| 大東亜戦争への道(3) | 2018/1 記 更新2024/7 |
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| 戦後処理 ; 各国の動向 (1945 ~ ) | ||
| ■ 戦後処理と 各国の動き *** 概要 |
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| * ≪国際連合設立と、戦後処理ルール設定≫ そこで、第二次世界大戦後は、大戦に関わった主要国、①(=米・英)と、②(=フランス、中国)と、③(=ソ連)が中心になって【国際連合】が設立された。 |
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| そして、戦後処理について、次の様に決定された。 |
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| しかし各国は、それぞれ次の様な経緯で、必ずしも遵守されていない。 | ||||||||||||||||||
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| ■ その後の経過 ≪その後の日本、ソ連、中国、韓国、台湾≫ |
| 1) * ≪その後の日本≫ しかし進駐軍による戦後処理が始まり、食料配給も始まり、失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、徐々に生活が戻ってきた。 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍により、機雷の処理や破壊物件の片付けなどが始まり、食料配給も始まり、徐々に失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。 |
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◆◇ ≪朝鮮動乱特需≫ |
| それから約半世紀、アッという間に世界第2位の経済大国に伸し上がっていた。 それには、→①敗戦により過去のしがらみがご破算にできたこと、→②朝鮮人徴用工によりインフラ整備が進んでいたこと、→③日中戦争・太平洋戦争を通して培った高度技術が活用できたこと・・・等々が挙げられる。 それには、『韓国人や中国人との合作や多大な犠牲』も、大きな踏石になっていることも忘れてはならない。 |
| ◆◇ ≪北方領土問題≫ |
| アメリカも、一度占領した沖縄も簡単には返還されない。 時の政府との密約で、『基地付き、核付き、治外法権付き、安保条約と多額の補助金付き・・・』で返還されたが、主導権は現在も歪められたままである。 領土問題は、国連決議の尊重とか、歴史認識の共有とか・・・では解決しない。 双方の利益が『Win-Win』 になる方法を考えねばならない。 |
| 2) * ≪その後のソ連≫ 毛沢東軍や金日成軍を支援して、『①日本の北方領土、②満州、中国本土、③朝鮮半島』 の獲得(共産圏に引込み)を成し遂げた。 現在は、西側諸国との対抗勢力になっている。 |
| ◆◇ ≪北方領土問題≫ 終戦時に(ソ連に)占領された北方領土は「日本に帰属」という国連決議に沿って返還要求してきた。 しかしソ連は、日露戦争は(日本の)違法侵略とし、それがなかった場合の[原状回復]と言う主張か(?)、70数年経た現在も、ソ連は応じていない。 参照 |
| ◆◇ ≪満州、中国本土への侵攻≫ ソ連は、終戦と同時に、「共産党軍(毛沢東軍)」を支援し、「毛沢東軍」は、国民党政府(蒋介石軍)との内戦により、満州と中国本土を占領した(1946) 参照 |
| ◆◇ ≪朝鮮半島への侵攻≫ 朝鮮半島は「大韓民国」建国(1948)により、やっと訪れた平安も束の間、2年後には 金日成軍(ソ連;スターリンが支援)が、突如、戦車を連ねて侵攻し、 ソールから釜山まで韓国全土が 戦場 となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。 それに対し国連軍が応戦し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。 その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれ(1953)、現在は、北朝鮮が共産党圏に入っている。 参照 |
| 3) * ≪その後の中国本土≫ ◆◇ 中国 ≪国民党軍(蒋介石)と 共産党軍(毛沢東)の内戦≫ |
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| 終戦と同時に、国・共は合作で復興に取組む所だろうが、「共産党軍(毛沢東)」は。ソ連の支援を受け≪国民党政府(蒋介石)≫に侵攻した(1946)。 | |
| そして瀋陽、北京、上海、南京・・・と中国全土を武力制圧し、 『中華人民共和国』を建国した(1949)。 但し、それは世界には認められず、単に「反乱軍」に過ぎなかった。 しかも中国共産党には、欧米に匹敵する政治組織や、経済・社会制度もなく、人口10億という巨大国家統治には、紆余曲折を経ながら歴史を刻んでいった。 |
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| その中で、満州国に遺された関東軍の遺産、つまり政治・経済・教育・・・制度は勿論、関東軍が建設した、超近代都市施設、鉄道、電力、資源採掘施設など・・・は、戦後中国を築く上で大いに役立った筈だが・・・当時の日本は 『侵略国 !!』と言う意識しか なかっただろう(?) | |
| 一方の蒋介石軍は「中華民国」の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し、首都を台北に移転した。 |
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| ◆◇ ラストエンペラー溥儀 ; その後の生涯 溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し”ラストエンペラー” と呼ばれる。 彼は関東軍に利用され≪満州国皇帝≫に担ぎあげられた(1932)。 しかし【満州国皇帝】とは名ばかりで、例えば、関東軍が定めた制度に従って、例えば、反日運動家の処刑の署名や、満州人耕作地を、強制的に日本人入植者に与える《文書署名》など・・・悲劇的な役職だった。 |
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| 終戦時、日本に亡命しようとしてソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 その間に東京裁判(1946)で 証人として一時東京に護送され、『関東軍に脅かされて満州国皇帝になった』と主張した。 しかし再度シベリアに戻され、数年後 中国に帰された(1950)が、中国国家や人民を欺いた罪で撫順(戦犯収容所)~ハルピン(再教育)に約10年間収容された。 戦争犯罪人特赦令で釈放(1960)後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 毛沢東政権;周恩来首相は、不幸な運命を辿った溥儀に同情的だったと言われている。 |
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毛沢東軍(中華人民共和国)は、中国本土支配と言っても、世界が急速に変化する中で、10億人もの人口を抱え「20年経れば、政権内部で批判や対立が生じてきた」と見るべきだろう(?)。 「政治・社会・思想・文化全般の改革運動」と言っても理解が難しい。 毛沢東派は、主導権を固める為、一切の資本主義思想を排除しようと大規模な粛正劇に発展した・・・と言うことではないか( ?)。 それは《紅衛兵》を組織して、党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込み、政権に反抗する人が大規模粛正された。 それは文化財も破壊され、経済活動も大きな停滞を招いた。 文化大革命による死者は40万人とか、何100万人とか・・・、詳しいことは分からない。 |
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| しかし1970年代には沈静化していき、1976年、周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)の失脚で終息した。 その後、中国共産党は「改革開放路線」に転換して現在に至っている、と言っても具体的理解は難しい。 | |
| ◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、その後の問題 以上の経緯で、中国本土(中華人民共和国)を承認する国は少なく、【全中国の代表権】は 台湾(中華民国)にあった。 つまり本土中国は、「反乱軍」に過ぎなかった。 |
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| しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心に国交正常化交渉が行われた。 ここで、敗戦国(日本)は莫大な賠償要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から『小異を捨てて大同につく』・・・、つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直れない』、適当な妥協点を求めて解決する代わりに、日本は≪中華人民共和国≫を承認することで決着した。 |
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| それにより≪中華人民共和国≫を承認する国が増え、国連の代表権を獲得する大偉業が成った。 しかし日本と台湾は「国交断絶」となっている。 にも拘わらず、現在、日本も米国も"台湾"と親密化し、本土中国との関係が、歪(いびつ)になることには、新たな問題が生じ兼ねない。 |
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| 4) * ≪その後の朝鮮半島≫ | |
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◆◇ 日韓併合時~終戦時の 『嫌日感情』 |
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| それにも拘わらず、終戦時、嫌日感情はピークに達していた。 それには、私が韓国赴任時(1990年前後)、経験者から直接聴いた話しが信憑性が高いと思っている。。 |
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| 従軍慰安婦も 『強制連行していた証拠はない』とか、日本政府は、不名誉な話しは、"蓋"をしたいかも知れないが・・・、しかしそんな日本統治が半世紀も続き、嫌日感情は戦後もずっと尾を引いてきた。 |
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◆◇
≪大韓民国≫建国 終戦後も、日韓併合時に親日派だった人、貧富の差、ソ連(金日成軍)の動きなど、様々な調整が必要だったかも知れないが、3年後 李承晩は 朝鮮半島の独立「大韓民国」 を建国した(1948)。 |
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ところが、「大韓民国」建国でやっと訪れた平安も束の間、2年後には 金日成軍(ソ連;スターリンが支援)が、突如、戦車を連ねて侵攻し、 ソールから釜山まで韓国全土が 戦場 となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。 それに対し国連軍は仁川から増援部隊を送り込み、金日成軍を分断し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。 朝鮮動乱による死者数、使用された焼夷弾共に、太平洋戦争中で日本本土が被ったそれを上まわる大惨劇となった。 釜山に国連軍戦死者の「国連墓地」が設けられている。 |
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| 人々は安全な場所を求めて逃げ回り、その後 南北朝鮮に分断する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれた(1953)為、国境を越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆どは再会できないでいる。 | |
| しかし日本にとっては、"動乱特需"となって、疲弊しきった経済を伸し上げる慈雨になった。 | |
| ◆◇ 李承晩ラインと竹島 "朝鮮動乱"が休戦になった(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島周辺の公海上に、突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、日韓併合時の屈辱からの《仕返し》を、突きつけるたのではないか・・・と私は思っている。 |
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| しかし竹島には、れっきとした軍施設を設け、領有を正当化する教育を 数10年間続け、全韓国民はそれを信じている。 今、それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。 日本政府は、それを最近まで ”黙認”し、島根県が設けた「竹島の日」に便乗して、儀礼的な理屈を言っても寝言に過ぎない。 双方の利益が『Win-Win』 になる「もっと基本的な戦略」を考えなければ ならない。 |
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| ◆◇ その後の韓国との係わり 日本に比べ韓国は、戦時中の開発技術もなく、官吏汚職なども往行し、日韓の経済格差が開けば開く程、日韓併合時の屈辱をぶり返し、嫌日感情が沸騰する状態が続いた。 しかし、漸次世代が交代し、1980年前後からは、『日本に追いつき、追い越せ !!』を合言葉に発展軌道が定着してきた。 日本との関係は「日韓併合時」の経験者が存命中は「親日・嫌日」二面を使い分けながら、経済産業面、科学技術面などでは、現在の日本より先進分野も多くなっている。 |
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| しかし、日本軍の遺した鉄道やダム建設や工場施設、社会制度や教育制度等々・・・充実した遺産を残し、韓国人も登用して政務を経験させ・・・韓国の戦後への貢献度はもっと評価されるべきである。 若し日韓併合でなく、清、米、英、露・・・何れかの植民地になっていれば、それは先ず考え難い。 |
| 5) * ≪その後の台湾≫ |
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台湾は、日清戦争後 日本に割譲され 50年間余り、日本の統治下にあった。 その間に、鉄道は 全土に巡らされ、木材伐採用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラが整備され、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられた。 現地人には日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本の敗戦により、台湾(領土)は中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。 ◆◇ 中華民国 遷都;(蒋介石軍入城)) その後、中国本土の内戦で、毛沢東軍に追撃された「蒋介石政府≪中華民国政府≫」は(三種の神器)を携えて台湾に入城し、首都を台北に定め ”国民党政府” を組閣した(1949)。 註※≪中華民国≫は、首都が北京から台北に移転し、国連常任理事国の資格は継続した。 |
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| その際、毛沢東軍は、 本土に《中華人民共和国》を建国したが、世界には承認されず、「反乱軍」に過ぎなかった。 しかし台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいたからだろう。 蒋介石政府も、台湾で独立を宣言しなかったのは《本土に再入城すること》を考えたのではないか(?)・・・、 結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は、現在も複雑な関係が続いている。 |
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◆◇ 日本統治時代の遺産 ; 台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代に施された教育や、各種制度やインフラ整備が大いに役立った。 それは(中国本土では毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何十年も先行して発展軌道に乗ることができた。 その後日本は、本土《中華人民共和国》 と国交正常化(台湾とは断交)し、国連の代表権も失った(1972)が、しかし親日関係は現在も親密に維持されている。 |
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◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、国連代表権喪失 しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来で国交正常化交渉が行われ、日本は≪中華人民共和国≫を承認した。 多くの国もそれに続いて、国連の代表権は本土(中華人民共和国)に遷った。 結果、台湾(中華民国)の現在は、独立国でなく、日本とは「国交断絶」状態になっている。 |
| ■ 私の歴史観 |
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| * ≪ 日本政治家の靖国神社参拝 ≫ 食料も資源も労働力も乏しい日本が、現在、経済大国に成長し、豊かな生活ができるのは、兵士たちが命懸けで戦った お陰であることは間違いない。 その恩恵を被っている私たちが、『犠牲になった「日本兵の英霊」に尊崇の誠・・・』を捧げることは当然だろう。 しかし政治家の靖国神社参拝は事情が違う。 つまり日本にとっての「功労者」は、相手国にとっては「殺人鬼」である。 それでも一般兵は、犠牲者として同情できても、靖国神社には、戦争を積極推進した人も合祀されている。 それと一方的に攻撃されて犠牲になった「相手国の住民や兵士に対する尊崇の念」など、心にあるのかどうかである。 勿論、現在の政治家に 「国家間の相互理解」など、望む方が無理かだろうが、日本軍が仕掛けた戦争による「相手国の犠牲者」への「尊崇の誠」の方が「先」ではないか(?) |
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| * ≪ 戦争兵士のトラウマ ≫ *** ある新聞投書から幾例かを要約 *** おやじは復員兵で骨の髄まで軍隊に染まっていたのでしょう。毎日酒浸りで、食事中も同じ説教を繰り返し、渡河作戦では戦友の遺体を踏んで・・・とか、中国のヤツらを何人切った、毒ガスで人体実験を・・・とかウメキ声で封印を発しながら恫喝的に吐き出す自慢話しに、家族は恐怖を感じていた。 しかし死後になって気づくことは、おやじは過酷な戦場経験のトラウマに一生苦しんだ人だった。 戦後のギャップに順応できず、生きる目標を失って自殺した人も大勢いる。 戦争に行った人も、行かなかった人も、戦地から帰った人も帰れなかった人も、その家族も周りの人も皆な、戦争の被害を受けている人は大勢いる。 世界の誰もが戦争の悲惨さを分かっているのに、なぜなくならないのか・・・? |
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