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◆ 庶民生活 |
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| 勿論、銀行制度などは整っている訳でもなく、一般庶民がお金を貯めて財を成すという時代でもないでしょう、稼いだお金は自由に楽しんでいたのではないでしょうか・・・(?)。
◆ 乙女座(芝居小屋) 現在の乙女座は昭和12年(1937年)、北前船の廃れた後、町の再興を目指して、当時として最高級のモダンな建物が建築されました。 内部は、芝居向けに『花道』や、舞台の床下には『奈落』が施され、2階部分には桟敷席が設けられています(観客定員 232名)。 当時は、地元の演芸会や、芝居、大道芸の興業など、舞台役者と観客が 相い和して盛り上がったことでしょう。 ◆ 神社とお寺 *3a ◇天満宮 天満宮では学業成就を祈願しますが、ここは富くじ(宝くじ)の必勝祈願も御利益があったそうです。 御手洗という地名の由来は、@その昔神功皇后が、三韓征伐の時 船を繋ぎ、手を洗い口をすすいで天神地祇(てんじんちぎ)に勝利を祈ったとか・・・、またはA菅原道真が、暑い夏に左遷され太宰府に流される途中、風待ちの為上陸しシャクで地面を掘り、冷たい湧き水(境内にある『菅公の井戸』)で手を洗ったとか言われていますが、何れにしても山からの地下水脈に因んだ名称ではないかと思います。 ◇大東寺の楠と欄間 迦陵頻伽(極楽にいる想像上の鳥足の天人)の左右の雌雄(阿吽)の飛龍は、浄土真宗では 阿は;生まれた喜びを表し、吽は;死を表す、 つまり生れて死ぬまで一生をふり返り、嫌なことを洗い流し、浄土へお参り下さいと言うことだそうです。 |
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その後昭和17年(1942)に、町内のお寺と合併し、大東亜共栄圏にちなんで【大東寺】と名付けられました。 天井は浄土真宗の紋「下がり藤」になっていますが、元々は寄進者の名前を書いた「花札の短冊」が鮮やかに描かれていて、その中には遊女の名前も数多くあったそうです。 ◇恵比須神社 また本殿横の小さな祠に祀られている石は、県道工事の際、海に何回投げても元に戻ってきたことから、若返りの御利益があるとされています。 |
| 4.全盛期の御手洗(1800年〜1890年頃) | |||||||
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◆ 柴屋と『御手洗測量絵図』 *4a ◇旧柴屋住宅
◇伊能忠敬と測量図
しかしその他の測量絵図は、幕末の江戸火災で焼失した為、これは測量の様子を知る唯一の絵図です。 日本地図の内陸部は、空白部分がありますが、海岸線はくまなく測量されています。 左図は伊能の測量図400数十枚を並べた縮小図ですが、原図全体は体育館に並べるぐらいの大きさです。 大体半年間は現地で測量し、残りの半年は地図作成・・・と、約20年で仕上げたものですが、電車もバスも、道路もない山野や海岸をどの様にして移動し、無線機も電話も使用せず、どの様にして測量し、地図作成したのか(?)、大変な労苦が覗われます。 伊能忠敬没後は弟子の間宮林蔵が引継ぎ、樺太まで測量図を完成させました。 |
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![]() (御手洗測量絵図) |
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◆ 千砂子波止、住吉神社、及び 高燈籠 *4b |
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◇ 千砂子波止しかし港入口は岩礁の難所だったので、千砂波止は海難防止の為、幕府の指示で広島藩が、文政12年(1829)難工事の末、完成させました。 それが、現在まで約200年間、修理も全くされないで、原形のまま保持されています。 波止の付け根には、港が千年も万年も耐え栄え続ける様にと、「鶴と亀」が刻まれた石がハメ込まれています。 |
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◇ 住吉神社 県指定重要文化財 平成8年 鴻池は広島藩の蔵本だったこともあり、この商権を掌握しようと、千砂子波止の築港に合わせ、港の守護神である住吉神社を寄進しました(1829)。 御手洗の経済規模が、大変大きかったことが窺えます。 売られて来た身の行く末を案じ、唯一拠り所が神仏にすがることだったのでしよう。 |
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◇ 高燈籠 高さ6.18mで、当時の反映ぶりを伝える証です。 小さい燈籠は当時121基あったと言うことなので、参道沿いにずっと並んでいたのでしょう。 |
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| ◆ 七卿落ち遺跡 (庄屋;竹原屋 多田家屋敷跡県指定史跡 S15) それは幕府擁護派(=佐幕派)の;薩摩藩、桑名藩、会津藩、新撰組など)と激しく対立し、皇家の軸である 孝明天皇は、妹「和宮」を徳川家茂に降嫁させるなど、『公武合体』を唱えて血気に逸る長州藩などの過激派を、京都から追放しました (1863年=文久3年)。 |
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| しかし《長州藩》は、それを許せず、翌(1864年)再度、陣営を立て直して京都御所に乗り込みました。 過激派公卿;三条実実ら七卿は、それに成功した後、京都に入城しようと多度津で待機していました。 所が、京都御所には、【幕府派】の会津藩、薩摩藩、新撰組などが守備しており、戦闘(蛤御門の変)になり、長州藩は完敗、その煽りで京都の街が焼き払われました。 |
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| それは多度津で待機していた七卿たちも《逆賊》とされ、急いで逃げ帰らねばなりません。 その為、急遽、鞆の浦を経由して御手洗に寄港し庄屋竹原屋(多田家)に滞在(匿まわれ)しました。 しかし翌日上関から使いが来て、『他国での滞在は宜しくない』と進言され直ちに長州へ向かいました。 その歴史背景から 『七卿落ち遺跡』として昭和15年に指定史跡にされています。 ◆ 星野文平(尊王攘夷派)の碑 それでも「尊王攘夷」の情熱は褪めず、切腹を企てたがそれも同僚に止められ悶々の日々を送っていました。 その内ようやく藩も許可を与え、京都で高杉晋作らと倒幕運動に活躍したと伝えられています。 しかし京都で、勝海舟が来ていることを知り、幕府の蒸気船を 広島藩が買う交渉に行く途中、切腹の傷口が裂け死亡した。 時に29才だったが、生きていれば高杉晋作等と共に、名を残しただろうと言われています。 ◆ 金子邸と御手洗条約 ここは、倒幕の密約(御手洗条約)が締結された場所とされています。 つまり、幕末(1866)、長州藩(桂小五郎)と、薩摩藩(西郷隆盛)は、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により、結束し倒幕を画策しました(薩長同盟)。 |
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| そして1ヶ月後、「鳥羽伏見の戦い」は、 しばらく一進一退でしたが、西郷隆盛と岩倉具視は京都市内の織物問屋から錦旗を準備していました。 そして1月5日、薩長軍陣地に「錦の御旗」が翻ると戦況は一変し、徳川慶喜は江逃避(敗北)しました。 『御手洗条約』 については密約の為、はっきりしませんが、そんな作戦も話会われたのかも知れません。 |
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| ◆ 松浦時計店(新光時計店) *4c |
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| その他、大正時代のデジタル時計や、歴史が感じられる珍しい時計も陳列されています。 店主は、時計修理は、依頼者にとって貴重な記念時計や、形見の時計など愛着のある時計に息を吹き返らせ、『時計の向こう側で
『喜ぶ依頼者の顔』 に情熱を注いでおられます。 |
![]() 新光時計店 |
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◆ 鞆田邸 昭和11年(1936)には野口雨情と藤井清水が宿泊して『御手洗節』(後述)が作られました。 |
![]() 鞆田邸別館 |
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| ◆江戸みなとまち展示館 江戸みなとまち展示館には、そんな江戸、明治、大正、昭和の全貌が展示されています。 できれば、もう一度ゆっくりと歴史を見て戴きたいと思います。 |
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| 5.御手洗の衰退と現状、並びに歴史総括 *5 ◆ 御手洗の衰退と現状 ◇その間の動きとしては |
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◇ 『簾に一輪挿し』を飾る活動 この町一帯は、平成6年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのを機に、美しい歴史風土100選の町に相応しく、各家ごと『簾に一輪挿し』を飾る活動が続けられています。 来訪されるお客様に ”おもてなし”の心が伝わる様に、既に 20年余り 地元婦人部の皆様が続けています。 御手洗を訪れる方は、そんな所も気をつけて、街の雰囲気を味わって戴きたいものです。 E■ |
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☆☆☆ 北前船の集まる港町 御手洗 ☆☆☆
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