このページは、 『私個人の歴史観』です。 フィクションを混じえています。
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呉鎮守府の航跡

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  (1)日本海軍設置について
 ペリー来航により、眠りから覚めた日本に見えた世界は、驚愕的に進んだ巨大兵器、科学技術、政治経済、教育文化形態等々・・・と共に世界中は「仮想敵国」であることだった。

ペリー来航
 
  そんな世界と向き合うには、緊急課題として
   ①欧米の「最新文明や産業基盤を輸入」し、
   ②「洋式海軍も創設」し《先進国の体》を成すことが
 迫られ次の決定をした。;
  ◇「財源」は、富岡製糸場など「生糸」の大増産(輸出)を計る。
◇「
労働力や食料その他」は、朝鮮半島に侵出し、《「日朝修好条規」を締結して》、
  徴用工を徴募、その他の協力関係を構築する。

◇「海軍」を創設し、(横須賀、呉、佐世保、舞鶴)に鎮守府を設置する。
 そして次の様に実施された。
  ◇鉄道やダム建設、富岡製糸場など産業基盤の整備、
   艦船建造施設など、あらゆる産業の近代化に着手した。
  ◇しかし食料も、資源も、資金も、労働力も乏しい日本は
朝鮮
   半島に侵出
「日朝修好条規」を締結、徴用工など徴募した
  ◇海軍は、急ピッチで各鎮守府建設~開庁に漕ぎつけた。

 鎮守府とは、日本周辺海域を 四分割し、各海区に 『兵員養成、軍港、海軍工廠(艦艇の建造、修理、兵器製造等を行う)、海軍病院、海軍水道などの施設を設け、運営や監督を行う《海軍本拠地》』である。
 具体的設置場所は、敵艦攻撃の防御や、艦艇の航行・停泊に適する地形、水深、交通、物資調達、兵員集めなどを総合的に考慮し、→
横須賀鎮守府は明治17年(1884)に既設の「横須賀造船所」を引継ぎ、→呉と、→佐世保 は明治19年(1886)に、→舞鶴は明治22年(1889)に設置が決定された。

*2 (2)呉鎮守府の建設
 (当時)人口 1万人足らずの半農半漁の町は、干拓が進み、豊漁・豊作を祈る祭事があちらこちらで催されていた。そんな町の平穏を「現;入船山」の丘から “亀山神社” が威風堂々と見守っていた。
 そこに町役人たちの請願が叶い、海軍鎮守府設置が決まると、亀山神社は移転し、軍用地に掛る住民の生活用地は移転させられ、漁場も制限され、灌漑用水も軍優先に転じ・・・、住民生活はかなり圧迫された。
 そして のどかな町は、あちこちで工事の槌音が響き、広い道路が縦横に走り、川に橋が架かり、軍用地はレンガ造り庁舎が次々建ち並び(明治22年=1889)「呉鎮守府」は開庁した。 
 呉鎮守府は瀬戸内海の奥深くに位置し、敵艦による攻撃防御の有利性から、海軍機能上「最重要施設」の設置が計画され、早くも数年後には、日本製第1号艦 ”宮古”の建造が始まった。
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 (3)北洋艦隊「定遠」回航  
 しかし朝鮮半島への侵出は、(当時の朝鮮半島は清国(現中国)が主導権をもっていたので)、日清間は緊張関係が高まっていた。 それに対する牽制か、威嚇か(?)、清国軍(北洋艦隊)は、『自慢の新鋭艦「定遠」(7,430トン)を旗艦とし、同型艦「鎮遠」など数隻の豪華艦隊』を日本各地に回航して威容を見せつけた。
 それは、横浜沖に停泊中には、皇族や大臣、陸海軍将校、新聞記者等の首脳人を招いてレセプションを催し、日本第一の巡洋艦(「浪速・高千穂」)の2倍もある新鋭艦の「威容さ」に圧倒された。
 しかし北洋艦隊は、その後宮島沖にも回航し「呉に赴任中の
東郷平八郎(参謀長)」も視察した。 それは来る「日清戦争勝利」に繋ったと見るべきか(?)次の様な経過を辿った。
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(4)東郷平八郎(1848~1934)の略歴
  ◆イギリス留学(1871-78)
 東郷平八郎は、薩摩藩士として幕末の戦乱を経験し、軍人の志はなかった様だ。 しかし英国に留学して人生が変わった。
 英国では、英語、数学、理科など基礎を学んだ後、入学した商船学校は、船が校舎兼宿舎だった。 船上での実践授業では「学術優秀、品行方正、礼儀正しい」などが一般評だった様だ。
 卒業後、世界一周航海ではマストに上り、風の強さや方向、天気の変化、波の変化を即座に予測して操船する技術と共に、商船と雖も「戦い」に対する国際法や愛国心の重要さも学んだ。

  ◆呉鎮守府在任中の東郷平八郎 =「北洋艦隊(清国軍)の来航」=
 東郷は、英国から帰国して10年余り、艦船乗組みなどの要職を経て、呉鎮守府開庁に合せる様に、参謀長に就任した(1890/5~91/12。 それから程なく、清国軍(北洋艦隊)自慢の「定遠、鎮遠」などの 艦隊は宮島沖にも回航され東郷参謀長も視察した。
 しかし東郷は、『甲板は不潔で整理整頓されず、自慢の 26cm主砲には洗濯物が干してあるなど、「軍艦は強大堅固でも、乗務人員の訓練も実戦能力も未熟で、海軍将校や指揮官の指揮系統も不統一で、近代国家の軍隊とは言えない」』ことを見破っていた。
   それは「日清戦争」勃発の起点だったと見るべきか(?)・・・程なく (東郷は)防護巡洋艦「浪速」の艦長に就任(1891)し、3年後(呉鎮守府開庁から 僅か 5年後)に「日清戦争」は勃発した。
  東郷邸(離れ)では、東郷は来る日清戦争を予見し、作戦などを考えていたのではないだろうか(?)
北洋艦隊「定遠」  東郷邸離れ  防護巡洋艦「浪速」
  ◆ 東郷平八郎と、日清戦争(1894-95)
 そして遂に、日清戦争が勃発すると、「吉野」、「高千穂」、「秋津洲」、「浪速(
東郷艦長)」の艦隊(=何れも高速艦)が編成され、高速速射砲(高速で敵艦近づき、速射砲を連発)で 清国「北洋艦隊」と対戦し勝利に導いた。 それにより、東郷の能力は国内外に知れ渡った。
 しかし、東郷が もっと 『
世界の英雄』 として名を馳せたのは、その10年後に起こる日露戦争「日本海海戦」での快挙(後述)である。
 その前後の「東郷の経歴」は次のとおり ;
  ◇(1871~78)英国に留学
 ◇(1874)日朝修好条規締結
 ◇(1889) 呉鎮守府開庁
 ◇(1890~91)
呉鎮守府参謀長 に就任
 ◇(1891- )
巡洋艦「浪速」 艦長; に就任
     ⇒(1894~95)
日清戦争(豊島沖、黄海、威海衛海戦) で快挙をあげる
 ◇(1899-1900)佐世保鎮守府司令長官 に就任
 ◇(1901-1903)舞鶴鎮守府司令長官 に就任
 ◇(1903 ~ );
連合艦隊司令長官 に就任
     ⇒(1904~05)日露戦争(
日本海海戦 で歴史的勝利を飾る
 つまり英国留学で洋式戦法の基礎を学び、⇒呉で北洋艦隊の実艦隊を視察し、
   ⇒
その知見を基に日清戦争に勝利し、⇒更に経験を積んで日露戦争を勝利に導き、
   ⇒
日本の運命を決する軍功を、次々挙げていった。
  <肉じゃが<論争>
 東郷平八郎は、イギリス留学中(1870~78)に食べたビーフシチューが非常に気に入り、帰国後に艦上食に採用しようとした。 しかし日本の料理人に、レシピが上手く伝わらず、醤油と砂糖を使ってできたのが「肉じゃが」だという。(しかし事実かどうかは疑わしい)。
  それから約100年後、舞鶴市は、東郷が初代「舞鶴鎮守府司令長官」だった(1901)のを根拠に、『肉じゃが発祥地』 と宣言(1995年)して町興しに利用した。
 すると、呉市も、東郷は帰国後 「呉」 に在任した(1890)のは、舞鶴より 10年も前だ、『肉じゃが発祥』は、“呉”の方が早いと論争(1998年)を挑んだ・・・、と言うより、相乗りにより双方がPR効果を高めあったと見るべきだろう・・・?
 因みに佐世保では、戦後、米海軍基地が設置され、音楽や食、ファッションなどアメリカ文化が流入し、その一つ、「ハンバーガー(“佐世保バーガー”)伝来の地」と宣伝している。

 
(5)日清戦争と、呉軍港の功績
  ◆ 日清戦争(1894-95)勃発
 こうして鎮守府開庁から僅か数年後、軍港整備と符合するかの様に「日清戦争」が勃発した。
つまり、朝鮮半島は、《清国》に従属状態だったので、日本の朝鮮侵出は 「日清戦争」に繋がった。
 それは、呉軍港や、広島(陸軍)から大勢の兵士が出征し、
巡洋艦「浪速」(東郷平八郎=艦長)などの活躍(前述)により勝利した。
 それは、朝鮮半島、台湾、及び多額の賠償金も獲得する大収穫を得て、以後、日本は「侵略戦争と植民地支配を突き進む出発点」になったと見るべきだろう。
 つまり;
  実戦での勝利経験を積み、朝鮮半島から大勢の徴用を工徴募し、及び賠償金は
  欧米から大量の資材輸入や、舞鶴鎮守府開庁資金や、インフラ工事や、軍事施設や、
  あらゆる産業基盤強化に回され・・・、
国力増強に弾みがついた。
  しかし、もし日清戦争の勝利がなければ、その後の日本は「どんな歴史を辿っただろう?」
   東郷平八郎と呉軍港には「将来の日本歴史を決する」非常に重要な「鍵」が託されていた
  負傷兵は呉海軍病院で治療された。 しかし戦場は、朝鮮半島や遼東半島なので、戦場の凄惨さや残酷さ」は、大本営の検閲を通して日本国内には、どの様に伝わっていただろう(?)
 正岡子規は従軍記者として派遣されたが現地に到着時は戦争が終結し、滞在2日で帰国した。 
その際、松山~広島間を往復し、船中から呉軍港の活気を俳句に詠んでいる。

(6)日露戦争勃発と、呉軍港の功績
  ◆ 東郷平八郎と、日露戦争(1904-05)勃発
 東郷平八郎を、更に「
世界の英雄」に伸し上げた「日本海海戦」は、その10年後に勃発した。
 つまり、日清戦争勝利で朝鮮半島を獲得すると、目の前の遼東半島(旅順)には、既にロシア軍が堅牢な要塞を築き、朝鮮半島への侵攻準備を進めていた。
 
 それは粛々と朝鮮半島に兵を進める「百戦錬磨の強大国ロシア」対、絶対に譲れない「弱小国日本」の睨み合いと云う構図で、日本にとっては、眞に「国家存亡の危機」だった !!  
 そんな非常事態に、海軍大臣 山本権兵衛は、東郷平八郎を連合艦隊司令長官」に選任した。
 しかし日本政府としては、戦争は回避方針で「日露間折衝」が続けられたが、結局、決裂し日露戦争勃発となった。
 結果は、最後の決戦となった「日本海海戦」で、東郷平八郎(連合艦隊指令長官)、加藤友三郎(参謀長)、広瀬武夫や秋山真之ら、呉鎮守府ゆかりの将校たちの活躍により、辛くも勝利した。

 それには、日本の背後には英国(日英同盟)の支援があったこと、海軍工廠が整備され、艦船の補強や修理が迅速にできたこと、遠路回航によるバルチック艦隊側の不利、艦隊発見、及び対戦の気象条件など、諸条件に恵まれたなど、「
幾つもの幸運が重なったから、偶々勝てた」と東郷平八郎は述懐していた・・・。
  しかし、①日露戦争が回避されたか、 或いは、②バルチック艦隊が(発見できず)ウラジオストック艦隊と合流していたか、 または、③日本が敗戦していたとすれば、現在の日本は、否、世界の勢力図はどうなっているでしょう(?)
   
日露戦争は、「日本/世界の歴史」にとって極めて大きい「分岐点」になった
 
  ◆ 日露戦争勝利と、満州内部への侵攻
 日清戦争に破れた清国は、列強国に成されるまま、「満州」は(清国の領土だが)「ロシアの思いのまま」にされ満州人、清国人、ロシア人などが住んでいた。 しかしそこは、豊富な地下資源、広大な農業用地、都市開発用地などが無限に広がる、日本にとっては、喉から手の出る〖宝の大地〗だった。
   日本軍は、辛勝とは言え〖強大国ロシアとの勝利〗で「国家存亡の危機」から救われると、勢いに乗って敗残兵を追い満州内部に侵攻し、更に「満州占領」にと突き進んだ。
 

(7)加藤友三郎(1861-1923)
 加藤友三郎は、東郷平八郎と共に、日清戦争、日露戦争を戦った後、「呉鎮守府司令長官」に就任した。 その後、 海軍大臣を歴任中(日本全権大使として) 「ワシントン軍縮会議」に臨んだ。

   ◆加藤友三郎と ワシントン軍縮会議 (1921)
  第一次世界大戦後、アメリカは、主要海軍国の建艦競争エスカレートを懸念して、軍縮案 =「五五三艦隊案」が提唱された。
 当時の日本は、満州侵攻や「八八艦隊計画」推進、国際連盟設立も消極的など、世界から
悪評を買っていた。 しかし加藤はそんな悪評に反して「軍縮提案」に積極的に「賛成」し、「アドミラル・ステイツマン」と称揚された。
  それについて、加藤は、
 強硬派の強い反発を圧して、『米国と戦争になれば、戦費は、10数年前に経験した日露戦争の比ではい、 しかもその債権を引受けてくれる国は米国を除いて無い。 依って米国を敵にまわすことは不可能だ。 「真の国防は外交により戦争を避けること」だ』と口述し、次の様な筆記を残している。
 国防は軍人の専有物にあらず。 戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。
 しからばその金は どこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。
 しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。
 
国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず

加藤友三郎 銅像
  ◆内閣総理大臣に就任
  こうして加藤は、日本の「好戦的と言う悪評」を払拭して、翌年、内閣総理大臣(兼海軍大臣)に就任した。
 しかし僅か1年で病没した。
   
その後、加藤の本意は如何に処遇されたでしょう・・・?
 結果として加藤の没後、下表(最下欄)の通り、数年後には「張作霖爆殺事件」、10年後には「満州事変」、その数年後には「日中戦争」、更に 10 年後には、遂に日米開戦」と、 加藤の危惧した通 りの道を邁進した
 
  
◆加藤友三郎の主な軍歴と、加藤没後の戦況
年   出来事  功  績
1894-95
 日清戦争 巡洋艦「吉野」の砲術長として「定遠」「鎮遠」を相手に活躍
1904-05
 日露戦争 東郷平八郎(連合艦隊司令長官)、加藤友三郎(参謀長)、秋 山真之(参謀)らは敵弾雨霰する「三笠」艦橋で兵士を鼓舞
 1909~   呉鎮守府司令長官に就任
1913~     寺内・原・高橋 3代内閣で海軍大臣を歴任した
1914-18   第一次世界大戦  
1921  ワシントン軍縮会議 日本全権代表として派遣 
 1922-23   内閣総理大臣 (海軍大臣兼務)
加藤没後
の戦況 
 1928 張作霖爆殺事件、 1931 満州事変、 1933 国際連盟脱退、
    1937 日中戦争、 1941 日米開戦(太平洋戦争)


   (8) 張作霖爆殺事件~満州事変~日中戦争
   日露戦争当時、満州は、清国(後の中国)領土で張作霖(軍閥)が統治していた。
 しかし張作霖は、ロシアの支援を受け、ロシアは旅順まで鉄道を敷設、堅固な要塞を建設し「半植民地状態」になっていた。 そこに「日本軍」が侵攻すると、ロシアに代って「理想国家(王道楽土)」建設に着手した。
  しかしそれから 20数年経ると 満州をとりまく状況は変わっていた。 
  つまり、満州は、ロシア人も大勢住んでいたが、元々、清国(後に中国)領土である。
  ◆しかし日本(関東軍)は、「満州」に巨費を投じて、「理想国家(王道楽土)」建設を進め、
   満州占領(傀儡国化)を目指していた。
  ◆新制中国(蒋介石政府)は、(清国滅亡後)内部体制を整え、勢力強化して「中国全土
   (満州も含む)統治」を目指し、張作霖殲滅軍(満州奪還軍)を派遣した。
  ◆しかし「張作霖軍」は(満州をベースに)勢力を強化し、ソ連や欧米にも接近する動きを見せ
   ていた。
 そんな3者間の事情で、張作霖爆殺事件」(1929)が起こった。
 中国政府(蒋介石軍)が、張作霖軍閥討伐軍(北伐軍)」を派遣すると、(関東軍は)蒋介石軍との戦闘を避け、(張作霖の乗る)列車を爆破(爆殺)して「満州統治権」を奪取した。

  しかしそれは、満州全土に 「反日・抗日の嵐」を巻き起こし、関東軍は武力制圧するも「嫌日事件」は益々激しくなり、以後、次の様に日中間の戦闘に拡大・激化していった。
 
 ◆ 「満州事変(1931)~満州国樹立(1932)」
 そこで、関東軍(石原莞爾)は「南満州鉄道爆破」を自作自演した(=
柳条湖事件)。 つまり、 故意に鉄道線路を爆破し、それを 『満州人の犯行だ !! 』と決めつけ、間髪入れず満州全土攻撃を断行し た。
  それは極めて短期間に「満州全土を占領する」驚異的な大成功を収めた。 そして(満州内の)法制度を仕立て上げ「
満州国独立」を宣言した(1932)。 しかし「満州国」は、世界のどの国にも承認されず、「反日・抗日の嵐」は、中国全土に拡大・激化し、居留邦人の生命保護の為、関東軍は 片時も攻勢を弛められなくなった。

  ◆「盧溝橋事件(1937)~日中戦争(1937)」
 そんな緊迫状況下、事件は北京郊外で日本軍の演習中に起った。
 その収拾に、 石原莞爾は「大東亜共栄圏構想」(日・中・朝・満・蒙 の「五族協和構想」)を唱え、 事件を拡大させない様「戦争不拡大」方針を主張した。 しかし東条英機らは「暴支膺懲論(=中国全土を徹底的に殲滅すべし)」を主張し(石原と)真っ向うから対立した。 しかし結局、東条らに押し切られ、石原は下野した。
 こうして日本内地から、陸軍師団や、海軍も呉鎮守府な どから「陸戦隊や海兵隊」が編成され、「上海事変」を皮切りに、本格的な中国全土攻略(日中戦争)に拡大していった。
 それに対し、中国(蒋介石)政府は「満州占領や中国侵攻の国際法違法」を訴え、米英も中国利権の侵害から・・・武器支援を続けた。 その為 (日本軍は)局地戦に幾ら勝利しても疲弊が嵩み「泥沼状態」に嵌った。


 (9)満州の国家建設と、呉界隈の賑わい
 こうして満州事変~日中戦争へと戦線が拡大していく間も、満州では超近代的な「国家建設」を着々と進めていた。
 つまり道路、鉄道、諸々の役所施設、デパート、ホテル、・・・農地開拓など、あらゆる施設が建設され、奉天・新京・大連などは、世界が羨む超近代的都市に生れ変わり、商工業や農産業、金融、教育、警察等々の諸制度も充実していた。
 それには、内地業者や、満蒙開拓団など大勢の移民や、”呉”からも、千福酒造や土建関連業者などが参加し大いに潤っていた。

新京 大同大街「康徳会館」


奉天 「大和ホテル」
 
   それは ”軍都”呉市内も、電気・ガス・水道などがいち早く繋がり、広島~呉の鉄道も、市電も開業し、中通りなど盛り場にはモダンな喫茶店やレストラン、ビリヤードなどが建ち並び商売を営む人、工事する人、完成した海軍工廠で働く人、軍役人や兵士、及びその家族・・・などで、呉界隈の賑わいは格別だった・・・。
   凱旋帰国する艦隊などの出入港時は、料亭や朝日遊楽街、カフェ、喫茶店や花街、映画館など・・・沸きにわき、「景気は呉から~」と、昭和10年(1935)開催の「国防と産業大博覧会」は2ヵ月足らずの入場者70万人という盛況だったという。
 その勢いは、更に、世界最大戦艦「大和」建造→真珠湾攻撃へと引継がれていった。
 
(10)太平洋戦争へのレール
 しかし米英の参加により日中戦争が泥沼化し、日本の孤立化がいよいよ深刻化すると、外交は、中国大陸から撤兵や東南アジアから撤退(=満州国返還も迫られる)が条件で、到底応じられなかった。
 そうしてアメリカから石油禁輸制裁が課せられると、それを東南アジアに求めて 「南方作戦」を開始し、厳しい財政難から大枚をはたいて “戦艦大和” 建造計画が浮上していた。  しかし時は「飛行機の時代」で、山本五十六らは計画中止を強く訴えたが、大きな歯車は止め様も なかった。
  これまでの戦場は、全て朝鮮半島や中国大陸で、戦場経験のない内地国民には「戦場の残酷さや敗戦の悲劇など」は、厳 しい検閲を通して、如何に伝わっていただろう??
 日清、日露、満州事変、日中戦争へと・・・大本営発表 『連戦連勝の報』に全国民は勝利を盲信していた。
  こうして南方侵出も、「戦艦大和」の建造も、日独伊三国同盟も、日ソ中立条約締結も、準備は着々と整 い・・・、陸軍将校や国民世論も対米戦争に向け、戦意は燃え盛っていた。
 しかしこの時、若し、“大和”建造を中止していたら・・・、
真珠湾攻撃を先送りできたとしても、対米戦争は回避されただろうか(?)
その場合、呉や日本の戦後発展はあっただろうか(?)  戦艦“大和” 建造で培った新技術や、貴重な経験は、戦後もしっかり引継がれ、 呉は重工業都市に、日本は世界第二位の経済大国に躍進した。



真珠湾攻撃
 (11)日米開戦(太平洋戦争)に突入
  ◆太平洋戦争に突入
 そして遂に(1941.12.8)、参加艦隊との無線信号;『ニイタカヤマノボレ』、 『トラトラトラ』の送受信と共に、柱島泊地には、連日夥しい数の艦船や輸送船団が堂々の雄姿見せて太平洋戦線に向かった。

  ◆ミッドウェー海戦(1942/6)
  しかし、それから約半年後、ミッドウェー作戦 は、米豪の連係を遮断し、ハワイの太平洋艦隊に壊滅的損害を与えて早期講和に導く・・・そんな発想から山本五十六司令長官が強行に主張した。 それは綿密に計画され、最精鋭空母艦と最強艦隊を投入して奇襲攻撃の筈だったが・・・。
    しかしアメリカ軍は、飛行機を補足するレーダーを実用化し、日本軍の暗号も解読して待ち伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突っ込み、最精鋭空母「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」=4隻と、多数の航空機や、優秀なパイロットも失う大敗北を喫した。

  ◆柱島泊地

柱島泊地周辺 
 その翌年(1943.6.8)、柱島泊地には、『大和』や『長門』など、太平洋戦線に向かう夥しい数の艦船団が集結していた。 所が、停泊中の戦艦『陸奥』が、突然謎の爆発事故を起して沈没した。
 『陸奥』は、「大和」建造まで我が国最大級の戦艦で、爆沈により乗員1,100人余が犠牲になった。
 当時【爆沈の事実隠ぺい】の為、乗組員(生存者=353人)は本土上陸を許されず、離島に隔離されて次の出征地(多くはアッツ島に向かい)玉砕したと聞いている。
  『陸奥』の艦体は、1971(昭和46年)までに一部が引き上げられ陸奥記念館(周防大島)に保存されている。 兵士たちの遺品は、当時の情景を考えながら見ていると異様な感慨に引き込まれる。

  ◆出征兵士たち
 江田島には海軍兵学校があり、呉には海兵団や陸戦隊も編成され、太平洋戦争終結まで、大勢の兵士たちが、現自衛隊集会所で家族と面会し戦地に出征した。
  それは陸軍も、広島に鎮台(後に第5師団)が置かれており、呉・宇品(広島)港からは、日清、日露、満州事変、日中戦争、太平洋戦争に、大勢の陸海軍兵士が出征していった。

  それも太平洋戦争初期までは、戦時と言うより凱旋帰還する艦船などで、呉界隈は大いに賑っていた。

  ◆戦況悪化 ~ 日本本土空襲

日本本土爆撃
  しかしミッドウェー海戦の大敗(1942-7)を境に、太平洋戦線は、「ガダルカナル ⇒ソロモン ⇒マリアナ・サイパン ⇒レイテ ⇒沖縄」と遠方の島々から順に陥落していった。
 それに伴い海軍兵学校は、各地に分校が開かれ大勢の学生が入学した。 しかし短期間で繰上げ卒業し神風特攻機に乗機した。
 江田島(現海上自衛隊術科学校)に遺されている、明日は命を失う大勢の若者たちの遺書に胸が詰まされる。
 しかし、一度始まった戦争に「出口」はなかった。
 極度の金属不足には、日用品雑貨まで回収され、コンクリート船も出現した。 南洋の島々は、遠方から順にサイパンまで陥落すると、敵機は日本本土まで往復が可能となり、爆撃が本格化した(1944年後半~)。
 こうして本土空襲に伴い、食糧不足、学童疎開等々・・・の傍らで、万歳三唱に武運長久を託して兵士たちの送り送られる光景が日常化していた。 
 憲兵の取締りは益々厳しく、市民も学徒も、食料難と空腹と栄養失調に悩まされながら、延々と防空訓練や勤労奉仕に忙殺されていた。
  それでも、呉湾や周辺海域には 消沈ムードをかき消す様に ”大和”など 健全な「大規模艦船群」が勢揃いした(1945.2~3頃)。
 人々はそれを雄壮と見たか? 悲壮と見たか?・・・、燃料不足で動けない戦艦群だった。 その中から ”大和”は最後の期待を背負って、沖縄に向け特攻出撃した)

 沖縄戦に続き、本土空襲も本格化すると、連日100機編隊の爆撃機が、1波、2波、・・・と飛来し、東京、大阪、名古屋など・・・主要200都市以上が完膚なく焼き尽された。 呉市街も跡形なく焼失し、海軍工廠は一部を遺して爆破された。 呉湾に勢揃いしていた艦船団も1隻残らず沈座する臥体と化した。
  そうして空襲は親にも子にも容赦なく家族や身寄りを奪い、遂には広島・長崎に原爆投下されて、ようやく戦争は終結した。
 しかし戦後も、身寄りのない孤児たちは路頭や駅構内に寝泊りし、酷い食糧難のさ中、行人や進駐軍の残飯を乞いながら、その後どの様に生き残れただろうか・・・?。

  ◆海軍遺構その後(アレイからす小島)
 しかし、そんな歴史を通して、日本は高度科学技術を培い、それは戦後、平和産業に利用され呉市一帯は有数な重工業地帯に、日本は世界第二位の経済大国まで驚異的発展に繋がった。
 しかし当時の構築物は、殆どが新しい工場群と入れ替わり・・・、それでも「アレイからす小島」にある、当時のレンガ造り建物や、300mにわたる《切石組み護岸》や、魚雷や弾丸の積出し桟橋 とトロッコレール、英国製クレーンなどの遺構には、そんな「日本近代化の歴史」がちりばめられている。
  目の前に停泊する現在の最新型護衛艦や潜水艦と見比べながら、歴史を懐古してみるのも一興である。■