******** 瀬戸内景観、北前船、朝鮮通信使、海軍鎮守府 ********
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| 1.瀬戸内海の自然と景観 |
瀬戸内海には、大きさも形も様々な島々が、ある海域では
無秩序に、ある所では一直線に・・・、また或る海域では密に、或いは疎に、思い々々の様相で立ち並ぶ絶妙な風景が、東西500㎞、南北20~50㎞にわたって展開します。
島の周辺は、潮流や風波による浸食崖や、崖から切り離された奇岩が散在する海岸線と、浸食された土砂が運ばれた砂浜が交互に存在します。
そんな島々の狭間は、渦巻く潮流に喘ぎながら進む上り船と、それを嘲笑う様に走り去る下り船が、分刻みで出会いの場所になっています。 |
瀬戸内観光の醍醐味は、島々に囲まれた湖の様な海面を
ギラギラ輝くにさざ波をかき分けながら進む船影や、遠方の小島や船舶がくっきり浮き上がる「浮島現象」、鏡の様な深緑の「入江」など、次々移る景色を眺めながら巡るクルージングです。
それに高台(展望台)※に移動すれば、眼下に拡がる多島海は大規模箱庭と言うか、島々の生気が手の届く距離に感じられます。
※)呉周辺には展望スポットは; 灰が峰、休み山、
野呂山、筆影山・・・等々 多数あります。
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呉市周辺~とびしま海道~しまなみ海道一帯は「芸予諸島」に属し、大きい島々が密集しています。
瀬戸内海の潮流は、それら島を取り囲む様に流れ・・・、挟間は運河の如く、両岸の人々の生活臭が漂います。
それは、かつて村上水軍の活躍場でしたが、現在は、壮大な橋が架かり、迫力ある近代的な風景に変貌しています。
それに対し、瀬戸大橋の架かる塩飽諸島一帯は、無数の小島が遠く近く点在し、夕陽に輝く大海原に映るシルエットが見事です。
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| 2.「日本史」の中の瀬戸内(呉近辺)風景 |
ところで自然景観の絶景スポットは、瀬戸内海以外にも、日本中には無数存在します。
しかし瀬戸内海、とりわけ "呉周辺"の自然" は、日本の歴史・文化と密接に係わっているのが特長です。
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2-1. 瀬戸内海の航行と水軍氏族の出現
瀬戸内海の航行は有史以来始まっていた様ですが、日常化したのは平安時代の頃と思われます。
しかし帆走船舶にとっては大変な難所です。 自然派生的に水先案内業の出現は容易に想像されます。
それは、往来の増加につれ、金品強奪を働く様になり「水軍」とか「海賊」などと呼ばれました。
忽那水軍は 11世紀に藤原親賢がこの地に配流され、忽那諸島一帯に城を設け、水先案内か?金品強奪か?・・・ 水路で活動していました。
その他にも水軍衆は、呉周辺では多賀谷氏一族や、芸予諸島(”しまなみ海道一帯”)では、因島出身の村上氏が束ねていました。 |
しかし戦国時代には、水軍系氏族は有力大名と結び、海を ”戦場” にして功を競いました。 因島村上水軍は毛利軍と与し【厳島の海戦(1555年)】で陶晴賢軍を殲滅しました。 その後、能島村上水軍、来島村上水軍も毛利氏と与して、信長軍と勇猛に戦いました。
村上水軍については、水軍城(因島)や、能島水軍博物館(宮窪)見学や、宮窪瀬戸の
潮流体験、及び瀬戸内海の地理条件を合せて見れば、非常に興味深い物語が鑑賞できます。
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| 3.北 前 船 |
3-1.北前船の出現
ところで戦国時代は日本中の有力武将が 『覇を争った時代』です。 その裏では大勢の農民や庶民には餓死者も続出する、決して豊かな時代とは言えないでしょう。
しかし江戸時代に移り戦乱がなくなると、人々は豊かさを求め、急速に大量の物資が必要になります。
それは真っ先に、日本海側から人口密集地の京都や大阪への食料や生活資材ですが、当時の陸上輸送手段ではとても間に合いません。 必然的に日本海~瀬戸内海経由の大量輸送路が開発されました。
しかしそれが容易でないことは次に述べますが、先人たちの英知と工夫で、海上輸送路が開発
されると、忽ち、北海道や樺太まで延伸され、通船は「北前船」と呼ばれました。
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3-2. 経済活動の活発化と、江戸町人文化形成
こうして北前船による瀬戸内輸送路は、西国海道(山陽道)を凌ぐ大動脈となり、様々な物資移動による経済活動と共に、人流も活発化し、新しい情報や文化を伝える「マスコミ機関」ともなりました。
それは太平洋側の航路開発をも促し、全国民が芸術、教養、娯楽、風俗など、趣向性豊かな
文化を享受する様になりました。 それが江戸町人文化です。
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3-3. 北前船の航行、風待ち・潮待ち港
ところでそんな船舶(千石船など)が、日本海や瀬戸内海の帆走は、如何に困難で危険だったか・・・?? |
現在こそエンジン付き船舶は、日本海の荒波も、瀬戸内海の潮流も、狭い港湾の入出港も「当り前」ですが・・・、千石船の様な大型船に積荷を載せ、大きな帆を人力で操作し、操船するのは如何に大変か・・・??
航海中に風波が急変すれば、上陸は愚か陸地にも近づけません。 救援も不可能です。 天気予報もありません。 遭難事故も日常茶飯事と言う状態です。 停泊中も暴風を避ける十分な防波堤もありません。
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瀬戸内海は、潮流に逆らっては進めません。 暗礁や浅瀬も沢山ありました。 風が変化し潮流が変わる迄に目的地に到着しなければ、即、漂流や座礁の危険に曝されます。 |
その解決策として 『風待ち、潮待ちの港』が開設されました。 瀬戸内海は、どの島にも港が開かれ、緊急時に退避、または救援が可能になりました。
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そこは、命がけで到着する船頭たちには緊張が解れるオアシスで、必ず茶屋(遊郭)が営業していました。
その他にも、海の守り神として住吉大神などの神社が方々に建立され、船内には神棚が設けられました。
それに航海術の進歩や、高度な造船技術など、英知を結集して克服しました。
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遣唐使船(復元船) |
3-4. 倉橋の「木造船造船技術」と、遣唐使船(復元船)
倉橋の造船は、北前船出現の 1,000年前(西暦600年)頃、遣髄使時代から最近まで続いていました。
『造船歴史館』(呉市倉橋町)には遣唐使船(実物大の
復元船)が展示されています。 見学を推奨します。
造作は、私たちの目には、現在の木船とも違和感はありません。
「倉橋の木造船技術」は、北前船にも繋がったどろうと思います。 |
それでも当時の航海術では、唐(長安)まで辿り着くのは至難な時代でした。 しかし遣唐使は、奈良時代が中心に、唐の制度や技術、文化を採入れる為、何回も派遣されました。
そして長安を真似て平城京(奈良)や平安京(京都)が建設され、寺社や仏教思想の普及など、一応の成果を得たことで(西暦894年)に廃止されました。
その後も紫式部の「源氏物語」や、清少納言の「枕草子での【かな文字】の普及など、日本独特の文化が芽生えてきました。 |
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尚、倉橋沖は、太平洋戦争時には、出撃艦隊や輸送船団が大挙集結していた(柱島泊地;
後述)ことで知られています。 それ以外にも戦艦「大和」の主砲など巨大砲の開発に供した
「試射場」跡などの「歴史的遺構」も見学価値があります。
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3-5.北前船の寄港する主要港町
北前船による「大量輸送」は、日本海に注ぐ河川の水運を発達させ、内陸の産物が集まる大河川の河口を中心に、消費地との便宜や、港湾として地理的条件などの整う所が、主要港に発展しました。
例えば、小樽は蝦夷地への玄関口として重要港でした。
最盛期 (江戸時代末期~明治時代) には広大な運河が建設され、両岸に海運倉庫がぎっしり建ち並びました。
現在、運河は約半分が埋立てられましたが、当時の施設は沢山遺っています。
能代、酒田、新潟港などは、大河川の水運を利用して内陸深くから農産物や鉱産物が大量集積する主要港で、大手船主も生業を営む大規模港町でした。 金沢や三国、赤碕、浜田も大量の米が集積しました。
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また、瀬戸内海を航行するには、「風待ち潮待ち」の港が、宮島、尾道、鞆、御手洗、牛窓、室津など沿岸各地、及び殆ど全島に開設されました 。
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3-6. 瀬戸内の港町 "御手洗"
御手洗港は、瀬戸内海を横断する「沖乗り航路」上に位置し、激しい潮流や風波が柔らぐ地形条件にも恵まれていた為、『風待ち潮待ち港』として、沢山の北前船が寄港しました。 そして、運ばれて来る物資は 、直ちに売買され周辺の島や町に届ける中継港として、豪商たちも集まり、西日本随一の経済規模に繁栄しました。
当時(1660年頃)の「新興商業区」と言うべきでしょう。
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また、四国・九州から大阪・京都・江戸への交通の要衝として、大名や文人墨客も訪れました。
狭い区域内に、豪商屋敷や庶民住宅や、寺社などが、ぎっしり建ち並ぶ街並みは、当時の人々の生活臭が漂います。 町民揃って、教養・娯楽・芸術・嗜好品など、趣向を享受していたのではないでしょうか(?)
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◆ "歴史の見える丘"からの眺望
急傾斜の 『みかん畑』に囲まれた丘上からは、東に しまなみ海道・来島海峡、南に 四国連山~松山方面、北には 芸予諸島の島越しに尾道~因の島方面と・・・瀬戸内海の中でも
”絶景” が眺望されます。
この辺りは 下関~大坂を結ぶ最短航路で、 現在は様々な船舶が当り前の様に行き交いますが、北前船の船頭たちにとっては、「如何に困難で命がけの業だったか・・・」一目瞭然です。
眼下の入り江には、それを乗り越えて停泊する無数の船姿がありました。
船頭たちの緊張や苦業は、入港と同時に、町中に立ち並ぶ幟り旗や商人たちの威勢の中に溶け込み、町人たちや彩やかに着飾った遊女たちも投合して、三味や太鼓の音が夜通し鳴り響く・・・、そんな港町の情景を眼下に感じられます。
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| 4.日本固有の文化と、異国文化の融合 |
4-1.朝鮮半島からの文化流入
そんな趣向豊かな江戸町民文化は、「日本固有の文化や伝統」のみで開花した訳ではありません。 朝鮮から持込まれる異国文化や異国情緒と、日本固有の文化が融合して独特なスタイルに醸成されました。 それを日本中に伝搬させた大動脈が、北前船などの海上交通網です。
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| しかし朝鮮半島から伝来した文化には、例えば、「陶磁器の製造技術」は「文禄慶長の役」で捕虜として連行された朝鮮人陶工たちによって伝来しました。 彼らは有田(佐賀県)一帯に住みつき、陶磁器の製法技術を伝授しました。 その後日本全国の窯元に引き継がれ、それぞれの地で固有な発展を遂げました。 |
木版印刷術は、書画の増刷を可能にし、「引札(チラシ)」や「かわら版(新聞)」や、多色刷りの「浮世絵(広重、北斎など)」が全国に出回りました。
こうして芸術、風俗、食物、生活様式など多岐に亘り、異国文化が融合して一斉に開花したのが江戸時代の町民文化です。
松濤園(下蒲刈)の陶磁器館には、当時の「古伊万里」から、その後の進化過程と共に、
柿右衛門様式や鍋島焼きなど、大変見応えのある作品が多数見学できます。
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4-2. 朝鮮通信使と、江戸庶民文化の醸成
日本と朝鮮の間では、大体20年に一度、それを総括する様に『朝鮮通信使来日』という超ビッグな「友好イベント」が催されていました。
それは朝鮮から友好使節団(約500人)が来日し、江戸幕府の将軍に詣でる行事です。
朝鮮使節団に日本側も(大体1,000名以上)が随行し、多い時は 総勢 2,000名もの大行列が、【対馬~瀬戸内海横断~京都~江戸】間を約半年かけて往復すると言う国家的大行事でした。 |

使節団の船団が瀬戸内海を横断する風景 |
その際、瀬戸内海は、大小数百~一千隻もの船舶を連ねて横断しますが、途中の下蒲刈島は(往復とも)宿泊地となり、来島時には壮大な歓迎会が催されました。
沿道には、大行列や珍しい異国人の風俗を見ようと、大勢の観衆が詰めかけました。
それに各地から画家や芸術家も集まり、文化交流の場がもたれ、大陸使節団の珍しい風俗を伝える絵画や、異国人を模した郷土人形などが全国に出回りました。
江戸時代の庶民が、珍しい異国情緒に興味を抱いていた様子が目に浮かびます。
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江戸時代には、オランダ船も長崎に入港して西欧文化や医学情報などが伝来しました。 琉球経由でも清国(現中国)の「唐文化」が伝来しました。 しかし往来の頻度からも、庶民文化への影響度は朝鮮半島経由が圧倒的だったのではないか?と思います。
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| 5. 時代の転換 ***** 北前船の衰退と呉鎮守府の脚光 ***** |
5-1. 北前船全盛 ~ 呉軍港への引き継ぎ
こうして江戸庶民文化が全盛の頃、天地動転の事件が起こりました。
黒船来航です。 その対応を巡って江戸幕府と、水戸藩・長州藩との間で熾烈な対立が生じ、薩摩藩、会津藩、新選組、桑名藩、天皇や公家も巻き込む「幕末の動乱」に発展しました。
その情報は、北前船などで、恐らく全国に伝わっただろうと思いますが、政りごとは「寄らしむべし知らしむべし」の庶民には どの様に映ったでしょう(??)
しかし明治時代に移ると、文明開化の波が全国に押し寄せます。
それは、機帆船の出現や、鉄道など陸上交通網、電信・電話などの発達を促し、北前船の役割は 明治時代中ごろをピークに、急速に失われます。
それに代り”呉”には、海軍鎮守府が設置され、急速に脚光を浴びていきます。
つまり、開国後の日本が、欧米列強と対等に渡り合う為、国策として海軍創設や全ての産業や国家制度の近代化に、まっしぐらに取組んだのが明治時代です。
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5-2.御手洗港 "往時" の余韻
しかし御手洗港は、富国強兵の国策下で九州から石炭運ぶ機帆船が寄港し、「色まち」としての余韻はしばらく続いていた様です。 当時は斬新な、洋風民家がポツポツ遺っています。
しかしその後、世界恐慌の影響で経済が行き詰り、大陸戦線も暗雲が漂い 戦争ムードが強まると、前途は険しかった様です。
それは 『日の出の勢い』で躍進する 呉(旧市内)と対象的に、”慕情”漂う ”色まち姿”に変貌していきます。
他に産業のない御手洗は、その後も「色まち」として活路を模索しながら、遂に、昭和32年 売春禁止法の制定により火が消された状態で、当時の街並みが遺されています。
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5-3. 呉鎮守府の開庁
明治時代初期、”呉”(旧市街)は干拓が進んで綿花畑が拓け、入船山には ”亀山神社” が威風堂々と 町の平穏を見守っていました。 そこに町役人達の請願が叶い「海軍鎮守府設置」が決りました。
”呉”は、瀬戸内海の奥に位置し、敵艦による攻撃を防御上「日本海軍第一の製造所」と位置づけられ、海軍の最重要な「施設や造船ドックなど」の建設が次々始まり、明治22年開庁しました。
それも数年後には、早くも日本製第1号艦 ”宮古”の起工や、「日清戦争」も勃発する試練に直面しました。
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| 6. 海軍;呉鎮守府の航跡 |
6-1. 日清戦争~日露戦争
「日清戦争」(1894 -95)が勃発すると、呉軍港や広島(陸軍)からは大勢の兵士が出征し、海軍も、巡洋艦「浪速」=東郷平八郎艦長 などの活躍により勝利しました。
それは、「朝鮮半島」、及び「台湾」を獲得し、多額の賠償金も獲得する大収穫となりました。
それにより、欧米から大量の資材を輸入し、舞鶴鎮守府開庁や、朝鮮から大勢の徴用工も徴募して、インフラ整備や、軍事施設増や、あらゆる産業基盤を強化に充て、「国力増強」に弾みがつきます。
しかし遼東半島の獲得は、露・独・仏により阻止され(三国干渉)、「日露関係」は険悪化しました。
ところが(ロシアは)満州に侵出し、遼東半島(旅順)に要塞を築き、朝鮮半島侵攻を企てた為、 またもや 「日露戦争」が勃発となりました(明治37年)。
それは「強大国;ロシア」対「弱小国;日本」の対決で、(常識的に)勝ち目のない絶体絶命の危機です。
しかし日英同盟による英国の絶大な支援や、陸軍は「203高地攻略~旅順湾攻囲戦など」壮絶な犠牲を伴いながら旅順基地攻略に成功し、海軍も、東郷平八郎や呉鎮守府ゆかりの将校たちの活躍や、天候条件など・・・、奇跡的な幸運に恵まれ、「日本海海戦」に勝利しました。
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若し敗戦、または日露戦争が回避されていれば、日本とロシアの関係は、否、世界の勢力図は、
現在どうなっているでしょう(?) それは世界にとっても、極めて重大な転換点だったと言えます。 |
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ともかく、強大国”ロシア” との勝利により、日本は俄然勢いづきました。 それは;
①日本軍(関東軍)は、すかさず満州に侵出し、満州占領(傀儡国家建国)を目指します。
②呉湾に浮かぶ艦船は、日増しに数を増し、呉軍港は「東洋一の軍港」に成長していきます。
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6-2.日露戦争後~満州侵出~張作霖爆殺事件
しかし満州は、元々清国(後に中国)領土で、張作霖が統治していました。 しかし事実上ロシアの支配状態になって満州人、中国人、ロシア人などが住んでいました。
しかし日本軍(関東軍)は、敗残兵を追って侵出すると、(ロシアに代って)満洲支配し、「超近代国家」の建設を始めました。 しかし現地人への「人種差別」はかなり激しかった様です。 |
◆ 張作霖爆殺事件
それから 20年経ると、満州を取り巻く「情勢」は、次の様に変っていました。
①日本(関東軍)は、「満州」に巨費を投じて着々と「理想国家(王道楽土)」建設が進み
②新制中国(蒋介石軍)は、軍事体制が整えて、満州奪還(取戻し)軍を派遣し、 ③「張作霖軍閥」は、ソ連や欧米と接近して満州を「支配固め」に走り・・・ |
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その状態を、真っ先に打ち破ったのが関東軍です。 つまり、(張作霖の乗る)列車を爆破;「張作霖
爆殺事件」(1929)により、張作霖を「爆殺」し満州統治権を奪取しました。 |
※ 「張作霖爆殺事件」は関東軍が、独断で決行した事件ですが、日本政府は対外的には追認
せざるを得ず、こうして軍部暴走に歯止めが失われていきます。
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新京 大同大街「康徳会館」

呉 軍 港
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6-3.満州事変~「満州国」建国
こうして関東軍による理想国家建設は着々と進みますが、現地民の「反日感情」は益々熾烈化し、嫌日事件が絶えなくなりました。
そこで関東軍(石原莞爾)は、故意に鉄道爆破し(柳条湖事件)、即座に「満州人の仕業だ !!」と口実造りし、間髪入れず満洲全土攻撃を実行しました(満州事変)。
それは大成功し、極めて短期間に満州全土を制圧(占領)し、溥儀を元首として「満洲国」建国の宣言をしました。
それには、 内地からも陸海軍陸戦隊の他、土建業者や、商工業者など大勢が関わっており、特に呉鎮守府は筆頭的立場にあり、「景気は呉から・・・」と沸きに沸いていました。
6-4. 満州事変後 ~ 日中戦争
しかし「満州国」は、国際連盟では一国の承認も得られず、(日本は)国際連盟を脱退し(1931)、世界から孤立の道を選びました。
しかし「反日・抗日の反乱」は、以前にも増して中国全土に拡大し、日中間は一触即発状態に達しました。
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そんな中で、偶発的な発砲事件(盧溝橋事件)が起こると、関東軍は在留邦人の生命を護る為、中国全土戦略を決断しました。 そして内地からも陸軍師団や、海軍各鎮守府からも、陸戦隊が続々派遣され、本格的戦闘状態(日中戦争)に突入しました。
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しかし中国(蒋介石)軍は、「(日本の)満州違法占領や中国への違法侵略」を世界に訴え・・・、
◇米英は、(中国に)武器支援し・・・。 (日本には)石油禁輸や経済制裁が課せられ、解決策として大陸から撤退を指示する「ハルノート」が発せられました。
しかし「食料も資源も」全て大陸頼みの日本で、手塩にかけて建設した「満州国」から撤退などできる筈もなく、泥沼状態に陥ります。
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しかし日清、日露、満州事変、日中戦争・・・、これまでの戦場は全て大陸でした。
「戦場が如何に凄惨で、残酷か・・・」は内地国民に、どれだけ理解されていたでしょう(?)。
大本営発表の 「神国日本や連戦連勝報道」に洗脳され、憲兵に強圧され、命がけで戦う兵士に全幅の信頼を託して、⇒南方作戦(東南アジア侵出)も、⇒戦艦“大和”の建艦も、⇒日独伊三国同盟も、⇒日ソ中立条約締結も、着々と整い・・・、「鬼畜米英 !!」を合言葉に、 "敵愾心" に燃え上がっていました。
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7. 大平洋戦争に突入
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こうして遂に(1941-12-8)、”真珠湾攻撃” 参加艦隊との無線信号;『ニイタカヤマノボレ』、『トラトラトラ』の送受信に続き、倉橋沖(柱島泊地)には、連日夥しい数の艦船や輸送船団が堂々の雄姿を見せて、南方の島々に向かいました。 |
7-1.ミッドウェー海戦
しかし約半年後、ミッドウェー海戦(1942-6) で大敗を喫しました。
それは、米豪の連係を遮断し、ハワイの太平洋艦隊に壊滅的損害を与えて早期講和に導く・・・、そんな発想から、山本五十六司令長官が主張し、綿密に計画され、海軍の最精鋭空母と最強艦隊を投入する奇襲攻撃の筈だったが・・・。 |
しかしアメリカ軍は、飛行機を補足するレーダーが実用化し、日本軍の暗号も解読して待ち伏せしていました。 連合艦隊はその包囲網に突っ込み、最精鋭空母「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」=4隻と、航空機や、優秀なパイロットを 悉く失う大惨敗を喫しました。
その後日本軍は成す術もなく、太平洋の島々は遠方から順に陥落していきます。 |

7-2.柱島泊地
その翌年、1943年6月8日、戦地に向かう夥しい数の艦船や輸送船団が集結する中で、停泊中の戦艦『陸奥』が、突然爆発事故を起こして沈没し、乗員1,100人余りが犠牲になりました。
しかし当時「爆沈の事実隠ぺい」 の為、乗組員(生存者=353人)は本土上陸が許されず、多くは南方の激戦地に出征し玉砕したと聞いています。
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7-3.日本本土空襲
太平洋戦線は、ミッドウェー海戦の大敗を転換点に、ガダルカナル戦を突破口に、遠方の島々から順に陥落していきます。 そしてサイパン島やテニアン島、硫黄島もで陥落すると、敵爆撃機は日本に往復して、遂に「本土が決戦場」に巻込れました(1944年末頃~終戦)。

日本本土空襲 |
幼い学童は田舎に疎開し、市民や高学年の学童は食料不足と空腹と栄養失調に悩まされながら、防空訓練や建物疎開などの勤労奉仕に忙殺されていました。
そんな折、呉湾や周辺海域には 消沈ムードをかき消す様に、戦艦 ”大和”など 健全な艦船団が大挙集結しました。
それは燃料不足で動けない艦船群の帰還でしたが、その中から ”大和”は最後の期待を背負って沖縄向け特攻出撃しました。
沖縄戦に続き、「本土空襲」は 愈々激しくなり、連日、100機編隊の爆撃機が、1波、2波、・・・と来襲し、東京、大阪、名古屋など・・・主要200都市以上が完膚なく焼き尽されました。
呉市街も跡形なく焦土と化し、海軍工廠は一部を遺して爆破され、呉湾に勢揃いした戦艦群も 跡形なく沈座する臥体と化しました。
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7-4. 終戦 ~ 戦後
終戦に続き、大陸や南洋の島々から、500万~600万人もの兵士や在留邦人が帰還しますが、それは酷い就職難と、極度の食料難に突き落とされます。
そうして空襲や戦争で家族も身寄りも奪われた孤児たちは路頭や駅に寝泊りし、捨てられる残飯をあさり、その後どの様にして生き残ったでしょう・・・?
しかし、「戦争」という未曾有の悲劇と引き替えに、日本は高度科学技術を培いました。
それは戦後、平和利用され、呉市一帯は有数な重工業地帯に、瀬戸内海沿岸の燃料廠跡は巨大コンビナートに転身し、不夜城となって夜の海を照し、その周囲は無数の工場群が取巻く大工業地帯となり、日本は世界第二位の経済大国に伸し上がりました。
そして現在、瀬戸内海の狭い海峡や水路は、超大型船もひしめく「超過密航路」になっています。
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