このページは 『私個人の歴史観』です。
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瀬戸内 『呉周辺』を巡る 観光ストーリー
******** 瀬戸内景観、北前船、朝鮮通信使、海軍鎮守府 ********


緒 言  ( 海色の風景 )             2024/2  改
  青い海と無数の島々の折りなす瀬戸内風景は、世界的絶景と同時に、往古からの文化・風俗を育みました。 呉周辺ではそんな変化に富む「海の風景」と、数多の「歴史跡」を合せて見学できます。 
 ➡❶かつて江戸時代には、瀬戸内海には多数の港が開かれ、北前船が盛んに行き交いました。
 それは生活資材や各地の特産物と共に、文人墨客も往来し様々な情報も全国に伝搬しました。 それには朝鮮半島から「大陸文化や風俗」も融合し、趣向性豊かな「
江戸庶民生活」が醸成されました。
  それは呉近辺では、御手洗は「北前船」の大集積港として、下蒲刈は「朝鮮通信使一行」の経由する要衝地として、倉橋は往古より「木造船」の造船技術面で、また、しまなみ海道を中心に「瀬戸内一帯」はかつての水軍氏族は「水先案内」など、それぞれの役割を果たしていた「歴史跡」が見学出来ます。
 ➡❷しかし「明治時代」に移り、文明開化の波は鉄道が全国に巡らされ、和船(帆船)は機帆船に替わり、電信・電話も出現し、物資輸送も情報伝達も・・・、北前船の役割は急速に失われます。
 ➡❸それに代わり、注目の舞台は ”呉”に移りました。
 平凡な半農半漁の町(旧呉市内)は、〖海軍鎮守府〗設置が決まると、一躍 脚光の檜舞台に立っていました。
 富国強兵策の下、大々的な建設工事が始まり、一気に開庁に漕ぎつけました。
 その後も落ち着く暇なく、日清戦争~日露戦争と、日本の運命を決する戦争が矢継ぎ早に勃発しますが、呉鎮守府ゆかりの将校たちの活躍により、奇跡的に勝ち進みました。 それにより、
  ①大陸では、敗走兵を追って、満州に侵攻し「超近代的都市(国家)建設」に取掛かります。
   しかしそれは、激しい「反日・抗日運動」を招き、関東軍(日本軍)は、故意に「満州事変」を
   勃発工作して、満州全土を武力制圧し、傀儡国家「満州国」建国を宣言しました。
   ②呉鎮守府では、「東洋一の軍港」を目指し、海軍の最重要施設が次々設置され、
   艦船建造や、大陸に陸戦隊など派遣や、業者も満州国建設に伴う工事や事業に参加し、
   「景気は呉から」・・・と界隈は沸きたっていました。
  
   ③しかし御手洗港は、国策上、九州から石炭を運ぶ機帆船が寄港し、「色まち」風情は保たれて
   いた様ですが、北前船の消滅後、繁華さの再起は難しかった様です。
 ➡❹ しかし「満州国」は、世界の一国にも承認されず、中国本土での「反日・抗日抗争」険悪化に対し、関東軍は中国本土攻略(日中戦争)を決断します。 しかしそれは、米英も容認せず (中国に)武器支援した為、大陸情勢は泥沼状態に陥ります。
 しかし日本の国情では、「中国本土から退却や満州返還」は もはや不可能です。 所詮、戦艦”大和”を建造し、「宣戦布告」以外の選択肢はなくなっていました。
 結果、戦争は敗れましたが、戦艦大和建造などで培われた新技術は、戦後しっかり引き継がれ、呉市を含む瀬戸内沿岸は一大工業地帯に、島々は農漁村にとそれぞれの分野で新出発し、日本は世界第2位の経済大国に伸し上がりました。
 瀬戸内(呉近辺)は、瀬戸内海の絶景と合せて、江戸時代以前から戦後まで、一連の歴史を物語る遺構や遺物が多数 『文化・歴史遺産』として保存されています。
 

 

  1.瀬戸内海の地理と風景の特長
  何千万年か前、現在の瀬戸内海一帯は低湿地が広がっていました。
 その後プレート変動により紀伊水道、鳴門海峡、豊後水道、関門海峡が決壊し、地盤の浮沈、氷河の溶解による海面上昇などが加わって、低湿地帯は海原となり、高地は大小の島々になり、谷間は 島を分断する「瀬戸」に、小高い山頂は、海原に点在する小島となって原型が出来上がりました。 それに潮流や風波による造形が加わって、現在の景観が形成されたと言われています。
 瀬戸内海に浮かぶ島々は、大きさも形も異なり、ある所では一直線に、ある所では無秩序に、ある海域では密に、ある海域では疎に思い々々の様相で立ち並び・・・、絶妙な風景が東西500㎞、南北20~50㎞にわたって展開します。
 島々に挟まれた狭隘な海域は「海峡」と呼ばれ、大きな島に挟まれ川の様な海域は「瀬戸」、大海原は「灘」と呼ばれます。
 「海峡」では潮流が巨大な渦を巻き、細長い「瀬戸」は大河が島を取り囲む様に流れます。
 その周辺は、浸食崖や、崖から切り離された奇岩が散在する海岸線と、浸食された土砂が運ばれた砂浜が交互に存在し、松の木の樹生する風景が見られます。
 そんな島と島の狭間は、渦巻く流れを喘ぎながら進む上り船と、それを嘲笑う様に走り去る下り船が、分刻みで出会う場所になっています。
 瀬戸内には、島々に囲まれた "湖" の様な海域や、ギラギラ輝くさざ波をかき分けて進む船影や、遠方の小島や船舶が海面上にくっきり浮き上がる「浮島現象」、入江の水面は鏡になって「島の緑と青空と白雲」を絶妙なコントラストで映します。・・・観光の醍醐味は、そんな次々移る景色を眺めながら 巡るクルージングです。
 それに島内のバス移動や、高台(展望台)※からの眺望は、「大規模箱庭」というか、多島美の立体模型が楽しめます。

  ※)呉周辺の展望台は; 灰が峰、休み山、野呂山、筆影山・・・等々があります。
 呉市や しまなみ海道周辺の島々は「芸予諸島」に属し、比較的大きな島々が密集しています。 島の狭間は運河の如く、その両岸は水陸一体となって人々の生活臭を漂わせています。 それは、かつて村上水軍の活躍場でした。 しかし今は、壮大な架橋で結ばれ、現代版の迫力ある風景になっています。
 それに対し、瀬戸大橋の架かる塩飽諸島一帯は、無数の小島が、遠く近く点在し、夕日に輝く海原と調和してシルエットを成す夕景が見事です。 それは瀬戸大橋(車窓やJR線)から眺められます。



  2.「日本史」の中の瀬戸内(呉近辺)風景
 ところで自然景観の絶景スポットは、瀬戸内海に限らず、日本中には無数存在します。
 しかし瀬戸内海、とりわけ
"呉周辺"の自然は、日本の歴史・文化と深く係わっています。 
 呉市近辺は、そんな歴史跡や古い街並みなど、「歴史と自然が交錯する」宝庫と言えます。

  2-1. 瀬戸内海の航行と水軍氏族の出現
  瀬戸内海の航行は有史以来行われていた様ですが、それが日常風景になったのは平安時代の頃と思われます。 勿論、帆走船舶にとっては大変な難所です。 自然派生的に水先案内業の出現は容易に想像されます。 しかし往来の増加につれ強奪を働く様になり「水軍」とか「海賊」などと呼ばれました。
 忽那水軍は 11世紀に藤原親賢がこの地に配流され、忽那諸島の各所に城を設け、水先案内か?金品強奪か?・・・ 水路で活動していました。
 「壇ノ浦の戦い」で、源義経は各地の水軍衆を集め、平家を滅亡させた主力は忽那水軍だったとか(?)・・・。 それ以外にも水軍衆は、呉周辺では多賀谷氏一族や、芸予諸島(”しまなみ海道一帯”)では、因島出身の村上氏が束ねていました。 

   しかし戦国時代には、水軍系氏族は有力大名と結んで、海を ”戦場” にして功を競いました。 因島村上水軍は毛利軍と与し【厳島の海戦(1555年)】で陶晴賢軍を殲滅しました。 その後、能島村上水軍、来島村上水軍も毛利氏と与して、【木津川口の戦い】では、信長軍と勇猛に戦いました。
 その後、能島村上水軍(村上武義)は豊臣秀吉との恭順を拒み衰退しますが、他の村上家は秀吉側に与して四国(河野氏)征伐に加わり、(河野氏配下の)忽那水軍を没落させ、芸予諸島を本拠に、瀬戸内海一帯を支配する水軍の覇につきました。
    村上水軍については、水軍城(因島)や能島水軍博物館(宮窪)見学や、宮窪瀬戸の
    潮流体験、及び瀬戸内海の地理条件を重ねて見れば、もっと興味深い物語が鑑賞できます。

  2-2. 北前船全盛 ~ 呉軍港への引き継ぎ
 しかし江戸時代に移り戦乱がなくなると、海賊業は形を潜め、瀬戸内海は日本海側の食料や生活物資を人口密集地の京都や大阪に運ぶ「北前船」の運航経路になりました。 それは年を追う毎、隆盛を極め、経済活動の飛躍的活発化と共に、人流も促し全国各地の情報や文化も日本中に伝搬して、百花繚乱の庶民文化を開花させました。
 それにはかつての水軍系氏族の貢献と相俟って、御手洗港(現;呉市豊町)も、北前船の一大集積港として大きな役割を果たしていました。
 しかし明治時代に移ると、機帆船の出現、鉄道など陸上交通路、電信・電話などの発達により、北前船は急速に役割を失いました。
 それに引換え、近辺の海は、急激に軍事色に塗り替えられていきます。
 とりわけ、”呉”に海軍鎮守府が設置されると、早くも数年後には「日清戦争」が・・・、立て続けに10年後には「日露戦争」も勃発し、何れも奇跡的勝利すると、呉湾に浮かぶ軍艦は 日増しに増え続け、呉軍港は「東洋一の軍港」に成長します。 そして最後は世界一の戦艦”大和”も建造し、太平洋戦争終結まで、日本海軍の最重要港の役割を担っていました。


   3.北 前 船
    3-1.北前船の起源と 発展経過
 戦国時代、それは日本国中の有力武将が 『覇を争った時代』です。 その裏では大勢の農民や庶民は餓死者も続出する、決して豊かな時代ではないでしょう。
  しかし江戸時代に移り 戦さがなくなると、人々は急速に豊かさを求め大量の物資が必要になります。
それには、真っ先に人口密集地(京都・大阪)と、"米"の産地(越前等)を結ぶルートですが、当時の陸路輸送ではとても間に合いません。 必然的に日本海~瀬戸内海経由の船輸送が求められます。
 しかしそれが容易でないことは次に述べますが、先人たちの熱意と工夫で、日本海~瀬戸内海航路が開発されました。 それは忽ち北海道や樺太まで延伸し通船は「北前船」と呼ばれました。 
 北前船の出現は、内陸から日本海に注ぐ河川の水運を発達させ、主要港は、内陸部の産物が大量に集積する大河川の河口に開かれました。 それは太平洋側にも同様に航路が開発され、日本中の物資が大量輸送される流通網が出来上がりました。
 こうして瀬戸内の海上輸送路は、西国海道などの陸路を凌ぐ大動脈となり、衣食住物資と共に、情報や文化も津々浦々に伝搬するマスコミの役割も果たしていました。
 それは日本中の文化、芸術、教養、娯楽、風俗が、全国の庶民生活に浸透し、趣向性豊かな町民文化が醸成されました。 それが江戸時代です。

  3-2. 北前船の航行、風待ち・潮待ち港
 しかしそんな大型船(千石船など)が、日本海や瀬戸内海を帆走するのは、如何に困難で、如何に危険だったか・・・??  そんなことを想像しながら、瀬戸内海を眺めれば、もっと興味深い発見があります。
    ( ※千石船は 長さ ; 約30m、帆柱も ; 約 30 m あります)
  現在こそエンジン付きの船舶は、日本海の荒波も、瀬戸内海の潮流も、狭い港湾の入出港も当り前ですが・・・、千石船の様な大型船に積荷を載せ、大きな重い帆に 風をはらませ、それを人力で操作し、操船するのは如何に大変か・・・?? 航海中に風波が急変すれば入港は愚か、陸地に近づくこともできません。 勿論、天気予報などはありません。 電話で救援を求めることもできません。 停泊中でも台風並みの風波を防ぐ、十分な防波堤も避難手段もありません。 瀬戸内海の潮流に逆らっては進めません。 暗礁や浅瀬も(現在より)沢山ありました。 風の変化か何かの理由で、潮流が変わる迄に目的地に到着しなければ、漂流や座礁の危険に曝されます。
 その解決策の一つが 『風待ち、潮待ち港』です。 瀬戸内海の殆どの島に港が開かれ、緊急時にはどの島にも退避、または直ちに救援できる様になりました。 そこ(各港)は、命がけで航行する船頭たちには、張り詰めた緊張から解放されるオアシスであり、必ず遊郭(茶屋)が営業していました。
 その他にも、海の守り神として住吉大神などの神社が方々に建立され、船内には神棚を設けられました。 それに高度な造船技術※や航海術の進歩など、英知と経験を結集して日本中に豊かさを運んでいました。 それは年を追う毎に隆盛して明治時代の中頃ピークに達しました。
     ※しかし、そんなことを可能にした「造船技術」は、『造船歴史館』(呉市倉橋町)や
      『歴史博物館』(福山市)で、非常に興味深い発見ができます。

     3-3.北前船の寄港する主要港町
 主要な港町は、内陸の産物が集まる大河川の河口や、消費地との便宜、港湾としての地理的条件などに合わせ各地に開かれました。
 例えば、小樽は蝦夷地への玄関として重要港でした。 最盛期 (江戸時代末期~明治時代) には広大な運河が建設され、両岸にはぎっしりと海運倉庫が建ち並びました。 現在、運河は約半分が埋立てられましたが、当時を彷彿する施設は沢山遺っています。 能代、酒田、新潟港などは大河川の水運を利用して、内陸深くから大量の農産物や鉱産物が集積する重要港で、大手船主も生業を営む大規模港町でした。 金沢や三国、赤碕、浜田も大量の米が集積しました。
 同様に、瀬戸内海の航行には「風待ち潮待ち」の港が必須条件です。 宮島、尾道、鞆、牛窓、室津など沿岸各地や殆どの島々にも設けられました。
 その一つが御手洗港です。 御手洗には特筆すべき産物はありませんが、『風待ち潮待ち港』として条件が非常に恵まれており、沢山の北前船が寄港しました。 それに合せ、大勢の豪商たちも集まりました(1666年頃)。 当時の「新興商業区」と言うべきでしょう。
 北前船の運ぶ物資は、直ちに売買され周辺の島や町に届ける中継港として賑わいました。
 また、四国や九州~大阪や京都・江戸を結ぶ交通の要衝として、参勤交代の大名や文人墨客も頻繁に訪れていました。 狭い地区内にひしめく様に豪商屋敷と一般庶民住宅が混在する街並みは、当時の庶民生活臭が彷彿とします。 町民揃って、教養・娯楽・芸術・嗜好品など享楽も親しんでいたのではないでしょうか(?)
 北前船の船主や船頭は、危険と引き替えに、日本中の情報を真っ先に掴み、結構、有利な商売をしていた様です。 能代や酒田など船主の港町には、超豪華屋敷が建ち並んでいます。 酒田では、実物大の北前船(千石船の復元船)が全国ニュースになっています。

  3-4.歴史の見える丘(御手洗)の眺望
 そんな時代を想像しながら『歴史の見える丘(御手洗)』に上れば、瀬戸内海の絶景と共に、北前船の航跡も一目瞭然です。
 船頭たちの仕事は如何に危険だったか、港町御手洗が如何に繁栄していたか、三味・太鼓の音も合せて、眼下に感じることができます。
 尚、御手洗 及び北前船については別報に詳述しています。       『 北前船の集まる港町 (江戸時代の港町”御手洗”)


    4.日本固有文化と、異国文化の融合
   4-1.朝鮮半島からの文化流入
  しかしそんな江戸時代の庶民文化は、「日本固有の文化や伝統や風土」のみで開花した訳ではありません。 朝鮮半島から持込まれた異国文化や異国情緒と、日本固有の文化が融合して独特なスタイルに醸成されました。 それを日本中に伝搬させた大動脈が北前船などの海上交通網です。
   朝鮮半島から伝来した文化には、例えば、「陶磁器の製造技術」は「文禄慶長の役」で捕虜として連行された朝鮮人陶工たちによって伝えられました。 彼らは有田(佐賀県)一帯に住みつき、陶磁器の製法技術を伝授しました。 その後日本全国の窯元に引き継がれ、それぞれの地で固有な発展を遂げました。 それは(日本から)ドイツのデルフト焼きなどにも継がれています。
 松濤園(下蒲刈)の陶磁器館には、当時の「古伊万里」から、その後の進化過程と共に、柿右衛門様式や鍋島焼きなど大変見応えのある多数の作品が見学できます。
 その他にも木版印刷述や、書画など芸術・文化、風俗、食物、生活様式など沢山の異国文化が朝鮮半島から伝来しました。

    4-2. 朝鮮通信使と、江戸庶民文化
 日本と朝鮮の間では、大体20年に一度、『朝鮮通信使の来日』という互いの交流を総括する超ビッグな「イベント」が催されていました。
 それは朝鮮から友好使節団(約500人)が来訪し、江戸幕府の将軍に詣でる行事です。 朝鮮使節団に日本側随行員(約1,000名以上)も加わり、多い時は 総勢 2,000名もの大行列が、【対馬~瀬戸内海横断~京都~江戸】間を約半年かけて往復する国家的大行事でした。
 
使節団の船団が瀬戸内海を横断する風景
 その際、瀬戸内海は、大小数百~千隻もの船舶を連ねて横断しますが、途中の下蒲刈島は(往復とも)宿泊地となり、来島時には壮大な歓迎会が催されました。
 沿道には、大行列や珍しい異国人の風俗を見ようと、大勢の観衆が詰めかけました。 その中には各地から画家や芸術家も大勢集まり文化交流の場がもたれ、また、大陸使節団の珍しい風俗を伝える絵画や、異国人を模した郷土人形なども全国に出回りました。
 江戸時代の庶民が、珍しい異国情緒に慕っていた様子が目に浮かびます。
 江戸時代には、その他にもオランダ船も長崎に入港して西欧文化や医学情報などが伝来しました。 琉球経由でも清国(現中国)の「唐文化」が伝来しました。 しかし交流頻度からも、庶民文化の伝来は朝鮮半島経由が圧倒的だったのではないかと思います。
   ( 朝鮮通信使の歴史、及び江戸時代の風俗・文化や庶民の暮らしぶりについては、
     松濤園(下蒲刈)と、御手洗(豊町)をセット見学すれば、もっと興味深い発見があります。
 
    尚、朝鮮通信使については別報に詳述しています。
        朝鮮通信使 (ユネスコ『世界の記憶』登録)


   5. 瀬戸内海の”製塩業” (竹原 ・ 三つ子島) 
  江戸時代中期以降の海上交通網は、北前船の他、太平洋岸航路や九州周り航路も整備され、物資は勿論、人流や情報も全国に行き交う様になっていました。 その中で瀬戸内海沿岸の代表的産物として ”塩”がありました。 ”塩”は人の生命維持に必須の貴重品ですが、製塩は大変な重労働でした。
 大規模な「製塩法」は、江戸時代以降、広大な砂浜に干満差を利用して海水を引き入れ、天日乾燥する【入浜式製塩法】が赤穂藩で開発され、瀬戸内海全域に広まったとのことです。
 それは昭和初期まで続いていましたが、世界中の交易態勢が整うにつれ、手っ取り早い『岩塩輸入方式』にシフトしていきました。 それは化学技術が進歩し合成樹脂などの原料として需要量が急増した戦後急速に進み、塩田は 昭和30年代に姿を消しました。

  現在は、専らメキシコからの 『岩塩輸入』に頼っていますが、日本中の需要の 90%以上は、呉湾内の三つ子島から再配送されています。 しかし(従来 100% だった)食用は僅か 数%に過ぎません。 殆どは塩化ビニルなどのプラスチックや洗剤、ゴム、ガラス、ソーダ工業など工業製品の原料になっています。
 かつての広大な塩田跡は、現在は大工業地帯や住宅地に変貌していますが、塩田オーナーや地元の有力者たちは、相当な地位を得ていた様です。 呉近辺では竹原には超豪華屋敷が建ち並び、史跡は「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。

    6. 時代の転換    ***** 北前船の衰退と呉鎮守府の脚光 *****
    6-1.北前船(御手洗港)の衰退
 こうして江戸庶民文化が全盛だった頃、天地動転の事件が起りました。
 黒船来航です。 その対応を巡って江戸幕府と、水戸藩や長州藩の間で熾烈な対立が生じ、薩摩藩、会津藩、新選組、桑名藩、天皇や公家を巻き込んむ熾烈な「幕末の動乱」に発展しました。
 そんな情報は、北前船で恐らく全国に伝わっていただろうと思いますが、政りごとには「寄らしむべし知らしむべし」の庶民には どの様に映っていたでしょう ??
 しかし明治時代に移ると、国家体制は一変し、文明開化の波が全国に押し寄せます。
陸上には鉄道が巡らされ、電信・電話も出現し、和船(帆船)は機帆船に変り・・・、物資輸送も情報伝達も・・・、北前船は 明治時代中ごろをピークに急速に役割を失いました。
 しかし御手洗港は、富国強兵の国策上、九州から石炭運ぶ機帆船の寄港で、「色まち」の余韻はしばらく続いた様です。 当時としては珍しい洋風民家がポツポツ建てられていますが、「
御手洗港を素通る船は、親子乗りかや、金なしか」と、素通りする船数も多かったのでしょう。
 しかし世界恐慌の影響から経済が行き詰り、日中戦争も険悪さが漂い始めた頃、街の奮起を計り、当時として最先端のハイカラな劇場(乙女座)がオープンしました(昭和12年)。 しかし日本中が 戦争ムードに染まり、「色まち」の前途は険しかったのではないでしょうか?
 他に産業のない御手洗は、戦後も「色まち」として活路を模索しながら、昭和32年 売春禁止法の制定により完全に火が消されました。
 それは、『日の出の勢い』で東洋一の軍港に躍進する 旧”呉市街”と対象的に、 ”色まち慕情” を感じさせる「街並み」が現在も遺されています。

     6-2.呉鎮守府の脚光
  明治時代初期、”呉”(現市街地)は干拓が進んで綿花畑が拓け、入船山には ”亀山神社” が威風堂々と 町の平穏を見守っていました。 仁方や安浦海岸一帯は塩田が拡がり、人口 1万人弱(当時)の半農半漁の町は、豊漁や豊作を祈る祭事もあちこちで催されていま した。
 そこに町役人達の請願が叶い海軍鎮守府設置が決ると、急転直下、大規模建設工事が始まりました。
 ”呉”は、瀬戸内海の奥に位置し、敵艦攻撃の防御上、最適地として海軍の「最重要施設」が次々建設されました。 「日本海軍第一の製造所」と位置づけられ【造船ドック工事】も始まりました。 そして大凡の施設が整った明治22年開庁、開庁式は翌23年に明治天皇を迎えて催されました。

 それから数年後には、早くも日本製第1号艦 ”宮古”の起工を手始めに、「日清戦争」勃発(明治27年)という大業に遭遇しました。 しかし東郷平八郎らの神がかり的活躍により、幸先よく勝利を飾り、朝鮮半島と台湾を獲得するという大収穫を得ました。
 ところがロシアは、(目の前の遼東半島;旅順に)堅固な要塞を築き、朝鮮半島侵攻を狙っていました。 それには 「日露間交渉」がもたれましたが決裂し、またもや 「日露戦争」勃発(明治37年)となりました。
 それは「強大国;ロシア」対「弱小国;日本」という、日本にとっては、眞に「
国家存亡を掛けた決戦」ですが、日英同盟により英国の絶大な支援や、日本海海戦で、東郷平八郎や呉鎮守府ゆかりの将校たちの活躍、及び天候などにも恵まれ、劇的勝利しました。
      参照、「呉鎮守府の航跡(東郷平八郎)」については別報に詳述しています。 
   しかし若し敗戦、または日露戦争自体が回避されていれば、現在の日本は、否、世界の勢力図は、どうなっているでしょう(?) 世界にとっても、極めて大きな分岐点だったと言えます。
 ともかく日本は、強大国”ロシア” に勝利して俄然勢いづき、
   ①日本軍(関東軍)透かさず満州に浸出し、満州占領(傀儡国家樹立)を目指します。
   ②呉湾に浮かぶ艦船は、日増しに増加し、呉軍港は「東洋一の軍港」に成長していきます。

     6-3.日露戦争後の大陸情勢と呉界隈の賑わい

新京 大同大街「康徳会館」
 満州には、満州人、中国人、ロシア人などが住んでいましたが、(ロシア領でなく)清国(後に中国)領土です。
  そこに入城した日本軍(関東軍)は、着々と「満州の支配固め」と、超近代的な「国家建設」に取掛かりました。
  しかしそれには人種差別などが顕わで、 反日抗日の反乱や嫌日事件が頻発します。 関東軍は武力制圧しますが、益々拡大・激化して治まらなくなると、故意に「満州事変」勃発を工作して、非常に短期間に満州全土を制圧し、一方的に傀儡国家「満州国」建国宣言をしました。
 その間、満州国建設には、 内地(呉鎮守府を含め)からも、陸海軍や、種々業種の業者や、移住者なども大勢関わっており、呉界隈は祝賀ムードに包まれていました。
 しかし「反日・抗日反乱」は、以前にも増して中国全土に拡大し、在留邦人の生命を守るには、関東軍は、中国全土攻略(蒋介石軍殲滅作戦=日中戦争)への道を選択しました。
 
 「満州」は、日本国民の「食料や生活確保」に、絶対切り離せない「領地」になっていました。 しかも内地国民は、大本営発表;連戦連勝」の報と共に、大陸から”糧”を持ち帰る ”軍”を絶賛し、「戦場の凄惨さや、我が国の敗戦」などは、恐らく眼中になかったのではないでしょうか?


     7 大平洋戦争に突入
  こうして日中戦争に突入し、内地からも陸軍は勿論、各鎮守府からは陸戦隊や海兵隊が続々派遣されます。 しかし、「満州国」の承認はどの国にも得られず、中国(蒋介石政府)は日本の「違法侵略」を訴え、米英は(中国に)武器支援し、日本には石油禁輸や経済制裁が課せられます。
 しかし、それでも後に引けない日本は、
南方侵出、ナチスドイツと接近、日ソ中立条約の締結、世界最大の戦艦「大和」の建造・・・などを進め、”真珠湾攻撃”は辞せないハメに嵌っていきます。
 
  そうして太平洋戦争が開戦すると、柱島から倉橋沖(柱島泊地)には 『大和』や『長門』など、連日夥しい数の艦船や輸送船団が堂々の雄姿を見せて太平洋戦線に向いました。

   7-1.ミッドウェー海戦
 しかし約半年後、ミッドウェー海戦(1942-6) で大敗を喫しました。
それは、米豪の連係を遮断し、ハワイの太平洋艦隊に壊滅的損害を与えて早期講和に導く・・・そんな発想から連合艦隊山本五十六司令長官が強硬に主張し、綿密に計画され、海軍の最精鋭空母と最強艦隊を投入する奇襲攻撃の筈でしたが・・・。 しかしアメリカ軍は、飛行機を補足するレーダーを実用化し、日本軍の暗号も解読して待ち伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突っ込み、最精鋭空母「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」=4隻と、航空機、優秀なパイロットも 悉く失う惨敗を喫した。  その後日本軍は成す術もなく、太平洋の島々は遠方から順に陥落・玉砕していきます。

  7-2.柱島泊地
 その翌年、1943年6月8日、戦地に向かう夥しい数の艦船や輸送船団が集結する中で、停泊中の戦艦『陸奥』が、突然謎の爆発事故を起こして沈没し、乗員1,100人余りが犠牲になりました。
 しかし当時「爆沈の事実隠ぺい」の為、乗組員(生存者=353人)は本土上陸が許されず、離島に隔離されて次の出征地(多くはアッツ島(?)に向かい玉砕したと聞いています。

 尚、1971年までに『陸奥』の艦体は一部が引き上げられ菊の御紋章や主砲などが陸奥記念館(周防大島)に保存されています。

    7-3.日本本土空襲
 
太平洋戦線は、ミッドウェー海戦の大敗を境に、ガダルカナル戦を突破口に、遠方の島々から順に陥落していきます。 そしてサイパンや硫黄島 まで陥落すると、敵爆撃機の日本本土往復が可能になり、遂に「本土が本格的戦場」に巻込れました(1944年末頃~)。

日本本土爆撃
 そして幼い学童は田舎に疎開し、市民や高学年の学童は食料不足と空腹と栄養失調に悩まされながら、防空訓練や建物疎開などの勤労奉仕に忙殺されていました。
そんな折、呉湾や周辺海域には 消沈ムードをかき消す様に ”大和”など 健全な艦船団が大挙勢揃いしました。
 人々はそれを雄壮と見たか? 悲壮と見たか?・・・、燃料不足で出撃できない艦船群の帰還でしたが、その中から ”大和”は最後の期待を背負って沖縄向け特攻出撃しました(1945/3)
  沖縄戦に続き、「本土空襲」は 愈々激しくなり、連日、100機編隊の爆撃機が、1波、2波、・・・と来襲して、東京、大阪、名古屋など・・・主要200都市以上が完膚なく焼き尽されました。
 呉市街も跡形なく焦土と化し海軍工廠は一部を遺して爆破され、呉湾に勢揃いした戦艦群も全て沈座する臥体と化しました。


    7-4. 終戦 ~ 戦後
  終戦とは言え、
空襲の爪痕は老若男女容赦なく、家族を奪い、酷い食糧難の最中、身寄りのない孤児たちは路頭や駅構内に寝泊りし、捨てられた残飯をあさり、その後どの様にして生き残ったでしょう・・・?
 しかし、「世界大戦」という未曾有の悲劇と引き替えに、戦時の日本は高度科学技術を培いました。 それは戦後、平和産業に利用され呉市一帯は有数な重工業地帯に発展しました。
 
瀬戸内海沿岸の燃料廠跡は巨大コンビナートに転身し、不夜城となって夜の海を照しています。 その周囲は無数の工場が取巻く大工業地帯となり、日本は世界第二位の経済大国に伸し上がりました。
 現在は、瀬戸内海の狭い海峡や水路は、超大型船もひしめく「超過密航路」になっています。■

  その経緯は、別報に述べています 瀬戸内物語 (呉湾を中心とする歴史編)

 
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