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◆◇ ≪大陸打通作戦≫ (陸軍=1944.4)
近海の制海権も制空権も弱体化すると、日本陸軍は、南方の資源を鉄道で日本へ運ぶ作戦をたてた。
総距離 2,400km という膨大な作戦が成功すれば、釜山(朝鮮半島)から 中国を縦断し、泰緬鉄道を経てビルマまで鉄道で繋がる。
それは、①中国から日本爆撃が可能な飛行場占領と、②重慶軍(蒋介石軍)の撃破も併せて 計画され、地図上では釜山からビルマまで鉄道が繋がった。
しかし中国側のゲリラ攻撃により、運行は容易でなかった。
それに、B- 29爆撃機はサイパンから日本本土に往復爆撃が可能になった為、意味がなくなった。
◆◇ ≪インパール作戦≫ (陸軍=1944.3~7)
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インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に占領されていた為、中国に兵器や資材を供給する唯一の補給基地になっていた。
日本軍は、それを攻撃すれば中国軍の弱体化と、インドの独立運動を誘発して味方にすることができる。 しかしインパールまで 470kmは、乾季でも川幅 600mの大河を渡河し、標高 2,000m 級の人口希薄な山岳地帯を行軍しなければならない。 それは行軍中の糧食などの調達が不可能で、作戦は無謀とされていた。
以下、新聞雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等から集めた「私の歴史観」を記す。
太平洋戦線の日に日に悪化していく戦局を横目に、陸軍も 『一発逆転を期したい』 思いが漲っていた。 そんな背景で、南方軍総司令官;寺内寿一の強い思いを、ビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也は強硬に支持した。
それは確固たる作戦検証をしないまま、反対する者は「大和魂云々・・・」とか「卑怯者・・・云々」呼ばわりして排除され、 9万人の将兵によって (1944.3)実行に移された。
それは雨期を避け、3週間でインパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。 ・・・しかし現実は、大河の渡河や高峻な山地の強行軍は、武器や糧食の運搬も困難で、大勢の将兵を餓死や疫病により失う惨状だった。
インパールの手前 15km地点まで、(3週間の予定に) 2か月を要し、丘の上に陣取って待ち構えているイギリス軍と丸腰で対戦した。 そして牟田口司令官は、兵士に
「100メートルでも進め」と、突撃指示をし続けた。 こうして無数の日本兵の血が流れたことから 、この丘は《レッドヒル》 と呼ばれていると言う。
しかしこの惨絶は、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、東條首相は 『剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する』 と天皇に上奏した。
作戦開始から3か月後 (1944年6月)には雨期に入り、既に 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死) していた。 この地方の降水量は世界一と言われているが、それも
30年に一度の大雨だったと言われている。
密林の中は辺り一面の洪水で、兵士たちは宿営場所もなく、食料も流される始末だった。 しかしそれでも作戦は中止せず戦死者は増え続け、漸く大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。
しかし作戦中止後も、レッドヒルからの撤退には、激しい雨の中、敵攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河まで 400km の間は、全戦死者の 6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ・・・帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12放送)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見た」、「人間が転んでしまえばハゲタカが
いきなり飛びついてくる」、「戦場で目にしたものを絵にしてきたが最も多いのは餓死する仲間たちの姿だった」、「(1人でいると)肉切って食われちゃう、日本人同士でね・・・」、「ともかく友軍の肉を切って物々交換したり・・・」、「マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士、・・・」、「・・・それがインパール戦だった」・・・等々の証言が飛び交っていた。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したのか公式の記録はないという。
その後、イギリス軍はビルマを完全に奪還し、中国への補給ルートを確保し、ビルマ各地に残留していた日本兵も次々玉砕した。
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◆◇ ≪戦況悪化 ~ 日本本土空襲≫
こうして太平洋戦線は遠方の島々から順に、サイパンや硫黄島まで陥落すると、日本本土まで往復爆撃が始まり、昭和20年に入ると200以上の主要都市が無差別に空襲された。
アメリカ側は、本土被害の甚大化により 1日も早い降伏を求めて爆撃を拡大した。
しかし日本側は、最後の一人まで持ち堪える精神で、児童疎開や、大都市では学徒動員や、住民総動員の勤労奉仕などあらゆる手段で降伏を引き延ばした。 |
沖縄戦連合軍上陸 (S20/3) |
日本本土空襲 (S20) |
降伏文書調印式;
ミズーリと祝賀飛行の米機(S20) |
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しかし 何100機もの敵機編隊が、1波、2波、・・・と飛来し、東京、大阪、名古屋など・・・約半年間に主要200都市以上が完膚なきまで焼き尽され、極度な食糧難は戦後もしばらく続いた。 それは容赦なく身寄りを奪われ、誰の援助もなく路頭に佇む孤児たちは、その後どう生き残っただろう・・・。
その頃、呉湾周辺には ”大和”など、健全な艦船が大集結していた。 人々はそれを勇壮と見たか?、悲壮と見たか?・・・燃料が無くて出撃できない艦船群だった。 その中から”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃して行った(昭和20年3月)。 その後、呉空襲により大集結していた戦艦群の雄姿は1隻残らず、沈座する臥体と化した。
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真珠湾奇襲攻撃は 『アメリカに大打撃を加え、早期講和に導く』方針だった日本だが・・・、それでもまだ降伏しないのは、(連合軍側にも)誤算だったのか・・・(?)遂に広島・長崎に原爆が投下された。 しかし満州及び中国本土は、新制中華民国(中国)発足からは 30年以上、満州事変勃発からでも 10年以上、戦闘の舞台になったのに対し、日本の本土決戦は
1年間弱だった。
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◆◇ ≪ポツダム宣言と ソ連の対日参戦≫ (1945年7-8月)
ソ連は、日ソ中立条約により、中国・満州・日本攻撃には参戦しなかった。
しかし、日本は戦闘不能な終戦ま近、米国、中国、英国の首脳がポツダムで会談し無条件降伏 を勧告する【ポツダム宣言】が発せられた(1945,7,26)。
しかし日本政府は、受諾を前提としながらも、天皇制維持など少しでも有利な条件を模索して「日ソ中立条約」を拠り所に ソ連に 『和平仲介』 を打診した。 しかしソ連は
それを放置し、「日ソ中立条約」を破棄して連合国側に参戦した。
そうして原爆が投下され(ソ連の仲介なしで)ポツダム宣言受諾し、戦争終結した(1945,8,15)。
◆◇ ≪戦争終結後 ソ連の侵攻、満蒙残留兵と入植者たち≫
1).ソ連軍の侵攻
所がソ連軍は、戦争終結(8月15日)以降も、南樺太・千島列島や満州国に侵攻して占領した。
それは正式の終結は 『8月15日でなくミズリー号の艦上で調印を行った(9月2日)だ・・・』という理屈かも知れない。
しかしソ連にとって、南樺太・千島列島は軍事的にも非常に重要である。 しかも、日露戦争(敗戦)による国力低下は、ヨーロッパ戦線でも劣勢に転じ、ロシアはズタズタに崩壊した経緯もある。 『「日露戦争自体」が(日本の)不当侵略』だと主張し・・・日露戦争前の状態に「原状回復」を求めたと見るべきだろう。
日本の敗戦と同時に、ソ連軍は 日本軍の残留兵士や民間人も襲撃した。 しかし関東軍は消耗しきって何の援護もなく、捕虜として連行された日本人はシベリアに抑留され、「シベリア開発」の為、過酷労働を強要された。 その数は、定かではないが、50万人とも60万人とも・・・、その内、栄養失調と寒さで
死者は20万人とも30万人とも言われる。
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2).満州地元民の襲撃と、残留日本人たち
満州の地元住民も、日頃の屈辱から日本人に対する復讐感情が噴き出した。 丸腰の日本人は彼らに襲撃されながら 帰還を急いだ。 しかし列車の運行もなく、或る者はソ連兵や地元民に襲撃され、或いは集団自決し、或いは脱出した者もソ連軍や現地住民の襲撃を避けながら食料もない荒野を彷徨い、衰弱する子供や力尽きた親兄弟を置き去りにしながら・・・日本に帰還できた「引揚者」は、(入植者30数万人+兵士??万人の中)10万人余りと見られる。 |
戦争終結後にも拘わらず、無抵抗の一般人まで、そんな残虐行為を働いたことは・・・、日本統治時代、(地元民に対し)関東軍が どんな理不尽を働き、どんな反日感情を植えつけていたのか・・・?、それを検証しないで論ずることはできない。 しかし日本政府(当時)は、一切の資料を焼却し、日本人帰還兵も、引き揚げ者も一切語らない。 後代の日本政府も、「加害の検証」には消極的だ・・・。 |