大東亜戦争への道(3) 2018/1 記
更新2024/7
      戦後処理 ; 各国の動向  (1945 ~ )
     

   ■  戦後処理と 各国の動き *** 概要
   * 国際連合設立と、戦後処理ルール設定≫
 国際連盟は、第一次世界大戦の反省から設立され、違法な武力行使国には、集団的経済政策や 軍事制裁が定められたが、力不足で、第二次世界大戦勃発は抑止できなかった。
   そこで、第二次世界大戦後は、大戦に関わった主要国、①(=米・英)と、②(=フランス、中国)と、③(=ソ連)が中心になって【国際連合】が設立された。
 そして、戦後処理について、次の様に決定された。 
  南樺太・千島列島は ソ連に返還 北方領土は 日本に帰属
 
満州・中国本土・台湾は (蒋介石政府)に帰属 朝鮮半島は 独立国を建国
  しかし各国は、それぞれ次の様な経緯で、必ずしも遵守されていない。
1) 日本は、
 『南樺太、千島、満州国、朝鮮、台湾』 を失い、食料も産業も経済も
絶たれた上に、焦土と化した国土に、大陸や南洋諸島から数百万人の兵士たちの復員も重なり、未曾有の食料難と、大量失業が襲いかかった。 しかし進駐軍による戦後処理が始まり、徐々に食料配給や、失業対策事業などが端緒につき、焼け跡にバラックが建ち始めた。
   そこに朝鮮動乱の勃発(1950)は、朝鮮半島の人々の未曾有の悲劇と裏腹に、疲弊し切った日本には「動乱特需」となり、息を盛り返す千載一遇のチャンスとなった。
 しかし北方領土は、終戦に紛れてソ連に侵攻され奪取されたまま、現在も返還されていない。
 
2)  ソ連は、
『日露戦争』を違法とし、日露戦争がなければ領有できていた状態に原状回復(?)を主張し
 ①日本の北方領土は、終戦時、どさくさに紛れて侵攻し奪取した、
 ②満州、中国本土は、毛沢東軍を支援し、毛沢東軍が蒋介石軍との内戦により占領した。
 ③朝鮮半島は、金日成軍を支援し、一時全土制圧するも、国連軍に追い戻され、
  北部(現・北朝鮮)を占領した。
その後、中国本土と北朝鮮を共産圏に引込み、西側諸国との対抗勢力を築いている。
3) 中国本土と、蒋介石政府の関係は
 国連では 蒋介石の率いる「中華民国」が承認された。 しかし(ソ連の支援を受けた)毛沢東軍が全土を占領し「中華人民共和国」を建国した(1946)。 但し、それは国家として承認はされず、中国本土は反乱軍に過ぎなかった。 しかし蒋介石軍は 「三種に神器」を携えて台湾に逃避し(首都を台北に遷都した形)で、台湾(蒋介石政府)が、全中国を代表する「国家」になっていた。  
4) 朝鮮半島の経緯
 ◆大韓民国建国(1948年);
 李承晩は国連の支援を受け、「大韓民国(朝鮮半島全土)」 を建国した。
  ※しかし日韓併合時の人種差別政策で、反日感情は建国後もず~っと尾を引き、
   慰安婦問題等、反日感情は残ったまま、未だ解消し切れない。
 ◆金日成軍の侵攻(=朝鮮動乱; 1950)
 金日成軍は、ソ連の支援を受け大韓民国に侵攻した。 それはソールから釜山まで(現、韓国全土が) "戦場” になったが、国連軍が参戦し38度線を境に南北に分断された。
   ◆李承晩ライン(1953年)
 朝鮮動乱が休戦に達した頃、李承晩大統領は、竹島を含む公海上に突如【
李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 竹島は現在も、韓国に実質支配されている。
5)  台湾の経緯、
 日本の統治下では、漑用施設などのインフラ整備がされ、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられ、現地人には高等教育も施されていた。
 しかし日本の退去後、本土を追われた「蒋介石軍」が入城し(1949)、(本土から連れてきた)側近で組閣した。 その際、日本式教育を受けた台湾人エリートの多くが処刑された(228事件)。
 しかし「中華民国」は、首都が台北に移転した形で、全中国を代表する政府になっていた。、
   しかし、1972年以降、中・台を取巻く情勢変化により、国連の代表権は 本土中国に移され、現在;台湾は独立国になっていない。 治安は李登輝政権の誕生(1988)まで不安定状態が続いた。 




   その後の経過  ≪その後の日本、ソ連、中国、韓国、台湾≫
   1)  * ≪その後の日本≫
  日本の敗戦は、 30年以上も、巨額な投資を注ぎ込み、食料も産業も物資も経済も・・・頼みの綱だった(南樺太、千島、満州国、朝鮮、台湾)を全て失い、焦土と化した国土に、大陸や南洋諸島から数百万人の兵士が復員した。 それは戦災で身寄りも家も財産も失い落胆の上に、未曾有の食料難や、大量失業の追打ちが掛り、苦難のどん底に陥った。
 しかし進駐軍による戦後処理が始まり、食料配給も始まり、失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、徐々に生活が戻ってきた。
 しかしアメリカ、イギリス、オーストラリア等から進駐軍により、機雷の処理や破壊物件の片付けなどが始まり、食料配給も始まり、徐々に失業対策事業などが端緒につくと、焼け跡にバラックが建ち始め、少しづつ生活が戻ってきた。 人々は当時の流行歌や皆で励ましあいながら頑張った。
  ◆◇ ≪朝鮮動乱特需≫
 そこに朝鮮動乱の勃発(1950)は、朝鮮半島にとって未曾有の悲劇と裏腹に、疲弊し切った日本にとっては「動乱特需」となり、息を盛り返す千載一遇のチャンスとなった。。
 
 それから約半世紀、アッという間に世界第2位の経済大国に伸し上がっていた。
それには、→①敗戦により過去のしがらみがご破算にできたこと、→②朝鮮人徴用工によりインフラ整備が進んでいたこと、→
③日中戦争・太平洋戦争を通して培った高度技術が活用できたこと・・・等々が挙げられる。 それには、『韓国人や中国人との合作や多大な犠牲』も、大きな踏石になっていることも忘れてはならない。
  ◆◇ ≪北方領土問題≫
 終戦時に(ソ連に)占領された北方領土は「日本に帰属」という国連決議に沿って返還要求してきた。 しかしソ連は、日露戦争は(日本の)違法侵略とし、それがなかった場合の[原状回復]と言う主張か(?)、70数年経た現在も、ソ連は応じていない。
 日本は、敗戦国だから国連決議に有無を言えず、『満州国も、台湾も、朝鮮半島も、南樺太も』返還したが、もし敗戦国でなければ、巨額な投資をして自国同然になっていた【満州や台湾や朝鮮】を、国連決議に従って返還できただろうか・・・??
   アメリカも、一度占領した沖縄も簡単には返還されない。 時の政府との密約で、『基地付き、核付き、治外法権付き、安保条約と多額の補助金付き・・・』で返還されたが、主導権は現在も歪められたままである。
 領土問題は、国連決議の尊重とか、歴史認識の共有とか・・・では解決しない。 双方の利益が『Win-Win』 になる方法を考えねばならない。



   2)  * ≪その後のソ連≫
  ソ連は、『日露戦争』を違法とし、日露戦争がなければ領有できている状態(?)に原状回復を主張し、
  毛沢東軍や金日成軍を支援して、『①日本の北方領土、②満州、中国本土、③朝鮮半島』 の獲得(共産圏に引込み)を成し遂げた。 現在は、西側諸国との対抗勢力になっている。
  ◆◇ ≪北方領土問題≫
 終戦時に(ソ連に)占領された北方領土は「日本に帰属」という国連決議に沿って返還要求してきた。 しかしソ連は、日露戦争は(日本の)違法侵略とし、それがなかった場合の[原状回復]と言う主張か(?)、70数年経た現在も、ソ連は応じていない。
     参照  前項; ≪北方領土問題≫
  ◆◇ 満州、中国本土への侵攻
   ソ連は、終戦と同時に、「共産党軍(毛沢東軍)」を支援し、「毛沢東軍」は、国民党政府(蒋介石軍)との内戦により、満州と中国本土を占領した(1946)
     参照
  次項; 中国≪国民党軍(蒋介石)と共産党軍(毛沢東)の内戦≫ 
   ◆◇ 朝鮮半島への侵攻
 朝鮮半島は「大韓民国」建国(1948)により、やっと訪れた平安も束の間、2年後には 金日成軍(ソ連;スターリンが支援)が、突如、戦車を連ねて侵攻し、 ソールから釜山まで韓国全土が 戦場 となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。 それに対し国連軍が応戦し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。
 その後 南北朝鮮に分離する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれ(1953)、現在は、北朝鮮が共産党圏に入っている。
     参照  後述; ≪朝鮮動乱



   3) * ≪その後の中国本土≫
 中国は 戦勝国とは云え、アヘン戦争(1840)以来、弟2次大戦終結(1945)まで諸外国に侵略され続け、政治・制度・技術・インフラ基盤・・・等々の整備は、殆どできないまま戦後を迎えた。

 ◆◇ 中国 ≪国民党軍(蒋介石)と 共産党軍(毛沢東)内戦
  終戦と同時に、国・共は合作で復興に取組む所だろうが、「共産党軍(毛沢東)」は。ソ連の支援を受け≪国民党政府(蒋介石)≫に侵攻した(1946)。
   そして瀋陽、北京、上海、南京・・・と中国全土を武力制圧し、 『中華人民共和国』を建国した(1949)。 但し、それは世界には認められず、単に「反乱軍」に過ぎなかった。
 しかも中国共産党には、欧米に匹敵する政治組織や、経済・社会制度もなく、人口10億という巨大国家統治には、紆余曲折を経ながら歴史を刻んでいった。
  その中で、満州国に遺された関東軍の遺産、つまり政治・経済・教育・・・制度は勿論、関東軍が建設した、超近代都市施設、鉄道、電力、資源採掘施設など・・・は、戦後中国を築く上で大いに役立った筈だが・・・当時の日本は 『侵略国 !!』と言う意識しか なかっただろう(?)
 一方の蒋介石軍は「中華民国」の体裁(三種の神器)を携えて台湾に逃避し、首都を台北に移転した。
        参照; 後述;4)その後の台湾
 ※ この時点で、 ①毛沢東軍は「反乱軍」に過ぎなかったにも拘わらず台湾まで攻撃しなかったのは、背後に米国がいたからだろう。 ②蒋介石も台湾で独立しなかったのは、将来、中国本土奪還を考えたのではないか(?) どちらもそれを しなかったから、現在も複雑な関係が続いている

 ◆◇ ラストエンペラー溥儀 ; その後の生涯
  溥儀は、1908年; 3才から清朝滅亡(1911)まで清朝最後の皇帝に即位し”ラストエンペラー” と呼ばれる。 彼は関東軍に利用され≪満州国皇帝≫に担ぎあげられた(1932)。 しかし【満州国皇帝】とは名ばかりで、例えば、関東軍が定めた制度に従って、例えば、反日運動家の処刑の署名や、満州人耕作地を、強制的に日本人入植者に与える《文書署名》など・・・悲劇的な役職だった。
   終戦時、日本に亡命しようとしてソ連軍に捕まりシベリアに抑留された。 その間に東京裁判(1946)で 証人として一時東京に護送され、『関東軍に脅かされて満州国皇帝になった』と主張した。
 しかし再度シベリアに戻され、数年後 中国に帰された
(1950)が、中国国家や人民を欺いた罪で撫順(戦犯収容所)~ハルピン(再教育)に約10年間収容された。
 
戦争犯罪人特赦令で釈放(1960)後は、一般市民として政協全国委員という職を務め(1967)死去した。 毛沢東政権;周恩来首相は、不幸な運命を辿った溥儀に同情的だったと言われている。

 紅衛兵の図
  ◆◇ 文化大革命 1966-1977
  毛沢東軍(中華人民共和国)は、中国本土支配と言っても、世界が急速に変化する中で、10億人もの人口を抱え「20年経れば、政権内部で批判や対立が生じてきた」と見るべきだろう(?)。
 「政治・社会・思想・文化全般の改革運動」と言っても理解が難しい。 毛沢東派は、主導権を固める為、一切の資本主義思想を排除しようと大規模な粛正劇に発展した・・・と言うことではないか( ?)。

 それは《紅衛兵》を組織して、党内の権力者や知識人のみならず一般人民も巻き込み、政権に反抗する人が大規模粛正された。 それは文化財も破壊され、経済活動も大きな停滞を招いた。 文化大革命による死者は40万人とか、何100万人とか・・・、詳しいことは分からない。
 しかし1970年代には沈静化していき、1976年、周恩来と毛沢東の没後、江青ら(四人組)の失脚で終息した。 その後、中国共産党は「改革開放路線」に転換して現在に至っている、と言っても具体的理解は難しい。  
 ◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、その後の問題  
 以上の経緯で、中国本土(中華人民共和国)を承認する国は少なく、【全中国の代表権】は 台湾(中華民国)にあった。 つまり本土中国は、「反乱軍」に過ぎなかった。
   しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来が中心に国交正常化交渉が行われた。
 ここで、敗戦国(日本)は莫大な賠償要求されるのが旧来の慣例だが、周恩来から
小異を捨てて大同につく・・・、つまり 『まともに賠償を求めれば、日中関係は永久に立ち直れない』、適当な妥協点を求めて解決する代わりに、日本は≪中華人民共和国≫を承認することで決着した。
  それにより≪中華人民共和国≫を承認する国が増え、国連の代表権を獲得する大偉業が成った。
しかし日本と台湾は「国交断絶」となっている。 にも拘わらず、現在、日本も米国も"台湾"と親密化し、本土中国との関係が、歪(いびつ)になることには、新たな問題が生じ兼ねない。
          参照; 下記;4)その後の台湾
  ただ、『小異の解決は、後代の賢明な判断に任せる』 として、『尖閣問題は先送りした』と当時の日本政府役人がテレビで語っていた。 もし、それが事実とすれば、『尖閣は我が国固有の領土』 と言い切るのはおかしい。 しかし『我が国固有の領土』と言うなら、今まで実質支配しながら、何故 灯台なり、漁船避難施設なり、日本は建設しないのか(?)。
 ”竹島” だって韓国は 既に立派な構築物を設けている・・・。 日中国交正常化から 50年間、尖閣や海底油田開発も「儀礼的抗議」を繰り返すだけでは黙認に等しい。



  4) * ≪その後の朝鮮半島≫
 ◆◇ 日韓併合時~終戦時の 『嫌日感情』
 ①日本の植民地政策は、欧米の「奴隷制度」と異なり、現地人にも教育を施し、能力に応じて
  重要な職位も与えられた。
 ②日本軍は、鉄道始め都市建設などインフラ整備、銀行制度や教育制度・・・各種制度など、
  莫大の遺産を残し、戦後復興には極めて役立っている・・・。
  それにも拘わらず、終戦時、嫌日感情はピークに達していた。
 それには、私が韓国赴任時(1990年前後)、経験者から直接聴いた話しが信憑性が高いと思っている。。
 ①重要任務につく人は、一部の親日的な人に限られ、 ②都市建設やインフラや諸施設は、日本軍の為の施設で(当時の)朝鮮人には恩恵は少なかった。 ③各種制度も、露わな人種差別には耐えられなかった。 ④朝鮮語で自由に会合できなかった ⑤憲兵(日本人配下の朝鮮人)の取締りや、日本兵の残虐さに反抗できず、徴用工として日本各地の工事現場や、炭坑や軍需工場などで危険作業や重労働を強いられた・・・等々
 従軍慰安婦も 『強制連行していた証拠はない』とか、日本政府は、不名誉な話しは、"蓋"をしたいかも知れないが・・・、しかしそんな日本統治が半世紀も続き、嫌日感情は戦後もずっと尾を引いてきた。
 ◆◇  大韓民国≫建国
  終戦後も、日韓併合時に親日派だった人、貧富の差、ソ連(金日成軍)の動きなど、様々な調整が必要だったかも知れないが、3年後 李承晩は 朝鮮半島の独立「大韓民国」 を建国した(1948)。

朝鮮動乱
 ◆◇  朝鮮動乱
 ところが、「大韓民国」建国でやっと訪れた平安も束の間、2年後には 金日成軍(ソ連;スターリンが支援)が、突如、戦車を連ねて侵攻し、 ソールから釜山まで韓国全土が 戦場 となった(=朝鮮動乱勃発; 1950)。 
 それに対し国連軍は仁川から増援部隊を送り込み、金日成軍を分断し、韓国は全土が地上戦に巻き込まれた。
 朝鮮動乱による死者数、使用された焼夷弾共に、太平洋戦争中で日本本土が被ったそれを上まわる大惨劇となった。
 釜山に国連軍戦死者の「国連墓地」が設けられている。
 
   人々は安全な場所を求めて逃げ回り、その後 南北朝鮮に分断する停戦ラインが、リムジン河を挟んで(北緯38度線)が引かれた(1953)為、国境を越えられなくなった(離散家族)が発生し、殆どは再会できないでいる。
  しかし日本にとっては、"動乱特需"となって、疲弊しきった経済を伸し上げる慈雨になった。
  ◆◇ 李承晩ラインと竹島
 "朝鮮動乱"が休戦になった(1953年)頃、李承晩大統領は、竹島周辺の公海上に、突如【李承晩ライン】を設け日本漁船を銃撃・拿捕した。 李承晩は、日韓併合時の屈辱からの《仕返し》を、突きつけるたのではないか・・・と私は思っている。
   しかし竹島には、れっきとした軍施設を設け、領有を正当化する教育を 数10年間続け、全韓国民はそれを信じている。 今、それを覆すのは、例え大統領でも至難の技だろう。
 日本政府は、それを最近まで ”黙認”し、島根県が設けた「竹島の日」に便乗して、儀礼的な理屈を言っても寝言に過ぎない。 双方の利益が『Win-Win』 になる「もっと基本的な戦略」を考えなければ
ならない。
  ◆◇ その後の韓国との係わり
 
日本に比べ韓国は、戦時中の開発技術もなく、官吏汚職なども往行し、日韓の経済格差が開けば開く程、日韓併合時の屈辱をぶり返し、嫌日感情が沸騰する状態が続いた。
 しかし、漸次世代が交代し、1980年前後からは、『日本に追いつき、追い越せ
!!』を合言葉に発展軌道が定着してきた。 日本との関係は「日韓併合時」の経験者が存命中は「親日・嫌日」二面を使い分けながら、経済産業面、科学技術面などでは、現在の日本より先進分野も多くなっている。
  しかし、日本軍の遺した鉄道やダム建設や工場施設、社会制度や教育制度等々・・・充実した遺産を残し、韓国人も登用して政務を経験させ・・・韓国の戦後への貢献度はもっと評価されるべきである。 若し日韓併合でなく、清、米、英、露・・・何れかの植民地になっていれば、それは先ず考え難い。



   5) * ≪その後の台湾≫

阿里山森林鉄道(沼平駅)
木材伐採用鉄道⇒現在は観光用
 ◆◇ 日本人の撤退
 
台湾は、日清戦争後 日本に割譲され 50年間余り、日本の統治下にあった。
 その間に、鉄道は 全土に巡らされ、木材伐採用の森林鉄道、電力、灌漑用のダム施設などのインフラが整備され、治安、政治、経済、教育なども最新制度が採り入れられた。 現地人には日本国籍が与えられ、高等教育も施されエリートは役人にも登用されていた。 しかし日本の敗戦により、台湾(領土)は中華民国(蒋介石政府)に返還され、日本人は全員撤退した(1945)。


 ◆◇ 
中華民国 遷都;(蒋介石軍入城))

  その後、中国本土の内戦で、毛沢東軍に追撃された「蒋介石政府≪中華民国政府≫」は(三種の神器)を携えて台湾に入城し、首都を台北に定め ”国民党政府” を組閣した(1949)。 註※≪中華民国≫は、首都が北京から台北に移転し、国連常任理事国の資格は継続した。
  その際、毛沢東軍は、 本土に《中華人民共和国》を建国したが、世界には承認されず、「反乱軍」に過ぎなかった。 しかし台湾まで追撃しなかったのは、背後にアメリカがいたからだろう。
 蒋介石政府も、台湾で独立を宣言しなかったのは《本土に再入城すること》を考えたのではないか(?)・・・、

 結局、双方とも それをしなかったから、中国vs台湾は、現在も複雑な関係が続いている。

烏山頭水庫(ウサントウダム湖)灌漑用
ダム湖=建設;八田余市
  ◆◇ 蒋介石(国民党) 政府結成
 蒋介石軍は、外省人(中国本土から連れてきた側近)で 国民党政府を組閣した。
  それは、3~4年前まで(約50年間)、日本統治下で、日本国籍を得ていた台湾人(本省人)にとっては、蒋介石軍に侵攻される思いだったろう。
 特に日本統治時代に高等教育を受けたエリート層が次々と逮捕・投獄・拷問され、大量虐殺された(2.28事件)。 殺害された人数は、数万人と言われている。  治安悪化や役人の不正等は、日本統治時代を経験した台湾人には耐え難かったという。
 その後アメリカから支援を受け、本格的な民主化の発足は、1988年に成立した李登輝政権以降になった。
    ◆◇ 日本統治時代の遺産 ;
 台湾の近代化および経済発展には、日本統治時代に施された教育や、各種制度やインフラ整備が大いに役立った。 それは(中国本土では毛沢東政権に移行後も混乱が続いたのに比べ)何十年も先行して発展軌道に乗ることができた。
 その後日本は、本土《中華人民共和国》 と国交正常化(台湾とは断交)し、国連の代表権も失った(1972)が、しかし親日関係は現在も親密に維持されている。
 ◆◇ 日中国交正常化(1972年)と、国連代表権喪失  
   しかし本土≪中華人民共和国≫建国から23年後(1972)、田中角栄と周恩来で国交正常化交渉が行われ、日本は≪中華人民共和国≫を承認した。 多くの国もそれに続いて、国連の代表権は本土(中華人民共和国)に遷った。 結果、台湾(中華民国)の現在は、独立国でなく、日本とは「国交断絶」状態になっている。



  ■  私の歴史観
   * ≪ 日中、日韓の「反日感情 ≫について
 日本は、朝鮮半島、満州。台湾を植民地化し、中国本土にも侵略を拡げていた。
 ①日本の植民地政策は、欧米の「奴隷制度」と異なり、現地人にも教育を施し、能力に応じて
  重要な職位も与えられた。
 ②日本軍は、鉄道始め都市建設などインフラ整備、銀行制度や教育制度・・・各種制度など、
  莫大の遺産を残し、戦後復興には極めて役立っている・・・。
 しかし、朝鮮(韓国を含む)、中国(満州国~中国本土)での「日本評」は極めて悪い。 それは戦後も尾を引いて、折角日本軍が遺した歴史的物件や遺構も多くは取壊されている。
  それついては私は、韓国に赴任時、聴いた話しは信憑性が高いと思っている。
 日本統治時代、現地住民の人種差別に耐えられなかった、各種施設は現地人には使用できなかった、日本兵は残酷で恐怖から、危険作業や重労働も、逆らうことができなかった・・・等々。 それは満州でも同様だったのではないだろうか(?)
 しかし満州や中国戦線からの、帰還兵や軍当事者は一切語らない(語れない)。 日本政府も加害の立場は明かそうとしない。
 しかし当時の経験者も 90歳を超え余命が悟られると、テレビドキュメンタリーで 『捕虜の扱いに困り、上官から処刑を命じられ・・・とか、樹に縛りつけて銃剣訓練の的に・・・とか、毒ガスの人体実験・・・』とか、呵責にさいなまれ、告白する姿が痛ましい。
  * ≪ 日本政治家の靖国神社参拝 ≫
 食料も資源も労働力も乏しい日本が、現在、経済大国に成長し、豊かな生活ができるのは、兵士たちが命懸けで戦った お陰であることは間違いない。 その恩恵を被っている私たちが、『犠牲になった「日本兵の英霊」に尊崇の誠・・・』を捧げることは当然だろう。
  しかし政治家の靖国神社参拝は事情が違う。 つまり日本にとっての「功労者」は、相手国にとっては「殺人鬼」である。 それでも一般兵は、犠牲者として同情できても、靖国神社には、戦争を積極推進した人も合祀されている。 それと一方的に攻撃されて犠牲になった「相手国の住民や兵士に対する
尊崇の念」など、心にあるのかどうかである。
 勿論、現在の政治家に 「国家間の相互理解」など、望む方が無理かだろうが、日本軍が仕掛けた戦争による「相手国の犠牲者」への「尊崇の誠」の方が「先」ではないか(?)
  * ≪ 戦争兵士のトラウマ ≫  *** ある新聞投書から幾例かを要約 ***
 おやじは復員兵で骨の髄まで軍隊に染まっていたのでしょう。毎日酒浸りで、食事中も同じ説教を繰り返し、渡河作戦では戦友の遺体を踏んで・・・とか、中国のヤツらを何人切った、毒ガスで人体実験を・・・とかウメキ声で封印を発しながら恫喝的に吐き出す自慢話しに、家族は恐怖を感じていた。
 しかし死後になって気づくことは、おやじは過酷な戦場経験のトラウマに一生苦しんだ人だった。
戦後のギャップに順応できず、生きる目標を失って自殺した人も大勢いる。 戦争に行った人も、行かなかった人も、戦地から帰った人も帰れなかった人も、その家族も周りの人も皆な、戦争の被害を受けている人は大勢いる。 世界の誰もが戦争の悲惨さを分かっているのに、なぜなくならないのか・・・?
 



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