『愛新覚羅』姓を名のり、【女真】の呼称を 【満洲】と改名した。 その後≪1600年代後半~1800年頃まで≫は、最も聡明な皇帝(康熙帝 ⇒雍正帝 ⇒乾隆帝)が3代続き、台湾を併合し、外モンゴルとチベットを服属させ、黒竜江(アムール川)から東トルキスタン、チベットまで
現在の中国領土をほゞ確定し、1800年代初頭 には 世界に冠たる≪大清帝国≫を築いていた。
ところが 乾隆帝(1711-1799)没後、誇り高い大清帝国の皇帝たちは、連日、紫禁城を京劇など饗宴の舞台にしいた。 ◆◇ ≪英国、及び欧州列強の侵出≫ しかし1700年代後半頃、イギリスに始まった産業革命は、西欧列国に、武器、産業、経済、政治等、あらゆる分野に異変(革命)をもたらした。 中でもイギリスは、ナポレオン軍に勝利すると、(1800年代から)破竹の勢いで、世界中を植民地化していた。 ◆◇ ≪アヘン戦争(1840年)と その後の状態≫ そうして英国は、大清帝国にも交易を求めて侵出してきた。 所が、世界の冠たる「大清帝国」の、誇り高い皇帝たちは「交易は必要なし」と判断した。 しかし幾十年か後、軍事・政治経済、文化・・・あらゆる面で卓越した英国は、清国皇帝たちの相手ではなかった。 陶磁器や絹製品やその他の貴重な文化財などが 次々持ち出され、見返りに東インド会社の香辛料やアヘンが持ち込まれた。 |
勿論、貴重品の強制持ち出しや アヘンの強制持ち込みなど・・・清国は不条理を抗議したが、そんな抗議を受容れる相手ではなく、揚子江河口で激突した。 ”アヘン戦争”である。 清国軍は前世紀の遺物なる大砲を手漕ぎボートに積み、幾10門もの最新式大砲を装備する大型動力軍艦に立ち向かった・・・ !!!?。 勝敗は言うまでもなく、清国軍の隊長≪林則徐≫は敗戦の責任を問われ遠島に処せられた。 その後も、英国は第二次アヘン戦争や、アロー号事件など・・・、武力侵略を続け、衝突も次々起こった。 そんな矛盾を突いて清国内は内乱(”太平天国の乱”)が発生し、収拾がつかなくなっていた。 |
それは、ドイツ、フランス、ロシアなどの利権集団も 放置してはいなかった。 英国に続いて侵出し、上海や山東半島、遼東半島周辺などの要衝は、列強の「※租界地」にされた。 清国人は、土地財産を一方的に奪われ、奴隷扱いされた。 こうして欧州勢は、清国の要所を一方的に租界地にして住みつき、清国の貴重な財産が持ち出され・・・・、時の皇帝(=咸豊帝)は、紫禁城で京劇に明け暮れる以外、成す術もなかった。 |
注)※ 【租界地】; 都市の中の一部地域が、外国人居留区として強制的に借用され、 何千・何万人もの外国人居留民が住みつき、《治外法権》が適用される。 |
■ 黒船来航後の 日本国内の動静 ≪黒船来航とその対応≫ 清国が、英国や列強に侵略されていた頃、清国の惨状は、太平の平和を享受していた日本にも。長崎に来航するオランダ船や、時おり近海に現れる異国船などにより伝わっていた。 しかし清国より早く黒船が来航していれば・・・、日本は(黒船を)迎える準備ができたかどうか(?)
◆ 混乱の内情と 各々の動向 そうして、「明治維新政府」の発足となったが、各々の事情について追ってみると、 |
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■ 清国の内情 ≪西太后政権の誕生≫ その頃、日本も清国も混乱の最中、しかし清国では 1861年に 『咸豊帝』が崩御し、政権は 咸豊帝の側室=《西太后》に引き継がれた。 しかし彼女は、帝位には就かず、幼児帝を座につかせ背後で権力を行使した。 当時の清国は、英国に侵略されてボロボロ状態だったが、彼女に逆らい反抗する者は、次々処刑、粛正する恐怖手法で、清朝はその後 半世紀に亘って延命させた。 ◇≪同治帝≫ 同治帝は、西太后 の生んだ子供だが 6歳で皇帝に即位した。 幼帝とは言え、気に沿わない者は一声で処刑される・・・。 西太后は、幼帝を操りながら、彼女に従わない者を次々粛正した。 しかし、同治帝は、12年後に(1873年)に病逝してしまった。 ◇≪光緒帝≫ 次の皇帝は;光緒帝(1871~1908)だが、彼は(僅か4歳で)即位した。 それは西太后が強権でねじ伏せたとも言われているが、西太后の実妹の子供なので、彼女は皇帝の伯母である(母ではない)。 それにも拘わらず、『皇太后』という座を固持し、以前にも増して恐怖政治を続行した。 |
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■ 明治維新以後の 『日本国内動静』 *≪明治維新以後の動き≫ (日本の)明治時代(1868 ~ 1911)は、西太后政権の誕生~清朝終焉まで(1861~1911)とほぼ一致する。 しかし日本は、開国~富国強兵路線をまっしぐらに進み、外国勢に侵略の余地を与えなかった。 その堅実さ及び勤勉さは、世界でも類を見ない。 いち早く 多勢のを留学生を欧米に派遣し、軍事、政治、経済、文化など、進んだ制度を採り入れた。 欧米からも大勢の技術者を招聘して鉄道やダム、発電所などのインフラや、軍需工場の建設や整備は最優先で進め、国民一丸となって勤しんだ。 その他にも、人口増加政策や、あらゆる手段で兵士を募る一方、食料や軍需物資の生産、外貨獲得には製糸工場などもフル操業して ”富国強兵”策を支えた。 その裏では大勢の女工たちが肺病などに倒れた哀史も伝えられている。 軍事面では、国内要所に鎮守府を設け、兵器や兵力増強に力を注いだ。 |
* 朝鮮侵出を巡る 《西郷と大久保》 しかしそんな富国強兵策を邁進するには、食料も、労働力も、地下資源も、経済的にも、朝鮮への侵出が必定だった。 しかしそれは征韓論を唱える「西郷隆盛」と、大久保利通の間で確執が生じた。 つまり「自からが朝鮮に出向いて協議しよう」とする西郷に対し、欧米列強の植民地政策や奴隷制度を視察した大久保は 「(征韓論を主張して)戦争する余力はない」と、双方の対立から西郷は下野した。 その後、明治政府は 大久保が中心になり、”富国強兵”をスローガンに、廃藩置県や徴兵制度など、「武士制度の廃止」を打出した。 しかしそれに反発する「薩摩武士団」は”西郷”の下に結集し、政府軍と交戦(西南戦争)になった。 それは政府軍の勝利で西郷は自決した。 |
* ≪~朝鮮侵出~≫ ところで、当時の朝鮮半島は、清国の従属国になっていた。 しかし、清国の国力は弱体化し、(上海、南京、青島、等々)は欧州勢に、東北部(満州)にはロシアに、侵出を許していた。 そこに日本が朝鮮半島に侵出し独立を促すと、朝鮮内部で反乱(甲午農民戦争)が起こった。 その平定の為、清国軍(李鴻章=北洋艦隊)を派遣すると、日本との主導権争いから「日・清間の交戦」(日清戦争 1894)となった。 |
* ≪日清戦争≫ (1894ー1895) その以前、(日本の)朝鮮侵出に対する警告か(?)、北洋艦隊(清国)は、世界一流の装備を誇る艦隊(旗艦;「定遠」他数隻)を日本各地に回航してきた。 そして停泊中には、皇族や大臣、陸海軍将校、新聞記者等を招いてレセプションを催し、日本第一の巡洋艦 (浪速・高千穂など)の2倍もある威容さを見せつけていた。 しかし日清戦争には、北洋艦隊は軍紀が緩んで、徹底訓練を重ねてきた日本軍と戦える状態ではなかった。 この戦いで清国軍は、民間人を装って、英国商船で兵員輸送を試みたが、東郷平八郎はそれを見抜いて攻撃し、連合艦隊(日本)は勝利した。 しかし清国朝廷では、『まさか !?、あの矮小国日本に破れるなど !?・・・』戦闘の最中も紫禁城では饗宴が催され、予想だにしなかっただけに、ショックは大きかった。 |
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* ≪~日清講和条約~≫ 敗戦した清国には、日本から「朝鮮半島、遼東半島、山東半島、台湾の割譲」など要求が突きつけられた。 しかし遼東半島は、不凍港を求めて満州に侵出していたロシア、及び山東半島は、日本の動きを警戒するフランス・ドイツにより割譲を阻止された。 その結果、清国は次の様な要求が呑まされた。
それにより、朝鮮人徴用工が徴募され、日本各地でダム建設や工場建設、工場労働などの過酷労働につき ”富国強兵策” 推進に貢献した。 それは その後の日本が、欧米列強と肩を並べる強国に成長する大きな「第一歩」になった。 しかし、遼東半島は日露双方にとって重要な要衝だけに、10年後≪日露戦争≫で激突する。 |
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* ≪~日韓併合と 安重根事件~≫ それでも当時の朝鮮には堅い身分制度があり、多数を占める平民や奴婢層は(給料や教育も施される)親日派に傾き、しかし守旧派は(日韓併合)に反感を激化させていた。 そこに伊藤博文が派遣されたところ、伊藤はハルピン駅構内で安重根に射殺された(1909=明治42年)。 勿論、安重根は即座に処刑されたが、結果として日韓併合条約が結ばれ(正式に植民地)となった(1910=明治43年)。 【安重根】について、 韓国や中国では、安重根は、死を覚悟で敢然と日本に立ち向かった英雄”と崇められ、最近、ハルピン駅に【安重根記念館が建設されたと聞いている。 しかし安倍政権=菅官房長官は、『安重根は 特使を射殺した≪テロリスト≫』 と一掃してそれに不快感を示した。 《安重根記念館》は日本に対するプロパガンダの意図はあるとしても、双方が広い視野で建設的に話合う方が、《積極的平和主義》ではないか・・・?。 |
■ 清国民衆の改革運動 * ≪~ 義和団事件 ~≫ (1900) その頃、清国に侵攻する外国勢は(米、英、独、仏、伊、露、日)になっていた。 彼らは要所々々で清国住民の土地・財産を強奪して租界地を設けた。 清国民はそんな状態に堪りかね、全土で【外国人排斥運動】を起こした。 それは(”義和団”という)団体が各地に結成され、大々的な反乱を起こした。 西太后は、この運動を支持したが、所詮 民衆運動が外国勢に対抗できる筈もない。 容赦なく殺戮され清国には賠償金が要求された。 *≪孫文らの改革運動(1900頃~ )と 光緒帝の幽閉≫ そんなボロボロの国状に堪りかね、康有為、孫文ら知識人は改革に立ち上がった。 しかし改革運動家も、次の2派が敵対関係になって一丸にはなれかった。
そんな折、光緒帝(前述)は成長すると 「保皇派」に興味を示した。 しかしそれが朝廷役人(袁世凱)に知られ、西太后に密告された。 西太后は、身内中の身内 ”皇帝の謀反” に大変ショックだったが、皇帝と雖も光緒帝は 幽閉された。 そんな事情で、孫文ら改革運動家は海外で活動した。 航空路線もない時代、孫文は、ハワイと日本を拠点に、清朝政府の追手を かい潜りながら、香港や広州、アメリカ、ロンドンを 船便で何度も往復した。 正に命がけの行動だが、実効は遅々として伴わなかった。 |
■ 日露戦争 (1904ー1905年) 当時、超大国ロシアと、小国日本軍の事力差は、立派な大人と、小学生ぐらいあったのではないだろうか(?) ニコライⅡ世は日本を親善訪問し、広瀬武雄らはロシアに軍事留学して指導を受けた。 『日露の不仲は米英を利するだけ・・・』と言って、日露親善交渉も続いていた。 それが ”日露戦争” に至った経緯について・・・、 ◆ 朝鮮・満州国境における日露の睨み合い その頃 日露の関係は、つい数年前、ニコライⅡ世の親善訪日し、広瀬武雄のロシアに軍事留学など親睦を深めあった。 ロシアも日露戦争の為に軍事留学受入れではなかっただろう。 況んや小国日本が、超大国ロシアと交戦するなど思ってもいなかったのではないか。 しかし超大国ロシアは、満州に侵出し、鉄道を敷設し、旅順・大連に堅固な要塞を築き、シベリア鉄道と連結する工事も進めていた。 |
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そして、ロシアから 、『満州は ロシアの支配下におき、朝鮮半島は北部を中立地帯にして軍事利用は禁止する』ことを提案してきた。 それは、『(小国日本には)拒否できないだろう !!』と タカをくくったのではないか・・・? しかし日本にとっては、何れ朝鮮全土が奪われる計画に他ならない・・・!! | ||||||||||||||||||
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◆ 日露戦争の経緯 日本が国交断絶を通告すると、ロシアは(旅順・ウラジオストック隊の)増援に、バルチック艦隊を回航した。 両艦隊が合流し、シベリア鉄道(シベリア~旅順)の増強工事が進めば、日本軍の情況は益々不利になる。日本軍は 開戦を急いだ。 ◇日本陸軍(乃木希典・児玉源太郎)は、即刻、背面から旅順要塞攻撃を開始し ”203高地”を 制覇し、眼下にある旅順要塞と旅順艦隊を壊滅状態にした。 ◇日本海軍(広瀬武雄ら)は、バルチック艦隊と旅順艦隊の合流を阻止すべく、”旅順湾口封鎖 作戦”を敢行したが失敗に終わった。 そして日露戦争の最終決戦(日本海海戦)では、東郷平八郎率いる連合艦隊は、訓練を重ねながら”バルチック艦隊”を待ち受け、遂に、対馬海峡を北上する艦隊を発見すると、秋山真之考案の丁字戦法を成功させて撃滅し完勝した。 ロシア側は、黒海艦隊は英国植民地に囲まれて出動できず、遠路バルト海から(バルチック艦隊)が回航されたが、英国が管理するスエズ運河は通れず喜望峰廻りで、しかも英国植民地の寄港や補給も制約され、長躯対馬海峡に現れた時は兵士たちの士気は落ちていた。 それに艦隊を発見し交戦する気象条件に恵まれたこと、(日本側の)海軍工廠が整備され、艦船修理などがスムーズにできたなど、「偶々、幸運が重なったから勝てた」と東郷平八郎は述懐していた・・・。 ◆ 日露戦争に勝利した日本のその後 日露戦争の勝利は、世界にとって奇跡的な出来事だった。 日本軍(陸軍)は敗走するロシア兵を追って、満州深く侵入した。 こうして入城すると(満州の)支配堅めをし、傀儡国家「満州国」樹立に漕ぎつけた。 しかしそれは、中国全土から「反日・抗日の嵐」を招き、それれは制圧する毎に戦闘規模が拡大し、満州事変⇒日中全面戦争 ⇒大平洋戦争にと、エンドレスに規模拡大するハメに嵌ってしまった。 しかし「日本海海戦」に若し敗れるか、若しくはバルチック艦隊が発見できず、ウラジオ艦隊に合流していれば、その後の、否、現在の日本は?、現在の世界勢力は?、どうなっているだろう(?) 東郷平八郎には、そんな日本、否、世界の運命を決する極めて重要な「カギ」が預けられていた。 |
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◆ 日露戦争に敗戦したロシアのその後 ロシア側から見れば、日露交渉の経緯は、ロシア本国に如何に伝えられていたか(?) 旅順師団長が独断で日本を挑発した(という説がある)とすれば、突然の 「国交断絶宣言」は不当な裏切り と映ったかも知れない。 しかし、若し「日露戦争」が回避されたか、若しくは日本が敗戦していれば、 ①満州は(永久に) ロシアが領有し、太平洋戦争も起こらなかったかも知れない。 ②朝鮮も、北海道の一部も、或いは日本全体がロシアに領有された可能性も否定できない。 ともかく日露戦争に敗れた 【ロシアの屈辱】は、尋常でなかった。 弱小国(日本)に裏切られ、アジア進出の生命線(満州)を失い、ヨーロッパ戦線も退却続きで・・・、ロシア国内は 10年余り悲劇的な混乱の挙句、(ロシア革命により)新制【ソビエト連邦】が誕生した。 それは親日派だったニコライⅡ世は 家族諸とも処刑され、スターリンは(何百万人もの)反体制派分子を粛正しなければならなかった。 |
■ 溥儀の即位~清国の滅亡まで *fugi *≪清国皇帝『溥儀』 の即位≫ (1908年12月) 日露戦争から3年後、西太后に幽閉されていた光緒帝が逝去すると、その日の中に、溥儀の家に使いが来て、『溥儀を第11代皇帝に任命する』と告げられた。 溥儀は まだ 3歳、因みに光緒帝の甥にあたる 。 溥儀の父(=醇親王)は光緒帝の弟である。 3才の溥儀が清朝皇帝に即位!?!?!?・・・、溥儀一家は想像だにしなかった。 しかし西太后の命令に有無は言えない。 (映画【ラストエンペラー】では)溥儀は驚いて泣き出し、祖母は卒倒し、醇親王(溥儀の父)は おろおろするばかり・・・。 紫禁城に入った溥儀は西大后と対面して 第11代皇帝(=宣統帝)に即位した。 そして怪物(西大后)は翌日亡くなった。 それにしても話ができ過ぎた感じだが。 『西太后は、幽閉されていた光緒帝に毒を盛り、溥儀を皇帝に着かせ、自分が翌日没した』という意味なのか ??? その後、実質的に政務は溥儀の父(醇親王)らの手に移り、紫禁城は相変わらず≪3歳の皇帝に3000人の臣下がひれ伏す≫儀式が続いた。 しかし即位から 3年後、辛亥革命により清朝は滅亡(1911年)した。 滅亡は、西太后という大国柱を失った為か?、そんな手法の行き詰まりか?・・・【清朝】は幕を閉じ、溥儀は≪最後の皇帝=ラストエンペラー≫となった。 |
改革運動家たちは、『一切の集団、結社、会合が禁止され、密告されれば直ちに処刑される』 弾圧から逃れる為、海外で活動した。 孫文は、日本(東京、神戸など)とハワイを拠点にして、追手をくぐりながら、香港や広州、アメリカ、ロンドンを 、何度も命がけで往復した。 活動家たちは 10数年の間、何度も蜂起したが、悉く失敗し多くの仲間が処刑された。 命がけの改革運動(倒清運動)は、苛酷な弾圧をすり抜けながら、日本から資金や武器の支援を受け、遂に清朝制覇に成功した(1911年)・・・≪辛亥革命≫である。 そして”孫文”を初代臨時大総統とする新制≪中華民国≫が誕生した。 |
感 想 (私の歴史観) ■ ≪清帝国 と日本の明暗≫ 18世紀後半、”英国”は、産業革命により得た軍事力を背景に、世界中を植民地化していった。 「清国」は、康熙帝⇒雍正帝⇒乾隆帝と、3代続いた聡明な皇帝によって、19世紀(西暦1800年代)初頭には、世界に冠たる強大国を築いていた。 しかし後継の皇帝たちは、世界情勢に無関心で、連日京劇などの享楽に耽っていた。 それを突いて英国が侵出すると、英国側の一方的な「不平等交易」から「アヘン戦争」が勃発した。 しかし対抗する術もない清国側の弱みは、西欧列強やロシアからも侵略されるハメになった。 そうして主導権がとれないまま、「日清戦争」で弱小国日本にも敗れ、その後 大東亜戦争終結まで、約半世紀の間 強大国に翻弄され続けた。 それに引き換え、日本に ”黒船来航”は、アヘン戦争から10余年後(1853年)で、清国の惨状が伝わっており、勝海舟ら幕府要人や、薩摩藩、長州藩、その他の賢人たちに開国のシナリオを考える期間があった。 それに坂本龍馬ら 命がけの働きもあって、明治新政府を立上げ、”富国強兵”の大号令に国民一丸となって立ち向かった。 そして【明治維新革命】という奇跡的大偉業を基盤に、朝鮮人徴用工や、満州の食料や資源を強い踏み台にして、数々の戦闘は何れも主導権をもって、大東亜戦争集結まで、新技術開発や科学知識を蓄積した。 それは、敗戦時、全土が焦土と化しながらも、利権構造や過去のしがらみをご破算にして、ゼロベースから再出発し、短期間に 世界第2位の経済大国に発展した。 つまり、西太后政権は、外国勢にボロボロにされながら「清朝の延命」させた、と言っても 日本とは対照的な「政治不作」であり、「それが、後代まで明暗を分けた」という「私の歴史観」である。 ■ ≪日露戦争の発端と、敗戦したロシアのその後≫ 日本では、日露戦争での奇跡的勝利を美談化し、秋山真之や広瀬武雄らの活躍は、英雄と崇められている。 しかしその前には、広瀬武夫らはロシアに軍事留学し親身に教育に受け、ニコライⅡ世も、日本を親善訪問し、日露の親善交渉も続いていた。 しかし その数年後には、【日英同盟をバックにする日本側当事者の強気】と、【日本を過小評価したロシア側当事者の奢り】とで、 「戦争に繋がる導火線」が巡らされていた。 当時、ロシアは、『満州、朝鮮半島、日本の北方領土をも領有できる』 ぐらい強力な軍事力をもちながら弱小国(日本)に旅順・大連・満州全土を奪われてしまったのは青天の霹靂だった。 ロシアは、その後ヨーロッパ戦線でも敗退が続き、国内は大混乱に陥った。 【ロシア革命】により新制【ソビエト連邦】が建国された時、親日派だったニコライⅡ世は一家族もろとも処刑され、スターリンは 何100万人も粛正するという莫大な犠牲が余儀なくされた。 その延長線上で、かつてのソビエト連邦が築かれ、現在のロシアに生まれ変っている。■ この続き ◆2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防 (1911~1928) |
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