3.庶民生活、神社仏閣
|
時代を風靡する豪商人や、寄港する役人や大名・文人墨客、北前船の船頭などのもたらす情報や文化の狭間で、町民たちはどんな生活をしていたでしょう? |
|
◆ 庶民生活
御手洗は、全住民が庶民(武士以外)なので身分の上下はそれ程厳格ではないでしょう。 住民は政りごとに係わらなくても、物資も、教養・娯楽材料も豊富で、囲碁、将棋、芝居見物、生花など趣味・娯楽に楽しんでいた様です。 ここでは俳句が盛んだった様です。 富豪の墓にはよく俳句が刻まれています。 小林一茶と親交のあった栗田樗堂もこの地に身を埋めています、
|
教育も、商取引の盛んな港町では、早くから読み・書き・算盤には志が高かった様です。 江戸時代には私塾・寺子屋などで儒学や和学、詩歌、作文などの指導もされていたそうです。 明治維新後も街の繁栄に見合う豊かな教育・文化的社会が形成されていたのではないでしょうか・・・。
住民の殆どが被使用人(大工、船大工、職工、商人、遊女など)だったとすれば、住居は 住込みか、または長屋で、共同トイレ、共同炊事、新婚所帯も含め薄い壁またはフスマ一つで仕切られた住まいが江戸時代の一般スタイルと聞いています。 皆で和気あいあいと協力し合う豊かな生活を想像したいものです。
勿論、銀行制度などは整っている訳でもなく、一般庶民がお金を貯めて財を成すという時代でもないでしょう、稼いだお金は自由に楽しんでいたのではないでしょうか・・・。
◆ 乙女座(芝居小屋)
江戸時代は 戦(いくさ)がなくなり、庶民生活が安定し豊かさを享受する様になると、芝居興行の免許を得て、人形芝居や、上方歌舞伎が催され、大道芸人も来訪して興業していたそうです。 当時の状況は定かでありませんが、結構繁盛していたのではないでしょうか。
現在の乙女座は昭和12年(1937年)、北前船の廃れた後、町の再興を目指して、当時として最高級のモダンな建物が建築されました。 内部は、芝居向けに『花道』や、舞台の床下には『奈落』が施され、2階部分には桟敷席が設けられています(観客定員 232名)。 当時は、地元の演芸会や、芝居、大道芸の興業など、舞台役者と観客が 相い和して盛り上がったことでしょう。
しかし間もなく戦争が始まり、芝居小屋としては殆ど使用されないまま、戦後は映画館になりました。 当時上映された懐かしい映画ポスターやチラシが館内に残っています。 しかしそれも昭和32年に廃業し、空き家になっていたのを、平成14年に修理復元したのが現在の建物です。 今は地元の文化祭や催しもの、社交場などに利用されています。
◆ 神社とお寺 *3a
◇天満宮
元は、1755年満舟寺境内の三社堂に創建されました。 現在の場所には1874年(明治7年)に移されました。 現在の社殿は、その後 1917年(大正6年)に町民の寄進により再建されたものです。
天満宮は学業成就を祈願しますが、ここは富くじ(宝くじ)の必勝祈願も御利益があったそうです。
御手洗という地名の由来は、@その昔神功皇后が、三韓征伐の時 船を繋ぎ、手を洗い口をすすいで天神地祇(てんじんちぎ)に勝利を祈ったとか。またはA菅原道真が、暑い夏に左遷され太宰府に流される途中、風待ちの為上陸しシャクで地面を掘り、冷たい湧き水(境内にある『菅公の井戸』)で手を洗ったとか言われていますが、何れにしても山からの地下水脈に因んだ名称ではないかと思います。
◇満舟寺の石垣
ここは平清盛が安芸の神だった頃、上洛の途中で嵐に遭い船が転覆しそうになって立ち寄った。 身を清め一心に念仏を唱えると嵐は治まったので、早速観音堂を建てたという、げんの好い所です。
後には小早川水軍の領地となり、豊臣秀吉の四国(河野氏)攻略の前線基地として使われました。 石段を挟んで右側の石垣は『乱れ築き』といって、その際、加藤清正が築いた伝えられています。
左側の石垣は『布目築き』で江戸時代に築かれたもので、お城の石垣の様な石組みになっています。
|
満舟寺の石垣 |
◇俳人栗田樗堂と、芭蕉の句碑
満舟寺の境内には、芭蕉の句碑と、俳人栗田樗堂の墓があります。
*栗田樗堂は松山の人ですが、1802年御手洗に住み、1814年没するまで、ここに庵を結んでいました。
樗堂は小林一茶より14才年上で、当時の俳人番付も一茶より上にランクされていたが、両者には温かい友情があり、一茶は、樗堂の心遣いに感動して松山に2度訪れました。 2人の友情は樗堂がなくなるまで続き、一茶の作風には(樗堂の)影響が大きいと言われています。
*満舟寺には『誰彼塚』(たそがれづか)と呼ぶ《芭蕉の句碑》があります。 芭蕉はその約100年前の俳人ですが、先師芭蕉を忍んで当時(百回忌の時)この町の俳人たちが建立したものです。 碑には、『海くれて鴨の声ほのかに白し』という有名な句が彫られています。
|
|
◇大東寺の楠と欄間
始祖は登光寺と称し、享保年間(1720年代)に創建されました。 境内にある楠は樹齢350年と言われています。 現在の建家は江戸時代末期のものと見られ、寺宝は御本尊と欄間です。 欄間は安政3年(1856)京都の仏師柴田吉之丞が精魂込め彫った一本彫りで、木目を生かす為、金箔や色彩などは一切施されていません。
迦陵頻伽(極楽にいる想像上の鳥足の天人)の左右の雌雄(阿吽)の飛龍は、浄土真宗では
阿は;生まれた喜びを表し、吽は;死を表す、
つまり生れて死ぬまで一生をふり返り、嫌なことを洗い流し、浄土へお参り下さいと言うことだそうです。
その後昭和17年(1942)に、町内のお寺と合併し、大東亜共栄圏にちなんで【大東寺】と名付けられました。
天井は浄土真宗の紋「下がり藤」になっていますが、元々は寄進者の名前を書いた「花札の短冊」が鮮やかに描かれていて、その中には遊女の名前も数多くあったそうです。
◇恵比須神社
ご神体は1740年豊前小倉から移してきたと伝えられ、現在の社殿は 1764年に改築されたものです。 家運隆昌・商売繁盛の神様が祀られています。 現在本殿と鳥居を繋ぐ参道が、県道で分断されましたが、鳥居を抱いて好きな人を呼ぶと、縁結びの御利益があると人気になっています。
また本殿横の小さな祠に祀られている石は、県道工事の際、海に何回投げても元に戻ってきたことから、若返りの御利益があるとされています。
4.全盛期の御手洗(1800年〜1890年頃)
◆ 柴屋と『御手洗測量絵図』 *4a
◇旧柴屋住宅
柴屋は、代々、町年寄り(庄屋)役を務めた高橋家の屋号です。 所有者は何回か変遷していますが建家は築約230年とされています。 ここは1806年、伊能忠敬が、測量のため来島した時に宿泊したことで知られています。
◇伊能忠敬と測量図
伊能忠敬は千葉県香取の出身ですが、伊能家(佐倉市)に養子として迎えられ、家業を立派に務めた後、50才からは隠居の身で趣味の道、即ち天文学などを活かして日本全国
の測量に投じました。 それは幕府の要請を受け、各地の住民協力も得て、現地測量の様子が下の『御手洗測量絵図』に描かれています。
しかしこれ以外の測量絵図は、幕末の江戸火災で焼失しているので、これは非常に貴重な絵図です。
日本地図の内陸部は、空白部分がありますが、海岸線はくまなく測量されています。 左図は伊能の測量図400数十枚を並べた縮小図ですが、原図全体は体育館に並べるぐらいの大きさです。
大体半年間は現地で測量し、残りの半年は地図作成・・・と、約20年で仕上げたものですが、電車もバスも、無線も電話も、道路もない山野や海岸を、実際にどの様にして移動し、測量をし、地図作成したのか(?)大変な労苦に敬服されます。 伊能忠敬没後は弟子の間宮林蔵が樺太まで測量図を完成させました。
|
(御手洗測量絵図) |
◆ 千砂子波止、住吉神社、及び 高燈籠 *4b
◇ 千砂子波止
こうして御手洗には、北前船や各藩の廻船と共に、仲買商人や文人墨客など、沢山の船や人が集まる様になりました。
御手洗港入口は岩礁の難所であり、千砂子波止は海難防止の為、幕府の指示で広島藩が文政12年(1829)難工事の末、完成しました。
石造りの波止場としては、当時日本一無双の大波止として、全国に知れわたりました。 重機やコンクリートなども一切使用しせず、人力のみで、これだけの石材を運び、海中に築きあげることを想像して見て下さい。
それが、現在まで約200年間、修理なども全くされないで、原形のまま保持されています。 波止の付け根には、港が千年も万年も耐え栄え続ける様にと、鶴と亀が刻まれた石もハメ込まれています。
|
◇ 住吉神社 県指定重文 平成8年
この頃の御手洗港は、北前船の寄港で莫大な物資が集積する巨大な経済圏になっていました。 それに目をつけたのが大坂商人の鴻池です。
鴻池は広島藩の蔵本だったこともあり、この商権を掌握しようとして、千砂子波止の築港に合わせ港の守護神である住吉神社を寄進しました(1829)。 御手洗の経済規模が如何に大きかったかが窺えます。
玉垣には寄進者名が彫られていますが、その中には多数の遊女の源氏名があります。 売られて来た身の行く末を案じて神仏にすがることが、唯一よりどころだったのでしよう。
|
*この神社は大阪の住吉神社から分社されました。
*本殿; 寸法は、大阪 堺の住吉神社本殿の1/2、
堺で木造して、御手洗で組み立てた、住吉作り、檜皮葺き、
※檜皮葺きは;日本古来の神社仏閣に用いられている。檜の皮で葺くと50年もつと言われ、屋根の照り(凹凸曲面)や軒先の反りなどを自由に形造ることができる。 檜皮の色調の雅さが自然環境に調和し、芸術的な屋根の葺き方である。 しかし、檜皮が入手困難で非常に高価なこと、非耐火性で、施工技術者が少ないことで、現在、檜皮葺きの神社は少ない。
*太鼓橋; 元は木造、明治43(1910)年、伊予今治から石工を呼び寄せ石造りに改修。
*鳥居; 文政13年(1830)大阪和島屋寄進、大正2年改修。
|
|
◇ 高燈籠
この高燈籠は、千砂子波止と住吉神社の建立と同時期の、天保3年(1832)設置、当地の庄屋 金子忠左右衛門の寄進によるもので、灯台の役目を果たしてきました。 高さ6.18mで、当時の反映ぶりを伝える証です。 小さい燈籠は当時121基あったと言うことなので、参道沿いにずっと並んでいたのでしょう。
|
◆ 七卿落ち遺跡 (庄屋;竹原屋 多田家屋敷跡県指定史跡 S15)
幕末の政変時、長州藩は、過激派公卿(三条実実、三条西季知ら)と共に、尊王攘夷を唱え「倒幕運動」を興しました。 それは幕府擁護派(=佐幕派)の;薩摩藩、桑名藩、会津藩、新撰組など)と激しく対立していた。 しかし、皇家の軸である 孝明天皇は、『公武合体』を唱えて、妹「和宮」を徳川家茂へ降嫁させ、血気に逸る長州藩など過激派を忌み、京都から追放しました (1863年=文久3年)。
しかし《長州藩》は、それを許せず、翌(1864年)再度、陣営を立て直して京都御所に乗り込みました。 過激派公卿;三条実実ら七卿は、それに成功した後、京都に入城しようと多度津で待機していました。
所が、京都御所には、【幕府派】の会津藩、薩摩藩、新撰組などが守備し、蛤御門で戦闘になり(=蛤御門の変)長州藩は完敗し、その煽りで京都の街を焼き払われました。
それは、長州藩や多度津で待機していた七卿たちは《逆賊》とされ、長州に逃げ帰らねばなりません。
七卿たちは急遽、鞆の浦を経由して御手洗に寄港し、庄屋竹原屋(多田家)に滞在(匿まわれ)しました。 しかし翌日上関から使いが来て、『他国での滞在は宜しくない』と進言され直ちに長州へ向かいました。 それにより
『七卿落ち遺跡』として昭和15年に指定史跡にされています。
◆ 星野文平(尊王攘夷派)の碑
星野文平は幕末・御手洗の医師の子息でした。 江戸の昌平校で学び、広島藩の学問所の教師になりました。 しかし尊皇攘夷運動に惹かれ、脱藩しようとしたが藩に知れ、引き留められました。
それでも「尊王攘夷」の情熱は褪めず、切腹を企てたがそれも同僚に止められ悶々の日々を送っていました。 その内ようやく藩も許可を与え、京都で高杉晋作らと倒幕運動に活躍したと伝えられています。
しかし京都で、勝海舟が来ていることを知り、幕府の蒸気船を 広島藩が買う交渉に行く途中、切腹の傷口が裂け死亡した。 時に29才だったが、生きていれば高杉晋作等と共に、名を残しただろうと言われています。
◆ 金子邸と御手洗条約
(金子邸)は元庄屋屋敷で、1804年接客用に建てられたが、現在は呉市に寄贈されています。 書院造りの座敷は茶室の要素を取り入れ、見事な庭園を擁しています。
ここは、倒幕の密約(御手洗条約)が締結された場所とされています。
つまり、幕末(1866)、坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介により、長州藩(桂小五郎)と、薩摩藩(西郷隆盛)が手を結び(薩長同盟)倒幕を画策しました。 それには芸州浅野藩も、長州と結んで出兵を決めました。 そして幕府に止めを刺すべく(闘いの地)京に向かう途中、長州藩(
騎兵隊ら1200人と7隻の軍艦)と芸州浅野藩は合流し、ここ(金子邸)で会談をしました(御手洗条約)。
そして1ヶ月後、大政奉還に続く「鳥羽伏見の戦い」は、 しばらく一進一退でしたが、西郷隆盛と岩倉具視は京都市内の織物問屋から錦旗を準備していました。 1月5日薩長軍陣地に「錦の御旗」が翻ると戦況は一変し、徳川慶喜は逃避しました。 中間派大名は、天皇の権威に叛旗は翻せなかったということでしょう。
『御手洗条約』 の内容は、密約の為 分かりませんが、そんな話会いもあったかも知れません。
◆ 松浦時計店(新光時計店) *4c
創業は明治初期という、日本で一番古い時計屋さんです。 現在は、4代目の店主が跡を継いでいます。 店内には、初代が家一軒分の値段で購入したという、
1871年 アンソニアン(アメリカ)製の柱時計が、今まで140年間ず〜っと動き続けています。 |
その他、大正時代のデジタル時計や、歴史が感じられる珍しい時計なども陳列されています。 店主は、時計修理は、依頼者にとって貴重な記念時計や、形見の時計など愛着のある時計に息を吹き返らせ、『その時計の向こう側に喜ぶ依頼者の顔』
に情熱を注いでおられます。
それは職人としての腕は勿論、何十年も前の細かい部品もきちんと揃えていること、場合によっては、細かい部品一つ入手する為、外国まで探し廻ることも必要です。 それでも手に入らない(修理できない)場合、修理代金は請求できないと・・・、創業以来、商売は
『三方良し』 (お客様、自分、社会にとって全てに良し)という原則をずっと貫いてきた気骨が感じられます。
|
◆ 鞆田邸
幕末頃の豪商(海産物、穀物問屋)の邸宅です。 主屋はナマコ壁、妻入り、塗り籠造りで幕末の頃建てられました。 主屋の奥にも広い庭園や湯殿、離れ屋敷が渡り廊下で結ばれています。 向かいには大正末期に建てられた洋館(別邸)もあります。 当時は海側の一帯も含めて鞆田家の屋敷や店舗で、日本全国からの物資と共に如何に大勢の賓客や商人や使用人などが出入りしていたことが伺えます。
昭和11年(1936)には野口雨情と藤井清水が宿泊して『御手洗節』(後述)が作られました。
|
◆ 大長みかん
江戸時代には桃などが生産されていた様ですが、明治末期に大長の農家が大分県から苗木を購入したのを手始めに、耕作は周辺に広がり ”大長みかん” として、現在でも名を馳せています。 日当たり、水はけの良いこの地では『早稲みかん』が有名です。
この辺り一帯の急斜面は、山の頂きまで段々畑が拓け、5月中旬にはみかんの花の香りに包まれ、11月には蜜柑の黄金色に包まれます。
野口雨情は”御手洗節”の歌詞に「秋の夜長の蜜柑の頃は島にゃ黄金の日が続く」と謳っています。
まだ果物が豊富でない時代、みかん農家の潤いは相当だったそうです。 各戸別に農船を所有し、耕作地を近くの島まで広げました。 それは急斜面の山の頂上まで耕され、農耕や収穫作業は、肥料や重いみかん箱を背負い1日に1往復、低い所でも2往復が限度の重労働だったそうです。
今は索道や農道が設けられ、みかんの島は、段々畑とガードレールのコラボする風景に変貌しています。・・・しかしそれも最近では農民の平均年齢が70歳を超える過疎の島と化し、ノスタルジックな風景は急速に雑木林に変りつつあります。
|
*4h
大長みかん畑の模型
(みかんメッセージ館蔵)
みかんの段々畑
農船(大長みかんメッセージ館蔵)
*4i
歴史のみえる丘
展望台から眺望
おいらん公園
|
◆ 歴史の見える丘公園
御手洗の街並みは、「重要伝統的建造物群保存地区」の指定に合せ、小高い丘には【おいらん公園】と【展望台】とが設置され、瀬戸内海の絶景と共に、そんな歴史の全貌が眺められます。
【◇展望台】
急傾斜の斜面にぎっしり植えられた『みかん』取り囲まれた丘から、東に しまなみ海道・来島海峡、南に 四国石鎚山〜松山方面、北には 芸予諸島の島越しに本州の竹原方面と・・・瀬戸内海の中でも、特に島々の密集密度の高い
”海色の絶景” が遠望されます。
それは、かつて下関〜大坂を結ぶ最短航路沿いにあり、島々に囲まれた波静かな入り江に、無数の北前船の停泊する荘厳な風景や、その航行は如何に危険な業だったか・・・?ここから眺める航路で想像されます。
しかし船頭たちの業は夜通し続く花街の賑わいとなり、町中に立ち並ぶ幟り旗や豪商たちの豪気となり、それに数多の商人や町人たち、彩やかに着飾った遊女たちも意気投合し、三味の音や太鼓が鳴り響く・・・、そんな港町の面影が眼下に見下ろせます。
【◇おいらん公園】
10数年前、弁天社付近の崖崩れ防止工事を行った際、古くは享保15年(1730年)頃からの遊女の墓が100基以上発掘されました。
それは10歳そこそこで親元を離れ、(平均)二十歳そこそこでこの地に散り、いつ頃からか土に埋もれ、大樹の根にからまれたままの墓でした。
それは人権思想啓発の一助にと、島の内外から寄附の申し出があり、この地の土となった遊女を偲び、海の見える風光明媚な場所に、 『おいらん公園』 の愛称で、遊女供養碑が建立されました。
三弦に 我を泣かせよ 秋の風 (樗堂)
|
◆江戸みなとまち展示館
江戸時代、風待ち、潮待ちをする船で賑わい栄えた港町『御手洗』
江戸みなとまち展示館には、そんな江戸、明治、大正、昭和の全貌が展示されています。
できれば、もう一度ゆっくりと歴史を見て戴きたいと思います。
|
5.御手洗の衰退と現状、並びに歴史総括 *5
◆ 御手洗の衰退と現状
大躍進した港町も、明治時代後半、機帆船が出現すると北前船は急速に廃れ、御手洗の町は衰退していきます。 しかし、九州から石炭を運ぶ船などが寄港し、色町としての余韻が終戦後(昭和32年頃)までは続いていました。
◇その間の動きとしては |
@ |
茶屋は、明治時代になると人身売買が禁止され、廃業しました。 |
A |
しかしそれとは別の置屋や売春宿は、富国強兵の国策の下で、九州炭坑から石炭運搬船(機帆船)等が寄港して、昭和32年頃まで営業を続けていました。 |
B |
御手洗学園は(明治6年開校時=小学知新館、以後高等小学校、尋常小学校・・・何度も改称しながら)、終戦までしっかり学園の役割を果たしていました。 |
C |
天満宮の本殿は、大正3〜6年に再建されました |
D |
西洋文化は大正から昭和初にかけて庶民層まで浸透し、『洋館建て』や『モルタル建築』が多数建ち並びました。 |
E |
『御手洗節』 は、昭和11年(1936)に野口雨情と藤井清水が来島して作りました。 |
F |
当時の粋を集めたモダン劇場(乙女座)は、昭和12年に建築されました。 |
G |
しかし戦後は、衰退の一路を辿り、昭和33年売春防止法の制定で止めを刺され、外界から閉ざされた町になってしまいました。 |
H |
その為、江戸時代からその時までの町並みが、封印されたまま保存されており、平成6年7月4日、国の『重要伝統的建造物群保存地区』に選定されました。 |
I |
その後、平成17年 呉市と合併 ;御手洗の人口=149世帯200名弱(大崎下島=約2,600名)、更に、豊島大橋の開通で本土と陸続きになり、沢山の人が見学に訪れる様になりました。 |
|
◇御手洗節(野口雨情)
1.離れ島でも御手は港 軒の下まで船が着く
2.別れつらさに観音崎みれば 夜明け頃やら ほのぼのと
3.月の出頃か眺めの沖を 啼いて千鳥が通って来る
4.けぼのすすきは穂に出ちゃ招く 招き船さえ岸に来る
5.沖の船さえ一峰山を 指して港の中に入る
6.島が邪魔する大島小島 恋し御手洗 島陰に
7.来いというなら 観音崎の 潮は荒くも越してゆく
8.向こう伊予路と手と手が届く 人目さえなきゃ袖も引く
9.秋の夜長の蜜柑の頃は 島にゃ黄金の日が続く
10.見せてやりたや住吉様の 松は相生 離りゃせね
◇ 御手洗の歴史
|
*5a
|
寛文6年(1666) |
御手洗の町造りが始まる。 |
寛文年間(1672) |
河村瑞軒が『沖乗り』航路を整備 |
以後、千石船の発展に合わせ港町として開ける |
享保9年(1724) |
若胡屋が茶屋営業の許可を得る |
1750頃〜 北前船全盛時代に入る |
延享5年(1748) |
芝居興行が始まる |
文化3年(1806) |
伊能忠敬が御手洗の測量をする |
文政9年(1826) |
シーボルトが立ち寄る |
文政11〜12年(1828〜29)千砂波止が造られる |
文政11〜13年(1829〜30)住吉神社が造られる |
嘉永6年(1853) |
黒船来航 |
嘉永6年(1853) |
吉田松陰が長崎行きの途中立ち寄る |
元治元年(1864) |
はまぐり御門の変、三条実美らが
都落ちの途中宿泊する |
慶応3年(1867) |
坂本龍馬が長崎行きの途中、寄港する |
慶応4年(1868) |
御手洗条約、 鳥羽伏見の戦い |
昭和33年(1958) |
売春防止法が完全施行される |
|
◇ 『簾に一輪挿し』を飾る活動
この町一帯は、平成6年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのを機に、美しい歴史風土100選の町に相応しく、各家ごと『簾に一輪挿し』を飾る活動が続けられています。 来訪されるお客様に
”おもてなし”の心が伝わる様に、既に 20年余り 地元婦人部の皆様が続けています。 御手洗を訪れる方は、そんな所も気をつけて、街の雰囲気を味わって戴きたいものです。 E■
|