大東亜戦争への道(2) 2018/1 記
更新2024/7
      太平洋戦争《日米開戦》への道・・・  (1939 ~ 1945 )
     

   6. 太平洋戦争《日米開戦》への道・・・
    ◆ ≪ソ連~ドイツの立場 & 日ソ中立条約(1941)≫
  その頃、ヨーロッパでは、ナチスドイツが急速抬頭し、一触即発状態になっていた。
 ソ連は、①「南進政策(膨張政策)」で英米と敵対し、 ②ポーランド侵攻を巡り、ドイツとも激しい敵対関係にあり、 ③「日露戦争以来」、日本とも強い緊張状態にあり、互いの立場は微妙だった。
 つまり、
  ◇「ソ連」は; 米英側につけば 日・独に挟撃される恐れがある。
  ◇「ドイツ」の立場も; ソ連が敵側(米英側)つけば、米英・ソ連に挟撃される恐れがある
 そんな関係で、両国は、取敢えず(?) 「独ソ不可侵条約(1939)」を締結した。
   ◇しかし「独・ソの接近」は、「世界」にとっても; 欧州の軍事バランスが、大きく崩れる
    驚愕的な出来事だった。
 
  ◇ところが「日本」も; ドイツに接近し「日・独・伊三国同盟」を締結(1940)した。
  ◇すると「日・ソ」の関係も; 緊張関係を解消して、「日ソ中立条約」を締結した。
 註) ファシズム国家ナチスドイツの抬頭  *****《日・独・伊三国同盟》*****
  そうして、ナチスドイツは、ソ連の脅威がなくなると 隣国ポーランドに侵攻し(1939)、 「第二次世界大戦」が勃発した。 そして ポーランド西部、オランダ、ベルギー、フランスを次々占領する 快進撃が続いた。 
  しかし翌年(1941)には、一方的に「独ソ不可侵条約」 を破棄し、ポーランド東部からソ連領バルト諸国に侵攻し、ソ連は大打撃を受けた。
    そんなナチスドイツの躍進に、日本国内は「ドイツに続け !!」、「大日本帝国はアジアの中心・・・ !!」と、独・伊に接近した。 しかし山本五十六は、「米英との戦争が決定的になる !!、戦争になれば絶対に勝てない !!」と、命がけで反対したが、「三国同盟」が締結された。
   こうして 「➡①日本はアメリカに、 ➡②ソ連はポーランド東部に、 ➡③ドイツはポーランド西部~ヨーロッパに」侵攻するお膳立てが整った。

  日本国内も、◇南方作戦開始、◇日独伊三国同盟締結、◇日ソ中立条約締結、◇戦艦"大和"建艦・・・と、準備が整い、陸軍将校や国民大衆も 「暴支膺懲」 、「鬼畜米英」と"敵愾心"を奮い立たせていた。

 ◆ 御前会議 ~ 太平洋戦争突入 (1941 昭和16年)
 天皇陛下は「君臨すれども統治せず」、通常、議会に口(くち)は挟まれない。 しかし昭和天皇は、御前会議(9/6)で 『戦争回避すべく外交に全力を尽くす様・・・』 強い口調で発言をされた。
 しかし近衛内閣は、戦意が沸騰する陸軍将校や国民を収拾できず退陣に追い込まれた。
 それには、現に;陸軍大臣で、"軍"を掌握している東條英機以外に人材が見当らず、東條内閣が組閣された。 東條は、強硬な開戦論者だったが、いざ総理の立場で 「日米開戦の決断」は 大変煩悶の末、結局、歯車は止められず、昭和天皇も「多勢に無勢」、詩句を引用して「遺憾の意」を表された。



   7.・・・太平洋戦争に突入・・・
    ◆ 真珠湾攻撃 (1941/12/8 )
  こうして、昭和天皇は強く憂慮され、山本五十六らも躊躇していたにも拘わらず、陸軍将校や、全国民の開戦圧力に圧され、『短期決戦でアメリカ太平洋艦隊を撃破し、戦意を喪失させて、早期講和に持ち込む』・・・ そんな作戦シナリオで 『ニイタカヤマノボレ1208』の暗号を受け、真珠湾奇襲攻撃が決行された。   

真珠湾攻撃
  それは浅海に停泊中の艦隊に航空魚雷を発射する難題を克服し、奇襲は 2時間で空前の損害を与え、『トラトラトラ』(我奇襲に成功せり)の知らせに、国中は熱狂した。
   しかし外洋にいた空母3隻と、地上施設も破壊不完全だったことに禍根が残った。
 また、宣戦布告が、攻撃開始後に届けられ、『卑怯なだまし討ち』と米国民の戦意に火がついた。  

 ◆ マレー沖海戦 ~ シンガポール攻略戦 1941/12 ~
 シンガポールは英国植民地だが、インドネシアの資源(石油、ゴムなど)を日本へ輸送経路上の要衝にある。 日本陸軍はマレー半島に奇襲上陸を敢行し、シンガポール攻略を仕掛けた。

プリンスオブウェールス
 英国東洋艦隊は、その援軍に新鋭艦と航空隊を派遣した。 所がそれは日本軍の索敵機に発見され、 マレー半島東方沖で鹿屋航空部隊(一式陸攻、九六式陸攻)により、新鋭戦艦 2隻(プリンスオブウエールス、レパルス)は 撃沈された。 
  それは 『航空機で新式戦艦の撃沈はできない』 という常識を覆す、海軍史上初の大成果だった。 その後シンガポールは、激しい市街戦で飛行場や貯水池や給水施設を破壊し奪取した。

    ◆ フィリピン占領   1941/12~ 
 当時フィリピン(比国)は米国の植民地になっていた。 日本は(インドネシアの)資源輸送経路の要衝として、比国に独立の約束をして、150日で全土を占領した。
 その際、数万人の米国兵や比国兵捕虜を 食糧補給地点まで 100km を徒歩移動させ、多数の死者が発生したが、比国の独立運動家は日本を支持した。
  しかし日本は敗戦し、独立の約束は果せなかったが、日本統治時代に整備されたインフラや諸制度などの遺産は、戦後の独立に貢献している。
☆ 銀輪部隊
 自転車部隊(銀輪部隊)はフィリピンやマレー半島のジャングルや椰子林などの道を進んだ。 当時、歩兵部隊を安定輸送できるほど自動車はなく、徒歩移動が中心だった。
しかし侵攻速度が重要な南方作戦では、歩兵部隊が 兵器・物資輸送を携えて移動するには、現地の自転車を徴発して自転車部隊を急造した。
 自動車や戦車が通れない狭い道も通れ、川は担いで渡れ、銀輪部隊は破壊された橋梁の修復も行うなど、非常に有効だったと言う、自動車輸送隊も助けながら攻略を続けた。

    ◆ 蘭印(現在;インドネシア)作戦 ;   (1942/1 - 1942/3)
  日本軍は、石油、及び地下資源やゴムなどの獲得の為、蘭印(現インドネシア)に侵攻した。
 蘭印はオランダ植民地で、日本政府は無血進駐を考えていた。 しかしオランダは、米英と密接な関係国になっていたので戦争になった。
 大本営は 占領まで120日を考えていたが、陸軍は 92日という快進撃でジャワ島上陸に成功した。



  8. 戦線拡大 《国力を超えて領土拡大》・・・
    国力を超えて、回り続ける歯車
  陸軍の南方作戦は、マレー半島から、シンガポール、フィリピン、インドネシア戦線・・・と快進撃を続けた。 海軍も《真珠湾攻撃》と並行して、大平洋の島々を、次々占領して兵員を送り込んだ。
  勢いに乗る陸軍は、更にビルマにも侵攻した。 それは海軍も協力して海上輸送路を確保し、陸海軍は 互いに協力や競争もしながら快進撃を続けた。
  しかし「国力を無視した快進撃」は、次の瞬間には、世界を「敵」にまわし、退路も閉ざされていた。

   ◆ ビルマ(現;ミャンマー)侵攻作戦   1941- 1942
 《日本軍》は; マレー半島、シンガポール、インドネシアを確保していたので、英米から中国への補給路は、インド東部(インパール)からビルマ経由で雲南省への空・陸ルートに限られていた。 日本軍は、その補給ルートを遮断しようと、ビルマ侵攻を計画した。
 《英国軍》にとっては; ⇒◇日本軍がビルマを占領すれば、インド東部(インパール等 中国への補給基地)に脅威が及ぶ。 日・独・伊の連係強化する恐れがある。
 ⇒◇それには、ラングーン(ビルマの首都)を攻略し、既に占領されているマレー半島と シンガポール奪還が至上命題だった。
 しかし《大本営》は; 兵力に限りがあり、ビルマへの侵攻計画は認めなかった。
 しかし《南方軍》は; 快進撃に乗じ 大本営を無視してビルマに侵攻した(1941年末)。
 結果; 日本軍は、ビルマ独立義勇軍の協力を得て英国軍を急襲し、首都ラングーン(現;ヤンゴン)を陥落し、更に、勢いに乗りビルマ全域を制圧した。(1941-42)
  しかし日本軍の拠点からビルマに通じるには、険しい山岳地帯の連絡路が不備で、米英軍の(中国への)武器補給ルート遮断はできなかった。   参照) 後述 ⇒ インパール作戦

  ◆ 泰緬鉄道 (陸軍 = 建設 1942 - 43) 
 日本軍はビルマを制圧した。 しかし国境付近に 山脈が連なり、ビルマに通じる連絡路はなかった。 その為、山脈を越える全長約 400キロの鉄道(泰緬鉄道)建設を計画し、1942年6月から着工した。 作業員はタイ人、ビルマ人、マレー人、インドネシア人など(南方作戦 =前述)の捕虜 62,000人や、募集して集めた人員を合わせ 総員30万人という人海戦術で突貫工事を進めた。
 それは猛烈な過酷労働に加え、コレラの流行や栄養失調で、約半数もの死者が出るなど難航の末、鉄道は1943年10月に開通した。

 ※注) 泰緬鉄道は タイ~ビルマ(現;ミャンマー)間を繋ぐ鉄道で、第二次世界大戦中、日本陸軍が建設し運行した。 建設時大量の死者を出したことから「死の鉄道」と呼ばれる。
 現在はビルマ側の全線を含む3分の2が撤去され、バンコクのトンブリー駅~ナムトック駅までをタイ国有鉄道が運行している。
 川と山の ほぼ垂直な岩盤を掘削して敷かれた線路や、カンチャナブリでの連合軍捕虜と日本人合作の「クワイ川架橋工事」は、映画『戦場にかける橋』の舞台となった。 旧日本軍時代を偲び、風光明媚な自然の中を走る鉄道は、現在、観光客の人気路線になっているという。
 
  沿線、タイ西部のカンチャナブリには、旧日本軍の捕虜収容所の様子を伝える「戦争博物館」や、泰緬鉄道建設の過酷な労働やマラリアなどで死んだ連合軍捕虜の墓石が並ぶ「連合軍共同墓地」があり、またクワイ川の鉄橋近くには、泰緬鉄道建設中に犠牲となった全ての捕虜、労務者、日本人将校、軍属の霊を慰める慰霊塔があるという。
*
   ◆  インパール作戦 (陸軍=1944.3~7)
   インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に支配されていた為、米英から中国に兵器を輸送する唯一の基地になっていた。 
 日本軍は、それを攻撃すれば中国軍が弱体化し、インドに独立運動を促して 味方にすることもできる。 しかしインパールまで 470kmのルートは、乾季でも河幅 600mの大河を渡り、標高 2,000mの人口希薄な山岳地帯を行軍せねばならず、糧食などの補給や調達は不可能で、作戦は無謀とされていた。
  以下、新聞・雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等を寄せ集め「私の歴史観」として記す。 
 しかし、太平洋戦線は、日に日に悪化していく戦局を横目に、陸軍も 『一発逆転を期したい』 思いが漲っていた。 そんな背景にあって、南方軍総司令官;寺内寿一の強い思いを、ビルマ方面軍第15軍司令官へ昇進した牟田口廉也は強硬に支持した。
 それは確固たる作戦検証をしないまま、反対する者は「大和魂云々・・・」とか「卑怯者・・・云々」呼ばわりして排除し、 9万人の将兵によって (1944.3)実行に移された。
 それは雨期を避け、3週間でインパールまで 470キロを踏破し攻略するという前例のない想定だった。 ・・・しかし現実は、大河の渡河や高峻な山地の強行軍は、武器や糧食の運搬も困難で、大勢の将兵を餓死や疫病により失う惨状だった。
 インパールの手前 15km地点まで、(3週間の予定に) 2か月を要し、丘の上に陣取って待ち構えているイギリス軍と丸腰で対戦した。
 牟田口司令官は、兵士に 「100メートルでも進め」と、突撃指示をし続け、無数の日本兵の血が流れたことから 、この丘は《レッドヒル》 と呼ばれていると言う。
 しかしこの惨絶は、太平洋戦線で敗退が続く日本国内では《華々しい成果》と報道され、東条首相は 『剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫徹に努力する』 と天皇に上奏した。 
 作戦開始から3か月後 (1944/6)は雨期に入り、既に 1万人が戦死(殆どは餓死や疫病死) していた。 この地方の降水量は世界一と言われ、然も 30年に一度の大雨だったとされている。
 密林の中は一面の洪水で、兵士たちは宿営場所もなく、食料も流される始末だった。 それでも作戦は中止されず戦死者は増え続け、漸く大本営が作戦中止したのは開始から4か月後だった。
 しかし作戦中止後も、レッドヒルからの撤退には、激しい雨の中、敵攻撃に晒されながら、作戦開始時に渡ったチンドウィン河まで 400km の間は、全戦死者の 6割の死体が道しるべの様に連なり、彼らは「白骨街道」と呼んだ。
 腐敗が進む死体、群がる大量のウジやハエ・・・、帰還兵士の証言(NHKテレビ2017/12)には、「インド豹が人間を食うてるとこを見た」、「人間が転んでしまえばハゲタカが いきなり飛びついてくる」、「戦場で目にしたものを絵にしてきたが殆どは餓死する仲間たちの姿だった」、「1人でいると肉切って食われちゃう、日本人同士で・・・」、「ともかく友軍の肉を切って物々交換したり・・・」、「マラリアにかかり置き去りにされて死の淵を彷徨う兵士の姿・・・それがインパール戦だった」等々の証言が飛び交っていた。 しかし何人が再びこの河を渡って帰還したか公式記録はないという。
 その後、イギリス軍はビルマを完全に奪還し、中国への補給ルートを確保し、ビルマ各地に残留していた日本兵も次々玉砕した。



  9. 海軍 ;  ・・・戦況の転換・・・ 
  こうして緒戦は、陸・海軍は競い合って戦線を拡大していった。 しかし「占領地運営」について考慮は不十分で、開戦から約半年後、ミッドウェー海戦での完敗後、成す術もなく戦況は悪化した。

  【ミッドウェー海戦】   1942-6-5
  ーーー運命の海戦、その時連合艦隊を待ち受けていたもの・・・!?】ーーー
   ミッドウェー作戦は、米豪の連係遮断と、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えて戦意を喪失させ、早期講和に持込む・・・。 そんな計画で、山本五十六司令長官が主張し、綿密に作戦が練られ、日本海軍最精鋭空母群と最強艦隊を投入する奇襲攻撃・・・だった。
 所がアメリカ軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーで航空機を捕捉し、待伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突込み・・・最精鋭空母と共に、多数の航空機やパイロットも失う大惨敗を喫した。
 ※ 《ミッドウェー海戦の敗北》は、最精鋭空母4隻(赤城、加賀、飛龍、蒼龍)と共に、多数の航空機、優秀なパイロットなど主力部隊を失い、日本軍の攻勢は一気に逆転し、米軍の攻撃に成す術もなく、太平洋上の島々は順次玉砕・陥落に追いやられた。 そうして制空権も制海権を失い、残された日本兵は、補給が絶たれジャングルを彷徨いながら餓死や病死していった。
 *62
  【ガダルカナル島の攻防戦】  1942/8 ~1943/2
   ーーー兵士たちを見舞った密林の悲劇ーーー
  《ミッドウェー海戦敗北 1942/6》後、米軍の反撃は ガダルカナル島から始まった。 
 ガダルカナル島は、アメリカ軍とオーストラリア軍を分断する要衝で、飛行場を設営していた。
   日本軍は、飛行場を奪取された後 3回にわたる奪還作戦に失敗し、制空権・制海権共に奪われ、残された兵士は深刻な食料不足に陥った。
青枠 ;勝利戦、 黄枠 ;惨敗戦
 
  しかし日本軍にとって「飛車・角」である要衝を敵方に渡す決断ができず、御前会議で撤退を決めたのは、4ヶ月後(1942/12)になった。
  しかし制海権を奪われた海域は、艦船が近づけず、実際の撤退は翌年2月になり、既に、日本軍兵士は殆ど全滅(戦死者6,000人、餓死・病死者15,000人)という惨状だった。 以後太平洋の島々は、遠方から順に陥落していった。

 *63
  【次第に戦局が厳しくなる日本軍】
  **** 防戦一方となった戦地の戦い ****
   太平洋戦争開戦後 約半年間は、日本軍は破竹の勢いで南方領土を拡大した。 しかしミッドウェー海戦敗北を境に、戦況は一気に逆転し、南方の島々から順次陥落していった。
 ◆ソロモン海戦  (1942/8) 
 ガダルカナル戦線(前述)、 及びニューギニア戦でも多くの犠牲者を出した。
 ◆マリアナ沖海戦 (1944/6) 
アウトレンジ戦法で逆襲
日本は、航続距離の長い《零戦》の特徴を活かし、遠方から敵艦隊の襲撃を試みた。
しかしアメリカ軍のレーダーに捕捉され、零戦の機数を上回るヘルキャット(戦闘機)の待ち伏せ攻撃や、VT信管の艦砲射撃により完敗し、大量の航空機と主力空母も失った。
VT信管
軍艦から艦砲射撃の弾丸は、従来=時限爆発式だったのを、電波で目標(航空機)に近づき、所定距離を測定して爆発する(VT信管)を開発し、撃墜精度が格段に向上した。
  ◆ サイパンの戦い (1944/7)
 サイパンは、第一次世界大戦後20年以上日本が統治していた島で、『絶対国防圏』としていた。 陥落時、日本軍守備隊は猛烈に抵抗し《バンザイ突撃》を敢行して全員死亡した。
 陥落後、1944年末には 2,000機ものB-29基地として整備され、爆撃機は日本本土まで往復が可能になり、本土への無差別爆撃が本格化した。 
 ◆ レイテ沖海戦 ・ 戦艦『武蔵』の最期とフィリピン住民殺害 (1944/10~) 
 フィリピンは南方資源の補給中継の要衝になっていた。
そこを奪還しようとするアメリカ軍を、日本は総力を挙げて阻止する構図で、 日本軍は、空母を囮にして、戦艦《武蔵》・《大和》を含め、3方向から攻略する奇襲作戦を立てた。 しかし上手く連係がとれず、多数の戦艦と共に戦艦《武蔵》も失い、連合艦隊は壊滅した。
惨敗を知った住民は日本兵を見離し、補給の絶たれた日本兵は飢餓から住民を襲い、フィリピン人死者は110万人超という、派遣された日本兵を上まわる殺戮劇となった。
  ※モンテンルパ刑務所と、歌手渡辺はま子の物語
 この刑務所に、戦犯として収監されていた日本兵には、無実の罪を着せられ一方的に死刑囚にされた者も多かった。 1951年;死刑執行が始まり、恐怖に襲われる死刑囚から、1952年のある日、歌手;渡辺はま子の下に、あなたに歌って欲しいと・・・「~モンテンルパの夜は更けて~」・・・と、自作の歌詞と楽譜を添えた 1通の手紙が届いた。
 しかし渡航も困難な時代、渡辺はま子は、例え逮捕されようとも・・・許される筈もない刑務所に無理やり訪れ、死刑囚を含む大勢の捕虜の前で涙ながら歌った。
 それがフィリピン大統領に伝わり、特赦を得て全員釈放され、夢にみる日本に帰還した。 既に何人かが処刑された場所は、現在は「日本人記念墓地公園」になっているという。
 ◆ 硫黄島の戦い  (1945/3)
太平洋の島々は 南洋諸島~南アジア~マリアナ~パラオ~グアム、サイパン~フィリピン~と順次陥落した。 硫黄島では島全体を要塞化して激しく抵抗したが、地形が変わる程の艦砲射撃と空爆を伴う上陸作戦で玉砕した。
  ◆ 沖縄戦  (1945/3 - 4)
沖縄本島は、本土上陸作戦の開始拠点となり、
◇アメリカ軍は史上最大規模;(艦船1,500隻、兵員延べ50数万人、艦載機;数100機)投入
◇大本営も 『決戦の場』と見て、 戦艦”大和”に特攻指令を下した。
  しかし沖縄に向かう途中、鹿児島沖で襲撃を受け敢えなく撃沈された。
◇沖縄島民と兵士は、海全体を埋め尽くす大艦船群や舟艇群を前に、本土決戦の防波堤
  となり《軍民一体》となって一日も長く持ち堪えようとした。
◇戦死者は; 兵士 10万人、住民(自決を合わせ)9万人(=全住民の2割)に達した。
※ 巨大戦艦『大和』の最期  (1945.3)
 遂に沖縄が戦場になると、呉湾に大挙集結していた戦艦群から、日本海軍の誇る世界最大戦艦《大和》に沖縄戦出撃命令が下された。 『一億総特攻のさきがけ』 としての特攻出撃だった。 しかし情報は、アメリカ軍に筒抜けで、豊後水道で米艦 艦載機に発見され、4月7日;鹿児島県坊ノ岬沖で、米航空隊に待ち伏せされ、戦闘機、爆撃機、雷撃機から魚雷の集中攻撃を受けて沈没した。 生存者は《大和》乗組員3,332人の内、276人のみだった。



  10. 庶民も戦争に巻き込まれていく戦争末期・・・
*71
  ◆  出陣学徒壮行会 1943
   ーーー学業半ばに、愛する家族を残して
   日本政府は窮余の策として《学徒出陣》を決定した
 1943年11月21日、 雨が降りしきる中、神宮外苑競技場で出陣式が挙行された。大学生や専門学校生を対象とした学徒出陣は、戦時体制強化の一環だった。
 雨の神宮外苑には、東京と近県77校から若者たちは、学業も夢も志半ばに、短期間の訓練を終え、直ちに最前線に送られた・・・。
*72
   ◆ 広がる日米の兵力格差 『特攻隊』 1944
  ーーー祖国よ、さらば・・・、悲しく散った若い命ーーー
 アメリカはソロモン、タラワ島、トラック諸島、マリアナ・・・と太平洋の島々を次々攻略していく。 日本軍はサイパン防衛も、インパール作戦も、レイテ沖海戦も、次々破られ・・・、唯一の戦局挽回手段として特攻隊が組織された。
 1944年10月25日海軍がフィリピンで編成した 『神風特攻隊』を皮切りに、4,000人もの若者が次々と飛びたった。

人間魚雷『回天』 
  また、1 トン以上の爆薬を積んだ人間魚雷『回天』は、敵艦に当たれば確実に撃沈できると信じ、出撃した2,000人余の平均年齢は21歳、予科練を繰上げ卒業したての若者たちだった。
*73
  ◆ 日本本土空襲 ~ 終戦  (1944 末 ~ 1945/8)
 ◇ 日本本土空襲
   サイパン島陥落後、1944年末には 2,000機もの B-29基地として整備され、連日100機を超える B-29の編隊が 1波、2波、3波・・・と往復し本格爆撃が続いた。 1日も早く降伏させようと日増しに熾烈さを極め、日本側は民家の取壊し(類焼防止帯)や児童疎開などにより、 1日も長く持ち堪える持久戦を続け、東京、大阪、名古屋など・・・200以上の大都市が焼き尽くされた。
   そして最後は広島・長崎への原爆投下⇒・・・終戦という結末となった。 犠牲者は、親も子も容赦なく膨大数に達し、極度の食糧難で、駅などには誰の援助もなく佇む孤児たちが溢れた。
 彼らはその後、どの様にして、何人生き残れただろう(?)
  ◇  終戦工作と「日ソ中立条約」の結末
 太平洋戦争末期、日本は少しでも有利な降伏条件を得ようとして、 《日ソ中立条約》を拠り所に、ソ連に仲介を求めようとした。 しかしソ連から回答はなかった。
 一方、アメリカは一刻も速く降伏に追い込もうと、ソ連に参戦を求めていた。 結局、ソ連は終戦間際 (1週間前)に、《日ソ中立条約》を破棄して連合国側に参戦した。
 そして日本の敗戦に乗じて、満州や南樺太や北方領土に侵攻し占領し、《国際連合》の「領土決定」に、服従しないまま現在に至っている・・・。

  ※ 太平洋戦争を巡る曲折は、次にも記載している 
5.太平洋戦争に突入~日本敗戦、  (1940~1945)


 *8
  11. ” 私の歴史観 ”
    『大東亜戦争(太平洋戦争)は何故起ったか?』・・・
 人類史上例のない大規模戦争の歴史は、正確な事実を追求するだけでは、将来の教訓にならない。 歴史は、それぞれの局面で、様々な「裏事情(本音)」が基になって造られているからである。 それにも拘わらず、後世に伝わる歴史は、時の「権力者の都合(建前)」で修正されている。
 私たち(歴史学者でない者)には、史実を追求することより 『歴史物語を通して、何かを学び、未来にどう活かすか』が重要だ。 それをしないから「歴史」は、同じことが何回も繰り返される。 
  『大東亜戦争への道』を振返ると、各国は利益が共有できる間は、互いに協力し合う。 しかし裏事情(本音)は『エゴの"塊り"』 だから、互いに利用できる間は、ギリギリまで利用し合う。
 しかし何かの拍子に「利害バランス」が崩れた瞬間、 別の「新たな利益共有仲間」を求めて、昨日の仲間は 今日の敵』 に早変わりする。
   「太平洋戦争」勃発までにも、勃発後も、戦闘拡大を回避する「分岐点」は 何度もがあったにも拘わらず、それは上述の繰り返しで、歯止めは当たり前の様にスリ抜けた。  そして「戦闘の勝利国」の都合(建前)で、(勝利国の反省は消滅し)全ての責任を、敗戦国に追い被せて一件落着とされる。、
  私たち(歴史学者でない者)には、正確な事実の追求よりも、フィクションや、想像や、仮定を含めて、あの場面で『どうだったからどうなった、或いは、どうすれば どうなっただろう(?)』など、想像しながら考えろことで未来へのヒントが見えてくる。 

     12.戦後処理 ; 各国の動向 (1945 ~ )     
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