| 大東亜戦争への道(2) | 2018/1 記 更新2024/7 |
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| 太平洋戦争《日米開戦》への道・・・ (1939 ~ 1945 ) | ||
| 6. 太平洋戦争《日米開戦》への道・・・ | |||||||
| ◆ ≪ソ連~ドイツの立場 & 日ソ中立条約(1941)≫ その頃、ヨーロッパでは、ナチスドイツが急速抬頭し、一触即発状態になっていた。 ソ連は、①「南進政策(膨張政策)」で英米と敵対し、 ②ポーランド侵攻を巡り、ドイツとも激しい敵対関係にあり、 ③「日露戦争以来」、日本とも強い緊張状態にあり、互いの立場は微妙だった。 |
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| こうして 「➡①日本はアメリカに、 ➡②ソ連はポーランド東部に、 ➡③ドイツはポーランド西部~ヨーロッパに」侵攻するお膳立てが整った。 日本国内も、◇南方作戦開始、◇日独伊三国同盟締結、◇日ソ中立条約締結、◇戦艦"大和"建艦・・・と、準備が整い、陸軍将校や国民大衆も 「暴支膺懲」 、「鬼畜米英」と"敵愾心"を奮い立たせていた。 |
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◆ 御前会議 ~ 太平洋戦争突入 (1941 昭和16年) 天皇陛下は「君臨すれども統治せず」、通常、議会に口(くち)は挟まれない。 しかし昭和天皇は、御前会議(9/6)で 『戦争回避すべく外交に全力を尽くす様・・・』 強い口調で発言をされた。 しかし近衛内閣は、戦意が沸騰する陸軍将校や国民を収拾できず退陣に追い込まれた。 |
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| それには、現に;陸軍大臣で、"軍"を掌握している東條英機以外に人材が見当らず、東條内閣が組閣された。 東條は、強硬な開戦論者だったが、いざ総理の立場で 「日米開戦の決断」は 大変煩悶の末、結局、歯車は止められず、昭和天皇も「多勢に無勢」、詩句を引用して「遺憾の意」を表された。 | |||||||
| 8. 戦線拡大 《国力を超えて領土拡大》・・・ | ||||||||||||
| 陸軍の南方作戦は、マレー半島から、シンガポール、フィリピン、インドネシア戦線・・・と快進撃を続けた。 海軍も《真珠湾攻撃》と並行して、大平洋の島々を、次々占領して兵員を送り込んだ。 |
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| 勢いに乗る陸軍は、更にビルマにも侵攻した。 それは海軍も協力して海上輸送路を確保し、陸海軍は 互いに協力や競争もしながら快進撃を続けた。 しかし「国力を無視した快進撃」は、次の瞬間には、世界を「敵」にまわし、退路も閉ざされていた。 |
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◆ ビルマ(現;ミャンマー)侵攻作戦 1941- 1942 |
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◆ 泰緬鉄道 (陸軍 = 建設 1942 - 43) |
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| * ◆ インパール作戦 (陸軍=1944.3~7) |
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| インパールはインド北東部にある英国軍基地だが、シンガポールもインドネシアも日本に支配されていた為、米英から中国に兵器を輸送する唯一の基地になっていた。 日本軍は、それを攻撃すれば中国軍が弱体化し、インドに独立運動を促して 味方にすることもできる。 しかしインパールまで 470kmのルートは、乾季でも河幅 600mの大河を渡り、標高 2,000mの人口希薄な山岳地帯を行軍せねばならず、糧食などの補給や調達は不可能で、作戦は無謀とされていた。 |
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| 以下、新聞・雑誌、ウェブ情報、NHK;BSスペシャル「戦慄の記録”インパール”」等を寄せ集め「私の歴史観」として記す。 | ||||||||||||
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| 9. 海軍 ; ・・・戦況の転換・・・ | ||||||
| こうして緒戦は、陸・海軍は競い合って戦線を拡大していった。 しかし「占領地運営」について考慮は不十分で、開戦から約半年後、ミッドウェー海戦での完敗後、成す術もなく戦況は悪化した。 ーーー運命の海戦、その時連合艦隊を待ち受けていたもの・・・!?】ーーー |
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| ミッドウェー作戦は、米豪の連係遮断と、アメリカ太平洋艦隊に大打撃を与えて戦意を喪失させ、早期講和に持込む・・・。 そんな計画で、山本五十六司令長官が主張し、綿密に作戦が練られ、日本海軍最精鋭空母群と最強艦隊を投入する奇襲攻撃・・・だった。 所がアメリカ軍は、日本軍の暗号を解読し、レーダーで航空機を捕捉し、待伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突込み・・・最精鋭空母と共に、多数の航空機やパイロットも失う大惨敗を喫した。 |
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| *62 ーーー兵士たちを見舞った密林の悲劇ーーー |
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| 《ミッドウェー海戦敗北 1942/6》後、米軍の反撃は ガダルカナル島から始まった。 ガダルカナル島は、アメリカ軍とオーストラリア軍を分断する要衝で、飛行場を設営していた。 |
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| 日本軍は、飛行場を奪取された後 3回にわたる奪還作戦に失敗し、制空権・制海権共に奪われ、残された兵士は深刻な食料不足に陥った。 | ![]()
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| しかし日本軍にとって「飛車・角」である要衝を敵方に渡す決断ができず、御前会議で撤退を決めたのは、4ヶ月後(1942/12)になった。 | ||||||
| しかし制海権を奪われた海域は、艦船が近づけず、実際の撤退は翌年2月になり、既に、日本軍兵士は殆ど全滅(戦死者6,000人、餓死・病死者15,000人)という惨状だった。 以後太平洋の島々は、遠方から順に陥落していった。 | ||||||
*63 **** 防戦一方となった戦地の戦い **** |
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| 太平洋戦争開戦後 約半年間は、日本軍は破竹の勢いで南方領土を拡大した。 しかしミッドウェー海戦敗北を境に、戦況は一気に逆転し、南方の島々から順次陥落していった。 | ||||||
| ◆ソロモン海戦 (1942/8) | ||||||
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| ◆マリアナ沖海戦 (1944/6) | ||||||
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| ◆ サイパンの戦い (1944/7) | ||||||
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| ◆ レイテ沖海戦 ・ 戦艦『武蔵』の最期とフィリピン住民殺害 (1944/10~) | ||||||
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| ◆ 硫黄島の戦い (1945/3) | ||||||
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| ◆ 沖縄戦 (1945/3 - 4) | ||||||
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| 10. 庶民も戦争に巻き込まれていく戦争末期・・・ | ||
| *71 ◆ 出陣学徒壮行会 1943 ーーー学業半ばに、愛する家族を残して |
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| 日本政府は窮余の策として《学徒出陣》を決定した 1943年11月21日、 雨が降りしきる中、神宮外苑競技場で出陣式が挙行された。大学生や専門学校生を対象とした学徒出陣は、戦時体制強化の一環だった。 雨の神宮外苑には、東京と近県77校から若者たちは、学業も夢も志半ばに、短期間の訓練を終え、直ちに最前線に送られた・・・。 |
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| *72 ◆ 広がる日米の兵力格差 『特攻隊』 1944 ーーー祖国よ、さらば・・・、悲しく散った若い命ーーー |
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| アメリカはソロモン、タラワ島、トラック諸島、マリアナ・・・と太平洋の島々を次々攻略していく。 日本軍はサイパン防衛も、インパール作戦も、レイテ沖海戦も、次々破られ・・・、唯一の戦局挽回手段として特攻隊が組織された。 1944年10月25日海軍がフィリピンで編成した 『神風特攻隊』を皮切りに、4,000人もの若者が次々と飛びたった。 |
![]() 人間魚雷『回天』 |
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| また、1 トン以上の爆薬を積んだ人間魚雷『回天』は、敵艦に当たれば確実に撃沈できると信じ、出撃した2,000人余の平均年齢は21歳、予科練を繰上げ卒業したての若者たちだった。 | ||
| *73 ◆ 日本本土空襲 ~ 終戦 (1944 末 ~ 1945/8) |
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| ◇ 日本本土空襲 サイパン島陥落後、1944年末には 2,000機もの B-29基地として整備され、連日100機を超える B-29の編隊が 1波、2波、3波・・・と往復し本格爆撃が続いた。 1日も早く降伏させようと日増しに熾烈さを極め、日本側は民家の取壊し(類焼防止帯)や児童疎開などにより、 1日も長く持ち堪える持久戦を続け、東京、大阪、名古屋など・・・200以上の大都市が焼き尽くされた。 |
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| そして最後は広島・長崎への原爆投下⇒・・・終戦という結末となった。 犠牲者は、親も子も容赦なく膨大数に達し、極度の食糧難で、駅などには誰の援助もなく佇む孤児たちが溢れた。 彼らはその後、どの様にして、何人生き残れただろう(?) |
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| ◇ 終戦工作と「日ソ中立条約」の結末 | ||
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| ※ 太平洋戦争を巡る曲折は、次にも記載している | |
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| 11. ” 私の歴史観 ” | ||
| 人類史上例のない大規模戦争の歴史は、正確な事実を追求するだけでは、将来の教訓にならない。 歴史は、それぞれの局面で、様々な「裏事情(本音)」が基になって造られているからである。 それにも拘わらず、後世に伝わる歴史は、時の「権力者の都合(建前)」で修正されている。 私たち(歴史学者でない者)には、史実を追求することより 『歴史物語を通して、何かを学び、未来にどう活かすか』が重要だ。 それをしないから「歴史」は、同じことが何回も繰り返される。 |
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| 『大東亜戦争への道』を振返ると、各国は利益が共有できる間は、互いに協力し合う。 しかし裏事情(本音)は『エゴの"塊り"』
だから、互いに利用できる間は、ギリギリまで利用し合う。 しかし何かの拍子に「利害バランス」が崩れた瞬間、 別の「新たな利益共有仲間」を求めて、昨日の仲間は 今日の敵』 に早変わりする。 |
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| 「太平洋戦争」勃発までにも、勃発後も、戦闘拡大を回避する「分岐点」は 何度もがあったにも拘わらず、それは上述の繰り返しで、歯止めは当たり前の様にスリ抜けた。 そして「戦闘の勝利国」の都合(建前)で、(勝利国の反省は消滅し)全ての責任を、敗戦国に追い被せて一件落着とされる。、 | ||
| 私たち(歴史学者でない者)には、正確な事実の追求よりも、フィクションや、想像や、仮定を含めて、あの場面で『どうだったからどうなった、或いは、どうすれば どうなっただろう(?)』など、想像しながら考えろことで未来へのヒントが見えてくる。 |
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| *≪国際連合設立と、戦後処理ルール設定≫ | ||
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