このページは、私個人の歴史観です。 mail
更新; 20224 08
 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◇5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )

5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、その後の各国(1940 ~ 1945)
 
     太平洋戦争への道すじ
     ◆◇ ≪ 南方作戦、大東亜共栄圏建設 ≫
 こうして日中関係が険悪化し、偶発した発砲事件(盧溝橋事件)から、本格的な「中国全土攻撃」(日中戦争)に拡大した。 それに対し、
  つまり満州は、事実上関東軍(日本国)により超近代的国家(満州国)が建設され、(関東軍の武力で)治安も、眞に「理想国家」の体をなしていた。 日本にとって、食料確保、各種資源調達、産業振興、及び大東亜浸出にも極めて重要な領土になっていた。
 しかし現地人や中国本土にとっては、日本軍の人種差別や横暴に堪え兼ねず、嫌日事件は絶えず、それは欧米や世界からも、「満州国樹立」など(日本の)侵略行為は、容認できなくなっていた。
   しかし日本は満州や大陸から撤退などできる筈もなく、「日中戦争」に拡大すると、米英は(中国に)武器支援し、(日本には)石油の禁輸制裁が課せられ戦争は泥沼化した。
それに対し日本は、東南アジア(=資源、食糧の供給)や、太平洋諸島(=防衛、戦略上の要地)への進出し、「大東亜共栄圏」の建設を目指した。
  それには、これらの諸国に欧米列強の植民地から独立と、相互協力による ”経済連合組織” 目指し、タイ、インドネシア、マレーシア、シンガポール、フィリピン、パプアニューギニア、マリアナ・・・と太平洋の島々も併合して石油などの資源を確保した。
 結果的に、日本軍の戦況が悪化し~敗戦に至った為、独立の約束は果たせなかったが、日本の併合は、西欧の植民地(=奴隷制度)と違い、現地人に教育を施し、重要ポストにも登用し、インフラも整備し、戦後の独立に大きく貢献している。

   ◆◇ ≪ 日独伊 三国同盟締結 ≫
 その頃、ヨーロッパでは、ナチスドイツが急速抬頭し、世界を相手に一触即発状態になっていた。 米英との敵対関係を強める日本には「渡りに船」、空かさず、ドイツ、イタリアと 【三国軍事同盟】を締結した。、日ソ中立条約も締結し、日米開戦に向け、着々と準備を進めた。  

   ◆◇ ≪ 日ソ中立条約 ≫   (1941年4月)
 ところで、ドイツの急速台頭と日米対立の激化は、日ソ間の立場も微妙になった。
◆【ソ連の立場
 「ソ連」は、① 「日本とは、日露戦争以来、強い緊張状態」 に加え、 ②米英とも東欧の植民地戦略を巡る戦闘状態にあり、 ③ドイツとも、ポーランドの盗りあいで戦闘状態が続いていた。
それはどちらの側につくか・・・、英米につけば「日・独から攻撃される」恐れがある。

◆【日本の立場
日本は、ドイツに接近し「日・独・伊三国同盟」を結んだ(1940)。 しかしソ連に背後を突かれては米英と戦えない。 ともかく双方は、「日ソ中立条約」を締結して「日米会戦」に備えた。
  結果、ソ連は、ドイツ側に付いて「独ソ不可侵条約」を締結し、日本とも「日ソ中立情欲」を締結した。
  こうして 「①日本はアメリカに、 ②ソ連はポーランド東部に、 ③ドイツはポーランド西部~ヨーロッパに」進撃するお膳立てが整った。
  しかし「独ソ不可侵条約」は、翌年ドイツが一方的に破棄してソ連領に侵攻し、(ソ連は)甚大な被害を被った。 「日ソ中立条約」も、終戦直前 ソ連は一方的に破棄して連合国側に参戦し、日本の敗戦と同時に、満州国や北方領土に侵攻した。 




    太平洋戦争に突入 (1941.12~8)
  山本五十六は、物量的にも 【無謀な戦争】 と警告し、昭和天皇も「日米開戦回避」を強く進言された。 しかし戦場経験のない日本国内は、大本営発表の大陸での「勇ましい戦勝報道」に熱狂し、陸軍将校たちも、資本家や政府役人や、国民大衆も、戦意は盛上がっていた。 日中戦争の泥沼にも「鬼子支那」とか「鬼畜米英」を合言葉に、誰もが 「正義の戦争」の勝利を信じていた。


真珠湾攻撃
  ◆◇ ≪ 大平洋戦争に突入≫ (1941.12~8)
  そんな全国民の熱狂に圧され、 『短期決戦で米国の戦意を喪失させて早期講和に持ち込む』・・・ そんなシナリオで 、遂に、真珠湾奇襲攻撃が決行された
 (1941.12. 8)、参加艦隊との無線信号;『ニイタカヤマノボレ』、 『トラトラトラ』の送受信と共に、柱島泊地は、連日夥しい数の艦船団や輸送船団が、堂々の雄姿を見せて太平洋戦線に向かった。
 こうして戦場は、中国から東南アジアや大平洋方面に拡がった。
 中国は、連合国側なので、居留邦人は敵国の中での生活だが、関東軍が攻勢を保っている間は、小康状態は保たれていた様だ。

  ◆◇ ≪ ミッドウェー海戦≫   1942.6
 開戦から半年間、南方作戦は破竹の勢いで勝ち進んだ。 その勢いで、ミッドウェー作戦は、「米・豪軍の分断」と、『パールハーバーの「空母」を誘い出して大打撃を与え、⇒ アメリカ軍の戦意を削ぎ、⇒早期講和に漕ぎ着ける』 そんな目論見で、山本五十六が提唱し、慎重に練られた筈だったが・・・。

 しかし作戦の暗号が全て解読され、零戦機は秘かに開発されたレーダーに捕捉され、日本の誇る大量の”零戦機とパイロット” 、最新鋭艦空母(4隻)を全て失う大敗を喫した。

  ◆◇ ≪大平洋諸島陥落 ~ 硫黄島玉砕・沖縄決戦
 ミッドウェー海戦で主戦力を失った日本軍は、以後アメリカの 物量と・新兵器に成す術もなく、大平洋の諸島は順次陥落していった。

  * ≪太平洋戦争の経過≫ 図示
青枠 ;勝利戦  黄枠 ;惨敗戦 
 太平洋駐留部隊は、制海権を奪われ、弾薬も食料も途絶え、兵士たちは丸腰で敵と戦った、と言うより大部分は餓死と病死、或いは集団自決で果てた。 僅かに生き残った兵士は、ジャングルの中で蛇やネズミなどを食べながら命を繋いだ。

 太平洋の島々は ガダルカナル島の激戦から始まり、ソロモン諸島~パラオ~マリアナ~グアム、テニアン、サイパン~フィリピン~沖縄と順次陥落し、テニアン、サイパン島には 2,000機の《B-29》出撃基地が建設され(昭和19年終盤)ると、日本本土に直接往復爆撃が始まった。
 硫黄島攻撃には、島全体を要塞化して抵抗したが、地形が変わる程の艦砲射撃と空爆による上陸作戦で玉砕した。

 沖縄戦も海全体を埋め尽くす程の艦船と舟艇による上陸作戦に、日本軍は呉軍港から 戦艦”大和”を急行させたが、鹿児島沖で敢えなく撃沈された。 しかし本土への防波堤として 1日も長く持ち堪え様と、住民も死者 10万人という悲劇となった。





From Wikipedia
   ◆◇ ≪大陸打通作戦  (陸軍=1944.4)
 日本近海の制海権も制空権も弱体化すると、日本陸軍は、南方の資源を鉄道で日本へ運ぶ作戦をたてた。
 総距離 2,400km という膨大な作戦が成功すれば、釜山(朝鮮半島)から 中国を縦断し、泰緬鉄道を経てビルマまで鉄道で繋がる。
 それは、①中国から日本爆撃が可能な飛行場占領と、②重慶軍(蒋介石軍)撃破も併せて 計画され、地図上では釜山からビルマまで鉄道が繋がった。
 しかし中国側のゲリラ攻撃により、運行は容易でなく、それに、B- 29爆撃機はサイパンから日本本土に往復爆撃が可能になり、意味がなくなった。

   ◆◇ ≪インパール作戦  (陸軍=1944.3~7)

 インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に占領されていた為、中国に兵器や資材を供給する唯一の補給基地になっていた。 日本軍は、そこを攻撃すれば、中国軍の弱体化と、インドの独立運動を誘発して味方にできる。
  しかしインパールまで 470kmは、乾季でも川幅 600mの大河を渡河し、標高 2,000m 級の人口希薄な山岳地帯を行軍しなければならない。 それは行軍中の糧食などの調達が不可能で、作戦は無謀とされていた。
 以下、新聞雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等から集めた「私の歴史観」を記す。
 太平洋戦線の日に日に悪化していく戦局を横目に、陸軍も 『一発逆転を期したい』 思いが漲っていた。 そんな背景で、南方軍総司令官;寺内寿一の強い思いを、ビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也は強硬に支持した。
 それは確固たる作戦検証をしないまま、反対する者は「大和魂云々・・・」とか「卑怯者・・・云々」呼ばわりして排除され、 9万人の将兵によって (1944.3)実行に移された。
 それは雨期を避け、3週間でインパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。 ・・・しかし現実は、大河の渡河や高峻な山地の強行軍は、武器や糧食の運搬も困難で、大勢の将兵を餓死や疫病により失う惨状だった。
 インパールの手前 15km地点まで、(3週間の予定に) 2か月を要し、丘の上に陣取って待ち構えているイギリス軍と丸腰で対戦した。 そして牟田口司令官は、兵士に 「100メートルでも進め」と、突撃指示をし続けた。 こうして無数の日本兵の血が流れたことから 、この丘は《レッドヒル》 と呼ばれていると言う。
 しかしこの惨絶は、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、東條首相は 『剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する』 と天皇に上奏した。

 作戦開始から3か月後 (1944年6月)には雨期に入り、既に 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死) していた。 この地方の降水量は世界一と言われているが、それも 30年に一度の大雨だったと言われている。
 密林の中は辺り一面の洪水で、兵士たちは宿営場所もなく、食料も流される始末だった。 しかしそれでも作戦は中止せず戦死者は増え続け、漸く大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。

 しかし作戦中止後も、レッドヒルからの撤退には、激しい雨の中、敵攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河まで 400km の間は、全戦死者の 6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
 腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ・・・帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12放送)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見た」、「人間が転んでしまえばハゲタカが いきなり飛びついてくる」、「戦場で目にしたものを絵にしてきたが最も多いのは餓死する仲間たちの姿だった」、「(1人でいると)肉切って食われちゃう、日本人同士でね・・・」、「ともかく友軍の肉を切って物々交換したり・・・」、「マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士、・・・」、「・・・それがインパール戦だった」・・・等々の証言が飛び交っていた。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したのか公式の記録はないという。

 その後、イギリス軍はビルマを完全奪還し、中国への補給ルートを確保し、ビルマ各地に残留していた日本兵は次々玉砕した。

    ◆◇ ≪戦況悪化 ~ 日本本土空襲
 こうして太平洋戦線は遠方の島々から順に、サイパンや硫黄島まで陥落すると、日本本土に往復爆撃が始まり、昭和20年に入ると200以上の主要都市が無差別に空襲された。
 アメリカ側は、1日も早く降伏させ様と、日増しに爆撃を拡大した。
 しかし日本側は、最後の一人まで持ち堪える精神で、児童疎開や、大都市では学徒動員や、住民も総動員して、勤労奉仕などあらゆる手段で降伏を引き延ばした。

沖縄戦連合軍上陸 (S20/3)

日本本土空襲 (S20)

降伏文書調印式;
ミズーリと祝賀飛行の米機
(S20)
 しかし 何100機もの敵機編隊が、1波、2波、・・・と飛来し、東京、大阪、名古屋など・・・約半年間に主要200都市以上が完膚なきまで焼き尽され、極度な食糧難は戦後もしばらく続いた。 それは容赦なく身寄りを奪われ、誰の援助もなく路頭に佇む孤児たちは、その後どう生き残っただろう・・・。

 その頃、呉湾周辺には ”大和”など、健全な艦船が大集結していた。 人々はそれを勇壮と見たか?、悲壮と見たか?・・・燃料が無くて出撃できない艦船群だった。 その中から”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃して行った(昭和20年3月)。 その後、呉空襲により大集結していた戦艦群の雄姿は1隻残らず、沈座する臥体と化した。
 真珠湾奇襲攻撃は 『アメリカに大打撃を加え、早期講和に導く』方針だった日本だが・・・、まだ降伏しない日本は、(連合軍側も)誤算だったのか(?)、遂に広島・長崎に原爆が投下された。
 
しかし満州や中国本土は、新制中華民国(中国)発足から 30年以上、満州事変勃発からでも 10年以上、戦場になったのに対し、日本の本土決戦は 1年間弱だった。 

 
   ◆◇ ≪ポツダム宣言と ソ連の対日参戦   (1945年7-8月)
 ソ連は、日ソ中立条約により、中国・満州・日本攻撃には参戦しなかった。
しかし、日本は戦闘不能な終戦ま近、米国、中国、英国の首脳が会談し無条件降伏 を勧告する【ポツダム宣言】が発せられた(1945,7,26)。
 しかし日本政府は、受諾を前提としながらも、天皇制維持など少しでも有利な条件を模索して「日ソ中立条約」を拠り所に ソ連に 『和平仲介』 を打診した。 しかしソ連は それを放置し、「日ソ中立条約」を破棄して連合国側に参戦した。 そうして原爆が投下され、(ソ連の仲介なしで)ポツダム宣言受諾し、戦争終結した(1945,8,15)。

   ◆◇ ≪戦争終結後 ソ連の侵攻、満蒙残留兵と入植者たち

 1).ソ連軍の侵攻
  所がソ連軍は、戦争終結(8月15日)以降も、南樺太・千島列島や満州国に侵攻し 日本軍の残留兵士や民間人も襲撃した。 しかし関東軍は消耗しきって何の援護もなく、捕虜として連行された日本人はシベリアに抑留され、「シベリア開発」の為、過酷労働を強要された。 その数は、定かではないが、50万人とも60万人とも・・・、その内、栄養失調と寒さで 死者は20万人とも30万人とも言われる。
  それは正式の終結は 『8月15日でなくミズリー号の艦上で調印を行った(9月2日)だ・・・』という主張の様だが・・・、しかし、ソ連にとって、①南樺太・千島列島は軍事的にも非常に重要であることや、②「日露戦争敗戦」により、ヨーロッパ戦線でも劣勢に転じ、ロシアはズタズタに崩壊した経緯もあり、日露戦争以来、日ソ間はかなり険悪な状態で推移していただろう(?)と想像する。

 2).満州地元住民の襲撃と、残留日本人たち
 満州の地元住民も、日頃の鬱憤から一気に日本人に対する復讐感情が噴き出した。 丸腰の日本人は彼らに襲撃されながら 帰還を急いだ。 しかし列車の運行もなく、或る者はソ連兵や地元民に襲撃され、或いは集団自決し、或いは脱出した者もソ連軍や現地住民の襲撃を避けながら食料もない荒野を彷徨い、衰弱する子供や力尽きた親兄弟を置き去りにしながら・・・日本に帰還できた「引揚者」は、(入植者30数万人+兵士??万人の中)10万人余りと見られる。
 
 戦争終結後にも拘わらず、無抵抗の一般人まで、そんな残虐行為を働いたことは・・・、関東軍は(地元民に) どんな扱いをし、彼らの抱いた反日感情は、どんなものだったか(?)・・・検証しないで論ずることはできない。 しかし日本政府(当時)は、一切の資料を焼却し、帰還した兵士も、引き揚げ者も一切語らない。 後代の日本政府も、日本兵による「加害の検証」には消極的だ・・・。 


    私の歴史観
  * ≪ 想像する歴史
 『歴史の真実は想像する以外にはない』・・・。
過去の歴史は、時の権力者により書き替えられ、時勢の願望に合わせて修正される。 そうして残された断片的な遺物(証拠物件や記録)があっても、解釈の仕方は「伝える人と受取る人」の自由である
 現に、しっかり成文化されている筈の憲法さえ、通常では思いもよらない解釈変更が通用するから、国家間で 『歴史認識の共有化』など、互いに都合の良い材料を拾ってデッチあげれば・・・、現に政治家の「建前と本音」は、簡単に 180度転換する。
 そんな「時の権力者や時勢」の都合で "公式化"されている表面的な「歴史」だけでなく、その裏(水面下)にどんな事情があったのか、「本音」に迫らなければ真相とは言えない。 しかしそれは「各自が考える歴史」(=歴史観)を信じる以外、真相は掴めないし、将来への教訓にもならない。■

  この続き  ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )


 日本と中国の近代歴史対比 
 1.清朝;西太后政権と 日本;明治維新の興亡   (1840~1911)
 2.新制”中華民国” vs 日本、ソ連、欧米の攻防  (1911~1928)
 ◆3.満州をめぐる攻防戦(日中戦争) と 満州国設立  (1928~1934)
 ◆4.日中全面戦争突入  (1934~1940)
 ◇5.太平洋戦争に突入~日本敗戦   (1940~1945)
 ◆6.戦後処理とその後の各国の関係   (1945~  )