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更新; 2022/ 09
 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◇5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、その後の各国(1940 ~ 1945)
 

    太平洋戦争への道すじ
 
 * ≪「満州支配」を巡る、日本と、中国・米英との関係≫
 満州は、日本(関東軍)入城以来、反日・抗日運動や、ソ連の挑発を受けながらも、約30年間、
一応「小康状態」が保たれ、農地開拓や、インフラ整備や、近代的都市造りが精力的に進められていた。
 それは近代的先進国家を目指す日本にとっては、食料の確保、各種資源調達、産業振興、及び軍事上も、朝鮮半島や満州は、極めて重要な領土になっていた。 
 ところが、関東軍の入城当初協力的だった「張作霖軍閥」は、次第に勢力を伸ばし米英と接近する動きを見せていた。
  しかしそれは;
   ①満州での主権を奪い、独占支配しようとている日本にとっても
   ②清朝を継いで、満州を含め中国全土統治を確固しようとする「蒋介石政府」にとっても
    「張作霖討伐軍は、不都合な存在になっていた。
   その頃中国(蒋介石軍)では、ソ連支援を受けた共産党(毛沢東軍)とも対立しており、共産党殲滅(北伐)軍を合せ「張作霖討伐軍」を派遣した。
 しかし関東軍は、それに先駆けて、張作霖の乗る列車を爆破して爆殺し、「満州主権」を奪取した。

その結果、中国(蒋介石政府)との関係は益々嫌悪化し、反日・抗日事件が熾烈化した。
 それは、武力鎮圧する毎に、戦闘はエンドレスに拡大し 《満州事変~日中戦争》へと繋がっていった。

 * ≪ 日米開戦への糸口 ≫
 しかしこうして中国本土まで侵略を続ける日本に対し、遂に、米英は蒋介石軍に武器支援を開始した。 その為 日中戦争は泥沼化し、それでも侵攻を止められない日本には「石油禁輸の制裁」が課された。
 すると日本は、「南進作戦」に転じ、タイ、インドネシア、ニューギニアなど・・・東南アジア諸国を併合して石油資源確保を開始した。 ドイツ、イタリアと 【三国軍事同盟】も締結し、更に、日ソ中立条約も締結して、日米開戦の準備は整った。
 しかし山本五十六らは(開戦に)消極的で、昭和天皇も「日米開戦回避」を強く進言されたが、 日本内地の戦場経験は一度もなく、大本営発表の連戦連勝の報と共に多大な糧を持ち帰る軍隊を絶賛し、戦線拡大に突っ走る陸軍や資本家、政治家やマスコミや国民世論の「無知力」を抗することはできなかった。

   ◆◇ ≪ 日ソ中立条約 ≫  
 (1941年4月)  
 (日露戦争により)南方侵出の最重要基地「満州」 を失った「
ソ連」にとって、日本は最大の「敵」の筈だが、この期に及んで《日ソ中立条約》が締結された。
 ◆【ソ連の立場
この頃、欧米各国は、ドイツの台頭で一触即発状態になっていた。 ソ連は、米英につくか?、ドイツにつくか?、立場は微妙だった。 英米につけば「日・独に挟撃される」恐れがある。 ドイツと結んで日本を孤立させ、満州攻略する道もある。 結局、ソ連は、ドイツと 「ソ独不可侵条約」を締結して、欧州の護りを堅めた。
 ◆【日本の立場
日本は、ドイツに接近し「日・独・伊三国同盟」を結んだ(1940)。 しかしソ連を敵に回しては米英とは対決できない。その意味で ”日ソの利害” は一致した。 「日ソ中立条約」を結んで来るべき世界大戦に備えた。 ともかく【日米開戦】時、ソ連に 背後を突かれる恐れはなくなった。
   しかし戦争末期、日本の敗戦が決定的になると、(終戦直前)ソ連は「日ソ中立条約」を一方的に破棄し連合国側に参戦した。 そして日本の敗戦に合せて、満州国や北方領土に侵攻した。




    太平洋戦争に突入 (1941.12~8)
  日中戦争に苦戦しながらも、大本営発表の連勝報道に日本国中が沸いた。 慢性的困窮に喘ぐ日本の生きる道は、『戦争に勝つ以外ない』 という国家的認識で、志しのある若者は 「軍」を志し「お国の為に尽す」ことが最高の栄誉だった。
 現に日露戦争後、30数年間も朝鮮半島や満州からの食料や資源に頼みで生活している日本にとって、「日米開戦」は、 "軍"も、政府も、国民も、「鬼畜米英、正義の戦争」の勝利を信じていた。

   ◆◇ ≪ 南方作戦 (大東亜共栄圏の拡大)≫
 アメリカから石油の禁輸制裁が実行されると、それを東南アジアに求めた(南方作戦)。 つまり 【大東亜共栄圏(アジア諸国が共に栄える)】を掲げ、 「列強植民地からの独立」を促して、マレーシア、シンガポール、インドネシア、フィリピン、パプアニューギニア、マリアナ・・・と太平洋の島々も併合した。

真珠湾攻撃

 結果として、日本軍の戦況悪化~敗戦に至った為、独立の約束は果たせなかったが、日本との併合は、西欧の植民地(=奴隷制度)と違い、現地人も教育し重要ポストにも登用し、インフラも整備し、戦後の独立に大きく貢献している。 そんな事情もあってか、これらの国々には日本に好意的な国が多い。

   ◆◇ ≪ 大平洋戦争に突入≫ (1941.12~8)
 山本五十六は、物量的にも 【無謀な戦争】 と何度も警告し、昭和天皇も強く「戦争回避」を進言されていた。
 それでも中国戦線での連勝に自信過剰な陸軍将校たちや政府役人、戦意に燃える国民の圧倒的な”無知力” に圧され、『(開戦するなら)短期決戦でアメリカの戦意を喪失させて早期講和に持ち込む』・・・ そんなシナリオの下に 、真珠湾攻撃が断行された

 
それと同時に主戦場は、東南アジアや大平洋方面に移った。
 中国は当然、連合国側なので、日本人(居留民)は敵国の中で生活する状態だが、関東軍が満州や中国を制圧している間は、目立った争いにならかった様だ。

   ◆◇ ≪ ミッドウェー海戦≫   1942.6
 開戦から半年間、南方作戦は破竹の勢いで勝ち進んだ。 その勢いで、ミッドウェー作戦は、「米・豪軍の分断」と、『パールハーバーの「空母」を誘い出して大打撃を与え、⇒ アメリカ軍の戦意を削ぎ、⇒早期講和に漕ぎ着ける』 そんな目論見で、山本五十六が提唱し、慎重に練られた筈だったが・・・。
 しかし作戦は全て敵側に解読され、零戦機は秘かに開発されたレーダーに捕捉され、日本の誇る大量の”零戦機とパイロット” 、最新鋭艦空母(4隻)を全て失う大敗を喫した。

   ◆◇ ≪大平洋諸島陥落 ~ 硫黄島玉砕・沖縄決戦
 
ミッドウェー海戦で主戦力を失った日本軍は、以後アメリカの 物量と・新兵器に成す術もなく、大平洋の諸島は順次陥落していった。
 太平洋駐留部隊は、制海権を奪われ、弾薬も食料も途絶え、兵士たちは丸腰で敵と戦った。 と言うより大部分は餓死と病死、或いは集団自決で果てた。 僅かに生き残った兵士は、ジャングルの中で蛇やネズミなどを食べながら命を繋いだ。
 太平洋の島々は ガダルカナル島の激戦から始まり、ソロモン諸島~パラオ~マリアナ~グアム、サイパン~フィリピン~沖縄と順次陥落し、サイパン島には 2,000機の《B-29》出撃基地が建設され(昭和19年終盤)ると、日本本土に直接往復爆撃が始まった。
 硫黄島攻撃には、島全体を要塞化して抵抗したが、地形が変わる程の艦砲射撃と空爆による上陸作戦で玉砕した。
 沖縄戦も海全体を埋め尽くす程の艦船と舟艇による上陸作戦に、日本軍は呉軍港から 戦艦”大和”を急行させたが、鹿児島沖で敢えなく撃沈された。 しかし本土への防波堤として 1日も長く持ち堪え様と、住民も死者 10万人という悲劇となった。

  * ≪太平洋戦争の経過≫ 図示



From Wikipedia
   ◆◇ ≪大陸打通作戦  (陸軍=1944.4)
 近海の制海権も制空権も弱体化すると、日本陸軍は、南方の資源を鉄道で日本へ運ぶ作戦をたてた。
 総距離 2,400km という膨大な作戦が成功すれば、釜山(朝鮮半島)から 中国を縦断し、泰緬鉄道を経てビルマまで鉄道で繋がる。
 それは、①中国から日本爆撃が可能な飛行場占領と、②重慶軍(蒋介石軍)の撃破も併せて 計画され、地図上では釜山からビルマまで鉄道が繋がった。
 しかし中国側のゲリラ攻撃により、運行は容易でなかった。
 それに、B- 29爆撃機はサイパンから日本本土に往復爆撃が可能になった為、意味がなくなった。


   ◆◇ ≪インパール作戦  (陸軍=1944.3~7)
  インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に占領されていた為、中国に兵器や資材を供給する唯一の補給基地になっていた。 
 日本軍は、それを攻撃すれば中国軍の弱体化と、インドの独立運動を誘発して味方にすることができる。 しかしインパールまで 470kmは、乾季でも川幅 600mの大河を渡河し、標高 2,000m 級の人口希薄な山岳地帯を行軍しなければならない。 それは行軍中の糧食などの調達が不可能で、作戦は無謀とされていた。
 以下、新聞雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等から集めた「私の歴史観」を記す。

 太平洋戦線の日に日に悪化していく戦局を横目に、陸軍も 『一発逆転を期したい』 思いが漲っていた。 そんな背景で、南方軍総司令官;寺内寿一の強い思いを、ビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也は強硬に支持した。
 それは確固たる作戦検証をしないまま、反対する者は「大和魂云々・・・」とか「卑怯者・・・云々」呼ばわりして排除され、 9万人の将兵によって (1944.3)実行に移された。
 それは雨期を避け、3週間でインパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。 ・・・しかし現実は、大河の渡河や高峻な山地の強行軍は、武器や糧食の運搬も困難で、大勢の将兵を餓死や疫病により失う惨状だった。
 インパールの手前 15km地点まで、(3週間の予定に) 2か月を要し、丘の上に陣取って待ち構えているイギリス軍と丸腰で対戦した。 そして牟田口司令官は、兵士に 「100メートルでも進め」と、突撃指示をし続けた。 こうして無数の日本兵の血が流れたことから 、この丘は《レッドヒル》 と呼ばれていると言う。
 しかしこの惨絶は、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、東條首相は 『剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する』 と天皇に上奏した。

 作戦開始から3か月後 (1944年6月)には雨期に入り、既に 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死) していた。 この地方の降水量は世界一と言われているが、それも 30年に一度の大雨だったと言われている。
 密林の中は辺り一面の洪水で、兵士たちは宿営場所もなく、食料も流される始末だった。 しかしそれでも作戦は中止せず戦死者は増え続け、漸く大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。

 しかし作戦中止後も、レッドヒルからの撤退には、激しい雨の中、敵攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河まで 400km の間は、全戦死者の 6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
 腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ・・・帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12放送)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見た」、「人間が転んでしまえばハゲタカが いきなり飛びついてくる」、「戦場で目にしたものを絵にしてきたが最も多いのは餓死する仲間たちの姿だった」、「(1人でいると)肉切って食われちゃう、日本人同士でね・・・」、「ともかく友軍の肉を切って物々交換したり・・・」、「マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士、・・・」、「・・・それがインパール戦だった」・・・等々の証言が飛び交っていた。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したのか公式の記録はないという。

 その後、イギリス軍はビルマを完全に奪還し、中国への補給ルートを確保し、ビルマ各地に残留していた日本兵も次々玉砕した。

    ◆◇ ≪戦況悪化 ~ 日本本土空襲
 こうして太平洋戦線は遠方の島々から順に、サイパンや硫黄島まで陥落すると、日本本土まで往復爆撃が始まり、昭和20年に入ると200以上の主要都市が無差別に空襲された。
 アメリカ側は、本土被害の甚大化により 1日も早い降伏を求めて爆撃を拡大した。
 しかし日本側は、最後の一人まで持ち堪える精神で、児童疎開や、大都市では学徒動員や、住民総動員の勤労奉仕などあらゆる手段で降伏を引き延ばした。

沖縄戦連合軍上陸 (S20/3)

日本本土空襲 (S20)

降伏文書調印式;
ミズーリと祝賀飛行の米機
(S20)
 しかし 何100機もの敵機編隊が、1波、2波、・・・と飛来し、東京、大阪、名古屋など・・・約半年間に主要200都市以上が完膚なきまで焼き尽され、極度な食糧難は戦後もしばらく続いた。 それは容赦なく身寄りを奪われ、誰の援助もなく路頭に佇む孤児たちは、その後どう生き残っただろう・・・。

 その頃、呉湾周辺には ”大和”など、健全な艦船が大集結していた。 人々はそれを勇壮と見たか?、悲壮と見たか?・・・燃料が無くて出撃できない艦船群だった。 その中から”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃して行った(昭和20年3月)。 その後、呉空襲により大集結していた戦艦群の雄姿は1隻残らず、沈座する臥体と化した。
 真珠湾奇襲攻撃は 『アメリカに大打撃を加え、早期講和に導く』方針だった日本だが・・・、それでもまだ降伏しないのは、(連合軍側にも)誤算だったのか・・・(?)遂に広島・長崎に原爆が投下された。 しかし満州及び中国本土は、新制中華民国(中国)発足からは 30年以上、満州事変勃発からでも 10年以上、戦闘の舞台になったのに対し、日本の本土決戦は 1年間弱だった。 

 
   ◆◇ ≪ポツダム宣言と ソ連の対日参戦   (1945年7-8月)
 ソ連は、日ソ中立条約により、中国・満州・日本攻撃には参戦しなかった。
しかし、日本は戦闘不能な終戦ま近、米国、中国、英国の首脳がポツダムで会談し無条件降伏 を勧告する【ポツダム宣言】が発せられた(1945,7,26)。
 しかし日本政府は、受諾を前提としながらも、天皇制維持など少しでも有利な条件を模索して「日ソ中立条約」を拠り所に ソ連に 『和平仲介』 を打診した。 しかしソ連は それを放置し、「日ソ中立条約」を破棄して連合国側に参戦した。 
 そうして原爆が投下され(ソ連の仲介なしで)ポツダム宣言受諾し、戦争終結した(1945,8,15)。

   ◆◇ ≪戦争終結後 ソ連の侵攻、満蒙残留兵と入植者たち

 1).ソ連軍の侵攻
  所がソ連軍は、戦争終結(8月15日)以降も、南樺太・千島列島や満州国に侵攻して占領した。
それは正式の終結は 『8月15日でなくミズリー号の艦上で調印を行った(9月2日)だ・・・』という理屈かも知れない。
 しかしソ連にとって、南樺太・千島列島は軍事的にも非常に重要である。 しかも、日露戦争(敗戦)による国力低下は、ヨーロッパ戦線でも劣勢に転じ、ロシアはズタズタに崩壊した経緯もある。 『「日露戦争自体」が(日本の)不当侵略』だと主張し・・・日露戦争前の状態に「原状回復」を求めたと見るべきだろう。
 日本の敗戦と同時に、ソ連軍は 日本軍の残留兵士や民間人も襲撃した。 しかし関東軍は消耗しきって何の援護もなく、捕虜として連行された日本人はシベリアに抑留され、「シベリア開発」の為、過酷労働を強要された。 その数は、定かではないが、50万人とも60万人とも・・・、その内、栄養失調と寒さで 死者は20万人とも30万人とも言われる。

 2).満州地元民の襲撃と、残留日本人たち
 満州の地元住民も、日頃の屈辱から日本人に対する復讐感情が噴き出した。 丸腰の日本人は彼らに襲撃されながら 帰還を急いだ。 しかし列車の運行もなく、或る者はソ連兵や地元民に襲撃され、或いは集団自決し、或いは脱出した者もソ連軍や現地住民の襲撃を避けながら食料もない荒野を彷徨い、衰弱する子供や力尽きた親兄弟を置き去りにしながら・・・日本に帰還できた「引揚者」は、(入植者30数万人+兵士??万人の中)10万人余りと見られる。
 
 戦争終結後にも拘わらず、無抵抗の一般人まで、そんな残虐行為を働いたことは・・・、日本統治時代、(地元民に対し)関東軍が どんな理不尽を働き、どんな反日感情を植えつけていたのか・・・?、それを検証しないで論ずることはできない。 しかし日本政府(当時)は、一切の資料を焼却し、日本人帰還兵も、引き揚げ者も一切語らない。 後代の日本政府も、「加害の検証」には消極的だ・・・。 



    私の歴史観
  * ≪ (各自で)考える歴史
 『歴史の真実は想像する以外にはない』・・・と言うのが持論である。
過去の歴史は、時の権力者により書き替えられ、時勢の願望に合わせて修正される。 断片的な証拠は解釈の仕方でどうでもなる
 しっかり成文化されている筈の憲法でも、通常では思いもよらない解釈変更が通用するのだから、国家間で 『歴史認識の共有化』など、互いに都合の良い材料をデッチあげるだけ・・・。  それで『国家間の歴史認識共有化・・・など』 どこまで本気なのか・・・? 政治家の「建前と本音」は、180度異なる。
 そんな「時の権力者や時勢」の都合で "公"にされた「歴史の表面」だけでなく、その内幕などに疑問を抱き、各自が「考える歴史」(=歴史観)を、セットにしなければ、歴史の真相はみえない。

  * ≪ 弱肉強食時代の 「侵略国と、被侵略国」について
 《日本》は、《欧米諸国》との交易により急発展を遂げた。 しかし食料も資源も財力も労働力も乏しい日本は、満州や朝鮮に侵略なくして成り立たないことは、欧米諸国も即刻承知の筈だ。
 しかし欧米諸国は、限界まで利用し続け、一線を超えると途端に中国に味方し、日本を敵国にした。
 しかしその時点では、日本は崖から転び落ちるか、日米開戦に突っ込むか、二者択一だった・・・。
 様々な批判はあるにしても、当時 【弱肉強食の世界】で、《日本》は生き残る為に、必死に努力した結果としても・・・、しかし「軍事力 ゼロ」からスタートした日本が、そんな(侵略国にまで)勢いたのは、余りにも頑張り過ぎだったのか、米欧諸国にも一定の責任はないのか・・・(?)。
 しかし最後の戦争に勝利した「米英中」は《善良国》、最後に敗れた「日本」は《侵略国》のレッテルが貼られて一件落着とれた。
 

  この続き  ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◇5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )