このページは、『個人的な想像等を含めて ”歴史”を考える』のが目的です。
あくまで私個人の歴史観なので、真相判断は読者側で願います。


江戸時代の港町”御手洗”の歴史観
☆☆☆ 北前船の集まる港町 ☆☆☆

 1.御手洗の歴史背景 (北前船と港町風景)
 2.御手洗の街並みと色町の情景
 3.庶民生活、神社仏閣
 ◆4.全盛期の御手洗(1800年〜1890年頃)
 ◆5.御手洗の衰退と現状、並びに歴史総括
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   3.庶民生活、神社仏閣

庶民生活
 時代を風靡した豪商人や富豪、寄港役人や大名・文人墨客、北前船の船頭などがもたらす色々な情報や文化、様々な出来事の狭間で、町民たちはどんな生活をしていたか?・・・庶民については殆ど語られていません。 私も研究者でなくても想像することは興味が湧きます。
 御手洗は、全住民が庶民(農工商)なので身分制度はそんなに厳格でないでしょう。 庶民は政りごとに係わらなくても、物資も、教養・娯楽材料も豊富で、囲碁、将棋、芝居見物、生花などの趣味・娯楽も楽しんでいた様です。 ここでは俳句は盛んで、小林一茶と親交のあった栗田樗堂もこの地に身を埋めています。 富豪の墓には俳句が刻まれています。
 教育についても、商取引の盛んな港町では、庶民も早くから読み・書き・算盤の気運は高まっていた様です。 江戸時代には私塾・寺子屋などで儒学や和学、詩歌、作文などが指導されていたそうです。 明治維新後も新しい制度でかなり港町御手洗の教育レベルはかなり高かった様だと聞きました。 この街の繁栄と相まって文化的にも豊かな町人社会が展開していたのではないでしょうか・・・。 
  住民の殆どが被使用人(大工、船大工、職工、商人、遊女など)だとすれば、住居は 住込みか、または長屋で、共同トイレ、共同炊事、新婚所帯も含め薄い壁またはフスマ一つで仕切られた住まいが江戸時代の一般スタイルだったと聞いています。 皆で協力し合い、和気あいあいと平和に生活している様子を想像したいものです。
勿論、銀行制度などが整っている訳でもないし、一般町民がお金を貯めて財を成すという時代でもないでしょう、稼いだお金は自由に楽しんでいたのではないでしょうか・・・。


 ◆ 乙女座(芝居小屋)
 江戸時代は 戦(いくさ)がなくなり、庶民生活は非常に豊かになります。 御手洗はもう繁華な街になっていて1748年に芝居興行の免許を得て、人形芝居や、上方歌舞伎が催され、大道芸人も来訪して興業していた様です。 当時の芝居小屋がどの様だったか分かりませんが、芝居の方も結構繁盛していたのでしょう。
 現在の乙女座は昭和12年(1927年)に、当時としては最高級にモダンな建物が建築(立替え?)されました。 町興しの意味もあって内部は、芝居向けに『花道』や、舞台の床下に『奈落』が施され、2階部分には桟敷席が設けられています(観客定員 232名)。
 その当時は地元の演芸会や、芝居、大道芸の興業など、舞台役者と観客が 相い和し、盛り上がったことでしょう。
しかし間もなく戦争が始まったので、芝居小屋としては殆ど使用されず、戦後は映画館になりました。 当時上映された懐かしい映画ポスターやチラシが貼られています。
 しかしそれも昭和32年に廃業になり、空き家になっていたのを平成14年に復元したのが現在の建物です。 今は地元の文化祭や催しもの、社交場などに利用されています。


 ◆
神社とお寺

 ◇天満宮
 1755年満舟寺境内の三社堂に創建されました。 但し、現在の場所には1874年(明治4年)に移されました。
現在の社殿は、その後 1917年(大正6年)に町民の寄進により再建されたものです。
天満宮は学問の神様、学業成就の祈願をしますが、ここは富くじ(宝くじ)の必勝祈願にも御利益があった様です。
 そもそも御手洗の地名は、その昔神功皇后が、三韓征伐の時 船を繋がれて、手を洗い口をすすぎ天神ちぎ地祇に勝利を祈った所としてつけられたと言われています。 境内の中にある『菅公の井戸』は、菅原道真が、暑い夏に左遷され太宰府に流される途中で風待ちの為上陸し、この場所でシャクで地面を掘り、冷たい湧き水で手を洗ったという由緒もあります。 山からの地下水脈に因んでついた地名だろうと思います。

 ◇満舟寺の石垣
 ここは平清盛が安芸の神だった時、上洛の途中で嵐に遭い船が転覆しそうになって立ち寄った。 身を清め一心に念仏を唱えたところ嵐は治まったので、早速観音堂を建てたという、げんの好い所です。
 後には小早川水軍の領地となり、豊臣秀吉の四国(河野氏)攻略には前線基地に使われました。 石段を挟んで
右側の石垣は『乱れ築き』といって、その際に加藤清正が築いた伝えられています。
左側の石垣は『布目築き』で江戸時代に別途築かれたもので、お城の石垣の様な石組みになっています。
 境内には、芭蕉の句碑と、俳人栗田樗堂の結んだ庵と墓があります。


満舟寺の石垣
 ◇俳人栗田樗堂と、芭蕉の句碑
満舟寺の境内には、芭蕉の句碑と、俳人栗田樗堂の墓があります。
 *
栗田樗堂は松山の人ですが、1802年御手洗に住み、1814年没するまで、ここに庵を結んでいました。
  樗堂は小林一茶より14才年上で、当時の俳人番付も一茶より上にランクされていたが、両者には温かい交流があったとのことです。 一茶は、樗堂の心遣いに感動し松山に2度訪れ、二人の友情は樗堂がなくなるまで続き、一茶の作風には(樗堂の)影響が大きいと言われています。
 *満舟寺には『誰彼塚』(たそがれづか)と呼ぶ《
芭蕉の句碑》があります。 芭蕉はその約100年前の俳人ですが、先師芭蕉を忍んで当時(百回忌の時)この町の俳人たちが建立したものです。 碑には、『海くれて鴨の声ほのかに白し』という有名な句が彫られています。

 ◇大東寺の楠と欄間
 始祖は登光寺と称し、享保年間(1720年代)に創建されました。 現在の建家は江戸時代末期のものと見られ、寺宝は御本尊と欄間です。 欄間は安政3年(1856)京都の仏師柴田吉之丞が精魂込め彫った一本彫りで、木目を生かす為、金箔や色彩などは一切施されていません。
 迦陵頻伽(極楽にいる想像上の鳥足の天人)の左右の雌雄(阿吽)の飛龍は、浄土真宗では 
    阿は;生まれた喜びを表し、吽は;死を表す、
つまり生まれて死ぬまで一生をふり返り、いやなことを洗い流し、浄土へお参り下さいと言うことだそうです。
境内にある楠は樹齢350年と言われています。
 その後昭和17年に、町内のお寺と合併し、大東亜共栄圏にちなんで【大東寺】と名付けられました。
最近(平成2年に大修理が行われ)張り替えられた天井には、寄進者名が見つかり遊女の名前も数多くあったそうです。


 ◇恵比須神社
 ご神体は1740年豊前小倉から移してきたと伝えられ、現在の社殿は 1764年に改築されたものです。  商売の神様が祀られています。
現在本殿と鳥居を繋ぐ参道が、県道で分断されましたが、鳥居を抱いて好きな人を呼ぶと、縁結びの御利益があると人気になっています。
また本殿横の小さな祠に祀られている石は、県道工事の際、海に何回投げても元に戻ってきた石で、そのことから、若返りの御利益があるとされています。


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   4.全盛期の御手洗(1800年〜1890年頃)


柴屋と『御手洗測量絵図』 

   ◇旧柴屋住宅
 柴屋は、代々、町年寄り(庄屋)役を務めた高橋家の屋号です。 所有者は何回か変遷していますが建家は築約230年とされています。 ここは1806年、伊能忠敬が、測量のため来島した時に宿泊したことで知られています。

   ◇伊能忠敬と測量図
 
伊能忠敬は千葉県香取の出身ですが、伊能家(佐倉市)に養子として迎えられ、家業を立派に務めた後、50才から隠居の身になると趣味の道、即ち造詣の深い天文学などを活かして日本

伊能図
全国の測量に邁進しました。 それは幕府の要請もあり町役人や町民の協力もあった様ですが、測量の様子を描いた絵図が残されています。
『御手洗測量絵図』は 測量の様子を絵師に描かせたもの(展示はコピー)ですが、その他(全国)の絵図は、幕末江戸火災で失っているので、これは第一級の歴史資料です。

 日本地図は、内陸部には白地図部分もありますが、海岸はくまなく測量されています。 これは測量図400数十枚を繋いだ縮小図ですが、縮小前の原図は体育館に並べるぐらいの大きさです。 
 大体半年間は現地で測量し、半年は地図作成に当たって、約20年で仕上げたと言われていますが、当時、電車もバスも、無線も電話も、道路もない山野や海岸を、実際にどの様にして移動し、測量し、地図作成したのか興味が湧きます。
(↓測量絵図) 
 
   


千砂子波止、住吉神社、及び 高燈籠

   ◇ 千砂子波止
 こうして御手洗には、北前船と共に、仲買商人や、沢山の船が集まる様になりました。
御手洗港入口の千砂子は岩礁の難所で、海難防止の為、幕府の指示で広島藩が築いた防波堤です。 文政12年(1829)難工事の末、完成しました。
 石造りの波止場としては、当時日本一、『中国無双』の大波止として、全国に知れわたりました。 重機などを使わず人力で、これだけの石材を運び、海中に築きあげることを想像して下さい。
波止の付け根には、港が千年も万年も耐え栄え続ける様にと、鶴と亀が刻まれています。


  ◇ 住吉神社    県指定重文 平成8年
 この頃は御手洗港の全盛時代で、北前船の寄港で莫大な物資が集積する巨大な経済圏になりました。 これに目をつけたのが大坂商人の鴻池です。
 鴻池は広島藩の蔵本だったこともあり、この商権を掌握しようとして、千砂子波止の築港に合わせ港の守護神である住吉神社を寄進しました(1829)。
 御手洗の経済規模が如何に大きかったかが伺えます。
 玉垣には寄進者名が彫られていますが、その中には多数の遊女の源氏名があります。 売られて来た身の行く末を案じて神仏にすがることが、唯一よりどころだったのでしよう。
 
*この神社は大阪の住吉神社から分社されました。
*本殿; 寸法は、大阪 堺の住吉神社本殿の1/2、
      堺で木造して、御手洗で組み立てた、住吉作り、檜皮葺き、
 ※檜皮葺きは;日本古来の神社仏閣に用いられている。檜の皮で葺くと50年もつと言われ、屋根の照り(凹凸曲面)や軒先の反りなどを自由に形造ることができる。 檜皮の色調の雅さが自然環境に調和し、芸術的な屋根の葺き方である。 しかし、檜皮が入手困難で非常に高価なこと、非耐火性で、施工技術者が少ないことで、現在、檜皮葺きの神社は少ない。

 *太鼓橋; 元は木造、明治43(1910)年、伊予今治から石工を呼び寄せ石造りに改修。
 *鳥居; 文政13年(1830)大阪和島屋寄進、大正2年改修。

 
   ◇ 高燈籠
 この高燈籠は、千砂子波止,、住吉神社の建立と同時期の、天保3年(1832)設置、当地の庄屋 金子忠左右衛門の寄進によるもので、灯台の役目を果たしてきました。 高さ6.18mで、当時の反映ぶりを伝える証です。
 小さい燈籠は当時121基あったと言うことなので、参道沿いにずっと並んでいたのでしょう。 
松浦時計店(新光時計店)
 創業は明治初期という、日本では一番古い時計屋さんです。
現在は、4代目の店主が跡を継いで営業されています。
初代が、家一軒売って購入したという、 1871年 アンソニアン(アメリカ)製の柱時計は、今まで140年間ず〜っと動き続けています。
 その他、大正時代のデジタル時計や、歴史の感じられる珍しい時計なども陳列されています。 店主は、時計修理と言っても、記念の時計、高額な時計、形見の時計など依頼者にとって愛着のある時計に息を吹き返らせ、『その時計の向こう側には喜ぶ依頼者がいるのが一番楽しみ』 と言って情熱を注いでおられます。
 しかしそれには職人としての腕は勿論、何十年も前の細かい部品もきちんと揃えていて、また部品一つを入手する為に、場合によっては外国まで探し廻ることも必要です。 創業以来、『商売=三方良し』 (お客様、自分、社会にとって全てに良し)という原則をずっと貫いてきた商売の気骨が感じられます。


七卿落ち遺跡 (庄屋;竹原屋 多田家屋敷跡県指定史跡 S15)
 幕末の政変時、『
尊皇攘夷論』を貫き血気に逸る長州藩と討幕派の公卿(三条実実、三条西季知ら)は、幕府を擁護して『開国』 に走る薩摩藩、桑名藩、会津藩と対立し京都から追放されました (1863年=文久3年)。
 しかし、皇家の軸である
孝明天皇が長州藩の過激主義に疑いをもち『公武合体』を唱えるのは許せなかった。 翌(1864年)、長州藩は再度、陣営を整え孝明天皇に直訴しようとして京都御所に乗り込みました。 三条実実ら七卿は、それに成功した後、京都に入城しようとして多度津で待機していました。
 所が、京都御所には、【幕府派】の会津藩、薩摩藩、新撰組などが守備しており、蛤御門で正面衝突し(=
蛤御門の変)長州藩は完敗しました。 その煽りで京都の街を焼き払われました。
 それは長州藩や多度津で待機していた七卿たちは《逆賊》となり、長州に引き返さねばならなくなりました。 そして 鞆及び御手洗に寄港し、御手洗では庄屋竹原屋(多田家)に滞在(匿まわれ)しました。 しかし翌日上関から使いが来て、『他国での滞在は宜しくない』と進言され直ちに長州へ向かいました。
 それにより 『七卿落ち遺跡』として昭和15年に指定史跡にされています。


星野文平の碑
 文平は幕末・御手洗の医師の子息だった。
江戸で昌平校で学び、広島藩の学問所の教師になったが尊皇攘夷運動に惹かれ、脱藩して奔走しようとしたが、それが藩に知れ引き留められました。
 それでも情熱はさめず、切腹を企てたがこれも同僚に止められ悶々の日々を送っていました。
そのうち、ようやく藩も許可を与え、京都に上り、高杉晋作らと倒幕運動に活躍したと伝えられています。
しかし京都で、勝海舟が来ていることを知り、幕府から広島藩の蒸気船を買う交渉に行く途中、切腹の傷口が裂けて遂に没しました。 時に、29才であったが、もし生きていれば高杉晋作等と共に、世に名を残しただろうと言われています。


金子邸と御手洗条約
 (金子邸)は元庄屋屋敷で、1804年接客用に建てられたが、現在は呉市に寄贈されています。 書院造りの座敷は茶室の要素を取り入れ、見事な庭園を擁しています。
 ここは、幕末、倒幕の密約(御手洗条約)が締結された場所とされています。
つまり、幕末(1866)、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により、長州藩(桂小五郎)と、薩摩藩(西郷隆盛)が手を結び(薩長同盟)倒幕の画策を初めました。 その時、芸州浅野藩も長州と結び、倒幕に向け出兵を決めました。
そして、倒幕の戦い『鳥羽伏見の戦い』に向け、長州藩( 騎兵隊ら1200人と7隻の軍艦)と芸州浅野藩は、ここ御手洗で合流し、戦いについて会談した(御手洗条約)後、京都に向かいました。
 但し、薩摩藩西郷隆盛らは、海路三田尻を経て直接京都入りしました。

 そして1ヶ月後、鳥羽伏見の戦いに臨みました。 戦局はしばらく一進一退でしたが、1月5日
錦の御旗が薩長軍陣地に翻えると戦況は一変しました。 西郷隆盛と岩倉具視は京都市内の織物問屋から錦旗を準備していた様です。 中間派大名には、天皇の権威はかなり高かったということでしょう。
 『御手洗条約』 の内容は密約の為はっきりしませんが、何れにしても兵員輸送とかそんな策戦についてでしょう。


鞆田邸
 幕末頃からの豪商(海産物、穀物問屋)の邸宅です。 
ナマコ壁、妻入り、塗り籠造り、向かいには大正末期に建てられた洋館(別邸)、奥にも中庭や別邸の痕跡も伺えます。  当時は、それに海側の一帯も含めて鞆田家の屋敷だったそうです。 日本全国からの物資と共に如何に大勢の商人や使用人などの出入りしていたことが伺えます。
昭和11年(1936)には野口雨情と藤井清水が来町し、ここに宿泊して『御手洗節』を作りました。
  
大長みかん
 江戸時代には桃などが生産されていた様ですが、明治末期に、となり町の大長の農家が大分から苗木を購入したのを手始めに、耕作は周辺に広がり ”
大長みかん” として、現在でも国内に名を馳せています。 日当たり、水はけの良いこの地では『早稲みかん』が有名です。
 この当たり一帯の急斜面に、天に至るまで段々畑が拓かれ、5月中旬からはみかんの花の香りに包まれます。  11月下旬には蜜柑の黄金色に包まれます。 
 野口雨情は”御手洗節”の歌詞に 秋の夜長の蜜柑の頃は 島にゃ黄金の日が続く と謳っています。

 まだ果物が豊富でなかった時代、みかん農家の潤いは相当だったそうです。 各戸別に農船を所有し、耕作地を近くの島にまで広げました。 それは凄い急斜面の山の頂上まで耕し、農耕や収穫作業は、肥料や重いみかん箱を背負い、箱1日に1往復、少し下がった所は2往復が限度という重労働だったそうです。
 今は索道や農道も設けられ、みかんの島は、段々畑との風景ガードレールのコラボする風景に変容しています。
 ・・・が、しかしそれも最近では農民の平均年齢が70歳を超える、過疎の島のノスタルジックな風景は急速に雑木林に変わりつつあります。
 そんな事情も考えながら、是非、現地に足を運んで、時代の変遷を感じて戴きたいものです。


大長みかん畑の模型
(みかんメッセージ館蔵)

みかんの段々畑

農船(大長みかんメッセージ館蔵)


歴史のみえる丘
展望台から眺望
 
 ◆ 歴史の見える丘公園
 そんな歴史の全貌を、小高い丘から一望することが出来ます。 重要伝統的建造物群保存地区の選定されたのと併せ、今は【展望台】と【おいらん公園】が設置されています。

      【◇展望台】
 急傾斜の斜面にぎっしり植えられた『みかん』取り囲まれた丘のから、瀬戸内海でも島々が特に密集した
”海色の絶景”を見下ろせます。
東に しまなみ海道・来島海峡、南に 四国石鎚山〜松山方面、北には 芸予諸島の島越しに本州の竹原方面が遠望できます。
 かつては、下関〜大坂を結ぶ最短航路沿いにあって、然も島々に囲まれた波静かな入り江に、無数の北前船が停泊していた頃が偲ばれます。  眼下にはあまたの商人や、船頭や、町人たちに交じって、一際色彩やかに着飾った遊女たちの行き交う街並みから、三味や太鼓の音も聞こえて来る様な幻想に捕らわれます。

      【◇おいらん公園】
 10数年前、弁天社付近の急傾斜防止工事の際、古くは享保15年(1730年)頃からの遊女童子の墓が100基以上発掘されました。
 それは10歳そこそこで親元を離れ、(平均)二十歳そこそこでこの地に散り、いつの頃かからか土に埋もれ、大樹の根にからまれて眠ったままの遊女の墓でした。
 平成15年に人権思想啓発の一助にと、島の内外から多額の寄附の申し出があり、この地の土となった遊女を偲び、海の見える風光明媚な地を選定して、愛称 『おいらん公園』 に遊女供養碑が建立されました。

      三弦に 我を泣かせよ 秋の風 (樗堂)


◆江戸みなとまち展示館
 江戸時代、風待ち、潮待ちをする船で賑わい栄えた港町『御手洗』
 江戸みなとまち展示館には、そんな江戸、明治、大正、昭和の全貌が展示されています。
 できれば、もう一度ゆっくりと歴史を感じて戴きたいと思います。


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   5.御手洗の衰退と現状、並びに歴史総括

御手洗の衰退と現状
 大躍進した港町も、明治の後半になると、帆船から次第に機帆船に変わり、次第に衰退していきます。
しかし、港町としての余韻は、終戦後(昭和32年頃)までは続いていました。


 その間の動きとしては
@茶屋は、明治時代になると人身売買が禁止され、廃業になりました。
Aしかしそれとは別の置屋や売春宿は大衆相手に営業を続けていました。 巷間の話しでは、国策に沿って、九州炭坑から石炭運搬船(機帆船)等が寄港して利用していた様です。
B御手洗学園は(明治6年開校時=小学知新館、以後高等小学校、尋常小学校・・・何度も改称、改名しながら)、終戦まではしっかり学園の役割を果たしていました。
C天満宮の本殿は、大正3〜6年に再建されました。
D西洋文化は大正から昭和初にかけて庶民層まで浸透し、『洋館建て』や『モルタル建築』が多数建ち並びました。

E『御手洗節』 は、昭和11年(1936)に野口雨情と藤井清水が来町して作りました。
F当時の粋を集めたモダン劇場(乙女座)は、昭和12年に建築されました。
G しかし戦後は、衰退の一路を辿り、昭和33年売春防止法の制定で止めを刺され、外界から閉ざされた町になってしまいました。
Hその為、江戸時代からその時までの町並みが、封印されたまま保存されており、平成6年7月4日、国の
『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。
Iその後、平成17年 呉市と合併 ;御手洗の人口=149世帯200名弱(大崎下島=約2,600名)、更に、豊島大橋の開通で本土と陸続きになり、沢山の人が見学に訪れる様になりました。

  ◇御手洗節(野口雨情)

  1.
離れ島でも御手は港 軒の下まで船が着く
  2.別れつらさに観音崎みれば 夜明け頃やら ほのぼのと
  3.月の出頃か眺めの沖を 啼いて千鳥が通って来る
  4.けぼのすすきは穂に出ちゃ招く 招き船さえ岸に来る
  5.沖の船さえ一峰山を 指して港の中に入る
  6.島が邪魔する大島小島 恋し御手洗 島陰に
  7.来いというなら 観音崎の 潮は荒くも越してゆく
  8.向こう伊予路と手と手が届く 人目さえなきゃ袖も引く
  9.
秋の夜長の蜜柑の頃は 島にゃ黄金の日が続く
  10.見せてやりたや住吉様の 松は相生 離りゃせね

 







  ◆ 御手洗の歴史

寛文6年(1666) 御手洗の町造りが始まる。
寛文年間(1672)、河村瑞軒が『沖乗り』航路を整備
  以後、千石船などの発展に合わせ港町として開けていく。
享保9年(1724) 若胡屋が茶屋営業の許可を得る。
 
 1750頃〜 北前船全盛時代に入る。 
延享5年(1748) 芝居興行が始まる。
文化3年(1806) 伊能忠敬が御手洗の測量をする。
文政9年(1826) シーボルトが立ち寄る。
 
11〜12年(1828〜29)千砂波止が造られる。
 12〜13年(1829〜30)住吉神社が造られる。
嘉永6年(1853) 黒船来航
嘉永6年(1853) 吉田松陰が長崎行きの途中立ち寄る。
元治元年(1864) はまぐり御門の変、
          三条実美らが都落ちの途中宿泊する。
慶応3年(1867) 坂本龍馬が長崎行きの途中、寄港する。
慶応4年(1968) 鳥羽伏見の戦い
昭和33年(1958) 売春防止法が完全施行される。

『簾に一輪挿し』を飾る活動
平成6年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのを機に、美しい歴史風土100選の町として、通りには各家ごと、『簾に一輪挿し』を飾る活動が続けられています。 来訪されるお客さまには ”おもてなし”の心が伝わり非常に好評です。 これは平成6年から(20年余り)ずっと地元婦人部の皆さまの手で続けられています。
 御手洗を訪れる方は、そんな所も気をつけて、街の雰囲気を味わって戴きたいものです。 E■

                            


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