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| このページは、 『私個人の歴史観』です。 フィクションや想像を混じえています。 |
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| *1 (1)日本海軍設置について |
![]() ペリー来航 |
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| そんな世界と向き合うには、 ①欧米の「最新文明や産業基盤を輸入」し、 ②「洋式海軍も創設」し《先進国の体》を成すこと が緊急課題として迫られ、次の様な方針が決定された。; |
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| そして次の様なことが実施に撃たされた。 | ||||
◇鉄道やダム建設、富岡製糸場など産業基盤の整備、艦船建造施設など、あらゆる産業の近代化に着手した。 ◇しかし食料も、資源も、資金も、労働力も乏しい日本は朝鮮 半島に侵出「日朝修好条規」を締結、徴用工など徴募した ◇海軍は、急ピッチで各鎮守府建設~開庁に漕ぎつけた。 具体的設置場所は、敵艦攻撃の防御や、艦艇の航行・停泊に適する地形、水深、交通、物資調達、兵員集めなどを総合的に考慮して、→①横須賀鎮守府は明治17年(1884)、②呉と③佐世保は明治19年(1886)、→④舞鶴は明治22年(1889)に設置が決定された。 |
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| *2 (2)呉鎮守府の建設 そこに町役人たちの請願が叶い、海軍鎮守府設置が決まると、亀山神社は移転し、軍用地に掛る住民の住居は移転を迫られ、漁場も制限され、灌漑用水も軍優先にされ・・・、住民はかなり圧迫された。 呉鎮守府は瀬戸内海の奥深くに位置し、敵艦による攻撃防御の有利性から、海軍機能上「最新、最大、最重要施設」が計画され、早くも数年後には、日本製第1号艦 ”宮古”の建造が始まった。 |
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| *3 (3)北洋艦隊「定遠」回航 そして横浜沖に停泊中には、皇族や大臣、陸海軍将校、新聞記者等の首脳人を招いてレセプションを催し、日本第一の巡洋艦(「浪速・高千穂」)の2倍もある新鋭艦の「威容さ」に圧倒された。 |
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| *4 (4)東郷平八郎(1848~1934)の略歴 ◆イギリス留学(1871-78) しかし英国に留学して人生が変わった。 英国では、英語、数学、理科など基礎を学んだ後、商船学校に入学した。 そこは船が校舎兼宿舎で、船上での実践授業では「学術優秀、品行方正、礼儀正しい」という一般評だった様だ。 卒業後、世界一周航海ではマストに上り、風の強さや方向、天気の変化、波の変化を即座に予測して操船する技術と共に、商船と雖も「戦い」に対する国際法や愛国心の重要さも学んだ。 ◆呉鎮守府在任中の東郷平八郎 =「北洋艦隊(清国軍)の来航」= しかし、『甲板は不潔で整理整頓されず、自慢の 26cm主砲には洗濯物が干してあるなど、「軍艦は強大堅固でも、乗務人員の訓練も実戦能力も未熟で、海軍将校や指揮官の指揮系統も不統一で、近代国家の軍隊とは言えない」』ことを東郷は見破っていた。 |
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| ◆ 東郷平八郎と、日清戦争(1894-95) しかし東郷が もっと 『世界の英雄』 として名を馳せたのは、その10年後に起こる日露戦争「日本海海戦」の快挙(後述)である。 |
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(7)加藤友三郎(1861-1923)
◆加藤友三郎と ワシントン軍縮会議 (1921) 当時の日本(日露戦争勝利後)は、満州への侵攻や、「八八艦隊計画」の推進、国際連盟設立にも消極的・・・など、軍拡一途の動きに、世界から悪評を買っていた。 しかし加藤はそんな悪評に反し「軍縮提案」に積極的に「賛成」し、「アドミラル・ステイツマン」と称揚された。 『米国と戦争になれば、戦費は、10数年前に経験した日露戦争の比ではない、 しかもその債権を引受けてくれる国は米国を除いて無い。 依って米国を敵にまわすことは不可能だ。 「真の国防は外交により戦争を避けることだ」』と口述し、次の様な筆記を残している。 |
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| ◆内閣総理大臣に就任 |
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| ◆加藤友三郎の主な軍歴と、加藤没後の戦況 | |||||||||||||||||||||||||||||
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| (8) 張作霖爆殺事件(1929) ~満州事変~日中戦争 つまり、満州は「ロシアの半植民地状態」になって、大勢のロシア人も住んでいた。 そこに日露戦争に勝利した「日本軍(関東軍)」が侵攻し、ロシアに代って「理想国家」建設に着手した。 |
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| しかしそれから 20年あまり後 「満州統治権」の争奪戦が始まっていた。 つまり、張作霖軍閥、及び(清国滅亡後)中国軍は、それぞれ軍事力を整え、日本(関東軍)と衝突する構図が生まれていた。 | ||
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| 「張作霖爆殺」動機については、(後付け理由は様々だが)将校たちは 「関東軍が「権威」を威武することによってのみ事態は鎮静化する」との思い込みからではないだろうか(?) しかし日本政府は追認せざるを得ず、昭和天皇回顧録は歯止めのない「軍部独断」の始まりと述懐されていた。 |
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| ◆ 「満州事変(1931)~満州国樹立(1932)」 それは極めて短期間に「満州全土を占領する」驚異的な大成功を収めた。 そして続けざま「満州の国家制度」を整備し、「満州国独立」の宣言をした(1932)。 しかし「満州国」の承認は、世界どの国からも得られず、日本は国際連盟を脱退した。 しかし「反日・抗日の嵐」は、更に中国全土にも拡大し、居留邦人の生命保護の為、関東軍は一刻も攻勢を弛められなくなった。 |
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| ◆「盧溝橋事件(1937)~日中戦争(1937)」 その収拾には、 石原莞爾は「大東亜共栄圏構想」(日・中・朝・満・蒙 の「五族協和」)を唱え、 事件を拡大しない「戦争不拡大」方針を主張した。 しかし東条英機らは、この際「中国を徹底的に殲滅すべし」と(暴支膺懲を)主張し、結局、石原は押し切られて、解任された。 |
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| しかし中国(蒋介石)政府は、「満州占領や、中国侵攻の国際法違法」を訴え、米英は中国に武器支援した。 その為 (日本軍は)局地戦に幾ら勝利しても疲弊が嵩む「泥沼状態」に嵌った。 |
| (9)満州の国家建設と、呉界隈の賑わい つまり道路、鉄道、商工業、諸々の役所施設、デパート、ホテル、・・・農地開拓など、あらゆる施設が建設され、奉天・新京・大連などは、世界が羨む超近代的都市に生れ変っていた。 それには内地業者や、満蒙開拓団など大勢の移民や、”呉”からも、千福酒造や土建関連業者なども参加し大いに潤っていた。 |
![]() 新京 大同大街「康徳会館」 ![]() 奉天 「大和ホテル」 |
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| 何しろ「満州」は、食料も各種資源も豊富で、「日本国存立」の生命線を確実に領有できた喜びに、日本国内は 国家をあげて祝賀ムードに包まれた |
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| 昭和10年(1935)開催の「国防と産業大博覧会」は、2ヵ月足らずの入場者70万人という盛況だったという。 |
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| *10 (10)太平洋戦争へのレール そうして、米国からの「石油禁輸制裁」には、それを東南アジアに求めて 「南方作戦」を開始し、時は「飛行機の時代」にも拘わらず、厳しい財政難から大枚をはたいて “戦艦大和”の建艦も進めた。 しかし、山本五十六らは建艦中止を強く訴え、昭和天皇も 開戦について厳しく憂慮されたが、大きな歯車は止まり様も なかった。 |
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| ◆ しかし、戦争を回避するには、どの時点で、どんな処策があっただろうか(?) 一人々々が考えて見ることが、大切だ。 (参考; |
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◆太平洋戦争に突入 ◆ミッドウェー海戦(1942/6) |
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| しかしアメリカ軍は、飛行機を補足するレーダーを実用化し、日本軍の暗号も解読して待ち伏せしていた。 連合艦隊はその包囲網に突っ込み、最精鋭空母「赤城、加賀、蒼龍、飛龍」4隻と、多数の航空機や、優秀なパイロットも失う大敗北を喫した。 ◆柱島泊地
「陸奥」は、「大和」建造まで我が国最大戦艦で、爆沈により乗員1,100人余が犠牲になった。 当時【爆沈の事実隠ぺい】の為、乗組員(生存者=353人)は本土上陸を許されず離島に隔離され、次の出征地(多くはトラック島)で玉砕したと聞いている。 『陸奥』の艦体は、1971(昭和46年)までに一部が引き上げられ陸奥記念館(周防大島)に保存されている。 兵士たちの遺品は、当時の情景を考えながら見ていると異様な感慨に引き込まれる。 ◆出征兵士たち それも太平洋戦争初期までは、戦時と言うより凱旋帰還する艦船などで、呉界隈は大いに賑っていた。 |
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| しかし戦争末期、戦況悪化に伴い海軍兵学校は、各地に分校が開かれ大勢の学生が入学した。 しかし短期間で繰上げ卒業し神風特攻機に乗機した。 江田島(現海上自衛隊術科学校)には、明日は命を失う大勢の若者たちの遺書に胸が詰まされる。 ◆戦況悪化 ~ 日本本土空襲
太平洋戦線は、「ガダルカナル ⇒ソロモン ⇒マリアナ・サイパン ⇒レイテ ⇒沖縄」と遠方から順に、サイパンやテニアンまでまで陥落すると、敵機(B-29)は、日本本土への往復爆撃が本格化した(1944年後半~)。 それに伴い食糧不足の深刻化、学童疎開も始まり・・・その傍ら、万歳三唱に武運長久を託して送られる兵士たちの姿が日常化していた。 憲兵の取締りは益々厳しく、市民も学徒も、空腹と栄養失調に悩まされながら、防空訓練や勤労奉仕に忙殺されていた。 |
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| 沖縄戦に続き、本土空襲も本格化すると、連日100機編隊の爆撃機が、1波、2波、・・・と飛来し、東京、大阪、名古屋など・・・主要200都市以上が完膚なく焼き尽された。 呉市街も跡形なく焼失し、海軍工廠は一部を遺して爆破された。 呉湾に勢揃いしていた艦船団も1隻残らず沈座する臥体と化した。 空襲は親にも子にも容赦なく家族や身寄りを奪い、遂には広島・長崎に原爆投下されて、ようや終結した。 しかし戦後も、身寄りのない孤児たちは路頭や駅構内に寝泊りし、酷い食糧難のさ中、行人や進駐軍の残飯をあさりながら、その後どの様に生き残れただろうか・・・(?) |
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◆海軍遺構その後(アレイからす小島) しかし当時の構築物は、殆どが新しい工場群と入れ替わり・・・、それでも「アレイからす小島」にある、当時のレンガ造り建物や、300mにわたる《切石組み護岸》や、魚雷や弾丸の積出し桟橋 とトロッコレール、英国製クレーンなどの遺構には、そんな「日本近代化の歴史」がちりばめられている。 目の前に停泊する現在の最新型護衛艦や潜水艦と見比べながら、歴史を懐古してみるのも一興である。■ |
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